死者の門 (短編19)
キッチンから女の口ずさむ歌が聞こえる。
二つのグラスにワインを注ぐと、男はその両方に隠し持っていた毒を落としこんだ。
――死んでもいっしょだからな。
恋人が手料理を食卓に並べ始める姿を、男はいとおしそうに目で追っていた。
恋人が男の向かいに座ってグラスを手に取った。それから乾杯と口に出し、グラスを男の前にかかげる。
――乾杯、二人の未来に。
男は心の中でつぶやいてから、女のグラスに自分のグラスを当てた。
二つのグラスがカチリと鳴る。
二人はほほ笑み合ってワインを口に運んだ。
「ウッ!」
手から離れたグラスが床に落ち、女が胸をかきむしりながらイスからくずれ落ちていく。
男はそれをじっと見ていた。
毒入りのワインが、女を徐々に死の淵へと追いやっていく。
少しずつ、少しずつ……。
女の体が動かなくなった。
男はネクタイをはずすと、その片方を女の右手首に結んだ。もう一方を自分の左手首にも結ぶ。
――これで二人は離れなることはない。永遠にいっしょだ。
男はグラスのワインを一気に飲み干した。とたんに胸が焼けるような苦しさにおそわれた。
玄関でチャイムが鳴っている。
男はチャイムの音を聞きながら息絶えた。
真っ暗な場所。
男は一人で歩いていた。ゆっくりだが、足どりはしっかりとしている。
――あんなにしっかり結んでおいたのに。
ここに来る間に離ればなれになってしまった恋人のことを思った。
この漆黒では、恋人を探すことはかなわない。見えないものに誘われるように、男は闇の中をひたすら歩き続けた。
やがて、わずかだが風を感じた。
水の匂いもする。
それからも闇の中を歩き続けた。
やがて遠くの闇にかすかな明かりが見えた。
男は明かりに向かって歩いた。
進むにつれ、明かりが強くなってゆく。
なおも歩き進んだ。
水の匂いがさらに強くなる。
ぼんやりとした薄明かりの中、男は自分と同じ死者たちが歩いているのを見た。
その死者らとともに歩く。すると、はるか前方に大きな門があらわれた。
門に近づくにつれ死者の数は増えてゆき、しかもみなが門に向かって歩いている。
すでに集まっていた死者たちは、先頭が見えないほどの長い列を作っていた。そのだれもがうつむき無言であった。
ばらばらに集まってくる死者たちは、ごくあたりまえのように列の最後尾に並んでゆく。
だが男は、死者の列には加わらなかった。
その前にやることがある。
はぐれた恋人を探し出さねばならない。
男は門に向かって速足で歩いた。
列に並んだ一人ひとりの顔を確認しながら歩く。しかし、列のどこにも恋人の姿はなかった。
いつかしら。
男は門のすぐ近くまで来ていた。
「こら! そこの男、ちゃんと列に並ばんか」
背後でどなり声がした。
振り向くと、太い金棒を手にした鬼がいた。ただ背丈は男とさほど変わらない。
「キサマ、順番を守らないと痛い目にあわすぞ」
鬼が金棒を振り上げる。
「そうではないんです。心中した恋人を探していたものですから」
男はあわてて弁解をした。
「心中だと?」
「はい、いっしょに毒を飲んで……。死ぬとき、二人はネクタイで手首を結び合っていました。それがどうしたことか、ここに来るさなか、離ればなれになったようでして」
「その者はたしかに死んだのか?」
「はい、まちがいありません。わたしの目の前で息絶えましたので」
「では、オマエより少し前に死んだのだな。なら、ここへは先に来ているはずだ」
「すでに行ってしまったのでしょうか?」
男は門の先をかいま見た。
「おそらくそうであろう。だが、疑わしいところがある。その者のことを特別に調べてやるから、ワシについてくるがいい」
鬼は男を連れ、門の手前にある建物に向かった。
建物はなにやら事務所のようで、鬼たちが忙しそうに立ちまわっている。
「死者の門を通り抜ける者は、必ずや死んでなければならん。それがまれに、まちがってやってくる者がいてな。いわばここは、その審査をしているところなのだ」
「では、まちがって来た者は?」
「むろん、ただちに生ける者の世に追い返す」
鬼は説明を終えると、部屋の隅にある大きな水がめの前に立った。
「これに入った水は生ける者の世を映し出す。もしその者が生きておるなら、かならずや水面に映る。その者のことを考えながらのぞくがいい。ただし、見えるのは一度きりだからな」
鬼に言われるがまま、男は水がめの中をのぞきこんでみた。
水の表面が鏡のように張っている。
さっそく恋人のことを思った。
水の表面がゆらゆらとゆらぎ始める。
なおも恋人のことを思い続けていると、人らしき影が水面に映し出された。
ゆれがしだいにおさまってゆく。それにつれ、その姿がはっきり恋人だとわかった。
恋人はベッドに寝かされていた。
その顔には酸素吸入マスクがあてがわれ、腕には点滴の管がつながっていた。
そばには恋人の姉がいる。
この姉のことは、ときおり家に遊びに来ていたので男もよく知っていた。
「どうだ、見えたか?」
背後から鬼の声がする。
「はい。病院のベッドで寝ています」
「そうか、見えたのか。ではその者は、ここには来ておらんぞ」
「生き返ったということでしょうか?」
「そういうことだろう。まあ、それも調べればわかるがな」
鬼は男を残し、台帳の並んだ棚の前に行った。それから一番はしの新しい台帳を手に取り、なにやらパラパラとめくり始めた。
男は水がめの中をのぞきこんで、ふたたび恋人のことを思った。しかし、先ほどのように水面がゆらぐことはなかった。
「一度きりだと言っただろう」
いつのまにか鬼が背後に立っていた。
「やはり、彼女は生き返っていましたか?」
「ああ。ひとたびは台帳に名前が載ったのだが、それがなぜか消されておった」
鬼は首をかしげてから話を続けた。
「理由はわからんが、その者は一度はこちらに来ておる。ところが息を吹き返し、どうも追い返されたようだな」
「お願いです。すぐにでも、彼女をここに呼んでもらえませんか」
「ここには厳格な掟がある。生ける者をここに呼ぶなどもってのほかだ。そんな勝手はできん」
「なら、せめてもう一度、彼女に会わせてくれませんか。でないと、死んでも死にきれません」
「それほどまでに、その者に未練があるのか?」
「心中までしたんです」
「では一度だけ会わせてやろう。だがそれは、その者をここに呼ぶのではなく、オマエがその者に会いに行くことになる」
鬼はついてくるがいいと言って、男を伴いとなりの部屋に移動した。
そこにはいくつもの桶が並んでおり、そのうちのひとつに男は連れていかれた。
「この桶は、生ける者の世界につながる入り口だ」
鬼が桶のふたを持ち上げる。
男は中をのぞいてみた。
桶の底は真っ暗で、どこまでも深い井戸の底をのぞき見るようだった。
「一時間だけ、生ける者の世へ行かせてやろう。ただし時間がきたら、なにがあってもここへ呼びもどすからな。さあ、飛びこむんだ」
「ありがとうございます」
男は桶のふちに足をかけ、すぐさま真っ暗な中に飛びこんだのだった。
そこは夜の病室だった。
ほの暗い中、恋人は白いベッドにいた。口に当てがわれた酸素吸入マスクの内から寝息が聞こえる。
恋人の顔をのぞき見た男は、一週間前のことを思い出した。体調の異変に気づき、病院で精密検査を受けたときのことだ。
「激症型進行性のガンです」
医者に告知され、ハンマーで後頭部をなぐられたような強い衝撃を受けた。
「手術すれば治りますよね」
「ガンはすでに末期の状態で、手術は体を傷つけるだけのことになります」
医者の言葉に、かすかな希望を打ちくだかれた。
「では、あとどれほどの命なんですか?」
「長くても三カ月です。残された時間を有意義に使われてください」
「あと、たったの三カ月……」
あまりのショックに言葉が続かなかった。
自分が死の淵にいることを、男はどうしても恋人に言い出せなかった。話せば死に到るまでの間、もっとつらい時間を過ごすことになる。
男はそう思ったのだ。
鬼と約束した刻限が迫ってきた。
――待ってるからな。
恋人に一言ささやいてから、男は酸素吸入装置のスイッチを切った。
「出るんだ」
鬼の声で、男は桶の中にもどったことを知った。
「これで心残りもなかろう。さあ、オマエも死者の列に並ぶんだ」
鬼が背を押して、男を建物の外に連れ出した。
「お手数をおかけしました」
男は礼を述べ、死者の列の後方に向かった。
列の最後尾まで行く。しかし、今度も死者の列には加わらなかった。遠く闇から集まってくる死者たちをじっと見つめていた。
長い時間が過ぎた。
――かならず来るはずだ。
男は恋人を待ち続けていた。……が、いくら待てども恋人があらわれることはなかった。
――また助けられたんだろうか?
男は不安になった。
そこで恋人のことを、もう一度あの鬼に調べてもらうことにした。死者の列に加わり、ふたたび門に向かって歩き始めた。
門に着くと、
「先ほどはたいそうお世話になりました」
男はあの親切な鬼に声をかけた。
「おお、オマエか。遅かったじゃないか。あれからなにをしておったんだ?」
鬼が男のもとにやってくる。
「彼女を待っていたんです」
「その者は、ここには来ないと言っただろ。まだ死んでおらんのだからな」
「じつはそのことですが、彼女に会いに行ったとき生命維持装置のスイッチを切ったんです。ですから、かならずここに来ると思いまして」
「なんだと? オマエってヤツは、とんでもないことをするヤツだな。だがそういうことであれば、もう着いてもよさそうなもんだが……」
「そうでしょ。ですので、どういうことなのか調べていただきたいんです」
「しょうのないヤツだ。すぐに調べてやるから、オマエはこのまま列に残っておれ」
鬼は文句を言いながらも、死者の台帳のある建物へと向かった。
男はほかの死者とともに前へと進んだ。
死者の門が目前に迫る。
門の前では、鬼たちが死者の一人ひとりを審査している。
自分の順番もそろそろとなり、気があせる男をよそに、鬼はなかなかもどってこなかった。このままでは恋人と離ればなれのまま、一人で門の向こうに行くことになってしまう。
――早く、いそいで……。
男が何度も振り返っているところへ、台帳を手にした鬼が速足でもどってきた。
「意外と調査に手間どってな」
「で、彼女は?」
「その者は、今度こそたしかに死んでおった。ところがな、この台帳からは消えたままだ。それで時間がかかってしまったんだがな」
「どういうことなんです?」
「教えてやるがその前に、こちらとしても聞かねばならぬことがある。ワシの調べた者が、その者と別人だとまずいからな」
「ええ、なんなりと聞いてください」
「その者が海でおぼれていた者を助けた、そんな話を聞いたことはないか?」
「ありますとも。そのとき助けられたのが、なにをいうこのわたしですから。それが縁で、二人は知り合ったんです」
「それを聞いて安心したぞ。ワシの調べた者は、やはりお前の恋人であった」
「ならどうして、どうしてここに来ないんですか?」
「天国の方に行ったからだ」
「天国に?」
「もしやと思ってな。あっちの台帳を調べてもらったら、ついさっきその者が天国に行ったそうだ。残念だろうが、もうここには来ないぞ」
「でも一度は、ここに来たじゃありませんか。ここの台帳にだって、たしかに載ったじゃないですか」
男は鬼にくってかかった。
「ワシも、それにだまされたんだ。その者が、ここに来るべき者だと思いこんでいたからな。だが考えてみれば、それはオマエのせいだったんだ」
「わたしのせい? わたしが、いったいなにをしたというんです」
「心中をしたとき、ネクタイで二人の手と手を結んだであろう。それでその者は、無理やりここに連れてこられ、台帳に載ってしまったわけだ。だが運よく、姉に助けられて生ける者の世にもどった。そこをオマエに生命維持装置を切られたんだが、今度こそ行くべき天国に行ったんだ」
「ですが、なぜわたしがここで、彼女は天国なんですか? どうして離ればなれに……」
「その者は人命救助という善行をした。だから天国に迎えられたんだ。かたやオマエは、殺人という悪行をしただろ。それでだ」
「そんなあ!」
「そら、オマエの番だぞ。あきらめて、さっさと行くんだ」
鬼が男の背中を押した。
男は背伸びをして門の向こうをかいま見た。
そこは深い闇につつまれていた。
川の水の匂いがした。