魔王×僕=?
「…………。ごめん、ちょっと質問いいかな」
僕はこめかみを押さえて言った。その、至極当然な言葉を絞り出すのに、いったいどれだけの時間を有したのだろう。
謎空間に初対面の美少女。奪われた指紋に婚姻届。手にはお椀とお箸って、僕の身にいったいなにが起きた。いや、むしろ起きろ、僕。このとんちんかんな夢から、一刻も早く目覚めろ。
「無論、如何な問いにも答えよう。それが私の、“妻”の務めというもの。申せ申せっ」
僕の拇印付き婚姻届をにまにま眺めていた美少女が、はっとした様子で言った。嬉々とした目で見つめられると咄嗟の言葉に詰まる。
「……じゃあその、遠慮なく聞くけど。君は誰、ですか?」
「うむ。お前に“誰”と訊かれれば改めて名乗ろう。私はエターニア、エターニア・イクディ=ハッベルテン。アクサルの地を力で統べし魔王である。そしてたった今からお前の妻、伴侶と相成った女だ」
「…………」
ダメだ。この時点でわからない。いやその、“そういう設定”とかは割りと好きだし文句はないけど。紙面でしかわからないようなカタカナとか色々と盛りすぎじゃないか。しかも妻ってなに。妄想が過ぎるぞ。
僕の微妙な表情で察したのか、少女ーーエターニアは「ふむ」と顎に手を当てた。
「私はエターニア。お前はミナシマ・コウ。私たち今日から夫婦。OK?」
すごいぞこの娘。1+1は2みたいなことを臆面もなく言ってきた。でも肝心の数式が理解できてない時点で詰んでる。
よし、とりあえずこの問題は置いておこう。疑問点は他にいくつもある。
「さっきから言ってるけど、魔王ってなに」
「魔王は魔王だ。魔族の頂きに立ち、等しく統べし者。要するに社長だ、私は」
「ここはどこ? 僕の家じゃないよね」
「ここは我が城【ヴォルティバーランド】……の、私室だ。父上ですら踏み入ったことのないプライベートルームだぞ」
「…………」
状況が好転するどころか頭痛が倍増しになった。
魔族、魔族ってアレか? RPGとかラノベとかで人間に悪さしたり「くっころ」的な台詞を言わせちゃうアレの総称ってことでOK?
とりあえずここはヴォルティ……、なんとかって難しい名前の城らしい。よくわかった、つまりはぜんぶ僕の夢だ。そうでなければモニタリングされてる系のドッキリだろう。誰かそう言ってくれ。
「あの、さ」
ひとしきり頬をつねって。小型カメラがないか見渡して。最終的に、僕はぼさぼさの黒髪をかきむしりながら言った。
「最初に僕のこと“恩人”とか言ってたけど、なにかの間違いじゃないかな。キミとは初対面だし、恩を感じられるようなことなんてした覚えがないよ。第一、キミみたいなかわっ……かわ、可愛い子が。僕のつ、妻になるとか、ぶっちゃけあり得ない」
自分で言葉にして、なんだか胸が痛くなった。
女の子に「可愛い」なんて気障な台詞を吐くことにも抵抗はあったし、なにより。僕の“負け組”人生を思えば、彼女の言葉を鵜呑みに出来るはずもなかった。
小、中、高とろくに友達も出来ぬまま進学し、流されるまま卒業。就職しても会社に馴染めず、一年ともたずに退職。それからはフラフラと日雇いの仕事でどうにか食いつなぎ、気づけば年齢は26だ。そんな僕が――例え妄想であっても――誰かの夫になるなんてあっていいはずがないのだから。おまけにその相手が【魔王】だなんて。
「間違いなどではない。お前は私の夫であり、私はお前の妻である」
「…………」
僕の葛藤を一蹴する勢いで、エターニアが言った。あまりに力強い、迷いのない言葉に、思わず喘ぐような呼気がもれる。
「お前は……、残念ながら覚えてはいないようだが。かつて私はお前に命を救われ、そして恋を知った。暮らす世界、文化、価値観に違いはあれど。私はお前を何者よりも欲している。――なにも案ずるな、魔王と言えど炊事に洗濯、掃除もこなしてみせよう。この6年で会得した我が技法の数々、お前に披露するのを今か今かと待ちわびていたのだ。良妻になることをハッベルテンの名に誓う」
「…………。いや、その」
情熱的な台詞に顔が熱くなる感覚。夢、夢にしてはおかしいぐらいリアルだ。彼女の存在、視線、言葉の連なりを確かに感じる。本当の本当に現実なのか、これは。でも、だからって――
「ともあれ、だ。まだ心の整理ならびに身辺の整理もついてはおらんだろう。今日から3日間の猶予を与える、それまでに支度を整えよ。時がくれば再び、私自らお前を迎えに行く故な。……いやいや待て待て? 3日はちと長いなァ、長い長い……。やっぱりその、1日で良くない? 良いよね!」
嬉々とした顔で勝手に納得しているエターニア。当事者であるはずなのに、僕はすっかり蚊帳の外だ。
なにも言えないでいる僕の目元を、エターニアのひやりとした右手が覆う。淡い蝋燭の輝きも見えなくなって、僕の視界は完全な暗闇に包まれた。
「ものの数秒ほど、意識を穏やかにしているが良い。気づいた頃には元の世界に戻っておる。……名残惜しいが、しばしの別れだ。コウ」
慈愛の色濃い声音で名を呼ばれて、僕の心音がひときわ高鳴る。
エターニア。エターニア、イクディ、ハッベルテン。君は本当に何者なんだ?
僕の問いかけは、遂に声にはならなかった。
▼
――ピロピロリン。ピロピロリン。音に例えるとこんな具合か。あらかじめセットしていたスマートフォンの、アラーム音が鳴り響いている。
「…………」
大きく見開いた目に映る、アパートの一室。間違いない。テレビも本棚もない、質素すぎる僕の城だ。
古くなったちゃぶ台を前に、座したままの格好でお茶碗とお箸を握りしめている。残念ながら、ほかほかだった白米は急速に熱を失ってかぴかぴになっていた。
「……ほらね。やっぱり夢だった」
僕は安堵と、よくわからない感情の入り雑じった溜め息を吐いた。
白昼夢――自分が一瞬前まで体験していたのは、恐らくそう呼ばれる代物だろう。どうしてもお米が食べたくなって、最近はオーバーワーク気味だったし、疲れが溜まっていたのかもしれない。いずれにせよ現実に戻ってこれてよかった。虚しいだけの、侘しいだけの現実にただいまを告げる。
呑気な僕を急かすように、進行形でアラームが鳴り響いている。隣の壁からドン! と鈍い音。……イヤな方の壁ドンである。僕は慌ててスマホを操作し、続けざまに上着を羽織った。アラームが知らせていたのは仕事の時間だ。PM4:00、今からレンタルビデオ店での夜間勤務が待っている。一ヶ月前にパートタイマーで雇ってもらえてから、どうにか食いっぱぐれることはなくなった。
奇妙な、けれど少しだけ名残惜しい“夢”――あるいは妄想――を振り払うように、僕は勢いよく自室を後にした。とにかく今日を生きること。僕が考えるべきはそれだけなんだから。
自転車をとばして15分ほど。全国にチェーン店を拡大する、僕の仕事場が見えてきた。おかしな夢を見たせいであまり時間に余裕がない。焦燥感をなだめつつ、転がるように事務所へ。
「おはようございます」
たとえそれが昼でも夜でも、挨拶は必ず「おはようございます」だ。郷に入れば郷に従え、お店のルールはしっかり守る。給料のために差し出す忠誠心。
「ああ、皆島くん。おはよう」
PCから目は離さず店長が言った。数字が並ぶデスクトップを横目に、僕はいそいそと制服に着替える。
ふと目がいったのは鏡だ。正しくは、そこに映る自分の姿。
奔放に伸びた黒髪、縁の太い眼鏡。好んで外に出ないせいか、色白でやや痩せ気味の体躯。お世辞にも格好いいとは言い難い、むしろ“非モテ”の象徴、もとい具現化だ。
なんだかすべてが億劫に感じて、僕は「はあ」と溜め息を吐いていた。あんな白昼夢のあとだからなのか、自分の冴えない部分ばかりが強調されて見えた。
(忘れよう。あんな、非現実的なこと)
二度、三度と頭を振った。僕は今から接客業に勤しもうとしている身だ。どんなにうだつが上がらなくても、お金をもらう以上は笑顔と元気を徹底しなくちゃいけない。鏡に向かって無理やり笑ってみせ、両の手で頬を打つ。さあ仕事だ、切り替えていけ、僕。
「そうそう。皆島くん」
あと数分で僕は売り場に出て、お店のスタッフになる。そう意気込んだ矢先のことだった。店長が不機嫌そうに声を投げてきたので、「なんでしょう」と応じる。
「おめでたい話だからイヤな言い方はしたくないんだけどさ。出来ればこういうのは、もっと早く言って欲しいなあ。君だって社会人なんだしさあ。こっちにも都合ってものがあるし」
「は……、え、えっ?」
店長が振ってきた話題を掴みかねて、僕は間抜けな声を出した。
「いやいや、“え?”じゃないよ。辞めるんでしょ、仕事。しかも今日で」
「はいいいいっ!? ちょ、えっ!? 今日で辞め……、えええっ!?」
僕の頭からまともな語彙が消失した。それぐらい衝撃的な言葉が店長の口から飛び出した。
辞める、なにを? 誰が、ここを? いつ、今日っ?
まったく見に覚えのないやり取りを、僕は店長と交わしていたというのか。いやいや、そんなバカな。さすがの僕でもそこまで間抜けじゃないはずだ。
僕の、「なにも知らない」という顔を見た店長が、大きく椅子に座り直した。
「あのねぇ……。さっきキミの奥さんがやって来て、“結婚に伴いまして夫は今日付けで退職いたします”って。丁寧に挨拶してくれたよ。手土産に高級そうなお菓子まで持って」
「お、くさ……んんっ?」
「ずいぶんと美人じゃないの。聞けば外国に移り住むんだってね? いやいやまったく、人は見かけによらないもんだ」
皮肉っぽく言いながら「まあ良いけどね」と付け足す店長。
「ちょちょちょ、待ってください店長っ? いまちょっと、聞き慣れない単語……、というか縁遠い異国の言葉が聞こえた気が……」
酷い目眩が僕を襲った。ふらつく足元を持ち直せず、たまらず壁に手をつく。思考はぐるぐると同じところを回っている。
キミの奥さんが。奥さんが。奥さんが!? いや、誰だよ知らないよ!!
叫びだしそうな僕を置き去りにして、店長の追い討ち。
「ま、今さらどうこう言っても仕方ないから。いいよ、もう。今日は仕事しないで、早く荷造りしに帰りなさい。昨日までの給料は近い内に振り込んでおくから。今までご苦労様」
「…………」
僕は絶句した。理解の追い付かない状況下に追い込まれると――って、こんな回想を数十分前にもしたような。
「? なにしてるの。早く帰らないと……、っていうか。まだお店の中で待ってるんじゃないの?」
「待ってるって、誰がですっ!?」
「だから、キミの奥さんが」
僕は弾かれるように事務所を飛び出した。そして思わず声が出る。「嘘だろ」と。
――いた。誰に言われるでもなく、すぐに気付いた。気付いてしまった。
艶やかなブロンドの、ウェーブがかった長髪。筋の通った鼻梁。薔薇色の口唇。すらりとした、美しく伸びた四肢はまるで透けるように白い。“女神”、“美姫”、“天使”……。視線の先で悠然とたたずむ彼女をあらわすには、それでも足りないくらいだった。
何気ない、ありふれたレンタルショップの店内で、彼女の存在はあまりにも異様だった。逸脱している、とも言えるかもしれない。老若男女を問わず、見れば誰しもが足を止めてしまうほど完成された美を、彼女は煌々と放ち続けているのだ。
僕は、僕だけは。彼女の名前を知っている――
不意に彼女と目があった。宝石みたいに輝く蒼い瞳が、僕を捕捉した瞬間。表情にぱあっと笑顔が弾ける。
「おーい、こっちこっちー! 私だよー、お前の【魔王】だよーっ!」
“お前の”と“魔王”を強調して、ぶんぶんと手を振る彼女――エターニア。僕の妄想でないのなら、彼女の名前はエターニアだ。
店内で買い物をしていた皆様の視線が、エターニアと僕を交互に行き来する。そして囁かれる「魔王って?」。聞こえてくる「お前のってなに」「そういうプレイだろ」。暑くもないのに全身からどっと汗が吹き出る感覚。およそ好ましいものじゃない。
「おーい、コーウ! お前の【魔王】が来ちゃったぞーぅ! えへへ、てへぺろー☆」
陽気に言いながら、舌先をちらりと覗かせるエターニア。腰から砕けそうになるのを寸前で踏みとどまり、僕はかつてない早さで彼女の元に走った。今ならオリンピックも行けそうな、さぞ俊敏な動きだったことだろう。一息に縮まる彼我の距離。
互いの鼻先がぶつかりそうなほど肉薄して、僕はたまらず声を荒げた。
「なななんでココにいるの、なんで実在してるのっ!? キミは僕の妄想か何かなワケで、あくまでオカルト的な存在なワケでっ!! 現実にいるはずないんだけどっ!?」
「妄想……? 言っている意味が今一つわからんが。私はホレ、ちゃんと居るであろう。お前の【魔王】、エターニア・イクディ=ハッベルテンだ」
「それヤメテ!! 【魔王】とか言うのヤメテ!!」
僕は素早くエターニアの口元を手で覆う。瞬間、嫌でも認識してしまった。絹みたいに柔らかな肌の温もりを、確かな生の感触ってものを。
はっとなって周囲を見遣ると、嬉々とした表情の野次馬が僕たちを取り囲んでいた。
「いったん外、外に出よう!」
普段は書類の入った段ボールすら持ち上げられない僕だけど、どぷどぷ溢れたアドレナリンが一切の思考を振り切った。エターニアを小脇に抱え、脱兎の如く出入り口へ駆ける。
▼
僕は大きく肩で息をしながら、ゆっくりと足を止めた。さすがにこれ以上は限界だった。
全力疾走なんていつぶりだろう。全身に重くのしかかる疲労感が、日頃の運動不足をありありと物語っている。
無我夢中で気付かなかったものの、ここまでずいぶんな距離を走った気がする。奥まった場所にあるレンタルショップから、人で賑わう繁華街までやって来てしまったらしかった。頬を伝う汗を拭いながら、僕はようやく腕の中のエターニアを解放した。
「どうした。顔色が悪いぞ、コウ。それに酷い汗だ。妻として、迅速な水分補給を提案する」
僕の心情なんてお構いなしに、エターニアが言った。
「……お気遣いなく。それよりもいろいろと話したい……っていうか。確認したいことがあります」
「私もしたいっ。コウとたくさん話したいぞっ」
僕の言葉を良い意味でとらえたのか、エターニアの表情がぱっと華やぐ。
「キミ、本当に何者なの? ボクの妄想に現れたり、今度は現実世界にまで出てくるし!」
「なんだなんだ、またそこから話すのか。先に言うたとおり、私はハッベルテンの血を引く【魔王】ぞ。我が力をもってすれば異次元を繋ぐことなぞ造作もない。ゆえにこうして会いに来た。他でもない、お前にだ」