プロローグ
◆◇◆ プロローグ
蛇に、生まれた。
生まれた時の記憶はない。けれど物心ついた時には自分が蛇になれることを知っていたし、その事を別に不思議には思わなかった。ただ事実として、自分は蛇に変身することができた。人間から。
物心ついて少し経った頃、父親がいなくなった。死んだわけではない。ただ、いなくなったのだ。当時母さんはその理由を教えてくれなかった。俺も理由は知らなかった。ただ母さんは一言だけ言った。
「人前で蛇になってはいけない」
と。
小学校に上がって一年も経つと、俺はなんとなく理解し始めていた。ああ……他の人は蛇にはなれないのだ。そして蛇になれることは、普通のことではないのだ。それまで小さな価値観で小さな世界を生きていた自分には、そんな当然のことが気づけなかったのだ。だって一つ下の妹だって、同じように蛇になれるのだ。なのにどうして自分が、蛇になれてしまう自分が、普通じゃないなんて気づくことができる? いや、気付けやしない。
それ以来、蛇になれることは、自分の最奥の秘密になった。
小学五年生の夏、事件は起こった。
妹が、学校で蛇化した。
幸いなことに見ていたのは同じ小学校に通う数名の人間だけで、大人は誰も見ていなかった。
一か月後、俺たちは住み慣れた土地を離れ、東京に移った。
妹は東京に住み移ることをほんの少し嫌がった。
俺は、……よくわからない。ただ成行きのままに、俺たち家族は東京に移り住むことになった。
中学二年になって、昔の噂がどこかから漏れ出たらしい。
「○○は昔、蛇になったらしい」
一体どのようにしてそんな情報が伝わってしまったのかはわからない。しかしこれによって俺たちは再び転校することを余儀なくされた。
「娘がイジメを受けているこの状況を見過ごせない」
母は担任にそう言ったが、現実はもっと酷い。
なぜなら事の発端たるその噂が、紛れもない真実なのだから。
都内の新しい中学に転校した俺は、また平穏な生活を取り戻していた。ここでは誰も俺たちが蛇になれるなんてこと知らないし、噂にのぼりもしない。普通に学校に行って、普通にクラスメイトと喋って……俺は部活には入らなかったけど、妹は吹奏楽部に入って幾分楽しそうにもしていた。もちろんいつあの噂再び漏れ出るかわからないし、そもそも自分たちが何らかのへまをしてばれてしまうかもわからない。けれどせめて今は楽しもう、この平穏な生活を。特に母さんには、俺たちと違って蛇となんの関係もない母さんには、この当然の平穏なる生活をどうか精いっぱい満喫してほしい。俺たちのせいで父親にも逃げられ、人々からびくびく逃げなきゃいけないこんな生活にさせてしまった、母さんには。
俺はただ、母さんの平穏だけを望む。
中学三年生になった。
教師は朝礼でも授業でも、しきりに進路の話をするようになった。
「良い高校に行くためにはー……」
「将来の夢を持つことがぁ……」
「だからお前たちはー……」
けれどそんな言葉のどれも、自分の心には響かない。
別に進路に興味がないとか、教師の話がくだらないとか、そんなことを思っていたわけではない。ただこのごろ、どうにもおかしいのだ。
「よっしゃー、外でサッカーやろうぜっ」
「今度△△行こうよー、新しいバッグ欲しいんだぁ」
「××って、最近二股してんだってさ。マジ引くよねー」
「あ、――――――ってる?」
「――――――だよな」
「――――――で、――――――するよ」
「――――――――――っ」
「――――――――――」
「――――――」
誰かが言うすべての言葉が耳を滑り落ちていく。
景色が、灰色に染まっていく。
人も、教室も、空も。
自分と世界の間に、見えない壁を感じる。
まるで自分だけが隔離されてるような。
まるで自分だけが世界から爪はじきにされてるような。
まるで、ここは自分のいるべき場所ではないような。
「……壊れて、しまえばいいのに」
ふと呟かれたその言葉が自分のものだと気づいて、少し焦る。
焦ってしかし、焦らない。
理解していたのだ。
それは自分の、紛れもない本心だと。
なぜそう思ったかはわからない。
何が壊れてほしいのかもわからない。
けれど間違いなく、それは自分の心からの言葉で、想い。
そんな後ろ向きの言葉を吐いてしまったことに一抹の恥ずかしさと罪悪感を覚えるも、それらもほんの一瞬で消えてしまう。ただ残ったのは、空虚な感情と、「壊れてしまえばいいのに」という一つのフレーズ。それが胸の奥底にポツンと落ちるのを感じながら、今日も一日が終わる。
――まさかそれが、現実になってしまうとはつゆも知らずに。
五月二十二日、世界は壊れる。
音もなく唐突に、それは、人々の日常を崩し去る。
まるで草陰からそっと忍び寄る、蛇のごとくに。




