満開の桜
僕は、初めて一目惚れをした。
1年前の2月1日。
世の中は節分とか、バレンタインで盛り上がっていた。
ショッピングモールが立ち並ぶ駅前の広場。春になれば花が咲いて、素晴らしいフォトスポットになるであろう桜並木を通って、本屋から帰る途中の少年。
好きな作家の本を探すために3件の本屋を巡った。
まだ中学3年で、みんなが受験に必死になって勉強している傍ら、特別推薦で国立大学の付属高校に行くことが決まっていた僕はのんびりと歩いていた。
あーあ、こんななら、中にセーター着てくればよかったな。
その日は、春一番が吹いているわけではないのに風が強く、凍えるほど寒い日。
舞ってカサカサ鳴る葉っぱ。その渦に吸い込まれるようにして、1枚の布が飛んでいったのが、僕の視界に映り込んだ。
気づいているはずなのに、誰も取りに行こうとしていない。
飛ばされる。
そう思って、僕は反射的に手を伸ばしていた。コートが脱げて寒いのも気にせずに、夢中で。
布と同じように渦に吸い込まれた僕の手は、それに触れた瞬間強く握られた。
やった!掴んだ!
よろけそうになり、なんとか立ち直る。僕の強く握った手には、ちゃんと飛ばされた布が挟まっていた。
そう思った瞬間風はもっと強くなって、周りの葉っぱをどんどん吸い上げて向こうへ進んでいった。
あと少しで遅かったら、取れていなかっただろう。
よく見ると布は、ブランケット。ベージュの布地に、薄く白い縞模様が入った大人っぽいものだった。
まだ、汚れていない、新品。
「あの、それ……」
声が聞こえた方を振り向くと、車椅子に座った同い年くらいの女子が顔を赤らめて僕を見ていた。
き……綺麗……。
腰上くらいまで、まっすぐ綺麗に伸びた黒髪を強風にたなびかせ、同じくらい黒い瞳は大きく、人懐っこそうな二重まぶた。肌は真っ白だけど、幽霊見たくはなく、なぜか暖かい雰囲気をまとわせている。誰が見ても美人だ、と思える整った顔立ちからは、冷たさが感じられない。
右手は鉛筆、左手は車椅子のタイヤに添えられていて、膝の上には、風のせいでページがだいぶ飛ばされているスケッチブックとすり減った小さい消しゴム。
それ、と指したものが今さっきとったブランケットだとわかった僕は、
「あ、ご、ごめん。君のだったんだ」
と言って返そうと差し出した。
「う、うん。ありがとう」
恥ずかしがりながら、彼女は白い歯を少しだけ見せて笑い、手を伸ばして受け取る。
か、可愛い!
日差しにも負けないほど輝く、燃えたような明るさ。
一瞬、僕の周りだけ風がやんだ気がした。静かな時間が少しだけ、流れる。
僕が何も言えずに黙っているのを不思議がって礼を言い直す彼女。
「えっと、本当にありがとう。お礼、何か__」
「なっ!」
頭を下げた彼女を、僕は遮った。綺麗な顔を、下に向けてほしくなかった。
「な……?」
いきなり叫んだ僕を変な目で見ることもない、なんとも優しいこの少女に、僕は言った。
「名前、教えてくれないかなっ……?」
端から見れば、思いっきり、ナンパみたいな感じだった。
胸から全身へ、特に耳の方がかぁーっと熱くなる。恥ずかしいな、他から見たらきっと、顔が真っ赤になってるんだ。
「私は、み、みなく。さくらば、みなく、だけど…」
相手も同じように真っ赤になりながら、下げていた顔を上げた。
ほっぺたがリンゴみたい。きっと、どんな表情も似合うんだろうな。
目があって、そのまま数秒間、静寂が走る。
「あ、えっと」
再び黙ってしまった僕を、不思議な名前に驚いている、と勘違いしたのか、彼女は持っていたスケッチブックに鉛筆を走らせて僕に見せた。
手本のような丁寧な字で、『櫻庭ミナク』と書かれていた。
「難しい方の『櫻』に、『庭』。これで『サクラバ』って読むんだ。ミナクは、そのままカタカナで…」
顔だけじゃなくて、名前も綺麗。
心臓がバクバクなっている。キュンとした。
「苗字も、名前も珍しいでしょ……?」
あまり好きではない、というような、悲しそうな表情を見せる彼女。今まで、珍しい、と言われたことが多いのだろうか。
「ミナクって、みんな苦しむ、みたいな響きだから、嫌なんだよね……」
今にも泣き出しそうな顔で、目をそらす彼女に、僕は素直な感想を述べていた。
「で、でも、すごくいい名前だと思うよ、本当に」
同じように自分の名前が好きではない僕にも、嫌う気持ちは嫌という程わかる。
「君の周りなら、誰も、苦しまないよ」
あの笑顔の側にいて、誰が苦しむというのだろう。
「あ、ありがとう。嬉しいな、褒められるのって」
驚いたように照れて笑う。可愛い笑い方をする子だ。容姿端麗、という言葉がとてもよく似合う、大人っぽい風貌なのに、笑い方は幼く、可愛い。
「あ、ご、ごめん!初対面でわかったような言い方しちゃって!あの、気にしないで」
急いで謝る僕をじっと見つめる少女。
今、何を考えているんだろう、僕のこと、変に思われただろうか。
「うふふふっ」
不思議な彼女はなぜか、口に手を当てて笑った。
笑い顔が似合う。とても似合う。
「ううん、本当に嬉しいよ。あんまりそういうこと、言われたことなかったし」
今までかけられた言葉の数々を振り返るように、一瞬目を細めた彼女。
何か声をかけなければ。このままずっと、この子と話を続けていたい。そう思ったから、なんでもいいから、とにかく話題を繋げよう、と
「そのスケッチ、何書いてたの?」
いきなり指を指して聞いた。
聞いたものの、先ほどのページよりずっと先に飛んでしまっているのに、その、と言われても困るだろう、慌てて言い直す。
「さっき、書いてたやつ。何書いてたのかなーって……だめ……?」
「こ、これ?え、えーっと」
僕の無理矢理な質問に彼女は慌てて、今さっき書いた名前を消し、スケッチブックをパラパラとめくって書き途中だった紙を探し当てると、消しカスを払って僕の方に差し出した。
そこに描いてあったのは、白黒の桜の木。大きめの紙の半分くらいを占める黒い幹は、消しゴムでぼかしたのか、本物のゴツゴツとした質感が再現されている。枝の先や、紙全体に舞う花びらは、ひとつひとつが繊細に、かつ力強かった。まるで動いているかのように。
「まだ花は咲いていないんだけど、きっと、2ヶ月後にはこんな感じになってるんだろうなーって、想像しながら描いたの。どう?」
枝だけの桜を見上げて言った。
黒鉛筆で書かれたのに、まるで色が塗ってあるかのよう。
この絵なら、何時間でも見ていられる。それに、この笑顔を思い出せる。
「あの、これ……欲しい!」
咄嗟に出た言葉。僕の本音。
「え?!」
彼女は困るより先に、驚いた。
「こんなので、いいの?」
これよりもずっといい作品があるとでも言うように聞いてくる。
「これで、じゃない。これがいいんだ」
「あ、いや、でも、もっといい絵はあるし、ちょっと失敗しちゃったし……」
たいそう困ったようにうつむく彼女は、今、失敗、と言った。どこが失敗なのだろうか。そもそも、絵に失敗などあるのだろうか。
彼女の言動を不思議に思いながらも、
「あ、ごめん、いいんだよ、困っちゃったみたいだし__」
彼女は僕の言葉を聞いていないかのように、いきなり、新しいページを半分に破って、何かを書いた。
「え?」
渡されたそれを見ると、そこには、
「私の、住まいの住所。ここに来てよ。もっといい絵がたーっくさんあるんだから!お礼に、一枚、好きなのあげるから、ダメ?」
彼女が恥ずかしさを押しとどめるように一息で言った言葉は衝撃的だった。
「家?!?!」
いやだって、女の子の家に行ったことなんてないし。僕、妹とかいないからよくわからないし……。
「あ、違う違うっ!そうじゃなくて……なんて言えばいいのかな。住んでるところだから、家じゃないの。来てもらえればわかるんだけど」
は?
ますます分からない。住んでるのに家じゃない?なぞなぞ?
考えている間に、彼女は膝にブランケットをかけ直し、帰ろうとしていた。
帰り際に、首をかしげて振り向いた彼女は、僕に聞いた。
「君の名前はなんていうの?」
忘れていた。目の前の人に夢中で自分のことを考えていなかった。
「僕は、神谷光希。光るに、希望の希で、ミツキ」
彼女は再びにっこり笑うと、人混みに紛れて帰って行ってしまった。
家へ帰ると、もう夕日が見えた。オレンジに輝く大きな光の玉は、今日出会った不思議な少女、櫻庭ミナクの笑顔と同じくらい僕の目に焼きついた。