一花と呼ばれた舞姫学校へ32
***
「たいへん、たいへん、大変よ!」
港町まで買い物に行っていた宿のおばさんが血相を変えて宿に戻ってきた。
一階で子供達とおしゃべりをしていたカトレアは、ただならぬ様子に身構えた。
「どうしたのですか?」
「海上警備隊が、殺されたらしいの」
その言葉を聞いた瞬間、子供達が静まり返った。
「殺された……」
カトレアは力が抜けたようにつぶやいた。
たとえようのない苦味が口の中に広がった。
アレスの静かな背中を見た時から、もしかしたら、こうなるのではないかと予感はしていた。子供達も薄々勘付いていたのだろう。無言でうつむいている。
アレスの人殺しを、誰も止めなかった。むしろ、危険な男達に狙われる事がなくなったのだと安堵すらしている。その後ろめたさがカトレア達を暗い気持ちにさせた。
「全員、ですか……?」
「そうでしょうね。十人分の衣服が鋭い刃物で切られていたみたいだし、命の柱を見た人もいるの」
死んだ者は光の粒となって空に消えていくのだが、一度に多くの命が亡くなった時、たとえば土砂災害などで多くの人が下敷きになった時、死体からとけていく光の粒がいくつも重なって柱のように見える事がある。それが見えたという事は、死んだのは一人や二人ではない。
「人が死んでいるのにこんな事を言うのはなんだけど、天罰が下ったのね。どうしようもないならず者でしたもの。暴力は振るうし、年頃の娘を付け狙っていたし、それに、あなた達にまで手をあげて。――頬のはれ、少しはひいてきたみたいね」
「ええ……」
カトレアはあいまいに微笑み、「荷物、お持ちします」話題を切り替えようとした。
「あ、俺が持つよ」
フィックス達が駆け寄ってきて、おばさんから荷物を受け取る。
「ありがとう」と微笑み、
「それにしても、何があったのかしらね。ならず者と言っても傭兵よ。そんな彼らが殺されるなんて……。港町でも噂になっているんだけど、まさか、魔眼の海賊がまた襲ってきたのかしら。怖いわね。戸締りだけはしとかないと」
カトレアは何も言う事ができなかった。
「あ、そうだ」
おばさんが一転、笑顔で振り返る。
「ユイナさんの制服、染めの作業が終わってたわよ。今日中に仕上がるかもしれないわね。あの仕立て屋さん、愛想はないけど腕は凄いのよ。きっと素晴らしい服になるわ」
「そうですか。それは楽しみです」
「早く見てみたい!」
腕を吊った状態のモンシーが言った。その横でクロエやバレットもわくわくした顔になっている。女の子達からすれば煌びやかな舞姫はあこがれなのだ。
明るくなった子供達を見ていると、暗い気持ちも洗われていくようだった。
(ふさぎ込んでいても良い事はないわね)
たのしい事やあこがれ、夢や希望、そういう事があるから人は前を向いていける。辛いことにも立ち向かっていける。
「制服を着たら、ユイ姉さんも元気になるかな?」クロエが言った。
踊りの授業もできないくらいに落ち込んだユイナを心配しているのだ。
「そうね」
カトレアは、閉じられたユイナの部屋へと視線を向けた。
***
入学の朝、ユイナは目を閉じていた。
窓から小鳥のさえずりが聞こえる。風でカーテンが揺れているのか、閉じたまぶたの向こうに光がちらつき、朝のにおいがした。そして、唇にはやわらかな感触。
やさしく唇をなぞられ、くすぐったいような心持ちになる。その感触がそっと離れていった。
「終わったわ。鏡を見て」
カトレアに言われるまま目を開けた。
鏡には、唇に紅をひいた黒髪の美少女が映っていた。
ユイナが瞬きすると、その少女も瞬きする。
「これ、私ですか?」
その一言にきょとんとするカトレア。それから上品に笑った。
「普段は化粧してないものね。びっくりした?」
「まるで別人みたいです。髪まで綺麗に結ってもらって、本物の貴族みたい……」
心のどこかで、自分は下民の出身だという気持ちがあった。しかし今の姿は、貴族令嬢と呼ばれても恥じない美しさがあった。この数か月、伸びるに任せていた黒髪が滑らかに梳かれ、後ろで軽くねじりながらふわりとまとめられ、すっきりとした小顔が大人びた印象を与えた。首筋をみせる髪型は、舞姫学校『ノノル』の制服によく似合っていた。
制服は、少し時期は早いが、夏仕様の半袖ワンピースだった。祖国の舞姫学校と同じく校章を染め出してあり、腰に巻いた帯が十四歳の学年を表していた。ただ一つ、祖国の制服と違うところがあるとすれば、肘上まである白手袋を身に着けていることだった。
農作業や調理など手を汚すことを一切しない。それを表現した白手袋は貴族女性の必需品なのだそうだ。
「堂々としていればいいのよ。ここにいるのはユイナ・ファーレン。あなたよ。私はあなたの長所に手を貸しただけ。あなたは珍しい黒髪を持っているもの」
「カトレアさんの銀髪に比べたら私の髪なんて……。私、カトレアさんのような『銀の奇蹟』と呼ばれる髪になりたかったです」
「同じになれるわけないでしょ」
「え?」
ユイナはびっくりした。否定されたのだと思った。しかし、そうではなかった。
「誰かのそっくりさんになりたいの? みんな顔も体つきも違えば、性格や立ち振る舞いも違うのよ? 同じ美しさなんて一つとしてあるわけないじゃない。あなたが踊るとき、人の心をつかむように、人にはそれぞれ輝き方があるの。あなたは、自分にある個性を磨くべきよ」
「個性を磨く……?」
「そうよ。ユイナの黒髪は誰にもない個性だわ。そんな素晴らしい個性を持っているのに他人の個性に気を取られるなんて、黒髪がかわいそうだわ。ちゃんと手入れをしてこなかったでしょ。少し枝毛があったわ」
「……すみません」
「謝ることではないわ。ただ、もう少し自分をいたわってほしいの」
カトレアは気遣わしげに言った。
無理をしているように見えたのだろうか。
「私の髪でも、綺麗になりますか…?」
「なるに決まっているじゃない。手入れをすればきっと良くなるわ。ほら、学校の教えにもあったでしょ。磨けば宝石。磨かなければただの石。輝くためには努力が必要よ」
「はい。……でも、どうすれば良いのでしょうか。私、この黒髪で魔力中毒者だと疑われていたので、人前に出るのが恥ずかしくて、美容に関する授業は避けてきたのです。だから何をしたらいいのか……」
カトレアは柳眉をひそめた。
「髪に自信がないように見えたのは、そういう理由があったのね……。ユイナが健全なのは一目瞭然だけれど、それを受け入れない人もいるのかもしれないわね」
はぁ、とまるで自分の事のように深いため息をついた。
「許せないわ」
「……え?」
「私は誰かを貶めるような行為が嫌いなの。ねぇ、ユイナ。自分を磨く準備はできているわね?」
ユイナはこくりとうなずき、「はい」と答えた。
「いい顔ね。髪の手入れなら私が教えるわ」
「いいのですか?」
「もちろんよ。もっと綺麗になって見返して……いいえ、そんな事はどうでもいいわね。貴女らしく輝いていきましょう」
「はい。ありがとうございます」
ひさしぶりに笑みがこぼれた。
尊敬する女性からの励ましがうれしかった。
なにより、自分の黒髪と向き合うのが楽しみだなんて、生まれて初めての感情だった。
髪の洗い方からその後の手入れまで、カトレアは懇切丁寧に教えてくれた。
「今いった事を毎日続ければ髪に艶が出てくるはずよ。それと、これを使って」
差し出された小瓶を受け取る。
「これは?」
「洗髪後にうるおいを与えてくれる薬液よ。両手ですくったぐらいのお湯に一滴垂らして髪に伸ばしてみて。櫛がなめらかに通る程つややかになるから」
「高価な物ではないのですか?」
「いいえ。オルモーラの道端にある薬草を使って自分で調合したのよ。探せばノノルにもあるかもしれないわ。よかったらこれを参考にして。薬術を学んできたあなたなら調合できるでしょう」
「ありがとうございます」
「さて、そろそろ行きましょうか。あなたの舞姫姿を子供達が首を長くして待っているわ」
カトレアの言葉に照れ笑いしたユイナは、バッグに薬とメモ紙をしまい、他の荷物を持って扉に手を伸ばそうとし、立ち止まった。一階の広間がざわついているような気配があった。耳を澄ますと、薄い扉のせいか子供達の声が聞き取れた。
『あ、アレスだ』
『おかえりー』
そのはしゃぎ声にハッとした。
アレスが、来ている……? こんな朝早くから……?
名前を聞いただけなのに脚が震えてしまい、ドアの前で一歩も動けなくなった。
もしかして、見送りに来てくれた……?
そうでないと、こんな早朝に戻ってくる理由を思いつかなかった。
しかし、頬をはたかれたのは数日前の事だ。他人の命も、そして自分の命も軽々しく考えたユイナを本気で怒っていた。見送りに来てくれたと思うのは、虫が良すぎるかもしれない。
二階に上がってくる足音がした。子供達もぞろぞろと付いてきているのだろう、足音がいくつも聞こえた。
『いま、ユイ姉さんが制服に着替えているんだよ』
ユイナはその場から一歩も動けなかった。扉を開けて顔を合わせる勇気がなかった。しかし、心の片隅には期待もあった。アレスが見送りに来てくれたのではないかという期待だ。
足音が近づいてくる。
ユイナはバッグを抱きしめ、息をつめた。
しかし、足音は扉の前を通り過ぎていった。そして、いくつか隣の部屋が開かれる音がして、そこに消えていった。廊下に残された子供達が戸惑っている様子が伝わってきた。
バッグを抱きしめていた手から力が抜けた。
期待していただけに落胆も大きかった。それどころか、ユイナの話題を無視したのだ。
気持ちが沈み込み、顔を上げられなかった。
すると、そっとカトレアが寄り添った。
「アレスと何があったのか知らないけれど、ふさぎ込んでいても何も始まらないわ」
背中をさすられると、目頭が熱くなってきた。泣き尽くしたはずの涙が出てきそうになった。それを必死に堪えた。
「わたし、みんなを守りたかっただけなんです……」
絞り出すような声で訴えた。
「そうね」
カトレアは背中をさすってくれた。それ以上は何も言わない。続く言葉を待っているようだった。
ユイナは気持ちが落ち着くのを待って口を開いた。
「海上警備隊の男達がこの村に入っていくのを見た時、大変な事になると思いました。武器を持っていましたし、怪我人どころか、死人まで出るんじゃないかと思いました。駆けつけたら、カトレアさんが殴られていて、本当に怖かったです。大切な人を失うんじゃないかって……。どうにかして男達を倒そうと思いました」
「気持ちは十分に伝わってきたわ」
「でも、みんなを守るために魔術を使おうとした事を、アレスは許してくれませんでした。何か間違っているでしょうか? あんな暴漢からみんなを守るためには、その暴力を超える力が必要なんです。そうでなければあの男達は止められませんでした。アレスだって力でねじ伏せていたのに、なぜ、私は許されないのでしょうか」
「それは、貴女をこれ以上戦いに巻き込みたくなかったからでしょう。殺し合いの戦場では、人は冷静ではいられなくなる。怒りや憎しみで取り返しのつかない事をしてしまうかもしれない。八年前の真王戦争を覚えているでしょう?」
もちろん覚えている。その戦争で実の両親を殺されたのだ。暴力的な父と、無関心な母だった。たのしい想い出などない。忘れていたいぐらいだ。だが、とつぜん兵士に襲われた二人の悲鳴は、今も恐怖とともにユイナの胸に残っている。
「危険な戦いから貴女を遠ざけたかったのでしょう」
「メリル王女はどうなのですか。一緒に行動しているじゃないですか」
「メリル王女は……仕方のない事なのよ。彼女がアレスの傍にいる。それが、援助の条件だから。それに、彼女は強いわ。並みの魔術師では相手にならないぐらいに」
言ってから、ユイナの挑戦的な瞳に気付いて柳眉をひそめた。
「私だって魔術を使えます。魔術とそれを制御する魔法も練習してきました。魔法陣を開く早さも、大きさも、昔とは比べ物になりません。今では王女に負けないほどの力を持っていると思います」
カトレアはまじまじとユイナを見詰めた。半信半疑の顔だった。
誰にも気づかれないように夜な夜な練習してきたのだ。屋上で見張るテンマには見つかってしまったが、カトレアが知らない事から察するに、秘密にしてくれたらしい。
「待っているだけでは嫌なんです。私が魔術や魔法を使えるようになったのは、アレス達と一緒に世界を救うためだと思います。メリル王女が魔術を使えるのも、カトレアさんが舞姫となって世界の危機をアレスに知らせたのも、すべては天女様のお導きだと思います。だから、私はアレス達と一緒に戦いたい。離れるべきではないと思うのです」
「それは、舞姫学校に行きたくないという事?」
「………、そうです」
「それならどうしてもっと早く言わなかったの? その制服もそうだけれど、多くの人が貴女を入学させるために動いているのよ?」
「それは……」
好きな人と離れたくない。その一心で駄々をこねているなど、言える訳がなかった。でも、ここに残ったとして何が進展するだろう。想い人から距離を置かれているというのに……。
「ごめんね。ここまで来てしまった以上、私にはどうする事もできないの」
ユイナはうつむいた。
「カトレアさんは悪くありません。はっきり断れない私が悪かったんです」
肝心な時に臆病になってしまう。そんな自分が招いた舞姫学校行きなのかもしれない。
カトレアは少し悩んだように考え、口を開いた。
「こう考える事はできないかしら。貴女が魔術を使えるようになったのも、アレスと出会ったのも、すべてが天女様のお導きだとしたら、舞姫学校へ行くことも導かれているのではないかしら」
「ぁ……」
「もしかすると、あの学校で世界を救う協力者と出会うかもしれない。そして、それができるのは入学を許された貴女だけなのよ」
力を込めた言葉に悪意はない。むしろ前向きになれるような助言だった。
もう無理だと思った。舞姫学校行きを覆す事はできない。
たとえここで逃げたとしても、入学準備にかかった費用はどうなるのか。ユイナを入学させるために使われたお金は、目的が果たせないなら間違いなく請求されるだろう。いったいいくらになるのか見当もつかないが、簡単に払える金額ではないはずだ。払えたとしても日々の生活を圧迫するのは間違いない。そんな迷惑をかけられるはずもなかった。
「絶対に置いて行かないわ」
カトレアの言葉に顔を上げた。
「貴女を残して私たちはどこへも行かない。大切な家族ですもの」
「家族?」
「そうよ。血はつながっていなくても、心でつながった家族よ。だから、貴女の帰りを待っているわ」
「……ありがとうございます」
笑顔で応えたつもりだが、うまく笑えたかどうか……。
「元気を出してちょうだい。踊りを教えている時の笑顔はどこに行ってしまったの?」
「私、そんなに笑っていますか?」
「ええ、笑っているわ。そんな貴女から笑顔が消えてしまったから、子供達が心配していたでしょ?」
「ぁ……」
言われてみればここ数日、ルーア、ミア、コルフェだけでなく、他の子供達からも『元気をだして』と声をかけられていた。
自分の事で頭が一杯で気付かなかったなんて最低だ……。
「貴女の踊りは本当に楽しそうで、みんなを幸せにするのね。だから、貴女がふさぎ込んでしまって子供達も心配していたのよ」
「すみません……」
今にも涙が出そうだったので、かすれた声しか出てこない。
「謝ることではないわ。誰だって辛い時はあるでしょう」
カトレア言う通りなのかもしれなかった。
「とにかく、貴女の踊りを楽しみにしている人がいる事を忘れてはダメよ。だから元気を出してほしいの。そして、帰ってきたらまた楽しい踊りを教えてね」
やさしく包み込むような微笑みだった。
はい、と言いたかったが言葉にならなかった。胸が詰まっていた。
代わりに何度もうなずいた。
大切に想ってくれる人がいる喜び、離れ離れになる寂しさ、それらが入り混じっていた。
ポタリ。
我慢していた涙が一滴、白い手袋に落ちた。最初の一滴が落ちてしまうと、あとは崩れるように零れ落ちてきた。
「ご、ごめんなさい。涙が勝手に……、化粧がくずれてしまいます」
「気にしなくていいわよ。まだ少し時間があるもの。ゆっくりしていきましょ」
抱きしめてくれる腕にユイナは身をゆだねた。
身支度を終えて部屋を出た。階段を下りていくと、広間で待っていた子供達が、制服姿のユイナに感嘆の声をあげた。
「わぁ、綺麗……」
「いいなぁ」
ザイが、ヒュー、と口笛を鳴らした。
「見違えたぜ。まだまだガキだと思っていたが、これはなかなか……」
「はいはい、いやらしい目で見ないでくださいね」
ザイを押しのけてミア達がやって来た。
階段を降りたところで友達と向き合う。
「どう、かな……?」
「うん。すごく似合っているよ」
「すごく輝いてる」
ミアとコルフェの感想に後ろのルーアが「キラキラだねー」とうなずいている。
「ありがと」
自然と笑顔になれた。
泣きはらした目に気付かれただろうが、誰もふれないでいてくれた。
広間に集まった人々を見回してみたが、アレスの姿はどこにもない。
外から蹄の音が聞こえてきた。窓の外に目をやると白馬に引かれた高級馬車が宿の前に横付けされるところだった。
「迎えが来てしまったみたいね」
ユイナの心は別れの寂しさに包まれた。みんなも寂しそうな顔をしていた。
その寂しさに我慢できなくなったようにミアが抱きついてきた。
「向こうに行っても元気でね。掃除の夜はいろいろおしゃべりしようね」
ユイナはミアを抱きしめながら、うん、とうなずいた。
それからコルフェやルーアとも抱き合い、ペントとは握手をした。その流れからか、子供達と別れの握手をして回ることになった。
みんなが口々にユイナの美しさを称賛した。
うれしい。うれしいのに、悲しい。一番見てほしい人がいないから。
頬を赤らめたヨセフが前に来た。
「ユイナさん……すごく綺麗です。本物の舞姫みたいです……」
「ありがとうございます」
笑顔で応えるとヨセフは寂しげな照れ笑いをした。
彼の告白を断ってからまともに会話ができていなかった。言葉を交わしたのは久しぶりだ。ヨセフはまだ何かを言いたそうだったが、言葉にできなかったようで、手を差し出してきた。
「……お元気で」
ユイナは彼の手を握る。
「ヨセフさんも、お元気で」
「――終わったか?」
玄関に立つドルドランが待ちくたびれたように言った。
ユイナはうなずき、荷物を手にして宿を出た。
馬車の前では白髪の御者が待っており、ぽつりと言った。
「荷物を」
何を言われたのか分からなかったが、差し出された手から察するに、荷物を預かるという意味らしい。御者にバッグを渡し、宿を振り返った。
玄関前に子供達がずらりと並んで見送ろうとしていた。宿のおじさん、おばさんの姿も見える。しかし、アレスの姿はどこにもなかった。
本気で怒っているのかもしれない。だから見送りにも来てくれないのだ。
わざとらしい咳ばらいが聞こえた。振り返ると、先に乗り込んだドルドラン校長が腕組みをしながら待っていた。
未練を振り切るようにして馬車へと乗り込む。
御者が鞭を振るい、馬車が走りだした。
『ユイナさーん! 元気でねー!』
子供達が手を振っていた。カトレアも、コルフェも、ルーアも、ミアも大きく手を振っていた。ユイナは窓から身を乗り出して手を振り返した。
みんなの姿はもう、別れの涙でぼやけてしまっていた。




