エピローグ
◆◇◆ エピローグ
「――ん、――ちゃん」
遠くから声がする。
それはよく知ってる声なはずなのに、ずいぶんと久しぶりに聞く気もする。
それは……妹の、燐の声。
「――ちゃんっ。――お兄ちゃん!」
ハッと、目を覚ます。
「燐……?」
目を開ければそこには燐がいて、心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「おにい……ちゃんっ。お兄ちゃん、大丈夫っ!?」
「……燐」
ぽつりと、俺の頬に涙が落ちる。
俺のではなく、燐の涙が、俺の頬に落ちる。
「おにいちゃん……よかった、無事でっ」
「燐……ここは? つうっ!?」
身体を起き上げようとしてしかし、とんでもない痛みが全身にほとばしる。まるで身体全体の痛覚をむき出しにして刺激を与えられてるかのような、とてつもない痛みだ。……幸いにして言語能力は戻ったみたいだが、体の方はすぐには動けそうになかった。
「だ、大丈夫、お兄ちゃんっ!?」
「大丈夫……」
「ゆっくりしてて、お兄ちゃん。今はまだ」
「ああ……わるい」
はあ、と大きくため息をつく。
目だけであたりを見回すと、まだ俺と燐は工場の中にいるようだった。
すぐ横には泥水をゆらゆら流し続ける水路があって、もう片側はひたすら高く暗い壁がそびえたっている。ふと視線を下側に落とせば俺は地面に横になっていて、それを燐が膝枕しているのだということに気が付く。
気づいて俺が燐の顔をチラリと見やると、燐は優しく微笑んで、聞いてくる。
「どうしたの、お兄ちゃん……?」
「……いや、なんでも。ただ、なんか明るいなって、思って」
「ああ……外はもう朝になってるからね。お兄ちゃん、一晩中目を覚まさなかったんだよ。気づいてた?」
気づいて……たさ。
見れば所々開いた壁の穴からは真っ白な日光が差していて、そんなのは最初に目を開けた時から気づいてた。自分の身体の中に残ってる感覚からしても、今が一夜明けた翌日の朝だと言われても、なんら違和感はない。
でもそうじゃなくて、俺が言いたかったのは、燐が、燐の姿が……
「まだ寝てないとダメだよ。……ね?」
……まあいい。
それは燐に言っても意味のないことだし、口に出さなければそれを俺が独り占めできる気がして、俺はそっと目を閉じる。
長い一日を……過ごしていた気がする。
まるで十五年分のすべてを一日に凝縮したかのような、そんな一日。
本当に長い……一日だった。
朝に白髪の少女と邂逅し、学校では始終嫌な予感に包まれ、夕方には再度白髪の少女に遭遇することになった。そして嫌な予感は呆れるほどに的中して街中が地獄に変わり、燐を助けるために学校へ戻って、けれどまた白髪の少女に出くわし、逃げて逃げて、最後には白髪の少女と、あの恐ろしい少女と、対峙することになった。
思い出して今更ながら、よく無事に生き残れたなと思う。
いや、無事とはとても言えないか……はは。
頬を……柔らかな風がなでる。
……外は、今いったいどうなっているのだろうか。
昨日の様子から想像する限り、とても良い状況だとは思えない。
もしかしたら今日は、昨日まで以上の地獄が自分たちを待ち受けているのかもしれない。
でも今は……今はまだ、ひたろう。
この淡い安らぎの中に。
燐の膝から伝わる優しい静かな熱を、頭の後ろで黙って感じる。
ふと、無意識のうちに、俺の口が開く。
「燐……」
「……なに、お兄ちゃん?」
そっと呟いて燐がまた、俺の顔を覗き込む。
俺が言う。
「……今度、指輪を買いに行こう」
燐がにわかに驚いた表情を浮かべる。
「……なんで? お兄ちゃん」
理由なんてないさ。
ただ自然と、そうしようと思ったんだ。
だから俺はこう言う。
「わからない。けど、そういうの好きだろ、燐。……ありがとう、俺を助けてくれて」
その瞬間、ぱあっと花が咲いたように燐が微笑む。
そして懐かしい声で、俺に言う。
「うん、大好きだよ、お兄ちゃん。ありがとう」
その瞬間サーッと風が通り過ぎるように、俺は昔のことを思い出した。
「…………」
けれど俺は……また何も言わず、ただ目を閉じた。
そうすればその笑顔と胸に沸き立つ感情を、独り占めできる気がして。




