第1章 オーバー外套コートの男
「……どう? 理真ちゃん、由宇ちゃん」
私、江嶋由宇と安堂理真に、目の前の女性、能登亜麗砂は神妙な表情で尋ねてきた。彼女が欲しているのは、今、私と理真が完食したばかりのお弁当の感想だ。能登亜麗砂はお弁当屋を経営しており、新作弁当が完成するたび、こうして私と理真を自分のアパートまで呼びつけて試食させているのだ。
箸を置いた私は隣の理真を見る。先に発言を促すためだ。食べ物の感想を言わせるのであれば、私よりも断然理真のほうが相応しいし、実際いつもそうしている。その理真も箸を置き、ゆっくりと亜麗砂を見つめる。お弁当屋の喉が、ごくりと鳴る。一拍の間を置いてから、理真は、
「『玉子増し増し黄金チャーハン弁当』大変美味しゅうございました。ふわふわ玉子としっかり炒められたご飯との舌触りのコントラストが抜群。他の具材を挽肉だけに抑えたのも玉子の旨みを引き立てるのに成功しています。文句なしです」
両手を合わせて「ごちそうさま」をした。その対面では、
「うわーい! やったー!」
亜麗砂が喜びを爆発させる。勢いよく両手を突き上げてから拍手をする。両手を音が出ない程度に軽く打ち合わせているため、「ぱちぱちー」と亜麗砂自身が拍手の効果音(?)を口にしている。
「ねえ、由宇ちゃんは?」
亜麗砂は輝く表情で私にも感想を求めてきた。そんな目で見られたら滅多なことは言えないじゃないか。いや、この「玉子増し増し黄金チャーハン弁当」が抜群に美味しかったことは間違いないのだが。私も「美味しかったです」と答えると、再び亜麗砂は「うわーい!」と両手を天井に向けた。満面の笑みを顔中に広げながら。いつものことだが、彼女が私や理真よりも年上だとはどうにも思えない。この反応を見て分かるとおり、彼女の言動には端々に幼いものが目立つためだ。黙っていれば、やり手のキャリアウーマンそのものという風貌をしているというのに。名前も無駄にかっこいいし。そのギャップが妙な感じだ。
「よーし、これ、来週から〈とらとりあ〉のメニューに加えちゃうぞー」
その、見た目だけキャリアウーマンは、闘志みなぎる顔になって両拳を握りしめている。〈とらとりあ〉というのは彼女が経営するお弁当屋の名前だ。〈とらとりあ〉は新潟市中央区古町の一角に店舗を構えている小さな弁当屋だが、お昼時になると店舗のほうはアルバイトに任せて、近くにあるビジネス街のお客を当て込んで、お弁当の移動販売に出ている。最近になって、お弁当を運ぶ社用車を彼女念願のハッチバックカーに入れ替えたそうだ(中古だが)。
「ねえねえ、理真ちゃん、由宇ちゃん」と、ようやく興奮収まったらしい亜麗砂は、「このまま今夜、飲みに行かない? 丸ちゃんも誘って」
彼女が言う「丸ちゃん」とは、新潟県警捜査一課の紅一点、丸柴栞刑事のことだ。丸ちゃんこと丸柴刑事は私たち共通の友人なのだ。
お弁当屋と刑事。さらには私はアパートの管理人で理真は恋愛作家と、ばらばらな職業に就いているにも関わらず、四人全員が知り合いだというのには理由がある。その中心にいるのは安堂理真だ。まず、私が管理人をしているアパートに理真が住んでおり、丸柴刑事と理真は古くからの知り合いだ。ここまでであれば何ら変哲のないごく普通の繋がりに終わるのだが、最後に残る能登亜麗砂との関係が特殊なものとなっている。亜麗砂はかつて、ある殺人事件の容疑者になったことがあり、その事件を理真が見事解決、彼女を窮地から救ったという過去がある。
作家が殺人事件を解決とは、どういうことか? となるのも無理はない。それは理真が持つ作家とは別の、もうひとつの顔に由来している。理真が持つもうひとつの肩書き、それは素人探偵。彼女は類い希なる推理力を活かして、主に新潟県警管内で起きた数々の事件の解決に寄与しているという実績がある。そして、理真が素人探偵として活躍する際、私はいつも助手を努める。理真と私は、女性同士の探偵とワトソンのコンビという関係でもあるのだ。
「でも、丸姉は今は無理じゃない?」理真の丸柴刑事に対する呼び方からも、二人が親しい関係にあることが察せられる。「ほら、数日前に殺人事件があったでしょ。その捜査で忙しいから」
理真の言葉に亜麗砂は、ああー、と納得した声を出してから、
「そういえば、あの事件が起きた場所、うちのお店からそんなに遠くないのよ。ねえ、理真ちゃんはその事件の捜査に加わっていないの?」
「うん。刺殺で現場は血みどろのひどい状態だったそうだけど、それ以外は何もおかしなところのない事件みたいだから」
いかな素人探偵とて、発生する全ての事件に首を突っ込んでいるわけではもちろんない。理真が犯罪捜査に加わる場合、それはいわゆる「不可能犯罪」と呼ばれる、通常の警察捜査では手を焼く類いの事件であることがほとんどだ。
「そっか。名探偵の力を借りるほどの事件じゃないってことなのねー」
「そのほうがいいよ。私が暇ってことは、おかしな事件が起きていないってことだからさ」
素人探偵だけでなく、本業の作家としても暇なのは何とかしたほうがいい。
「あ、そうだ」と亜麗砂は、ぽんと両手を合わせると、「ねえねえ、理真ちゃん、それじゃあさ、ちょっと謎を解いてみない?」
「なに?」
図々しくも人様の部屋で断りもなくゴロ寝をしかけた理真だったが、亜麗砂のその言葉を聞くと上体を起こした。
「あのね、三日前……四日くらいだったかな? とにかく、何日か前に私、変な人を見かけたの」
「変な人?」
「うん。由宇ちゃんも聞いて」
言われて私も座布団の上で思わず居住まいを正した。
「私がお昼にお弁当を売っているときのことだったんだけど……」
亜麗砂は奇妙な体験談を話しだした。
数日前の昼、いつものようにビジネス街へ弁当の移動販売に出ていた亜麗砂は、奇妙な人物を目撃することになった。あらかた客足も落ち着いた十二時半頃の出来事だったという。
その日は秋も深まり、太陽が出ているとはいえ前日から格段に空気の冷え込んだ、お弁当と併売しているホット飲料がよく売れた日だった。道行くビジネスマンはほとんどが背広の上にコートを着込んでおり、彼女が目撃したその男性も例外ではなかった。ただ、ひとつその人物が他と違っていたのは。
「コートを着ているのに、さらに別のコートを腕に提げてた?」
「そうなの、それも、二着も」
亜麗砂が目撃したのは、コートを着たうえ、さらに二着ものコートを右腕に提げて歩道を闊歩する男だった。
物珍しさと、客足が引いて暇になったこともあり、仕事の手を止めてその男をじっと見ていた亜麗砂の視線に気付いたのか、そのコート男も彼女のほうに顔を向けた。が、目が合うとすぐに男は左腕に巻いていた腕時計に一度視線を落とし、そのまま足早に亜麗砂の目の前を通り過ぎていったという。
「ねえ、気にならない? どうしてコートを着てるのに、その男の人はさらに二着もコートを持ち歩いていたのかな?」
話を聞き終えた私は、あるレジェンド探偵が手掛けた事件を想起した。当然、理真も同じだったろう。その証拠に、
「さしずめ『オーバー外套コート』ってところね」
この事件にそう名前を付けた。当該事件のことを知らないのか、亜麗砂は顎に人差し指を当て、「ん?」と呟いて小首を傾げた。やはり、いちいち所作が幼い。
かつて、「ジャケット背広スーツ」と名付けられた事件があった。ある殺人事件の容疑者と目された男がいたが、彼は犯行時刻には現場から遠く離れた地下鉄駅におり、そこで二着の背広を腕に提げた若い男(自身もちゃんと背広を着ていた)と遭遇したと証言する。その若い男も彼のことを見て存在を認めていたため、その「ジャケット背広スーツ男」を捜しだして自分のアリバイを証言してほしい、と警察に懇願するという事件だ。
この謎の「ジャケット背広スーツ男」の正体について、事件のことを聞いた退職刑事(残念ながら、この偉大なるレジェンドの本名は伝わっていない)が推理をいくつか披露するのがこの事件の面白いところなのだ。
「だから、その事件に倣ってね、その男の人は、オーバーを着て、外套とコートを腕に提げていたとするの」
「なるほど、なるほどー、だから『オーバー外套コート』なのね」
理真から「ジャケット背広スーツ」事件のことを聞いて納得した声を出した亜麗砂は、
「ねえ、じゃあ、今度は理真ちゃんが『オーバー外套コート男』の正体を推理してよー。私、あれから気になって気になって、夜も七時間しか寝られないのよー」
十分だよ。というか、寝られなくてそれなら、普段は何時間寝てんだ。
「うーん」と唸った理真は、
「あれさん、その男の人について、いくつか質問させてくれる?」
「もちろん! なんでもこい!」
亜麗砂は、眉を釣り上げ胸の前で両拳を握り目を輝かせた。ちなみに理真が口にした「あれさん」というのは、私たちが呼ぶ能登亜麗砂のニックネームだ。