Oneday:青空(あおぞら)
四角い窓から眺めた空は、どこまでも高く青く澄んでいた。どこからか聞こえてくる小鳥の鳴き声は耳に心地良い。しばし、呆と窓の外の景色を眺め続ける。
「は――っくしゅん!」
燦々と降り注ぐ朝日は眩しくて、思わず大きなくしゃみをしてしまう俺だった。しかし何でかね、どうして太陽を見上げていると、それだけでくしゃみが出てしまうんだろうか。今度あの変人あたりにでも聞いてみるとしよう。
時刻は朝の六時半。いつもより少し早めに目を覚ました俺は、もそもそと寝巻きから制服へと着替えを済ませる。部屋を出て、とんとんと階段を下っていくと、リビングに入るところで見知った顔と出くわした。
「あ、おっはよー。今日は早いんだね、空人」
「おう。何か手伝うことがあればやるけど」
「わ、わ、わ。なになに、このひと本当に空人? まさか空人のほうから手伝うなんて言ってくれる日が来るなんてっ! わーわー、ちょっとちょっと、これって記念日だよ! おとうさーん!」
というか、見知ったも何もありはしない。朝っぱらからうるさいことこの上ない。
「機嫌を損ねた」
「わー、ごめんなさーい!」
くるくると変わる表情は、まあ、見ていて飽きないので良しとする。
こちらとしても毎朝早起きして飯を作ってもらっている身分、あまり強くは出られないし。
「で、桜? なんか手伝えることはないの?」
「お気持ちは大変嬉しく思うのですが残念ながら。今日はもう配膳までばっちり、手抜かりは一切ありません」
「……さすが」
リビングに入ると、その言葉通り。ほかほかと湯気をたてる炊き立てのご飯に、一人一匹の焼き魚、黄身が半熟の目玉焼き、野菜たっぷりのお味噌汁。どこにも文句の付けようのない食卓がそこに完成されていた。
「親父は?」
「昨日は仕事がずいぶん遅かったみたいで、まだ寝てるよ。ギリギリまで寝かせてあげる子心に清き一票」
「二票。そういうことなら、先に食べてるとするかね」
「そうしましょー」
阿吽の呼吸で椅子に腰掛け、ぱんと手を合わせ、いただきます。
三人分並んだ食事のうちの一人分にはラップをかけて、「お仕事お疲れ様。起きたら食べてね」とハートマーク付きの書き置きを残しているのは桜だ。律儀なやつ。
俺はひたすら箸を動かし、今日も美味しい朝ごはんを次から次へと平らげていく。物心ついた時からずっと桜の料理を食べているわけだけれど、ここ最近のこいつの料理の腕といったら、なんだかもう堂に入ってる部分があるような。
「うん。いい嫁になれるよ、お前」
「そーおー? えへへ、それは嬉しいなぁ」
脈絡もなく言う俺に、戸惑うこともなく純粋に喜んでいる様子の桜。
「ま、貰い手がいればの話だけどな」
「喜んで損した! ひどいよ空人!」
かと思えば、すぐに頬を膨らませてむくれてみたり。ころころころころ、こいつは本当に表情のレパートリーが広いよなぁと実の兄ながらに感心してしまうほどである。
「いやだってさ。アテあんの?」
「馬鹿にしてー……あるよ、それくらいっ」
「おお、あるのか」
「うん。空人」
真顔でそんなことを言い放つ妹に、俺はあからさまに溜息を吐きながら、もう何度目かもわからない言葉を返す。
「はぁ……もうガキじゃないんだから、いい加減兄離れしろっつの。周囲が微笑ましく見守ってくれるのはもう十年も前には打ち止めだってのに」
「つれないなぁ。好きなものを好きだって言って何が悪いのー。いいじゃんいいじゃん結婚しようよ空人」
「よくないしない。兄妹だろ俺ら」
「私は本気だよ?」
「んな意思表明はこれっぽっちも聞いてない」
「夢ちゃんにも負ける気はないよ?」
「だから聞いてないっての」
「昨晩実は夜這いをかけて既成事実を」
「それは聞き捨てならねえ!」
そんな毎朝の定例行事を今日もつつがなく終了させて、ご馳走さまと箸を置く。お粗末さまと返す桜もまた、いつの間に食べ終えたのか、俺とほとんど同時に箸を置いていた。
朝の洗い物は数少ない俺の仕事。空いた食器をシンクに運び、機械的な動作で洗い物をやっつけていく。その間、桜はいつも俺のすぐ真後ろに立ったまま、何をするでもなく食器が綺麗になっていく様を見守っている。小姑、あるいは背後霊みたいなやつだ。
「桜」
「なになにー?」
名前を呼ぶと、嬉しそうに隣に並んでくる。犬か。
「邪魔」
「くぅん……」
悲しげに鼻を鳴らし、桜はそのままリビングを出て行った。
さて、これでようやく落ち着いて洗い物ができる。早いところ終わらせてしまおう。
いつもの時間に家を出ると、いつものように迎えが来ていた。
よ、と軽く右手を上げると、にっこり満面に笑顔を浮かべて応えてくれる。
「おはようございます、空人さん」
そこにいたのは三歳下のちんまい幼馴染。通う学校は違うけれど、途中までの道が同じだということで、彼女はこうして毎日俺たちを迎えに来てくれているのだった。
「おっはよー、夢ちゃんっ」
「桜さんも、おはようです」
ぎゅっと抱き合う女二人は今日も仲良し。朝の挨拶はハグが普通らしい。
「空人も混ざる?」
「さすがに問題あるだろそれは」
いくらなんでもこんな朝の往来、公衆の面前でそんなことをする勇気はない。
「倫理的にはNG、でも空人個人的には否定はしない……と。しかし悲しいかな、私は眼中にないことが証明されてるし……むむむ、もしかしてもしかして。お二人さん、まさかまた何かしら進展がっ!?」
きっ、と鷹の目の鋭さで俺と夢を見眇める桜。
……普段ぽけぽけしてるくせにこういうとこだけ鋭いのな!
「……馬鹿なこと言ってないで、さっさと行くぞ。遅刻する」
「なになに今の間! 怪しすぎる! ホシはクロだー!」
「あーもううるさい……ほら、行こうぜ夢ちゃん」
「ぁ……は、はいっ」
「いやぁー! やだやだ空人とらないでー!」
きゃーきゃー騒ぐ桜を往来に放置して、俺は夢の小さな手を取り、通い慣れた通学路を歩いていく。握った夢の手のひらはほんのり熱を帯びていて、汗ばんでいた。きっと俺も。
「桜は放っといていいから。どうせすぐに何事もない顔して追いついてくる」
「……よくご存知なんですね、桜さんのこと」
「いやまあ、そりゃ双子の妹だし」
「ふぅん……」
と、なにやら険しい表情を作る夢。え、そこで嫉妬しちゃうんだ?
「なんか勘違いしてない、夢ちゃん?」
「いいえ、別になにも」
「そですか」
彼女もまた、一見扱いやすそうで、その実なかなか奥の深い女の子なのだ。
子供の頃から桜との板挟みで俺がどれだけ苦労してきたことか、語る場があれば是非とも語り尽くしたいと切望するところだが、それはまた別の機会に。
辺りをきょろきょろと見回して、近くには誰もいないことを確認する。
ひとつ息を吐いてから、素早く夢の耳元でそっと囁く。
「大丈夫。一番は夢ちゃんだから」
「……そんなこと言って、もう」
騙されませんよ、と言いつつも表情はにっこにこ。
まあ、わかりやすいと言えば、わかりやすい。で、そういうところがとても可愛い。
「……わたしも」
「ん?」
「わたしも、空人さんが一番ですからね」
きゅっと、握る手に力を込めてくる。幸せを実感するひとときだった。
そうしてしばらく歩いていると、やがて、とある景色が俺たちの眼下いっぱいに広がっていく。
「おー。満開だ」
「ほんとです」
街路を彩る桜並木が、満開の花を咲かせていた。そういえば、もうそんな季節なんだよなぁ。
去年も確か、こうして夢と二人で桜並木を歩いたような気がする。あれからもう、一年が経ってしまったのか。
「……桜、かぁ」
奇しくも俺の妹と同じ名を持つ、その樹木。
春のほんの短い間だけに咲く、その薄紅色の花を見ると、なんだか胸がどうしようもなく締め付けられたような気持ちになる。どうしてだろう。昔からそうなのだ。
「もう、あれから一年が経っちゃったんですね」
「なんだ。夢ちゃんも俺と同じこと考えてたんだ」
「考えますよ。だって、あのとき言ってくれたんですよ、空人さん」
「……そっか。そうだったね」
思い出したら赤面モノのワンシーン。記憶から消すことはないけれど、わざわざ引き出すこともない。だって相当恥ずかしいことを……いややめた。
軽く頭を振って思考をリフレッシュ。夢のほうをちらりと窺うと、彼女はどこか思いつめたような表情で、ぼんやりと桜並木を見つめ続けていた。
その表情が、なんだかすごく気になって。
ついつい俺は、こんなことを訊ねてしまった。
「ねえ。夢ちゃんはさ、幸せ?」
我ながらあまりに抽象的な質問に、夢は僅かに考えるような素振りを見せてから。
「幸せですよ。とっても」
そう言って、にっこりと微笑んでくれた。
「そっか」
うん。それなら、良かった。夢がそんな風に笑ってくれるなら、俺も幸せだ。
願わくば、この幸せがいつまでも続いていってほしいと思う。
いつまでも、いつまでも。ずっと、変わることなく。
「はいはいはーいそこの不順異性交遊二人組っ!」
背後から聞こえてくる猛烈な足音に、何事かと二人して振り返ると、まあ、当然のことながらそこには桜がいた。
「私を置いていくなんていい度胸してるじゃなーい! 今は詳しく問い詰める時間がないから許してあげるけど、夢ちゃんにも色々聞きたいことがあるし……よし、今日の放課後は全員ミキミキに集合! もちろん空人のおごりでねー!」
「いや待て意味わからん!」
「問答無用! 私は断固認めないんだから! 認めないんだからね! うわぁーん!」
なぜか泣きながら走り去っていってしまう桜。傍から見ていると完全に頭の可哀想な人だ。本気であいつとの血縁関係を考え直したくなってきた……。
「あーそうそう、翔羽くんも呼んどいてねー! 最近遊んでないしさ、いい機会じゃない?」
遥か遠方から、ここまで届く大声でそんなことをのたまう桜。ご近所迷惑も甚だしい。
言いたいことだけ言って満足したのか、そのまま桜は一人で学校へと行ってしまった。
もしかすると、これはこれであいつなりに気を遣ってるつもりなのかもしれないけれど。
「ふふ」
隣で夢が笑い声を漏らす。そりゃ笑いたくもなるわなぁ。
「楽しいですね、空人さん」
「ま、確かに……飽きはしないけどね」
「それでいいんです。十分なんですよ」
くすくすと上機嫌に笑いながら、夢は俺の手を引いて先を歩いていく。
少しの間、その笑顔に見惚れていた俺は、慌てて夢の後をついていく。
「ほんとに遅刻しちゃいますよ?」
「うわ、確かにマズいかも。ちょっと急ごうか」
「そうですね。でも、ほんのちょっとだけでいいですよ?」
「いや、そんなに悠長なことを言ってられる時間でもないんだけど……」
「だって。……ちょっとでも長く、空人さんと一緒にいたいんです」
顔を赤らめてそんなことを言う夢に、俺はもう反論する術を持たなかった。
まあ、遅刻したら、その時はその時だ。桜か波津久が何とか言っておいてくれるだろう。
俺と夢はほんの少しだけ歩調を速めて、それぞれの学び舎を目指し、歩いていく。
ひらひらと舞い散る桜吹雪が、俺たちの未来を祝福してくれているように思えた。
今日も長くて短い一日が始まる。
どうか、こんな日がいつまでも続いてくれますように。
またこの場所で、この美しい景色を、いつまでも大好きな人たちと一緒に眺めていられますように。
そうして、どんどん思い出を重ねていこう。
輪廻の花が咲く頃に。
(了)