光の雨は、しとしとと2
***
「ヘレン様は黒髪の少女を見ました?」
乾かしたタオルをたたんでいる時、湯浴み一式を抱えたミグが声をかけてきた。
「黒髪の少女? あの恋愛小説にそんな登場人物が出てくるの?」
「違いますよぉ。実在する少女なんです」
瞳を輝かせつつ、なぜか天井を振り仰ぎ、
「夜の暗闇を溶かし込んだように真っ黒な髪をしているんですよ」
人の髪を表現するにしては過剰な気がしたが、恋愛小説をこよなく愛する彼女らしかった。それはともかく、黒髪の少女に会った経験はない。出身地によって髪の色は左右されるらしいが、黒は聞いた事もなかった。
「そんな少女が学校にいるの?」
「そうなんです! びっくりしてしまって、振り返って二度見してしまいました」
少なくとも、青い髪の少女達ばかりの舞姫学校『ノノル』で黒い髪は目立つだろう。
「シーマも見たの? 確か、今日の授業はミグと一緒だったわよね」
歯磨き用具を袋に入れていたシーマが無言でうなずく。
「確かに黒い髪でした。ノノルの制服を着ていましたが、見たことない顔でしたね。教頭に校舎を案内されているようでした」
「今朝の馬車は、その人を連れてきたのかもしれませんね」
ああ、と苦い顔になる。車窓から見えた父親の醜い顔を思い出して嫌な気持ちになったのだ。
「それにしてもこんな時期に新入生かしら。病気で入学が遅れたとか」
「いいえ、舞姫候補生の制服を着ていましたから十四歳以上です。見た目は私達より二つぐらい下のように感じました」
「それって、転校生という事?」
「そうだと思います」
「どういう理由でノノルに来たのかしら?」
疑問を口にするとミグが食いついてきた。
「そうですよね? ヘレン様も気になりますよね? 私も気になって声をかけようとしたんですけど、この世の終わりのような暗い顔をしていたのでできませんでした」
「二度見どころか話しかけに行ったのね……」
興味ある事には積極的なんだから、と苦笑してしまう。
「でも、不思議なのが教頭先生もはぐらかして答えてくれなかったんですよねぇ。何かあるんでしょうか?」
そうね、と思案する。
「転校すると言っても、他の舞姫学校に移動するだけでも馬車で何日もかかる距離があるから、簡単な話ではないものね」
大天女が守護する東西南北に合わせ、舞姫学校も国の東西南北にそれぞれ一つと決まっている。必然的に、国の領土が広ければ広いほど、舞姫学校の距離は広がっていく。大きい国となれば学校間で一ヶ月近くかかる事もあるという。それゆえに転校する生徒はほぼいないと言っていい。それでもゼロではないのは、いくつか理由がある。
「考えられるとしたら、若くして婚約したために教育課程が終わるまで夫の領土近くの舞姫学校に転校してくるという事かしら」
「ですが、暗い顔をしていましたよ?」
「それは、結婚のすべてが望むものとは限らないでしょ。家柄を維持するための政略結婚だって有り得るわ」
ミグが眉をひそめる。
「もしかして、彼女には心に決めた男性が他にいた……? だけど、ご両親から望まぬ結婚を決められてしまった。それなら彼女の悲痛な顔にも納得できます。引き裂かれた恋……かわいそう」
心を痛めたような顔をする横でシーマは冷静だった。
「それはないでしょう。婚約指輪をしていませんでしたから」
あら、とミグが口元にて手を添える。
「ついつい先走ってしまいました。婚約でないとすれば、何でしょう?」
「そうね……、より環境の良い学校を求めて転校する事かしらね。だけど、情けない話だけれど、舞踏大会で毎年最下位の舞姫学校ノノルにそれだけの魅力はないわね……」
あとは、と付け加える。
「前の学校で余程の事があっていられなくなったとか」
「余程の事って……?」
「傷害事件とか」
えぇ? と、ミグが眉根を寄せる。
「札付きの悪なのかもしれないわよ」
冗談めかして言うと、ミグは「そんな風には見えませんでした」と小首を傾げた。
「たとえばの話よ。実際のところはわからないわ。どちらにせよ学年も違うようだから関わる事はないでしょうけどね」
そう思っていたのだが、舞踏場への渡り廊下で件の少女とすれ違ったのは翌朝の事だった。思わず二度見してしまった。少女は周りの何者も見ていないのか、前だけを見詰めて日差しの中を音もなく歩いていく。
「本当に黒い髪だわ……」
ただの黒髪少女であれば立ち止りはしなかっただろう。
朝風に髪を流しながら颯爽と歩く背中は異国の風をまとっていた。背は高くない。ミグと同じぐらいだろうか。ところが、ロングスカートの制服からでもわかるほっそりとした体と手足の長さがそうさせるのか、歩く後ろ姿が美しいからか、視線が吸い寄せられていた。
少女は日傘を提げて舞踏場の裏手に消えていく。
関わる気持ちなどなかったはずだった。しかし、気になる事があまりにも多過ぎた。なぜ髪が黒いのか。なぜ舞姫学校『ノノル』に来たのか。なぜ日傘をささずにひと気のない裏手に行くのか。
気付けば、彼女を追いかけるように踵を返していた。
ミグの事を笑えないと思いつつ、少女が消えた舞踏場の裏へと顔を出した。
「……いない?」
初めて踏み入れた舞踏場の裏には誰もいなかった。雑草が生えないようにと石畳が敷かれたそこは、右側に舞踏場、反対側に林があり、日当たりは悪かった。ヘレンは林へと顔を向ける。手入れされていないので雑草が生え放題だ。
(もしかして、この中……?)
虫がいたら嫌だなと思ったが、意を決し、少女を探して石畳を進んでいく。石の継ぎ目から雑草が伸びており、スカートの裾に触れるのが嫌でひざ下までたくし上げる。
そうして歩いていると、林の奥に黒髪の少女を見つけた。しかし、妙な構えをしていた。閉じた日傘の先を真上に向け、両手で胸の前に構えているのだ。まるで騎士像のような立ち姿だ。
(な、何をしているの?)
意味も分からず、木陰から見守っていると、少女が胸に構えた日傘を天に掲げ、左足を半歩前に出した。その姿勢のまま前方を見据えている。
次の瞬間、前に踏み込みながら日傘を振り下ろした。
ビュン、という音が聞こえてくる鋭い振りから、さらに踏み込んで振り上げる。それから足を引きつつ体を反転させ、その勢いを乗せて横に振り払う。
細くもしなやかな体から繰り出される振りは力強く、日傘が伸びるかのように遠くまで届き、それでいてピタリと止まるところは止まる。
日傘を振るう姿は非常識で滑稽だ。しかし、笑えなかった。
彼女は真剣そのものだ。日傘で斬りつけるかのような気迫がある。
ヘレンは気付く。
(もしかしてこれは……剣舞のまねごと……?)
舞踊の専門書で読んだ事がある。武器を踊りに使うなど野蛮な男が考える事だと思っていた。もちろん、実技を見るのは初めてだ。
ロートニアの貴族はここ何百年も戦場に出た事がない。傭兵を雇って、傭兵同士を戦わせるからだ。貴族は手を汚さないもの。ましてや女が剣を持つなど狂っているとしか言いようがない。
日傘を振るう彼女は美しく狂っているのかもしれなかった。
そして、傘一本で世界を切り開くかのように力強い。
(こんな激しい舞いがあるなんて……!)
新境地を見せられては、舞姫を目指す者として心がうずかずにはいられなかった。もっと近くで見たい衝動に駆られて身を乗り出していく。すると、不意に黒髪少女の動きが止まった。こちらに背を向けたまま動かない。
ヘレンは目を瞬かせる。
(まさか、気付かれた?)
そう思った時、少女が振り返ってきたので、とっさに木の後ろに隠れた。
こそこそと盗み見ていた事が恥ずかしい行為に思えたからだ。しかし、隠れる方が恥ずかしいと思い直して姿を見せる事にした。決まりの悪さから目を伏せて木陰から出る。
「こんにち――は? いない……?」
彼女が踊っていた場所に誰もいなかった。
たしかにそこに居たはずだ。なのに、辺りを見回してもどこにも見当たらない。
背筋が寒くなって、「いるのでしょう!?」と茂みに声をかけてみる。
反応はない。
嫌な予感とともに、記憶がよみがえる。
「――白い妖精」
父が探し求めていた月夜の踊り子。空想の人物とばかり思っていたけど、見つけ出したらしい。
「まさか、あの娘を舞踏大会に参加させるつもり?」
しかし、おかしい。
彼女は転校してきたのではないのか。舞姫学校『ノノル』に来たのは昨日のはずだ。それなのに父に目撃されているのはおかしい。
いや、そんな事よりも。
ヘレンは歯噛みした。
父は、舞姫学校同士の真剣勝負に助っ人を招き入れたのではないか。
黒髪の少女を問いただせば分かるだろうが、茂みに分け入って探す気持ちになれず、それよりも父親を問いただした方が早いだろう。
***
ユイナは茂みの一つに身を潜めていた。幼い頃から隠れるのは得意だった。実の両親と暮らしていた時も、天女の泉まで水汲みに行かされたのは、獣に見つからずに往復できたからではないかと思っている。
『いるのでしょう!?』
一人の舞姫候補生があらぬ方向を見て声をかけている。
青髪をショートにした背の高い女性だった。カトレアと同じぐらいの背丈だろうか。しかし、カトレアが慈愛に満ちた瞳をしているのに対し、彼女は厳しい眼をしていた。
彼女は何やらブツブツと言っていたが、林には入ってこず、諦めたように去っていった。その背中が見えなくなってユイナはホッと息をつく。
見られているとは思わなかった。視界の隅に人影を見た時はドキリとした。
現状に対する焦りとか怒りを剣舞に乗せて吐き出すあまり周りが見えなくなっていた。せっかく一人で踊れる場所を見つけたと思っていたのだが、また探さないといけないようだ。
ユイナはため息をつき、林を出て振り返る。
林の向こう側に、舞姫学校『ノノル』を陽射しから守るための塀が、城壁の如く聳え立っていた。




