壊れるその日1-5
その後取り乱した燐からは何も聞くことができず、燐を部屋にした後俺は、自分の部屋で一人延々と考え続けた。一体どうしてばれてしまったのか……何人にばれてしまったのか……。明日からどうすればいいのか……もしかしたら、捕まえられて見世物にされる前に、このまま逃げ出してしまった方がいいんじゃないか……。
しかしそんなことできはしない。本当に俺たちがただの動物であったならそれもできただろうが、俺たちはそうではない。生きる限り社会の中で生きざるを得ないのだ。増してや、『ヘビになったのがばれた』途端に一目散に逃げ出せば自らそれが紛れもない事実ですと認めるようなもの。一切の弁解の余地が与えられない。ゆえに俺がまずすべきことは現状を正確に把握し、一番良い対策を立てること。そしてそのためには明日俺が学校に行かなければならないということ……これだけははっきりしていた。
結局その日は一睡もできずに朝を迎えた。
カーテンの隙間から差し込む朝日がこの日ほど恨めしかった日はない。
――しかし俺の無数の不安に反し、日常はあまりにいつも通りだった。
登校途中でバンと俺の背中を小突いてきた友人、下駄箱で「おはよー」と何気なく挨拶してくる同級生、教室でそれぞれがそれぞれ朝のお喋りに興じる女子連中……そのどれもがあまりにいつも通りで、逆に俺は混乱した。
(本当に燐はばれたのか……? もしかしたらばれてなどいないんじゃないか?)
(でもばれてないならなぜ、燐はあんなにも取り乱した……?)
(それともまだ学年中にはばれたことが伝わっていないだけ……? なら油断はきんも――
「よっす、はよー、灰!」
その時だった。当時俺が最も仲の良かった奴が話しかけてきたのは。
そしてそいつが、事のすべてをあっさり、しかし明快に教えてくれたのだった。
「今日燐ちゃん休みなんだって? まあ、仕方ねえよなぁ。女子どもってほんとバカなことするよなー」
「……どういうことだ?」
「あれ、知らねえの、灰? 下の学年で燐ちゃんがヘビ呼ばわりされてイジメられてんの。いやー、やだよねぇ。あんな可愛い燐ちゃんをヘビ呼ばわりなんてさ。燐ちゃんに嫉妬してイジメてる女子たちの方がよっぽどヘビだって感じだっつ――
「わりい、その話、もうちょい詳しく聞かせてくれるか?」
「ど、どうしたんだよ、灰、急に……。目、こええよ」
友人の言葉にハッとし、焦って気持ちを落ち着ける。そして改めて尋ねる。
「それで……燐がイジメられてるって、どういうことだ? ヘビ呼ばわりって一体……?」
「ああ、だからな、それは……」
友人の説明は非常に詳細でわかりやすかった。
結論から言えば、どうやら燐は、ばれていたわけではなかったらしい。
「ちょっと前から誰が言い出したか、下の学年で『土禍燐はヘビになれる』って噂が流れだしてな。最初は燐ちゃんのいない所でこっそりバカにするだけだったらしいんだけど、昨日なんか誰かが直接燐ちゃんに言っちゃったらしいんだよ、ヘビって……。それで燐ちゃんショック受けて無断で早退したんだけど、知らなかったのか? 灰」
……つまりは、燐の早とちりである。
どんな言い方をされたかまではわからないが、同級生に突然「ヘビ」と言われ動揺した。それだけであれば「ばれた」なんて普通は思わないだろうが、燐にははっきりしたトラウマがある。小学生の頃友達の前で蛇化し、俺たち家族を引越しさせるハメになったというトラウマが……。それで通常では考えらないほど錯乱し、不安が不安を呼んでいつの間にか「ばれた」と勝手に思い込んでしまった……そんな所だろう。俺は現実が予想していた最悪の状況より十倍も二十倍もマシだったことに心底安堵し、思わず友人の前ながらホッと一息ついてしまう。
「なんだよお前、燐ちゃんのこと心配じゃねえのかよ。安心した顔しやがって!」
「いや、そういうわけじゃねえよ、はは」
冗談半分真面目半分で怒ってきた友人を軽くたしなめその場をおさめる。その時にはもう軽く笑いながら友人をたしなめられるぐらいには俺は落ち着きを取り戻していた。
――しかし一方で、拭いきれない不安もあった。
「なんか噂では燐ちゃんが小さいころ、ヘビになったことがあるとか言われてるらしいんだよな~、まったく……。本当にヘビになんかなれたら天然記念物モノじゃん? そんなんだったらすぐばれて国とかなんだとかがほっとかないっつの。少し考えればわかるのに、ほんと女子どもってバカだよな~?」
「…………ああ」
そう、噂が偶然の一致にしてもできすぎているのだ。
なんで数いる動物の中でよりによってヘビなのかということに加え、『小さいころ、ヘビになった』という、俺たちにとっては背中から刺されるような具体的なエピソード……。これを単なる偶然として片づけるには話はできすぎていて、これを単なる偶然として片づけられるほど、俺たち家族は強くなかった。
……それからの行動は早かった。
俺は友人にさりげなく協力を仰いで噂の出所は誰なのか、一体何人にどれぐらいの確信度をもって広まっているのか一週間ほどかけて調査し、その結果を母親に相談した。
噂の出どころは東京の小学校で一緒だった女子で、噂を本気で信じてる生徒はほとんどいなかったが、燐の知名度のせいか噂は妹の学年のほぼ全員、上の学年も半数近くが知っていた。唯一噂の出どころである女子がどうやって俺たちのことを知ったのかだけは謎だったが、情報は決断するにはもう十分すぎるほどだった。
「母さん、転校しよう。これ以上ここに留まるのは危険だ」
「そうね……わかったわ。あとは私に任せて」
母さんはそれからすぐに次の転校先を見つけ、燐の担任に説明に行った。
「私は、娘がイジメを受けているこの状況を見過ごせません。すみませんが、転校させていただきます」
そうして俺たちは中学二年の十月、今の学校に移ってきた。
二人だけの食卓に、カチャカチャと食器の音だけが響く。
俺たちはテレビもつけず無言でひたすら食事を口に運んでいく。
二人とも視線は微妙に下にそらし、決して目を合わせることはない。
いつも通りの俺たち兄妹の食事風景……
間もなくして俺は食事を食べ終え立ち上がり、さっと自分の食器を洗って自分の部屋に戻ろうとする。部屋に戻る時妹が「あ……」と何か話したげな顔でこちらを向いたが、俺は気づかないふりをして台所を出た。……今日は疲れていた。とてもじゃないが妹と会話する気にはなれなかった。
自分の部屋に戻ると俺はすぐさま倒れこむようにしてベッドに横になった。
「ふう……」とつい安堵ともため息ともとれる一息をつく。
仰向けで寝転がっていると、天井だけが視界を支配する。
やがて木目調の天井がまるで宇宙みたいに俺を覆って、俺の思考を支配する。
中学二年の十月にこっちの学校に移ってきてからは、俺たち家族の生活は再び平穏を取り戻していた。こっちには俺たちのことをヘビだなんて言う輩もいなければ、事件のショックでふさぎこむかと思った妹も予想外に部活なんかに入り、幾分楽しそうに学校生活を過ごしているようだった。母さんも引越しで逆に職場が近くなった分いっそう仕事に打ち込めるようになったと喜んでいた。……俺たち家族の生活は、とても上手くいっていた。
けれど、なぜだろう。時々無性に空しくなるのは、時々とても悲しくなるのは、時々どうしても逃げ出したくなるのは……逃げ場所などどこにもないというのに。
たぶん俺はその答えを知っていた。だがそれを自覚するのは、もう少し先の話だった。




