闇夜の賊と月夜の踊り子7
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岩山の一つに狙いを定めたアレスは甲板を疾駆し、闇を切り裂く銀色の光となって天高く跳躍した。流星のように星空へと踊り出ると、眼下の海には目もくれず、殴りつける夜風に銀色の体毛をさらして、正面の断崖だけを睨みつける。
立ちはだかる断崖は、海の壁と呼ばれるだけあって足場が少ない。
だが、着地できないわけではない。
尻尾で風をいなして体勢をととのえ、前方からの風を腹で受けて着地態勢をとった。重力に引かれて体が沈み始め、耳元でうなる風の音が変わる。
迫る岸壁が視界を埋め尽くしてきた。アレスは岩山の中腹へとゆるやかに四肢を伸ばし、着地と同時に爪を岩盤へと突き刺して体躯を固定する。
岩山に張り付いた状態で後方の海を振り返ると、仲間の乗る船を見下ろせた。甲板にいる船員達は、岩山の頂上から放たれる敵の矢を盾で防ぎつつ、負傷した仲間の救助活動も行っている。ユイナはペントに手を引かれて船内へと避難したようだ。彼女の避難を確認しただけでも安堵の息がもれる。
アレスは最初、ユイナのことをどこにでもいる貴族の娘だと判断していた。保守的で、品格を貶めるものを嫌い、結婚する相手も地位の高い者、容姿の優れた者を求めている……そんな貴族娘と同列に見ていた。だが、出自の知れないペントと仲良くしている姿を見てからというもの、アレスは彼女に対する考えを改めた。彼女には貴族の誇りよりも大切なものがある。それは、貴族としての地位よりも、笑いあえる友達なのかもしれないと思ったのだ。
オルモーラの港でデルボが炎上した時も、ユイナは仲間を守りたい一心で悪魔の炎と踊っていた。普段はおとなしいくせに、仲間に危機が迫ると、自分のことなど顧みず危険な場所へ踏み込んでいこうとする。その無謀さは、魔術や魔法を覚えてからますます強くなってしまった。
だが……、と牙を噛み鳴らす。
戦場は彼女が思っているほど甘くはない。戦場は非情だ。命と命がぶつかり合い、つぶし合っていく。それを、ユイナは理解しているのだろうか。それ以上に、彼女を戦場に置きたくないという気持ちを理解しているのだろうか。どのように彼女と接すれば理解してもらえるのかわからず、それが悩みの種でもあった。だが、そんな弱みを見せるわけにはいかない。
アレスは爪を立てて岩山に張り付いていたが、頂上から矢を放ってくる敵の存在に気付き、隣の岩山へと飛び移る。わざと派手な動きをするのは、敵の攻撃をこちらに引きつけるためだ。仲間がこの危険地帯から離れるだけの時間を稼げればいい。
隣山に着地し、夜の闇に目をこらして敵の配置を確認する。隣の岩山に敵影が一つ、二つ、三つ。矢の数から死角にも数人は隠れていると目算をつけ、敵が次の攻撃行動に入るのを見計らって岸壁を駆け上がった。先ほどまでいた岩場に矢が飛来し、火花を散らす。
アレスは矢の雨を掻いくぐって頂上に達すると、星空に向かって背面跳びで敵の頭上に躍り出た。敵が矢を放ってくる。アレスは銀色の体をひねって上下逆さになっていた体勢を戻しつつ、呪文を唱えて魔法陣を展開し、矢を防いだ。
それは魔神が世界を滅ぼすために使っていた魔術の穴“魔口”とは性質が異なる。“魔口”は魔力と呼ばれる毒素を吐き出して世界を浸食するが、アレスは言葉を媒介にして封魔の紋章を刻み込むことで魔力を無毒化しているのだ。魔口の毒を消したものを魔法陣と呼ぶ。だが、無毒化しても物理的な威力が無くなるわけではない。
「行け、氷矢!」
額に力をこめて魔法陣から氷の矢を放った。敵は攻撃から一転、回避行動に入り、瞬時に岩陰へと身を隠す。迷いのない動きは、少なくともいくつかの戦場を生き抜いてきた証拠だ。さらには仮面で顔を隠し、素性をつかまれないようにしている。
アレスは別の岩山へと着地し、島と島の狭間を見下ろしながら、ふと、波の音に耳を澄ました。銀狼に変身して鋭くなった聴覚は、陸に打ち寄せる波とは違う水音を聞き分ける。それは最近耳にしてきた音、大きな船体で波を切り分ける時の音だ。しかも、近付いている。
「やつらの船か……」
ユイナが見たという大きな影が本物であるなら、それは敵船である可能性が高い。
アレスは飛来する矢を躱しつつ、不審な音がする谷間へと目を凝らす。すると、島々が密集してできた細い谷間を縫うようにして航行する黒い船が見えた。
谷間には星明かりも届きにくい。海陸の境界線も見分けづらい暗闇で、障害物に接触することもなく、群島の狭間を進んでいるのは異常だった。よく見ると、船の側面からいくつものオールを出して船をこいでいる。その姿は海をわたる巨大昆虫のようだ。その進行方向に、仲間の船が向かっている事に気付いた。このまま進めば衝突する恐れもある。
「まずい……っ」
アレスは別の岩山へ飛び移って高度を下げ、そこから一気に敵船の甲板へと乗り込んだ。
岩山の弓使いと船の漕ぎ手に人員をさいたのか、甲板には数人の船員しかおらず、彼らはとつぜん乗り込んできた銀狼の姿に目を見開いていた。
アレスは大音声で言い放つ。
「船を止めろ! このまま進むとこちらの船とぶつかるぞ」
だが、誰も動く気配がない。仮面をかぶっているので、こちらの言葉を理解してくれたのかも分からなかった。その間に、岩山から追ってきた敵が船に跳び下りてきて弓を構える。アレスは背後をとられないように敵を牽制しながら言い放つ。
「これ以上、手を出すのはやめろ! 素直に引き下がるなら、こちらも無益な殺生はしない!」
「――聞いた事があるぞ」
不意に声をかけられた。しかも、警戒していた背後からだ。周囲の敵を警戒しつつ振り向いたマストの陰に、声の主は立っていた。
背は標準的な成人男性と同じぐらいだろうか。黒い外套に身をつつみ、黒い仮面をつけ、巨木さえもひと振りで斬りおとせそうな三日月型の鎌を握っている。なにより常軌を逸しているのが、仮面の奥で光る紅い瞳だ。夜だというのに、昼間に見る鮮血よりも紅く染まっている。その真紅の瞳をほそめて彼は言う。
「人語を使う銀狼……噂で耳にした時は眉唾ものだと思っていたが、本当にいたとはな。……だが、ここを知られたからには生きて帰すわけにはいかない」
言って瞳を閉じていき、黒面は闇の中に消えた。
「!?」
紅瞳の光に慣れていたアレスは突然の暗闇に敵影を見失った。だが、すぐさま神経を研ぎ澄まして、左側からまわり込んでくる気配に気づく。
「そこか!」
接近する気配に向けて開いた魔法陣が、振り下ろされる鎌と激突する。まるで岩石が降りかかってきたような衝撃で、魔法陣ごと甲板に叩きつけられそうになる。が、アレスは爪を甲板に食い込ませて踏ん張った。
「ちっ、魔術師か」
一撃で仕留めそこなったことに黒面が舌打ちして鎌を引き戻し、再び暗闇へと消えると、手下に向かって攻撃の命令を下した。いつの間にか物陰に隠れていた敵が弓を構え、狙いを定めている。無数の弓矢がアレスへと殺到した。