闇に咲く花は、どこまでも美しい
真っ暗な屋上。
時間は午後6時。
ここは、僕がずっと前に、ミナクの車椅子を押してきた場所。
花壇の先、柵を乗り越える。
冷たい風が強く吹いていて、ほんのちょっとバランスを崩したらすぐ落ちてしまいそうなところ。
片手だけで柵をつかんで、少し下を向く。
真っ暗で何も見えない病院の中庭。上から見るとものすごく小さいあそこに、明日の朝にはきっと、僕の死体が転がっている。
道の両端では木々が生い茂り、まるで森の中を歩いているような感覚を味わせてくれた中庭。僕の血なんかで汚したくないな、と思った。でも、もう間に合わない。僕の死に場所に、これほどふさわしい場所はない。
これから死のうというのに、僕は不思議なほど落ち着いていた。次々と頭に浮かんでくるのは、ミナクの笑顔。どれも輝いていて、僕を落ち着かせてくれる。
ああ、最期の最期まで、ミナクに助けられちゃったな。次に行く世界では、ちゃんとお礼を言わなきゃな。
そのときだった。
「神谷くんっ?!?!」
ミナクの声。いつもよりちょっと高いかな?
なんで、彼女は叫んでいるのだろう。
「きゃっ!だめっ!!」
声は、どんどん大きくなっていった。
こんなこと、ミナクが言ったことあったっけ?
聞いたことのないほど危機感のある彼女の声は、なんで僕の頭の中で流れているんだろう。
ふと建物の方を振り返って、気づいた。そこに、車椅子に乗って自分でタイヤを回すミナク本人がいた。
手が使えないのにどうやってそこに座ったんだろう。そんなこと、どうでもよかった。
なんで来てしまったんだ。
あと少しで僕は完全に死ねたのに。完全に、ミナクのことを諦められたのに。
「逝かないでっ!だめっ!!」
そんな言葉で、揺らぐような僕の心じゃない。
「最期に、会いに来てくれたの?」
「違う、最期じゃない。ねえ、その手を離したらどうなるか、わかってるんだよね?!」
僕は無表情のまま言った。
「わかってる。わかってるから、ここにいるんだよ」
「私が、いけなかったんだよ。わかってる。全部、私がいけないの。だから、だから、神谷くんは死ななくていいの。私が死ねばいいの」
いきなり何を言い出すかと思えば。
「私、死ぬから。神谷くんだけは死なないで!」
「ミナクはわかってない!!」
全然、何もわかっていない。
「僕が1番悲しいのは、君を見られなくなることだ!!ずっと会いに行っていたのも、君の笑顔を1秒でも長く見ていたいからだ。ずっと死なずにいれたのも、全部ミナクのおかげだ。だから!」
「ミナクが僕を嫌いになったのだから、死んだって君に関係ないじゃないか」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。全部、話す。話すから、神谷くんも戻ってきて…」
「それで僕が納得できるなら戻るよ」
「……わからない。けど、話せることは全部話す。神谷くんには死んでほしくないから」
なんで今頃。今更こんな時に。もっと早くきてくれれば僕はここに立たなかった。病室を変えたのはそっちじゃないか。死んでほしいのか、死んでほしくないのか、いったいどっちなんだ。僕が嫌いなら、死んでもいいじゃないか。
そんな感情の波がどんどん押し寄せてきて、目が回る。ここで気を失ったら、楽に死ねるんだろうな。
ミナクは、僕が考えている間も扉の近く、僕から離れてそれを見ていた。暗くて表情はよく見えなかったけれど、彼女の体が寒くてなのか、怖くてなのか震えているのがかろうじて見えた気がした。
急に、死ぬ気が失せた。
死ぬよりも、先にすることがある。
彼女をはやく病室に戻らせて、細い体を温めなくては、僕が死ぬ前に死んじゃいそうだ。
なんでだろう。
彼女の声を聞いて死ぬことが怖くなくなったのに、今度は彼女の声で死にたくなくなるなんて。
「ありがとう、ごめんなさい」
フェンスを再び超えて戻ってきた僕に、ミナクは言った。
「車椅子、押すよ。手、痛いでしょ」
彼女への怒りみたいなものと、恋心が僕の口を動かして、そう言わせた。
「ありがとう」
そう言って笑うミナクは、こんな夜の真っ暗な中でも光り輝いて見えた。
「まず、私の病気から話す。私は、もうすぐ死にます」
そんな衝撃の言葉をさらっと言って、彼女の話が始まった。
「それは、余命ってこと?」
彼女は、ベッドの下の引き出しから、大きめの布を出した。
それは、僕が初めて彼女に会った時にとった、あのブランケットだった。
「君がこの部屋に初めて来たあの日。おばちゃんが泣いてるところを見ちゃったの。先生と話をしててね、声が聞こえた。"櫻庭さんは、十分頑張りましたよ"って。その時、思った。ああ、私、もう、時間がないんだ。死んじゃうんだって」
「え、じゃあ」
「そう、宣告された日は、とっくに過ぎてると思うの」
「……」
「私は、すごいギリギリのところで生かされてたの」
ミナクは、僕と出会ったあの日から余命のことを知っていた、と言った。
何も知らない、治ってほしいだなんて思っていた僕と、苦しい思いをして一緒に遊んでいたんだろうか。
「昨日、指が固まった時ね、やっと、終わりの時間が来たんだって、そう思っちゃったの。だから、もう、来ないでほしかった」
遅い。遅いよ。死ぬ直前に避けられたって、わけがわからなくなるだけじゃないか。
ショックが大きすぎて、僕の口は思うように動かなかった。やっとの事で喉を震わせ、出した言葉は。
「__いやだ」
「でも私、死ぬんだよ?!いなくなるんだよ?!悲しんでほしくないよ。神谷くんには泣いてほしくない!」
ぎゅっと握ったブランケットを涙で濡らしながら、僕と目を合わせようとしない彼女に、やっと状況を飲み込むことができた僕は言った。
「やっぱり、ミナクはわかってないね」
「え……?」
「言っただろ、僕が悲しいのは君を見られなくなることだ、って」
ちょっとでも笑おうと思って顔に力が入って、気づけば僕も泣いていた。
「悲しいよ、ミナクが死んだら。でもね、僕はもう、十分君と関わっちゃったんだ。今から離れようと、ずっと一緒にいようと、悲しくて寂しいことに変わりはない。だから、最後まで隣にいたい」
彼女はやっと顔を上げて僕を見てくれた。
言葉を失う彼女に、今までずっと言いたかったことを、言う。
「ミナク、君のことが好きです」
やっと、言えた。初めて会った時からずっと思っていたこと。言いたくても、怖くて言えなかったこと。
「もう直ぐ死ぬこの私で、本当にいいの? まだあって少ししか経ってない私で、本当にいいの? 君を死なせようとした私で……」
目を伏せて、首を思い切り横に振りながら彼女は言った。だから、僕はこう言いたい。
「君が、いいんだよ」
ミナクはその言葉にやっと笑ってくれた。