光の雨は、しとしとと14
アレスは暗闇にいた。ナイフを構え、周囲を警戒している。
深い闇に塗りつぶされた世界では、自分の姿すらわからなくなる。
音はない。光もない。ただ、闇にうごめく殺気だけがある。右か、左か、はたまた前か、後か。間違いなく敵の気配だけがある。
アレスの頭上に紅い双眸が現れる。魔眼だ。アレスは気付いていない。違う方向に警戒の目を向けている。
――アレス、真上! 真上です!
声が届いたのかアレスが振り仰ぐ。だが、魔眼は瞳を閉じて闇に消えた。
アレスはあたりを警戒しながら手探りで歩き出す。どこに向かうのだろう。その背後で血のように紅い魔眼が開いた。
鋭い爪を伸ばし、牙をむき出しにしている。
――逃げて!
飛び掛かった魔眼がアレスの首に牙を突き立てる。
「だめ! やめて!」
叫んで立ち上がっていた。
後ろでガタンと音がする。
振り返ると、立ち上がった時に蹴ってしまったのだろう、椅子が倒れていた。
「……え?」
ユイナは瞬きしてあたりを見回す。見慣れたベッドがある。見慣れた窓から朝陽が射しこんでいる。先ほどまでの暗闇はどこにもなかった。もちろん、アレスや魔眼の姿もない。そこは、ユイナに割り当てられた寮部屋だった。
「夢……。よかった……」
脚から力が抜けてしまい、机に縋りつくようにへたり込んでしまう。
現実と見紛うほどの夢だった。アレスの窮地に気が動転していたし、それほど魔眼の存在が真に迫っていた。しかし、冷静になってみれば、輪郭もわからないような暗闇でアレスの表情が見えるはずがない。魔眼の牙だってあんなに鮮明に……。その恐怖で体が震えた。
「本当に夢でよかった」
泣きそうになりながら安堵したものの、心穏やかにはなれない。救世主アレスの旅は命がけだ。魔眼の存在だけでなく、魔神の力である魔術を否定する以上、全世界の魔術師と敵対する事態も考えられるのだ。
額の汗を拭い、脚に力を込めて立ち上がり、机に両手を突いて体を支える。ほとんど寝ていないせいで身体が重い。ずっと泣いていたせいで眼も腫れているようだ。悪夢のせいで早くなった鼓動を、深い呼吸で落ち着かせようとする。
両手を突いた机には、美容本が広げられていた。紙面には雰囲気別の髪型が掲載されている。
どんな髪にすればカトレアのような大人の女性に近づけるのか。同じにはなれないと分かっていても、少しでも近づきたくて本を読み込んだ。肩の後ろまで伸びた髪をどうしたら良いか。さらに伸ばすべきか、それとも切るべきか。結うのもいいかもしれない。それとも、髪飾りをつけるべきか。だけど、これに決めたと思っても、しばらくすると別の髪が良いような気がして、いまだに決められずにいる。何度も読み返していたから、どの教科書よりも使い込んでいた。
見てほしかった。大人になっていく自分を見てほしかった。でも、アレスは旅立ってしまった。置いて行かれた現実が重くのしかかっていた。
コンコン。
扉がノックされ、振り向いた。
誰だろう。会いに来る人は限られている。調べ物を手伝ってくれた三姉妹の顔が浮かぶ。
『ユイナ、起きてる?』
サマンサ教頭だった。
重い体に鞭を打って扉を開けにいく。教頭は部屋に入ってくるなり扉を閉めた。
「まずい事になったわ。校長がしびれを切らしてしまって、今日の合同練習に顔を出すと言い出したの。そこで貴女の踊りを見たいと」
奴隷商人のような校長の顔を思い出し、寝不足の頭がさらに重くなった。あの校長を怒らせてはいけない気がした。それに、一度も参加していない合同練習への不安もある。舞踏大会の出場メンバーに無条件で選ばれたユイナに対し、快く思っていない人は多いはずだ。
「どうしたの? 顔色が悪いわよ?」
「ほとんど寝ていないもので」
「なにか、あったの? もしかして、舞踏大会のこと……?」
ユイナは首を横に振る。そんな事ではない。
眉をひそめる教頭。
「辛い事があるなら聞かせて。できる限りの事はするから」
やさしくされると泣きそうになる。涙を見られたくなくて顔を背けた。
「大丈夫です」
アレスを追いかけて船旅に出たいなど言える訳もない。そもそも、船だってないし、どこに向かったのかもわからないのだ。追いかけるのは不可能だ。それに、たとえアレスに会えたとしても、必要とされていない自分に何ができるというのだろう。
「本当に大丈夫?」
ユイナは涙を拭き、教頭を振り返る。
「ええ。大丈夫です。気にかけていただいてありがとうございます」
相談すれば困らせるだけだ。悪質な契約でユイナの舞踏大会出場を決めたドルドラン校長が、外出を許可するとは思えなかった。きっと、契約違反だと激怒するだろう。怒った彼が何をしてくるか。もしかすると、カトレア達に害が及ぶとも限らない。
迷惑だけはかけたくなかった。そう思うと、学校を出たいなど言えるはずもなかった。
ユイナは指先で首に触れた。無意識だった。奴隷商人に連れていかれた幼い時の感覚、冷たい鉄輪の感覚が、今もそこにある気がした。
***
「お姉ちゃん、面白いことになったよ」
部屋に戻ってくるなり、シノンがにんまりと笑いながら話しかけてきた。
外界から隔離された舞姫学校では、もっぱら校内での出来事が話の種になる。その多くが恋愛話だが、彼女が好むのは恋愛よりも色恋にも含まれるもめ事だった。刺激が欲しいのだろう。
かくいうカノンも似たようなものだから他人の事は言えない。
セノンも興味あるのか、本から顔を上げてこちらに視線を向けている。
「なにかしら、面白いことって」
「校長が合同練習に来るんだって。ユイナの踊りを見るみたい」
「本当なの?」
「この耳で聞いたから間違いないよ」
「どこでそんな情報を」
「教頭が慌てた様子で寮に来たから、これは何かあるなって」
「尾行して盗み聞きをしたってわけね」
にやりとするシノン。
「だけど、ユイナが合同練習に参加するかしら? 彼女、嫌がっていたでしょ」
「そこなんだけど、校長が来ると聞いたら、参加するしかないような雰囲気で話をしていたよ」
「校長を嫌っていたユイナが? 信じられないわね」
「弱みを握られているということでしょうか?」
セノンが話に加わる。
「どうかしら……不可解ね」
「と・に・か・く、これでユイナの本気を見られるからいいじゃない」
「そうね。校長や先輩が入れ込むほどの踊り子がどれほどのものか。楽しみだわ」




