闇夜の賊と月夜の踊り子1
深夜になってもなかなか眠れず、何をするでもなく階段を上がって船の甲板に出ると、穏やかな夜の潮風が流れていた。深夜だというのに甲板が妙に薄明るいと思ったら、上空には満点の星が輝いている。その輝きの一つ一つが、大海原の細波と甲板にたたずむユイナを照らしている。
甲板を見回してみるが、他に人影はないようだ。ただ、白帆を広げる中央マストの見張り台にはテンマがいて、いつものように見張りをしている。見張り台に座って腕組みをしている姿からすると、今は狐の顔で人間のように二足歩行する半獣になっているようだ。
彼はメリル王女の魔法によって呼び出された魔獣らしいが、人間と同じ知能を持ち、いつも見張り役を引き受けている。いつ眠っているのだろうかと気になってしまう。
視線を甲板に戻し、細波による小さな揺れを足に感じながら、先のとがった船首へと足を進める。
今、この船がどこに向かっているのか。それはユイナには分からない。おそらく、舵を操る船乗りにも分からないだろう。本来ならこの船はウィンスターの港に向かうはずだった。ところが、その出航直前に陸地からシルバートの魔術師団に追い立てられ、海からはウィンスターの軍艦に襲撃され、攻撃の網目を掻い潜るように這這の体で逃げるしかなかった。今は寄港できる国も見いだせないまま、シルバートとウィンスターの両国から離れるように西へとひた走っている。
(乗船を許可してくれたアレスは、私のことをどう思っているのだろうか)
それを思うと胸が高鳴るようで、気が重くもなる。
「「はぁ~」」
ため息に別のため息が重なってユイナは飛び上がった。横を振り向くと、こざっぱりとした髪の青年がマストに同化するかのように背中を預けて座っていた。その髪は夜目にも青い。
「ざ、ザイさん?」
呼ばれた青年はこちらを振り向き、「ユイナか」と言う。何か心ここにあらずといった感じでぼんやりとしている。鼻をすする様子から察すると、風邪をこじらせたのかもしれない。
「中で休んでいたほうがいいですよ。なんでこんな所にいるんですか?」
「ん? ああ、俺も見張りをしておこうと思ってな」
「テンマさんが見張っているのに?」
素朴な質問に、ザイは苦笑いをしたようだ。
「この辺りは見張りも二人に増やした方がいいと思ってな」
「二人で見張りって、危ない生き物とか棲んでいるんですか?」
ユイナはふと不安になって船首から黒い海原を見下ろし、八本足の怪物が海中から現れて船に絡みついたらどうしようかと身震いしてしまった。舞姫学校で教わった神話には、大きな船をも海底に引きずり込む怪物も登場するのだ。もし、そんな怪物が現れてこの広い海に落とされでもしたら、どうしたらいいのだろうか。ユイナは泳いだ事がなかった。そもそも、真っ暗な海中で生きていける生物がいること自体、信じられないし、不気味でもある。だがザイは、声に出して苦笑した。
「そうか、ユイナは貴族のお嬢様らしいというか、あまり海のことを知らないんだな」
「な、何を知らないって言うんですか」
「俺が心配しているのは怪物とかじゃない。同じ人間だ」
「人間?」
そう、とザイは立ち上がって船首の手すりに肘を乗せ、前方の黒い海原を見渡す。
「ウィンスターとシルバートの海峡から群島を抜けてロートニアへと向かうこの海域は、海賊が出没することで有名なんだ。今はどうか知らないが、俺が小さい頃は大小数百の海賊がひしめき合って貿易船や客船を襲っていた。中には軍艦を沈めてしまうほどの海賊まで現れて、貿易を頼りにしている一国の経済を傾かせたほどだ」
「海の盗賊、みたいなものですか」
「みたいも何も大正解だ。奴らは金品や酒、それに女といった自分の欲望を満たしてくれるものを奪っていく。そのためには人殺しだってする」
ザイの言葉が事実なのだろうと思うと、背筋が寒くなり、嫌悪感を覚えた。
「男というのは……」
震える唇を意識しないようにして強がる。
「男というのは、どこに居ても同じような人がいるんですね」
人身売買で金儲けをする奴隷商人や、権力や腕力でユイナをねじ伏せようとしてきたカーマルの事を思い出してしまう。今でも、彼らの記憶が生々しく残っており、見たこともない怪物より、現実的で怖かった。そんな人種がこの海をうろついていると思うと、確かに不安だ。
「そうかもな……」とザイがつぶやいた。ユイナは振り向く。
「この海域を避ける道はなかったんですか? 遠回りでもいいから安全な道を選んだほうがいいと思います」
「安全な航路か……。ま、確かに北のシーリング海域を抜ける方法もあるとは聞いたが、そっちは極寒らしくてな。流氷にぶつかったら船底に穴が開く可能性もあるらしい」
「りゅうひょう? ですか」
「きっとこっちの方が何十倍も安全なんだろうな。たとえ海賊に襲われたとしても、こっちにはシルバートの双璧と呼ばれたアレスがいる」
「そうですね」
“アレス”の名には説得力があった。銀狼のアレス……彼は百雷のラインハルトと二人でシルバートを魔術国家として世界に知らしめた稀代の魔術師であり、崩壊へと転がり始めた世界を救うために天女に選ばれた救世主でもある。その人に誘われてこの船にいるのかと思うと、胸の奥をくすぐられるような妙な気分になった。
「ペントは寝たのか?」
ナイフ使いの少年が傍にいない事に今更ながら気付いたのか、ザイが聞いてきた。
「寝ました」同室のベッドでぐっすり眠っている。
「ユイナは寝ないのか」
「なんだか眠れないんです」
いろんな事があり過ぎて……、と心の中で付け加える。
本当にいろんな事があった。始まりはあの夜だ。謂れもない理由で山中のお仕置き小屋に閉じ込められ、小屋に送り込まれた刺客から逃れたと思ったら、今度は茂みから飛び出してきた巨大な銀狼に左腕を噛まれた。それが銀狼に変身したアレスで、彼との最初の出会いでもあった。そして追われていたアレスを匿ったことが原因で反逆者の烙印を押され、逃げることになった。それからはめまぐるしい状況の変化で、一つ一つ思い返すだけでも大変だけど、今ではアレスやその仲間とともに船に乗り、行く当てもなく航行している。
ふと、左腕へと視線を向けると、銀狼に噛まれた傷はだいぶ癒えている。星空の下では、目を凝らさないと見えないほどだ。
「アレスはまだ話し合いを続けているんですか?」
気になって聞いてみた。
「どうだろうな。もう終わってるんじゃないか? 俺は話し合いに参加してないからなんとも言えないが」
「そうですか……」
「気になるなら行ってみたらいいじゃないか」
「え? いえ、それは……」
アレスは夕食を終えた頃からメリル王女とともに船長室で話し合いをしている。内容は分からないが、おそらく今後について、だと思う。向かう先について、資金について、その他いろいろ。出航する時は有事ということもあってウィンスターの通貨ギロと、いくつかの宝石しか用意できなかったので、船にいる船乗りや子供達の人数を考えると、どこまで食料を調達できるかもあやしい。その話し合いに水をさしたくはない。ただ、どんな話をしているのか、まったく気にならないわけではなかった。自分にも関係する事なのだから。
「なぁユイナ」
「は、はい?」
「眠れないなら少しだけ、話を聞いてくれないか」
「え? はい」
別に改まらなくても話は聞くのに、と内心思いながら返事する。
「アレスは凄いやつだ」
ザイはマストに背中を預けて星空を見上げ、誰に話しかけるでもなしに、強いて言うなら星に語りかけるようにしゃべり始めた。
「あいつが幼い頃からどんな業績を残してきたかを知れば知るほど、あいつが同じ人間なのかと俺は疑いたくなる」
苦笑しながらいう声は、本当にそう思っているようだった。
「百年に一度の逸材ってやつだろう。俺はそう言ってからかった事があるが、あいつはラインハルトの名を筆頭にして百年に一度と呼ばれる各国の魔術師の名を列挙していきやがった。そして最後に『これだけいても俺を百年に一度と言えるのか?』と言いやがる。まったく冗談の通じない奴だよ。きっと分かっていて言ったんだろうが……。ま、同じ時代に各国で稀代の魔術師が現れるというのもおかしな世の中だ。天女の言う、魔術の支配力が強くなって世界が崩壊へと転がり始めているというのも、あながち嘘ではないのかもな。悪い、話が逸れた。
とにかく、アレスはすごいやつだ。最年少で魔術師団長になり、初めての戦場ではラインハルトと二人で敵陣深くまで潜り込み、敵の司令官を捕えて戦火が広がる前にあっさりと戦争を終結させた。戦友の羨望と嫉妬を背に感じつつ、戦場の先端に立って戦いながらそいつらを守り、それでもあいつは失敗らしい失敗をしてこなかったんだ。だから一人で何でもこなせると思っている。今でもそうだろう。
ところが、天女の啓示を受けた時からあいつの人生は変わった。両親を失い、国家反逆者にされ、戦友のラインハルトにまで命を狙われている。おそらく、俺達では計り知れないほどのショックを受けているはずだ。普通の人間なら立ち止まってしゃがみ込むところだろうが、あいつは止まらなかった。それどころか天女の使命に邁進している。そんな全力疾走する姿勢が、俺には危うく見えて仕方がない。
自慢じゃないが、俺は何度も失敗して転んできた。だからどう転べばいいかよく知っているつもりだ。だが、アレスはどうだ? あいつは転んだ事がない。転び方を知らないやつが限界を超える力で走っているんだ。もし何かにつまずいてあいつが転ぶような事があったら、どうなるか分かったもんじゃない」
「あ、アレスはそんなに柔じゃありません」
「俺もそう思ってた。だが、ラインハルトに裏切られた時の辛そうな顔を見てしまったらな……あいつも人の子なんだと思ってしまったんだ。人ってのはな、悩みや心配事を多く抱え込んでいると、ちょっと足を引っかけられただけで転んでしまうもんだ。あいつはいろんな事を抱え込んでしまっている。天女に与えられた使命のことも、両親を救えなかったことも、それに……」
そう言ったザイがこちらを一瞥する。
「まさか、私を巻き込んでしまった事も、ですか?」
息を呑むようにして聞いた。
ザイは小さく、だが、確かにうなずく。
「わ、私は、アレスの悩みになるつもりなんてありません」
言いきると、ザイはにやりと笑う。
「本当にそう思うのなら、あいつの目を覚ましてやってくれ。引っぱたいてもいい。罵詈雑言を浴びせてもいい。とにかく、あいつの目を覚まさせて肩の荷を下ろさせてやってくれ」
「ど、どうしてそんな事を私に言うんですか?」
「俺が言っても響かないんだ。茶化すのが得意だからな。冗談に聞こえてしまう。そんな俺よりもユイナの方が言葉に重みがある。アレスにとって現役の重荷だからな」
「勝手に重荷と決めつけないでください。それに現役ってなんですか。荷物に現役も退役もありません」
強く言い返すと、クククとザイが笑う。
「やっぱりお前達はからかいがいがあっていいな。反応がおもしろい」
「お、おもしろいって何ですかっ。そういう意地の悪い事を言うから嫌われるんですよ」
「俺を心配してくれるなんて優しいことで。それより、アレスのことは全部ユイナに任せたぞ」
「えぇ!? どうしてそうなるんですか」
「ん? 嫌なのか? ユイナが嫌なら他の人に頼むしかないな」
立ち上がってどこかへ行こうとするザイに焦った。アレスのことは他人に取られたくない。
「べ、別に嫌とは言っていません。アレスの役にたてるなら、私としてもうれしいですし……」
「へぇ、うれしい? あいつの役に立てることが?」
ニヤニヤして振り返るザイを見て、彼に乗せられたと思った。しかし、アレスの役に立ちたいと思っているのは紛れのない本心だ。
「いけませんか?」挑むように聞くと、
「そんなに睨むなよ。こう見えて、俺は期待しているんだぜ。ユイナならアレスの目を覚まさせることができるんじゃないか、と、そんな気がするんだ」
「その根拠はなんですか」
「根拠がないから“気がする”と言っている」
「…………」
身も蓋もないことを言われては返す言葉をなくしてしまう。
「ま、楽しみにしてるからな」
ザイは背伸びをし、首をゴキゴキと鳴らし、「長話をしていると喉も渇くな」と独り言をもらした。ユイナは柳眉をひそめる。何故そんな事を言い出すのかよく理解できなかった。
「なぁ、ユイナ。王女様とアレスに飲み水を持って行く気はないか?」
「わ、私が? そんな、話し合いに水をさすようなことはできませんよ」
「話し合いといっても、俺達が抱えている問題は仲間うちで話し合ったところで答えの出るような問題じゃない。どうせ、結論も出ないまま長引いてるさ」
それは、そうなのかもしれない、と思う。
「俺は見張りがあるから行ってくれよ」
「え、でも……」
「ついでだから、どこの港に寄るつもりなのかも聞いてきてくれ」
そう言ってザイは夜の見張りを続ける。ユイナは、しょうがないというため息をつき、「分かりました」と返事をした。