暖かい記憶と冷たい真実
「あら、おかえりー!楽しかった?」
帰ると、家にはもうおばさんがいた。
「ねえ、おばさん」
「なあに、改まって。あ、そうだ、今日の夕飯なにがいい?」
おばさんは台所で皿洗いをしていて、僕の方を一目見て笑った。でも、今はそんな顔が見たいんじゃない。夕飯をリクエストしたいんじゃない。もっと、もっと大事な、聞きたいことがあるんだから。僕は勇気を出すように小さく手を握りしめた。
「お母さんのこと、教えてくれない?」
言葉にした瞬間、その場の空気が固まった。
おばさんの手から洗っていた皿が水と一緒に流し台に落ち、パリンと音を立てる。目が限界まで見開かれる。
おばさんは、前にお母さんについて聞いたときよりも焦っていた。
お母さん。それは、長らく口に出すのもためらわれた僕の中の禁忌のようなもの。お母さんに関するものは何もないと言い張るおばさん。その嘘を、暴く時がきた。
なんで今かというと、今まで学校のことやらミナクのことやらで全然考えられていなかったからだ。いや、考えたくなかったのだ。でも、最近になってやっと、おばさんが今までどれだけ僕の世話をしてきて、どれだけ普通の家庭のように振舞ってくれていたかがわかった気がするのだ。なぜそんなことをしているのか。なぜ本当の母のように、僕のためにご飯を作り、「いってらっしゃい」と「おかえり」を言い、心配をしたのか。
本当のお母さんの事を知らないと、お礼もなにも言えないじゃないか。
「そう、ね。そろそろ、よね」
そろそろ……?
なにがそろそろだ。遅すぎるだろ。
「まず、ごめんなさい。今まで話していた『1ヶ月くらいで突然いなくなった』っていう話は全て嘘よ」
おばさんはエプロンを外して、僕と向かい合った位置に座ってからそう話した。
嘘だとはなんとなくわかっていたから特に驚きはしなかった。
「光希のお母さんとお父さんは、事故で死んだの」
事故…。
「神谷たえ。それが光希のお母さんの名前よ」
たえ。神谷たえ。すごい、しっくりきた。
おばさんはおもむろに手帳に挟んであった一枚の写真を取り出して、僕に見せた。
それはおばさんにそっくりな、優しい笑みを浮かべる人。
真ん中におばさん、右にその人。左にはまたそっくりな、でも違う人が立っている。おばさん以外の2人はお腹が少しだけ大きくなっていて、妊娠していることがわかる。
これが、お母さんなのか。
今まで失っていた記憶が、蘇る。
僕はまだ赤ん坊で、目の前には2つの顔。ひとりはお母さんで、ひとりは写真で左側に立っていた人。泣きじゃくる僕に微笑みかけて、なにやら話しかけている。鈴の声であやされて、僕はそのお母さんの腕の中でゆらゆら揺れていた。
「私たちは、年の近い3姉妹だった。上があかね姉さん、私が真ん中、下がたえよ。とても仲が良くて大人になってからも時々遊んで」
おばさんの目から、涙が溢れてこぼれ落ちた。それは止まらずに、テーブルの上にぼたぼたと溜まっていく。
「光希が生まれる直前、たえと私が喧嘩して、たえは出て行ってしまった。姉さんが止めるためについて行った」
おばさんの喉から絞り出した声が次々と僕の耳に吸い込まれていく。
「でも、これ以上私たちの喧嘩でみんなに迷惑をかけたくないと思ったから、電話ですごい謝った。帰ってきて、って頼んだ。姉さんも協力してくれて、やっと仲直りした。なのに、なのに…」
そこまで言って、その先が言えなくて、涙が溢れる。
「事故があったの。地震で、電車が走行中に脱線した。ニュースで、1番被害の大きかった先頭車両に乗車してた人が読み上げられていくのを泣きながら聞いていたのを今でも覚えているわ」
「__!」
「病院に運ばれたけど、2人とも間に合わなかった。その時たえが、命がけで抱きしめて、最後まで守り抜いていたのが、私の知らない間に向こうの病院で産んだ、光希よ。あなたがうちに来た時は驚いた」
とうとう僕の目にも涙が泉のように湧いてきた。泣かないと決めていたのに。どんな悲しい話を聞いても泣かないはずだったのに。やっぱり、悲しいよ。
「私が悪いの。妊娠中で大変だったたえをわかってあげられなかったのは私よ。私があんなしょうもないことで喧嘩なんかしなかったら、たえが行かなかったら、もっと早く電話して謝っていればあの子も姉さんも助かったの。全部私がいけないの。私がっ」
気づくと、僕は椅子から立ち上がっておばさんの方に駆け寄っていた。
「おばさんは、悪くない。何も」
僕は後ろからそっと、おばさんの肩に手を置いた。そのまま抱きしめた。
泣いているおばさんは暖かくて、思っていたより痩せていた。きっと、お母さんのことで自分を責め続けていたんだろう。2人がどんな喧嘩をしたかは知らないし想像もできないが、おばさんは悪くない。
「責めていいのよ。私はあなたの母親を殺したの。それなのにその代わりをやろうなんて、できるわけないのに」
「おばさんのせいじゃない。だって、おばさんはもう十分すぎるほど、僕の『お母さん』になったから」
おばさんがなにを背負っているか、僕は知らない。でも、おばさんがどれだけお母さんと同じように接してくれていたかを知っている。
「僕は何も知らない。お母さんのことも、おばさんのことも。だから、責める資格もない。ただ、いつか僕が怒った時は、受け止めてほしい」
「……あんた、成長したのね…。嬉しいわ」
「わかった。そのときは全力で私のことを怒りなさい。受け止めて、反省して、もっと頑張るから」




