光の雨は、しとしとと17
「――という事がありまして、ユイナが平民ではないかと疑われています」
校長室へと訪れたサマンサは、夕方のやり取りを報告していた。
校長席にどっかりとドルドランは、爪で机を叩いていた。
コツコツコツと耳障りな音がする。
「ええい、忌々しい。ただでさえあの娘の事など考えたくもないというのに」
怒気はいくらかおさまっていたが、非常に不機嫌だ。それでも声を荒げないのは、誰にも聞かれたくない話をしているからだ。特にシノンには要注意だ。どこで聞き耳を立てているかわからない。ドアを施錠し、ドア下の隙間から声が漏れないように絨毯で塞ぎ、すべてのカーテンを閉め切っていた。
「それで、どこまで気づかれている?」
「少なくとも南部の貴族ではない事までは突き止めているようです」
「まったく、面倒な娘達だ」
「しかし、セノンは違う考えを持っていまして、ユイナを貴族の隠し子だと疑っているようです」
「貴族の……? そうか、なるほど。貴族の隠し子なら筆記体を使えるのも不思議はない、というわけか」
「はい。それに、黒い髪から異国の血が混じっていると想像できます。彼女には複雑な事情があり、今まで名が知られていないのは世間から隠されてきたからだとセノンは思っているようです」
「それは好都合だ」
「はい。素性を明かせない存在だと説明すれば、三姉妹も受け入れるかもしれません」
「確かに……似たような境遇だからな」
サマンサはうなずく。頭の片隅には、ユイナの美しく整った筆記体と、保護者を名乗るカトレアの貴族以上に気品あふれる所作がちらついている。
まさか、あり得ない。そんな偶然があるだろうか。
とにかく今は、問題を片づけるのが最優先だ。
「校長がよろしければですが、ユイナが貴族の隠し子だという事にしますか?」
ユイナを守るため――いや、そこには自分達の保身もあるが――何があったとしても、平民を入学させた事だけは知られてはいけない。
ドルドランはしばらく熟考していたが、
「それしか方法はないだろう」とうなずいた。
「三姉妹にはうまく説明してくれ」
「わかりました。明日の朝には説明します」
「それと、あの使えない娘にも口裏を合わさせろ」
サマンサは校長の顔を見返す。
使えない娘、という言葉が引っかかっていた。それに、わだかまりもあった。
「なんだ?」
「どうしてユイナに暴力を振るったのですか」
「そんな事か」
「そんな事……? 彼女、ひどく怯えていました」
「それで? 甘やかせと言いたいのか?」
ぎょろりとした眼光にやられ、言葉に詰まる。
「忘れたわけではないな? あの娘を入学させたのは何のためだ?」
「それは……舞踏大会で踊らせ、優勝するためです」
「そうだ。踊れない娘に用はない。そうは思わないか」
「………」
答えることなどできるはずがない。ドルドランの気持ちもわかるが、怯える少女を見捨てることもできない。ドルドランは鼻を鳴らす。
「まったく、金をかけてやったというのに無駄だった。貴族の教育を受けさせてやり、謝礼まで渡してやったというのに、とんだ裏切り行為だ。すべて無に帰した。いや、金も時間も使っただけで損をしている。なぜ私ばかりが……。そうだ。約束を守らないのなら、あの娘にかけた金を取り戻してやろう。授業料、食費、それに制服代」
ぎょっとした。本気でやりかねない口調だ。
「お、お待ちください。制服代だけでも平民の年収を越えていると聞きます。生活できなくなります」
「約束を守らない者に容赦など必要ない。自業自得だ」
暴力行為に及んだ校長だ。この発言も本気に違いない。ユイナを守るつもりが、逆の方向に転がり始めた。だが、逆に覚悟が決まった。
「わかりました。ユイナが舞踏大会で最高の踊りをしたら、約束は果たされますね?」
「……踊れると思っているのか?」
「ユイナは踊れるはずです。友人といる時は楽しそうに踊っていました。要は気持ちの問題だと思います」
気持ちか、と鼻で笑う。
「合同練習で踊れない娘が本番で踊れると思っているのか? 舞踏大会では多くの衆目に晒される。好奇の目もあれば、批評の目や敵意の目もある。その中で踊れる度胸がなくてどうする」
「彼女は踊れるはずです。いいえ、踊れるようにしてみせます。ですから、友人に会わせて気分転換をさせます」
「夜の掃除で会っているだろう」
「いいえ、それではあまりにも短いです。お互いの顔がよく見える日の下で会わせてみます。そして、溜まっている感情を吐き出させます。そうすれば――」
「できるのか?」
苛立たし気に言った。
「やってみます」
「出来るのか?」
念押しの問いかけだった。
「出来ます」
ドルドランは難しい顔で口を歪めていたが、
「一週間だけ待つ。大会まで時間がないのを忘れるな」
***
丸くなって怯えていた。
掴みかかってくる男の手が怖い。腕や肩をさわられているような気がする。払いのけても気配は消えない。幻の手が何度も何度も伸びてきた。
カチカチカチカチ。
歯を食いしばっていないと歯がぶつかり合ってしまう。止めたくても止められない。ドルドランに乱暴された事で、隠してきた心の傷が開き、どす暗い記憶が血のようにあふれてきた。奴隷商人に親友のシェスを殺された喪失も、彼らの狙いが自分へと向けられる絶望も、刻み込まれた恐怖は今も続いている。どこまで逃げようとも、永遠に追いかけてくる。
「やめて! もう許して!」
ユイナは頭を振って叫んだ。
もう十年近く前の出来事だ。過ぎ去った事だ。今は違う。ガモルド男爵に拾われてファーレン家の娘になった。舞姫学校 《セフィル》ではティニーと友達になった。アレスのアジトでコルフェ、ルーア、ミアと出会い仲良くなった。そして、雪に横たわるシェスが、深い井戸のような暗い瞳で見詰めてくる。
――私を見捨てて逃げたのに幸せになるの?
「やめて! シェスはそんなこと言わない!」
耳をふさぐ。親友の亡霊が耳元でささやく。
――どうして私を置いて逃げたの?
――どうして貴女だけがのうのうと生きているの?
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
――謝りたいの? 違うでしょ。私の声を聞きたくないのでしょ?
必死に頭を振る。謝りたい。でも、シェスはこの世にいない。
後悔ばかりがあの日の雪のように降り積もる。いっそのこと後悔の雪に埋もれて消えたらシェスも許してくれるのだろうか。だとしたらどんなに楽だろう。この辛さから逃れるためなら、それが最善の未来に思えてしまう。
寒い。凍えるように寒い。
ぬくもりを求めて毛布を抱き締めた。しかし、そんな物でこの冷えがおさまるはずがない。
不意に、ぎらりと光るものを見た。銀狼の眼光だった。
――腹のところに来い。来なければ噛み殺すぞ。
脅されて銀狼のお腹に身体をあずけ、ふさふさのしっぽに包まれて眠った夜。朝に起きてみたら抱き枕にされていてびっくりした……。のぼせてしまうような思い出は、今となっては砕けた。それでも大切にしているのだと思った。どれ程くだけた欠片だって、一つとして捨てられるものはない。
そして今、ふさふさの毛はメリル王女を包み込んでいるのだろう。銀色のしっぽから顔をのぞかせる王女がこちらに気付き、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
ハッとして身体を起こした。部屋を見回すと、夜のとばりが降り、近くの机すら闇に埋もれていた。
悪夢を見ていたらしい。だけど、王女の笑みが頭から離れない。勝手な空想だと頭を振る。そもそも、他人を相手にしない彼女が勝ち誇ったように笑うはずがない。彼女ならゴミでも見るような目をするはず――なんて虚しい事を考えているのだろう。
「もう、夜……」
サマンサ教頭に部屋へと連れてこられた時はまだ昼間だったはずなのに……。
「いけない。掃除が始まっている」
今夜はコルフェ達が学校の清掃に来る日だ。これだけ暗くなっていると、入校しているはずだ。行かなきゃ、と体を起こそうとしたが、それがいけなかった。
「イタッ」
左胸を針で刺されたような痛みが走った。いつもの痛みだ。しかし、胸を押さえていてもなかなかおさまらない。いつもの何倍も強く、このままずっと苦しみ続けるのではないかと思うほど長かった。自分でも分かっている。限界だった。助けを求めていた。
はぁ、はぁ、はぁ……。
どれだけ苦しんでいたか分からないが、少しずつ痛みが引いて、どうにか呼吸できるまでになった。強張りで重たい体を動かしてベッドから這い出る。パリパリに乾いた涙の跡で顔がひりついた。こんな顔で友達に会うわけにはいかない。
部屋にある穴から桶を落とし、浄水路からくみ上げた水で顔を洗い、排水口へと流す。
ふー、と一息。
顔を洗ったからか胸の痛みも薄れていた。ちょうど掃除できる練習着姿だったので着替える手間が省けた。ランタンに火をつけ、集合場所へと向かった。
すでに掃除は始まっているらしく、橋のところで見知った掃除婦とすれ違った。コルフェ達の居場所を聞いてみようか迷っていると、逆に後ろから声をかけられた。
「ユイさん」
驚いて振り返るとコルフェがいた。友達に会えただけなのに、安堵している自分がいた。
コルフェが眉根を寄せる。
「ちょっと、どうしたの? 何かあった?」
そのやさしさにまた泣きそうになってしまう。さっきとは違う。うれし涙だ。でも、貴族に憧れを抱いている彼女に、校長から暴力を振るわれたなど相談できるわけない。
「ううん。大丈夫だよ。それより、みんなは?」
ルーア、ミア、それに、付き添いのテンマが見当たらない。
「別の場所を掃除しているよ」
「そうなんだ。それじゃあ、みんなの所に行こうか」
案内してもらおうとしたが、コルフェは動かない。その場に突っ立ったまま見詰めてくる。
「どうしたの?」
「少し話をしない?」
改まった物言いに眉をひそめた。
真剣な話のようだ。どんな話なのか見当もつかない。だが、ユイナにも問い質したい事があったのでうなずく。
水路脇を無言のまま並んで歩き、人目につかない場所へと移動する。コルフェはなかなか口を開かない。それほど言いにくい内容なのだろうか。だとしたら、先に確認したいことがある。
「アレスは旅に出たの?」
コルフェが驚いたように足を止めた。
「どうしてそれを……」
「ザイさんが教えてくれたの。用水路から水を入れているから、そこだけ壁がなくて、話をする事だけはできるの。それより、アレスは本当に旅立ってしまったの? 戻って来ないつもりだと聞いたけど、本当なの?」
コルフェは戸惑いを隠せない様子だったが、小さくうなずいた。肩から力が抜ける。
「やっぱり、本当だったんだね……」
心のどこかでは分かっていた。だが、認めたくなかった。
足手まといだから置いて行かれたという事実に。
「私、アレスに謝りたかったんだけどな……。嫌われたのかな……」
きっと同情して欲しかったのだと思う。弱音を吐いていた。
「嫌われていないよ」
断言されるとは思っていなかったので眉根を寄せた。
「何を言っているの? 嫌われていなかったらおかしいでしょ。頬をはたかれて、こんな舞姫学校に閉じ込められて――」
悔しくて悲しくて惨めで、続きの言葉が出てこない。
「ユイさんを守るためだよ」
「守る? 守ると言った?」
「そうだよ」
その発言に目を見開いた。気遣いの言葉にしては無遠慮過ぎる。
「どうやって? この場にいないのにどうやって守るの?」
睨むと、コルフェも剣のある目をした。
「どうしてわからないの? 舞姫学校に入れたのは危険から遠ざけるためだよ。ここなら追手の目も届かないから」
「いい加減なことを言わないでっ! 私を守りたいなら助けに来てよ! 今すぐ助けに来てよ! できないでしょ!? だって旅に出てしまったから!」
怒声を浴びせられたコルフェは面食らったようだ。
ユイナは背を向けてしゃがみこんだ。怒りを抑えるために自分の髪を鷲掴みにした。
自分で自分を傷つけてしまう。虚しい。だけど、ぐちゃぐちゃな感情をぶつける先がわからない。
「気休めはやめてよ。舞姫学校へ追いやったのは私が邪魔だからだよ。頬を叩かれて……嫌われた……もう二度と会えないかもしれない……」
そんな別れ方をした辛さが、彼女に分かるわけがない。
「――――――」
何かを言おうとする気配がしたが、言葉を呑み込んだようだ。何を言ったところでアレスがユイナを置き去りにして救世の旅に出た事実は変えられない。
「おい、何かあったのか」
振り向くと女装のテンマがいた。怒鳴り声を聞いて駆けつけたらしい。
「いいえ、なんでもありません」
「そうか? それなら良いが……いや、何かあっただろう」
顔を合わせようともしないユイナとコルフェを見比べ、困惑した。




