-眠れる竜-
* * *
「全員、揃っているな。今日は稽古の時間で成果確認を実施する。各自で準備しておくように」
凛とした声が執務室に響く。次の日になっても牙雲の様子はまったく変わりなかった。安全装置が作動したとはいえ、血炉から食らったあの一撃はかなり響いているはずだ。
おくびにも辛い顔を出さない上官が余計に気にかかる。いきなり倒れたりしないだろうかと見つめていると、不意に肩を叩かれた。
「紅葉。時間があるなら、稽古の件で話したい」
上官を横目に、紅葉は同僚に続いて格納庫へ向かった。後ろ手に扉を閉めると、澪がおもむろに口を開く。
「おれは、紅葉に聞きたいことがある――牙雲少佐は《覚醒》を経験しているのか?」
――《覚醒》。その言葉は、竜人の生態を学んだ時に薄らと聞いた覚えがある程度だ。唐突な問いへ口ごもった自分に、相手が矢継ぎ早に続ける。
「昨日、血炉中将がしていた話が気になっていた。若いうちに《覚醒》した竜人は、心身に負荷がかかるせいで極端に生存率が低いと聞く。例外はあるものの、少佐の年齢で経験者になるのは珍しい事例だ」
「オレは実際に誰かが《覚醒》した姿なんて見たことないし。判断つかないよ」
「牙雲少佐と一緒に出た戦いで、紅葉は二人とも死にかけたと言っていた。その時はどうして助かった?」
「……オレがやられかけた時、少佐が見違えるほど急に強くなって、敵を追い払ってくれたんだ。でも、途中から様子がおかしくなって。昨日みたいに自分が抑えられなくなるような、そんな感じだった」
「状況を聞く限り、それは間違いなく《覚醒》だと思う」
澪が言うには、死地に追いやられた竜人が、身を守ろうとして本能を解放した時に《覚醒》が起きるのだという。
確かに、飆との戦闘は生死の境を彷徨うまでに熾烈なものだった。しかし、当時の出来事を問われた中で、一つだけ純粋な疑問が残っている。
「ってか、澪はなんでそんなこと気にすんの?」
前のめりになった身体を壁に預けた彼は、普段の淡々とした口調で返した。
「《覚醒》の経験は中佐へ昇格するための必須条件だと、軍の規則に書いてあった。力のある上官に面倒を見てもらえるなら、おれにとっても都合がいい」
「へえ。なら、少佐は将来の活躍が見込まれてるんだな」
敬愛する上官が昇格候補に名を連ねているのならば、それは喜ばしいことだ。だが、彼が戦いで負ってきた心身の傷を考えると、言葉通りの祝福をしてもいいものか悩んでしまう。
「ただ、《覚醒》中は爆発的な力を生み出す一方、竜人の本能に近い部分が覗く。感情が大きく振れて暴走することになれば、味方にも危害を及ぼしかねない」
「そっか! だから少佐はあんな訓練をやってたんだな」
「でも、《覚醒》の制御は本能を強い理性で抑え込むのに等しい至難の業だ」
上官たちは《覚醒》で引き起こされる事象を再現するため、天音の歌唱で強制的に士気を高揚させ、感情面と暴走しかねない力の制御を試みていたのだろう。将来的には乗り越えるべき道と言えども、味方に累を及ぼす力を牙雲が好んで使いたがるとは思えなかった。
「本当に訓練だけでどうにかなるのだろうか。おれには、あまり効果があるとは思えないけれど」
彼の言う通り、昨日の結果を見た限りでは厳しい試練になりそうだ。ただ、す、と細められた群青の眼差しを見て、不意に思い出す。
選抜試験の時、目の前にいる彼は奇妙な輝きを宿す瞳をしていた。そこで感じ取った強い負の気配と、対峙したあの禍々しい波長はまだ強く記憶に残っている。そのせいか、彼の話は妙に知ったような口ぶりにも思えていた。
もし、自分が目にした牙雲の瞳と、彼のそれが本当に同じ類のものだったとしたら――彼は内に眠る“竜”を知っているのだろうか。
「紅葉、そろそろ戻らないと。長居すると怪しまれる」
抱いた疑念を払うかのように、澪が眠たそうに目を擦っていた。ぼんやりと遠くを見つめている今の群青には、覇気の一つすら感じない。自分が目にしたあれは幻だったのかとさえ錯覚する。
当時、自分は確かに彼を好敵手として見ていた。その存在が自らの脅威であり、そびえ立つ高い壁のように思っていたのは事実だ。ただ、何の確証もないものの、彼に対しては出会った時からうまく口にできない違和感が心の端にずっと残っている。
扉へ手をかけた後ろ姿を見つめながら、紅葉は音にならない言葉を吞み込んだ。
* * *
「――え? 少佐が体調不良だって?」
紅葉は思わず手元の書類を取り落とした。散らばったそれを慌てて拾い集めていると、澪がすっと紙束を差し出してくる。
「昼食の時間に早退したらしい。大事ないという話だったが、少佐からは午後の稽古は中止にして、書類仕事を優先的に片付けるようにと指示があった」
「少佐が休むのは珍しいよな。やっぱりこの間見た“アレ”が原因か」
牙雲のことが気になって、自分は数日前から一人で毎晩のように修練場を訪れていた。上官は果敢にも《覚醒》の制御に挑んでいたが、いつも血炉に抑え込まれ、力尽きて膝を着いていた。
それでも彼は意識を失うまで訓練の継続を求め続けた。中には天音や血炉の方が見かねて、切り上げさせる場面も見ている。
そして、昨日は巡回が始まる直前まで訓練が続いていたので、途中で戻らざるを得なかったのだ。
「部屋で一人にして大丈夫かな。救護室で寝てるなら、人目があるからいいんだけど」
「少佐が私室にいるなら、どのみちおれたちは干渉できない。回復するのを待ったほうがいい」
澪は牙雲が必要以上に部下から心配されることを嫌がると思ったのだろう。しかし、これまでの行動を見る限り、今の牙雲は大きく焦っているように思える。
「体調崩すまで訓練なんて。いや、少佐ならやりかねないな」
彼が自室に籠っている本当の理由はわからない。ただ、《覚醒》の制御がうまくいっていないせいで、激しい訓練を積まざるを得ないのだけは確かだ。
自分で解決できる話ではなかった。それでも、上官がもがき苦しんでいるのを横目にしているだけでは後味が悪い。
それに、自分は彼から何かあった時に支えてほしいと声をかけられている。
一番広い机に積まれていた紙束を抱える。日が暮れるまで、紅葉は気乗りしない書類仕事を進めていた。




