闇夜の賊と月夜の踊り子3
ノックをすると、中から『どうぞ』と返事があった。アレスの声だ。そう思うだけで全身を抜けていった低くてやさしい声が、あとになって体の芯を揺さぶってくる。生唾を呑み、「失礼します」とドアを引くと、ランプの光が廊下の闇を追い払った。ユイナは光の中へ足を踏み入れる。
そこはもともと船長の部屋で、オルモーラのランプで明るく照らされた室内は、他の船室より広めの間取りとなっていた。入口の横にあるベッドは一つだが大きめのもので、奥にはデスクが置いてあり、その向こうの椅子に座ると入室者と向き合う格好になっている。だが、椅子には誰も座っておらず、左側に置かれた海図の前に銀狼がいた。海図をじっと見下ろし、指に挟んだペンで時おり海図に印をつけて考え込んでいる。
初めて出会った時と何も変わってはいない。ほんのりと青味がかった銀色の毛並みと、その猛々しくも凛々しい横顔に、ユイナはしばらく声をかける事もできずに立ち尽くしてしまう。銀狼が怪訝な顔で振り向いた。
「どうした? そんなところに突っ立って」
黒曜石と見間違えそうな黒瞳が、こちらをまっすぐ見据えている。その瞳が戦場では刺すように冷たくなるところを、何度か見て知っている。怖いと思わない事はない。だけど、本当の彼がやさしく寛容である事をユイナは知っているし、彼と行動を共にする誰もが知っている事だ。天女が彼を救世主に選んだのもうなずける。そんな彼が見つめ返している事に気付いて、慌てて手元に視線を逸らす。
「の、飲み物を、おも、お持ちしました」
ろれつが回らずに言い直すと銀狼は小さく笑い、「ありがとう。机の上に置いてくれないか」と指示を出してくれた。そのおかげか体が動くようになり、歩いてアレスの後ろを通り過ぎ、机に近付いてお盆を置く。すると、銀狼は考え事をやめてこちらに振り返り、口を開いた。
「ついでで悪いのだが、ランプの火を弱めてくれないか」
「え?」
どうしてわざわざ部屋を暗くするのかと振り返ると、銀狼がドア付近のベッドに顔を向ける。
「王女が寝ているんだ。だから、少し暗くしてやってほしい。俺の手ではうまく抓みを回せないんだ」
言って、とうてい物などつかみにくい前足を見せる。その手にはペンが握られているが、持っているというよりも挟んでいるといった方が正しい。むしろ、どうやって指に挟んだのか気になるぐらいだ。
アレスの視線の先を追ってベッドを振り返ると、メリル王女が薄い毛布をかぶって寝ていた。さらさらしたショートカットの金髪が薄明かりにも映える。
ユイナは頷き、ランプの抓みをゆっくりとまわす。灯りが少しずつしぼられて照らされる場所も狭くなっていき、その小さくなった明かりにアレスは寄ってくると、机に置かれたコップに視線を落とし、それから至近距離でユイナと目を合わせる。
「二つ、用意してくれたのか。ひょっとして、王女と俺のために?」
「は、はい……」
ユイナは視線で頭の奥を射抜かれたような気分になり、紅潮する顔をうつむけた。彼と目を合わせていられない。彼の澄んだ瞳が、胸の内に隠した想いまで見抜いてしまうような気がするのだ。
「もし時間があるなら、少しだけ話をしないか」
銀狼に言われ、うつむいたまま小さくうなずき、それでは気持ちが伝わってないかもと思い、「はい」と声にして返事する。
「そっちの椅子に座ってくれ」
船長の席を勧められ、言われるまま席に収まると、部屋のほとんどが一望できた。見えないのは自分の後ろの壁だけだ。銀狼を下手に見ていると、一瞬だけ不相応な席に座らされたと落ち着かない気持ちになる。
「あの……さっきは何をしていたんですか」
ユイナは勇気を振り絞って自分から声をかけてみたものの、銀狼と目が合った瞬間、「真剣な顔をしていらしたので邪魔をしてしまったのではないかと……」と弁明めいた事を口走ってしまう。
「海図を見て現在位置の確認と、考え得る最適な航路を模索していた」
「最適な航路ですか。ひょっとして、向かう港が決まったんですか?」
「いや、それはまだ決まってはいない。当初はウィンスターに向かう予定だったが、ウィンスターの港で世界屈指の艦隊に出迎えられたくもない」
「そうでしたね。私達はシルバートだけでなく、ウィンスターにも追われているんですよね……」
アレス達はウィンスター王国の一地方を統治するオーデル伯爵と手を組み、シルバート王国で保管されている魔神の骨をデルボと呼ばれる油で燃やそうと計画していた。ところが、その計画はラインハルトとウィンスターの軍に筒抜けとなっており、計画実行の日、海と陸の両方から追い込まれた。その時、デルボが巨大爆発を起こし、その混乱に乗じて船での脱出に成功したのだ。
「俺達が持っているのはウィンスターの入国許可書だけだ」
銀狼が淡々と言う。
「他の港へ行っても追い返されるだろうし、もともとこの船はこの辺りを走る船ではない。むやみに発見されるのも厄介だから、どの大陸からも離れた海を走っている。――机の上に海図があるだろう。今はここだ」
銀狼は前脚を海図の上に出し、ヴィヴィドニア大陸とソイルバイン大陸の間にある大洋を指し示す。
「今はちょうど二大陸の中間あたりだ。もし向かうなら、ここからさらに西にある中立の島国だろうが、ラインハルトが手を打って密偵を送ってくるとも限らない。あまり長居はできないだろうし、場合によっては船を泊められる海岸を見つけて密入国する可能性もある」
密入国、と頭の中で反芻する。
「とにかく、食糧の事を考えてもあまり長い航行はできない。それに、海には海の危険があるからな」
「海の盗賊ですね」
銀狼が眉をひそめる。
「ザイが言っていました。この海域には海賊がいて危険だって」
銀狼は渋面をつくり、「そんな事まで話していたのか。あまり口外はしないでくれよ。子供達にはいらない心配をかけたくないんだ」
「でも、アレスが安全な道を考えてくれているのですよね?」
「ああ。現実には何が起こるか分からないが、考えられる可能性は全て考慮しているつもりだ。たいていの海賊は無人島をねぐらにしている事が多い。この海域周辺には無人島も多く点在し、海賊にとって身を隠しやすい場所にもなっている。まずはそういった危険な群島から離れておき、少なくとも島に停泊している海賊には発見されないようにしておく」
「もし、海に出ている海賊に見つかったらどうするんですか?」
「その時は基本的に逃げるつもりだ。そのために潮の流れや時間帯で変わる風の流れを把握し、どの方角から海賊が現れても対応できるようにしている。しかし、逃げるばかりが得策とはかぎらない。この商船はあまり船速を出せない。逃げたとしてもどこかで追いつかれる上、逃げる時は最も弱い船尾を相手にさらす事になる」
「では、戦うのですか」
「そうだ。だが、子供達を危険な目に遭わすわけにもいかない。その時は小舟を出して敵船に乗り込もうと考えている」
「小舟?」
この商船には三艘の小舟が用意されている。脱出用の救命艇が二艘と、二人乗りの小舟が一艘。海難事故に備えた装備だ。そして、アレスが使う小舟はおそらく二人乗りだ。大型船からすれば海面に浮いているだけの小舟。それで敵船に近付けば、上から弓で狙い撃ちにされてしまう。
「……まさか、ひとりで?」
「そのつもりだ」
「危険過ぎます! ……ぁ」
思わず大声を出してしまい、メリル王女が同室にいる事を思い出して慌てて口をつぐんだ。寝台を振り返っていた銀狼が顔を前に戻した。
「心配するな。船上の戦いは何度かしてきている。それに、海賊と遭遇する確率は極めて低い。見張りも怠ってはいない。だから考え過ぎるな」
「は、はい……」
小さくうなずいて、視線を水の入ったコップへと向ける。大きい船とはいえ、波の影響を受けて水面が揺れている。
「のどが渇いていたらその水を飲んでほしい。王女は一度寝たらなかなか起きない。それを待って朝まで置いておくわけにもいかないしな」
「は、はい、いただきます」
両手でコップを手に取り、少しだけ水を口にふくむ。銀狼も、皿に顔を近づけて水を飲み始めた。舌を使って水を掬い上げ、器用に口へと運んでいく姿は目新しかった。その様子を眺めていると、銀狼が目を瞬かせ、顔を上げて苦笑する。
「あまり見られると恥ずかしくなる。なるべく気にしないでくれ」
「す、すいません」
謝ってコップの水を口にし、それから、ちらちらとベッドに目を向ける。もし、王女が目を覚まして、アレスと一緒に水を飲んでいるところを見られたら、どうなるだろうかと気が気でなくなったのだ。なるべく音を立てないように水を飲む。
「子供達とは仲良くやっているようだな」
「はい。友達もできましたし、仲直りできてよかったです」
心の底からそう言い、笑みをこぼす。
「やっぱり、みんなと踊りができるって楽しいですね」
「そうか。それは良かった。貴族の娘というのは平民に近付きたくないものだと思っていたが、いらぬ心配だったようだな」
その言葉で、ふと、舞姫学校に通う貴族の娘達を思い出した。誰も平民に近付こうとする者はいなかった。それどころか平民や下民を同じ人間と思っていたかどうかも怪しい。
「確かに貴族令嬢は平民に近付こうとはしませんね。でも、カトレアさんは違うじゃないですか。子供達と平等に接しています」
「……カトレアは差別を嫌うからな。物心ついた頃には貴族とか平民という階級制度にも反対だったようだ。ユイナもカトレアと同じなのか? 俺には少し違うように見えるのだが……」
「私はもともと貴族ではありませんでしたから……」
五歳の頃まで森の奥で両親と三人だけで人知れず暮らしていた。でも、どこかの国の舞姫を追いかけて来た兵士に両親を殺され、森から逃げているところを奴隷商人に捕まった。そこでシェスと出会った。初めてできた親友だった。お姉さんのように慕う彼女と自由を求めて一緒に逃げた。でも、シェスは奴隷商人に殺され、ガモルド男爵に拾われたユイナだけが命拾いをした。自分だけが生き残っている。それを思い出すと、胸が苦しくなり、胸元のペンダントを握り締めてしまう。
「訳アリというわけか……」気まずげな声がした。
「ええ、まぁ……」うつむいたまま答える。
「悪い、思い出したくない事を聞いてしまったようだな」
「いえ、そんな事は……」
ユイナは首を振った。
次の言葉を見つけられずに互いが沈黙を守り、ランプの灯が二人の間で弱々しく揺れている。ぼんやりとした薄明かりの空間で、ユイナと銀狼は机を挟んで向き合い、しかし決して視線を合わせる事もなく、空になった自分の器の底を見詰めていた。耳を澄ませば船に当たる波音や、ベッドで眠るメリル王女の寝息が聞こえてくる。あまりにものんびりとした時間だった。アレスの周りにはいつも誰かいるので、二人きりになる時間は滅多にない。それが、メリル王女も寝ていて、実質的には二人きりの状態になっている。
ユイナは気付かれないように銀狼をちらちらと見て、何度目かで思い切って話しかけようとした。ところが、出鼻をくじくように王女が寝言を言い、寝がえりをうった。毛布が乱れて王女の素足が丸見えになる。
銀狼は床から腰を上げると、ベッドまで歩いていき、乱れた毛布を爪先で直し、王女の足を隠してあげる。ユイナはそれを見詰めることしかできなかった。ただ王女に向けられるやさしさを見詰めるだけで、胸が苦しく惨めになる。メリル王女はアレスの許嫁だ。その事実は変えられない。
アレスの傍にいることがユイナの望みだった。だから、乗船許可をしてくれた時は望みが叶ってうれしかった。だけど今は、物足りなさにも似た不安を感じる。水を飲んでも消えない別の渇き。
これが恋の病……勝ち目のない恋の……。
見ないように隠していた現実を掘り起こされ、外にさらされた気分だった。このまま二人がいる部屋にいたら、現実と自分の気持ちの狭間に押し潰されてしまいそうだ。
「わたし、戻ります」
掘り起こされた気持ちを早く隠したくてコップをお盆に置き、机の上を片付けようとしていると、アレスが「それは置いといてくれ。明日片付けるから」と言った。ユイナは彼の言葉に従い、早く部屋を離れたくて早足でドアの外に出た。見送りに来てくれた銀狼に、おやすみの挨拶をしてドアを閉める。
閉めたドアに手を添え、しばらく立ち尽くした。それを振り切るようにして通路を戻っていく。静かな夜にひびく波音と足音を耳にして歩き、通路を曲がったところで立ち止まった。
「このままじゃダメだ……」弱気にも似た声がもれる。
アレスへの気持ちを隠したいと思う自分と、見つけてほしいと思う自分がいて、相いれない想いが、打ち寄せる波のようにせめぎ合っていた。
横を見ると、黒い水平線を見渡せる丸窓があり、それに近付いて窓ガラスに額をくっつけ、ため息をつく。夜風で冷えたガラスにほんのりと曇りができて、すぐに乾いて消えていく。
黒い水平線にぼんやりと紅い点が浮かんでいた。夜空に揺れる星の明かりではなく、どちらかというとそれは夜でも煌々とするオルモーラの街景色に似ている。
「街の明かり?」
呟いて、不審に思った。アレスの話では大洋の真ん中を航行中だと聞いている。それは街の明かりが見えるほどの距離ではないはずだ。もしかして計算が狂い、どこかの大陸に近付いているのではないだろうか。
そう思った瞬間、来た道を引き返していた。小走りで部屋の前に戻り、ドアをノックせずに開け、銀狼に今見た光景をそのまま説明する。
「明かりが見える? どの方角だ。それが見えるところまで案内してくれ。待て、そこの望遠鏡を持ってきてくれ」
「は、はい」
言われるまま海図の上に置いてあった望遠鏡を手にした。
銀狼の行動は早い。ユイナはそれに遅れないように再び通路を小走りし、紅い点の見える窓へと案内する。
銀狼は窓に近付くと黒曜石の瞳で紅い点を凝視し、それから振り返る。
「悪いが、望遠鏡で見てくれないか」
ユイナは、たたまれた望遠鏡を伸ばして紅い光点を探してみる。船の揺れでなかなか目標を見つけられずにいたが、悪戦苦闘して水平線に浮かぶ明かりをレンズにとらえた。
水平線に小指の爪ほどのシルエットが見える。それは街の灯りではなかった。夜空に大量の煙を上げている。
「船が燃えてます……っ」
レンズにとらえた帆船が、もくもくと煙をあげて燃えていて、それが紅い点に見えていたのだ。
「周囲に他の船は見えないか?」
望遠鏡を横にずらしてくまなく探していると、確かにもう一隻の帆船が見えた。こちらは夜の色に溶け込むように船体も帆も黒く塗られ、燃えてはいない。
「どうだ。あったか?」
「はいっ、ありました」
「船の形はどうだ。二つとも同じか?」
「いいえ、全然違います。色も、片方はまっ黒です」
「おそらく海賊だな」
その言葉に鳥肌が立つ。
「だが、遠い……転進して間に合うか?」
振り返ると、銀狼は踵を返して操舵室の方角へ進み始めるところだった。人間にはない力強い四本足で通路をすいすい進む。
「ま、待ってください」
ふさふさのしっぽを追いかけると、銀狼が振り返らずに言う。
「ユイナは、子供達を起こさないようにしてカトレアを甲板に呼んできてくれ。俺は他の要人を集める」
要人といえば、銀狼の妹であるカトレア、武術に秀でたザイ、強大な魔術師でもあるメリル王女、それに、船乗りを束ねるシュガースという男がいる。
「ザイさんならもう甲板にいます」
「そうか、ありがとう」
銀狼は肩越しに礼を言い、他の要人を呼びに暗い通路を抜けていく。ユイナもカトレアを呼ぶために通路の反対側へと足を向けて歩いているうちに、一つの疑念が浮かんできた。
「『転進して間に合うか?』と言っていたけど、どういう意味? ……まさか、助けに行くの? もしそんな事をして海賊に見つかったら……」
思案し、身の毛がよだった。