光の雨は、しとしとと7
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謎の転入生が舞踏大会に出場するという噂は瞬く間に校内を駆け巡った。一学年で四十名程度、全校生徒でも六百名の学校、さらには新しい物や楽しい事に飛びつく少女達だ。噂が候補生だけでなく見習い生にまで行き渡るには一日もあれば十分だった。そして、全生徒が知るところになると噂は新鮮味を失い、パタリと途絶えた。
それには、黒髪少女についての新しい情報が出てこなかったのも大きい。ドルドラン校長とサマンサが情報を止めていたし、ユイナも学校生活を無難に過ごせていた。これが異常ではあるのだが、商人の娘ユイナは貴族の礼儀作法を知っており、貴族の筆記体も扱い、少なくとも貴族を演じきっていた。本当に平民なのか疑わしいほどだ。商人は貴族とのつながりも強い。だからこそできる芸当なのかもしれない。
それはともかく、ユイナの学生生活にまったく問題がないわけではない。選考会を受けていないユイナの出場にヘレンは反対だし、ユイナがどの舞姫学校から転入してきたのかも三姉妹に疑われている。
だが、今はそんな事よりも、舞踊の授業だ。
サマンサは今、候補生一年の生徒全員に踊りを教えている。
「イチ・ニー・サン・シー、イチ・ニー・サン・シー」
サマンサの手拍子と共に、五人の少女が舞う。お世辞にもそろっているとは言えない踊り子の中で、右端の黒髪少女だけは正確な舞を披露していた。
小柄ながらも背筋が伸びた美しい姿勢。ほっそりとした手がゆっくりと風をなでる。つま先立ちの両脚を交差させ、両足を接地させたままクルリと回って背を向け、もう一度交差させて正面に体を戻してくる。
教えたとおりの動き。そして、回転軸がまったくぶれていない。並みの踊り子にはマネのできないバランス感覚。だが、一番大切な心がどこにも感じられない。表情が抜け落ちているのだ。まるで、まつ毛からつま先まで精巧に作られた人形が決められた動きをしているようだ。
ユイナにそんなつまらない踊りをさせてしまったのは、自分のせいだ。宿場町で子供達と踊る彼女を見つけなければ、それをドルドラン校長に話をしなければ、彼女は今も仲間とともに楽しく踊れていたのかもしれない。
ユイナの踊りはこんな無味乾燥なモノではないと伝えたかったが、他の生徒達は放課後のお茶会についてひそひそと話をしていた。彼女達の舞踊への興味はないに等しい。
唯一、カノン、シノン、セノンの三姉妹がユイナの動きを目で追っていた。それは非常に珍しい光景だった。
――自分が一番だと思っているあの娘達が他人に興味を持つなんて信じられないわ。
ところが、その眼差しが値踏みしているように見えるのは気のせいだろうか。
それがどうにも違和感として胸に引っかかる。
――まさか、ユイナの力量を計っている……?
カラーンラーン、カラーンラーン。
思考は終業の鐘にかき乱された。三姉妹はすでにユイナを見てはいない。
整列した生徒達が「ありがとうございました」と礼を言い、舞踏場の更衣室へと入っていく。放課後の合同練習に参加する三姉妹は舞台に残り、水筒を手に休憩を初めていた。その顔は涼しげなもので、授業の軽い舞踊だけでは準備運動にすらなっていない。
三姉妹に声をかける。
「このまま練習をするなら反射鏡の調整をしといてもらえるかしら」
舞踏場は天窓から採り入れた光を拡散させることで室内を明るくさせている。日が傾くと反射鏡の角度を調整しないといけなかった。
「分かりました」
カノンの返事にうなずいて踵を返すと、
「教頭も大変ですね」
背中にかけられた言葉に足が止まった。
「何かしら」
人手不足で全生徒の舞踊を一人で教えている事だろうか。いや、しかしそれは今に始まった問題ではない。この十数年、舞踊の教師はサマンサが一人で受け持ってきた。それこそ、三姉妹が鳴り物入りで入学するよりも前からだ。
何やら嫌な予感に襲われていると、
「あれで独舞――任せられますか?」
三姉妹の視線は、舞踏場から出ていこうとする黒髪少女の背中へと向けられた。
背筋がひやりとした。
独舞の演者についてはドルドラン校長とサマンサの間でしか話をしていない。それを、よりによって彼女達に知られたらしい。額に手を当てて思考を巡らせるが、こうなってしまえば、取り繕っても土壺にはまるだけだ。正面から三姉妹の視線を受け止める。
「どこで聞いたか知らないけれど、まだ決まった訳ではないわ」
「ですが、校長の気持ちは変わらないのでしょう?」
「――――」
相変わらず痛いところを突いてくる。と言うより、校長の強情な性格を読まれやすいだけかもしれなかった。『やる』と言い出したら、娘のヘレンでも止められない男だ。いや、唯一止められるとしたら、カトレアという銀髪美女だろうか。いつもは威張っているのに、美女を前にしてまごついていた。面白くもない光景を思い出してしまったものだ。
「あれがユイナの本気、というわけじゃないですよね」
シノンが確かめるような眼差しを向けてきて、意識が現実に呼び戻された。
「彼女、どうしたら本気を出すと思いますか?」
サマンサはため息をつく。
「それが分かれば苦労はしないわ」
我が道を突き進むドルドラン。
岩のように心を閉ざした黒髪少女。
ますます離れる両者の間で、どうすることもできずに途方に暮れている。
***
更衣室が空くのを待って、ユイナは着替え始めた。用水路から引いた水でタオルを濡らし、体を拭いた。と言っても、ほとんど汗をかいていないので軽くなでる程度で済ませ、制服に着替える。
更衣室を出ると、舞台では三姉妹が踊りの練習を始めていた。息の合った一糸乱れぬ動きは、彼女達が三姉妹だからというだけでなく、一緒に踊り続けてきた長い年月を感じさせるものがあった。それに背を向けて観客席の横を上がって行こうとすると、カノンに呼び止められた。
「一緒に踊らないかしら?」
ユイナは首を横に振り、出口へと階段を上がって行く。嫌な人間と思われたかもしれない。でも、気持ちに余裕がなかった。
今のままでは、舞姫学校『ノノル』から解放されるのはアレスが旅立った後だ。彼に会って本心を確かめるためには契約期間よりも早く学校を出なければいけない。しかし、あの校長はロートニア舞踏大会が終わるまで解放してくれないだろう。
そう考えた時、“脱出”という二文字が頭に浮かんだ。解放してくれないなら、逃げるしかないではないか。
では、どうやったら学校を抜け出せるのか。
舞姫学校『ノノル』は城壁のような高い壁に囲まれている。その壁は三階建ての校舎よりもさらに高く、四階建てぐらいの高さになっている。よじ登って越えるのは不可能だ。
他に脱出できる場所と言えば、まずは校門だろうか。入学時にくぐり抜けた門だ。しかし、校門はまるで城門と見紛うほどの堅牢さで、見張りの兵士が二人ついている。兵士の目を掻い潜るには、校外へと出る馬車に忍び込む必要があった。ところが、これが難しい。座席後部にある荷物置き場は隠れやすいが、中に乗っている人には丸見えだし、馬車の屋根上に隠れようにも、背丈の低い馬車の屋根は、背の高い兵士には丸見えとなる。かといって、馬車の下はしがみ付ける場所もないので論外だ。そもそも、校門が開かれる事はめったにないらしいのであまり現実的ではない。
もう一つ脱出できる場所は、高職用の鉄扉だ。貴族に従事する平民のための出入り口で、食堂の料理人や、夜の清掃人などが出入りする。高職の人達が出る時に彼らに紛れ込めば脱出は可能だ。しかし、昼間は顔が見えて気付かれやすい。決行するなら夜だ。夜であれば人数しか数えない守衛の目を誤魔化せるかもしれない。それに、コルフェ達に頼み込めば協力してくれるような気がした。
でも、そこまで考えて気付くのだ。ドルドラン校長は、たとえ一時的であったとしても逃げたユイナを許しはしないだろう、と。法外な違約金を求められるかもしれない。ユイナ達の正体を暴きにかかり、追い詰めてくるかもしれない。それどころか、もっと恐ろしい事態にならないとも限らない。奴隷商人に似たドルドランの顔を思い出すだけで残酷な結末を連想してしまい、ゾッとする。
――やっぱり、友達や仲間に迷惑がかかるような事はできないよね……。
そんな事をぼんやりと考えているのが良くなかった。舞踏場を出たところで誰かとぶつかりそうになった。ハッとして顔を上げると、三人の上級生がユイナを凝視していた。二人は背が高く、一人はユイナと同じぐらいの背丈だ。そして、背の高い女性の一人には見覚えがあった。
「貴女――」
「失礼しました」
見覚えのある女性が何か言い出すよりも前に謝り、三人の横を足早に通り過ぎて石段を下りようとする。その時、最後尾にいた女性のバッグに手が当たってしまった。そのせいで毛糸の人形が落ち、石段を下りようとする右足の下に転がり込んできた。
「っ!」
右足を止めようにも重心が落ちかかっている。かといって足を左右にずらしたり、さらに一段下に落とすような余裕もない。とっさに腰をひねって腰の右側を前に突き出し、その分、半歩先に出るようになった右足を一段先の石段に落とした。毛糸の人形は踏まずに済んだが、無理に動かした体はさらに下の段へと流れてしまっていた。ユイナはその勢いを殺すのではなく逆に利用して跳躍し、体を半ひねりしながら残りの四段を一気に飛び越え、その衝撃をやわらげるように両足で着地した。翻ったロングスカートが遅れて地面に覆いかぶさる。
ユイナは立ち上がり、制服についた砂埃を払いのけた。そのまま去りたかったが、毛糸の人形が落ちたのはユイナのせいでもあるので、石段を上り、人形を拾い上げた。
二等身の愛らしい人形だ。つぶらな瞳がこちらを見ている。
ユイナは石段を上り、人形とそっくりな女性の前に来た。髪の色は違うが、ティニーのように愛嬌のある顔をしている。
「落としてすみません」
「大丈夫だよ。それより、さっきの凄いね」
人形を受け取った女性が目を輝かせるので、ユイナは反応に困った。
「すみません。私はこれで」
「待ちなさいッ」
去ろうとするユイナの肩を、横から伸びてきた手が鷲掴みにした。驚いて振り向くと、青髪をショートにした長身の女性が睨んでいた。
「大会に出るのなら、練習に参加しなさいよ」
「私はしません。教頭先生にも練習はしないと話をしていますので」
「ふざけているの? ロートニア舞踏大会は陛下もご覧になる由緒ある大会なのよ。練習もしない貴女が、どうして出場を許されるわけ? おかしいでしょ!」
「私に言われてもどうにもできません。私が望んだ事ではないのですから。私は大会なんて興味ありません。他に出場したい方がいるなら、その方に譲りたいぐらいです」
「どこまで侮辱するの……!」
怒りからか、肩をつかむ手に力がこもっていた。
「い、痛い。放してください。私が何をしたって言うんですか。私だって知らなかったんです。大会に参加させられるなんて聞いていなかったんですから」
「だったら辞退しなさいよ! ちゃんと断って」
「それが出来るならそうしています!」
「出来るならって、何を言っているの」
「ヘレン様、もうやめましょうよ」
先ほど人形を受け取った女性が辛そうな顔で止めに入った。ヘレンと呼ばれた女性が信じられないといった目で相手を見ている。
「やめるって、何を。この娘が割り込んできたせいでミグが補欠にされたのよ?」
「そうなんですけど、さっきの彼女の動きを見たら、なんか納得しちゃいました。私、物分かりは悪いですけど、わかっちゃったんです」
ミグと呼ばれた女性が声は悲しげなのに、無理に笑おうとしているように見えた。
「私は彼女のように身軽に動けません。ヘレン様だってそう思いませんか?」
「身軽に動けるからって、なんだと言うのよ。それが舞踊のすべてではないでしょ」
しかし、ミグと呼ばれた女性は目に涙を浮かべ、相手を見上げている。
「や、やめてよ。今まで優勝するために一緒に頑張ってきたじゃない。諦めないでよ」
「諦めているわけじゃないんです。ただ、優勝するためには、彼女の力が必要だと感じただけです。そのためには、私が補欠にならないといけないんです」
二人のやり取りに、ユイナは声を出せずにいた。
大会の出場者になった事で、逆に出られない人がいる事を考えてもみなかった。何も努力していない自分が、誰かを押し退けて大会に出場していい訳がない。大会に出場したくて努力している人を蔑ろにするなど自分にはできない。それは悪人のすることだ。
――どうして、私はこんなところに来てしまったのだろう。
ただでさえ、出場したくない気持ちやアレスに置いて行かれる焦りで胸が一杯なのに、罪悪感まで植え付けないでほしい。限界だった。
「もう、許してください……」
ユイナの泣きそうな声に驚いたのか、肩をつかむ手がゆるんだ。
何もかもを捨てたくなり、逃げるように去った。




