光の雨は、しとしとと5
宿舎一階の最奥にある部屋に来客があったのは翌日の事だった。ノックに応えて扉を開けると、サマンサ教頭が手荷物を提げていた。
「ユイナ、届け物よ」
「私にですか?」
もしかして、コルフェ達から?
一瞬、そんな期待を抱いたが、コルフェ達が校内清掃に来るのは今夜の予定だ。渡したい物があればその時に渡してくるだろう。では、誰からだろうと思いながら差し出された袋を受け取ると、ずしりと重たい。中には分厚い書籍が詰まっていた。
「教科書……」
今まで教科書がないからと講義を休んできたが、その言い訳もできなくなる。
「ごめんなさい」
「え?」
意味が分からずに顔を上げると、サマンサが申し訳なさそうな顔で、
「舞姫になるために講義を受けるのは義務なのよ。貴女だけを特別扱いはできない。義務を果たさない貴女に対して快く思っていない生徒もいるみたいなの。分かってもらえるわね?」
「……分かります」
彼女はきっと良い人なのだろう。気遣いが伝わってくる。
「時間割はこれよ」
差し出された紙を受け取る。
「もうすぐ昼食だから、その後の授業は歴史学になるわね」
時間表を指差しながら説明してくれる。
「ユイナの教室は高等一年の二組になるわ。場所は校舎の三階。それと、講義で分からないところがあれば訊きに来ても構わないから。私の部屋は分かるわね?」
「はい、案内の時に教えてもらった角部屋ですよね」
サマンサはうなずき、
「それと、合同練習の件だけれど……一度でもいいから顔を出してみない? この学校で指折りの舞姫達と一緒に踊りの練習ができるわよ」
大会の出場者だけで行う放課後の練習だ。出場者が発表された昨日も誘われたが断っていた。
「すみませんが、そんな気分にはなれません」
断るユイナに、サマンサ教頭が慎重な目をしている。
「それは、私達が貴女を騙していたから……? それとも、校長から何か嫌な事を言われた……?」
「……どちらもです」
ユイナは肯定した。
舞姫学校で踊りを見せるだけの話だったはずだ。ところが、ロートニア舞踏大会という訳の分からない大舞台への出場が決まっていた。本当の目的を隠されていたのだ。
「私は、誰かを騙して利用する人が嫌いです。詳細は話せませんが、本当に嫌な事や辛い想いをしてきました。――あ、サマンサ教頭は他人を騙すような人ではないと分かっています。気にかけてもらっているのが今も伝わってきますから。でも、あの校長だけは許せないのです。本当の狙いを隠して誓約書に署名させました。しかも平然とした顔で。最初から悪意があったとしか思えません」
ドルドラン校長のまるで奴隷商人のようなやり口に、胸の奥が冷たく荒ぶる。
奴隷商人――身寄りのないユイナとシェスを拉致した彼らは、ろくな食事を与えずに暴力と恐怖で心を縛ろうとし、逃げたシェスを鞭で打って殺した。その恐怖を思い出すと同時に、親友の為に何もできなかった悔しさや罪悪感に襲われるのだ。親友の死顔が今も目の前に浮かんでいる。
激しい感情に揺さぶられ、ズンズンズン! と地響きのような動悸がした。
「うぅ……」
鈍い痛みが胸の奥から突き上げてくる。胸を押さえ、歯を食いしばって耐える。
親友のシェスを失った時から、まるで呪いのように胸が痛む時があった。しかしこれほど酷いのは久しぶりだ。意識が朦朧としている。
「ど、どうしたの? 大丈夫……?」
サマンサの声が遠くに聞こえる。
ユイナはめまいを押さえ込むため、胸元に隠した舞姫のペンダントを握り締め、ゆっくりと呼吸を整える事に集中した。そうする事でどうにか意識を繋ぎ止めた。床に手をついて初めて、自分がうずくまっている事に気付いた。全身に冷や汗が浮いている。
「医者を呼んできましょう」
「大丈夫です。もう、落ち着いてきました」
額の汗を拭い、ゆっくり呼吸してみる。胸の痛みはない。もう問題はなさそうだが、まずはベッドに腰かけて一呼吸着く。
「びっくりさせてすみません」
「それはいいけど、本当に大丈夫なの?」
はい、とうなずき、心配げなサマンサと向き合うために立ち上がる。
「サマンサ教頭。これだけは言わせてください。私は、私や私の大切な人に悪意で近付く人を許しません。絶対にです。ですから、校長の思い通りには動きません。……子供のようなわがままを言ってすみません。本当は嫌ですが、大会には出ないといけないのだと思っています。制服代や授業料を請求されたら皆に迷惑かかりますから。ですが、それ以外は……、講義に参加するなど以外は、自由にさせてくれませんか」
「……貴女の気持ちはわかったわ。私に決定権はないけど、希望は伝えるわ」
「ありがとうございます」
頭を下げると、サマンサは困り顔になった。
「あまり期待はしないでね。それと、体調がすぐれないようなら休んでも構わないわ」
そう言い残し、ステンドグラスに彩られた廊下を歩いていく。
ユイナは部屋のドアを閉め、手提げを机に置いてベッドに寝そべった。
「授業か……」
見知らぬ令嬢達がいる教室に独りで入らないといけないのかと思うと憂鬱になる。青い髪の少女達は、黒髪のユイナを奇異の目で見るだろう。
「行きたくない……」
それが本音だ。しかし、サマンサ教頭の言う通り、舞姫学校の生徒となった以上、義務は果たさないといけない。それに、授業を受ける事も誓約書に書かれていたので、逃げ出すこともできない。
「ダメダメ。弱気になっていたらダメだ」
ドルドランとの契約を乗り切り、アレスの気持ちを確かめに行くのだ。こんな所で挫けるわけにはいかない。仰向けになって弱気を吹き飛ばすように息を吐き出し、体を起こした。
「よし、まずはどんな教科があるか見てみよう」
自分を奮い立たせ、手提げから教科書を取り出して机に広げる。
どれも分厚い。それらを一冊ずつ手に取ってみる。
「『神話を読み解く』、『ロートニア王国史』、『舞姫の歴史』、『候補生からの礼儀作法』、……歴史や作法の本ばかりだ。あれ? 馬術がない?」
考えてみれば校内に牧草はなかったし、馬の姿もなかった。ひどく残念な気持ちになった。ユイナは馬が好きだ。普段は優しい目をしているのに、駆ける時は風よりも速く力強い。頼もしい動物だ。悪魔の油“デルボ”がカトレア達の居場所に送り込まれていると知った時も、馬がいてくれたおかげで爆発の前に駆け付けられた。
そう言えば、分からない事が一つある。デルボが入った樽に火矢が刺さり、爆発したのにどうやって助かったのだろうか。その記憶がすっぽり抜けている。気付いた時にはアレスの腕の中だったので、意識がない間に何かがあったに違いないが、彼からはっきりとした回答はもらっていない。
いや、今は教科書の確認だ。
「あ、髪型の本がある。絵も付いているんだ。すごい。後でじっくり読もう。それと……薬術の本はどれだろ。……あれ? もしかして、薬術もない?」
シルバート王国では薬術は必須科目だ。それは戦争が身近な人々にとって生き抜くために必要不可欠な知識だからだ。しかし、ロートニア王国はそうではないらしい。
「あの三姉妹が手製の髪薬に驚いていたのもそのせい? そっか……、ロートニアの人は戦争の経験がないんだ……。だから薬術がない」
ため息がもれた。
シルバート大陸の歴史は戦争の歴史だ。たとえ平穏になったとしても、それは一時的なものだ。まるで川の流れをせき止められないのと同じように、戦争へと押し流される。その流れに呑み込まれ、命を失う人がほとんどだと言われている。
事実、ユイナの両親は兵士に斬り殺された。親友のシェスは鞭で打たれて死んだ。追い詰められてナイフをのどに突き刺した女性もいる。アレスの支援者だったオーデル伯爵はウィンスター海軍の矢を受けて命を落とした。ユイナ自身も、ペントを守るために敵を魔術で焼き殺していた。
「この平和な国に生まれていたら、みんな死なずに済んだのかな……」
消えていった人々を想うと複雑な気持ちになった。
「コルフェ達に早く会いたいな」
彼女達が来る夜が待ち遠しかった。
***
学生寮を出たサマンサは重い溜息をついた。
ユイナはロートニア舞踏大会で踊ると約束してくれた。
しかし、嫌々させてしまう踊りに意味はあるのだろうか? 心のこもっていない舞踊はただ体を動かしているだけだ。そんな踊りで人の心が動くわけがない。
初めてユイナを見た時、楽しそうに踊る彼女に目を奪われたのを覚えている。ほっそりした体からあふれる喜びに刺激され、心の奥に忘れていた若い頃の気持ちがよみがえるようだった。ドルドラン校長が彼女の踊りに執心するのもうなずけた。彼女の踊りにはそれだけの魅力がある。
「心から踊ってもらうためにはどうすればいいのかしら……」
そのためには、ユイナとドルドラン校長との溝を埋める必要があったが、それが困難なのは容易に想像できた。悪意で近付く者に対するユイナの拒絶反応は異常なほどだ。
途方に暮れて見上げた空は、あいにく、日除けの天幕に覆われていた。
白い肌を大切にする舞姫学校『ノノル』の生徒は日焼けを嫌う。そのため、学生寮の屋上から教員棟に縄が架けられ、日除けの幕が張られているのだ。花壇や舞姫の石像がある中央通りに天幕はないものの、他は至る所に張り巡らされている。サマンサがまだ生徒だった頃は視界を遮るような天幕や周囲の高い塀もなく、海の見える開放的な学校だったが、この二十年で大きく様変わりしていた。
すると、近くでドアの開く音がした。
学生寮に隣接する美容室のガラス戸が開き、白衣のおじさんに見送られて三人の少女達が出て来た。サマンサはまたしても頭を抱える。問題児の三姉妹が授業中にも関わらず髪を切っていたのだ。
「先生、こんな所でどうしたんですか?」
悪びれない所が彼女達らしい。
「貴女達こそ何をしているの」
「何って、マギィさんに髪を整えてもらっていました」
「見ればわかります。授業中ですよ」
「今は自習ですから大目に見てくれてもいいじゃないですか。休みだとなかなか空いてないんですもの。マギィさん人気者ですから」
白衣のおじさんを見ると、白い歯でにこりと笑ってくる。
「サマンサちゃんも切ってく?」
「いいえ、今はそんな気分ではありませんので。――とにかく、あまり好き勝手していると本当にご両親に報告しますからね」
あまり効果があるとは思えないが、とりあえず三姉妹に釘を刺し、教員棟へと向かった。
校長室の前で立ち止ったサマンサは、振り返って誰もいない事を確認してからドアを開けた。
「あの娘の様子はどうだ? 練習に参加する気になったか?」
校長室に入るなりドルドランに聞かれた。
「いいえ、残念ながら……。申し訳ありません。彼女のやる気にさせたいのですが、うまくいきません」
「そうか……だとしたら仕方ないな」
それだけ言って黙ってしまう。
「校長、お願いがあります」
「何だ、改まって」
「ユイナは騙された事で強い不信感を抱いております。その不信感を拭うためにも一度謝っていただきたいのです。その上で大会への出場を――」
「なぜ私が謝らなければならない。庶民では味わえない貴族の世界を味わせてやっているのだぞ。感謝してほしいぐらいだ」
「ですが、このままではユイナは合同練習に参加しないと思います。一緒に練習を積まなければ息を合わせられません」
ドルドランはにやりと笑う。
「それについて考えてみたのだが、無理に合わせる必要はないと思うぞ」
サマンサは目を見張る。
「何をおっしゃるのですか。集団演舞は十人が息を合わせるから美しいのです。たった一人のズレで全体の動きが乱れます。それどころか、独りのミスが目立てば、取り返しのつかない減点になります」
これはドルドランも重々理解しているはずだ。幼い頃より多くの踊り子を見てきた彼の眼力は確かだ。しかし、それにしては焦る様子がないのは何故なのか。
「優勝を狙うならきちんと呼吸を合わせる必要があります。ですが、こればかりは一朝一夕にできるものではありません」
「そうだ。ぶっつけ本番で息を合わせられる訳がない」
「そうです。ですから一緒に練習を――」
「その必要はない。息を合わせられないのなら一緒に踊らなければ良いではないか」
「どういう意味ですか……?」
「集団演舞は九人で行う」
「九人……? それは、ユイナを集団演舞から外すという事ですか? 課題だけでなく、自由の集団演舞も……?」
「そうだ」
「校長、考え直してください。たとえ一人と言っても踊り手が減れば迫力に欠けてしまいます。それに、優勝するためにユイナを入学させたのではないのですか? それなのに集団演舞に参加させないなんて……」
そこまで口にしてハッとした。
「まさか、独り演舞の大役をヘレン様ではなくユイナに任せるのですか?」
ロートニア舞踏大会では各校で三つの演舞がある。課題の集団演舞、自由に決められる集団演舞、そして、独り演舞だ。その中で、連携の取れないユイナを集団演舞から外し、独り演舞に出場させるのではないか。
ドルドランは人差し指を立てて、「その通り」と、したり顔になる。
「ユイナには変形した嵐の舞をさせる。あれを群衆が見れば、すべてがひっくり返るぞ。私の世界をひっくり返したのだからな」
「お待ちください。ヘレン様はどうなるのですか。独り演舞は今まで選考会で一位になった者がしてきたのですよ。選考会に参加してもいないユイナが独り演舞に出るなどヘレン様は絶対に納得しません」
「大丈夫だ。ヘレンには集団演舞の中心を任せる。九人と言えば奇数だろ? ヘレンを中心にすることで左右のバランスが取れるわけだ。そして、観客の視線は中心のヘレンに集まる。残りの八名はヘレンを引き立てればいい」
「………」
それはそれで、他の舞姫達が不満を持つのではないか。
「我ながら素晴らしい作戦を閃いてしまったものだ」
自画自賛しているが、自己陶酔で周りが見えなくなっているようにしか感じられなかった。
「校長、私は心配です。一歩間違えれば崩壊するような危険な橋を渡っている気がするのです。それに、最近の校長はおかしいです。こんなに強引に進めるなんて。一体どうしたのですか」
「私は気付いたのだ。何をしても報われない自分に。この『ノノル』を最高の舞姫学校にするために我が身を削って努力をしてきた。だが、結果はどうだ。万年最下位ではないか」
「それは生徒の実力を引き出せない私の責任です」
「そういう話をしているのではない! 私が報われないという話をしているのだ!」
ドルドランが激情に任せて拳を机に叩きつけた。それから睨みつけるような視線を窓の外へと向ける。中央大通りの向こうに城壁のような壁が立ちはだかっており、その壁に人差し指を向けた。
「あの壁がどうしてできたか、サマンサも覚えているだろう?」
サマンサはうなずく。
「潮風が肌に悪いという噂と、日焼けしたくないという生徒からの要望で造りました」
「そうだ! 我が校の景観を損ねるあの高い壁は、生徒の声を聞き入れて巨額の費用をかけて造り上げたものだ! だが、感謝の言葉など一つもなかった! 挙句の果てに壁だけでは陽射しを遮れないから、校舎と学生寮に日除けの幕を張れだと! それもやってやったのに恩知らずな娘達だ! 舞姫の本分である舞踊もせずに我がままばかり!」
そう怒鳴って、椅子に背もたれに背中を預ける。
「生徒に求めたのが間違いだったのだ……」
「…………」
寂し気なつぶやきにサマンサは何も言えなかった。彼の悔しさは多少なりとも分かる気がした。
「ヘレンの事もそうだ。私を毛嫌いし、誕生日の贈り物も受け取ろうとしない」
「それは贈り物を渡すだけで終わっているからです。ちゃんと向き合って話し合えば分かってもらえますよ」
「気休めはやめろ。話し合いというのは相手に聞く耳がなければ成立しないのだ」
ドルドランは椅子を回し、背を向けてしまった。
***
校長室の前から一人の少女が歩き出す。
「ふーん。ユイナって独り演舞をさせられるほどの踊り子なんだ。それにしても、私達が引き立て役……面白いこと言ってくれるね。お姉ちゃんに報告しないと」
青髪をサイドテールにした少女が挑むような眼で階段へと消えていった。




