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Sunday:終青(おわるあお)

 夢の終わり。

 地獄の最果てで見つけた答え。

 ようやく手にした結論。

 為すべきことを為した。

 ただ一つの他は全てを投げ打ち、その唯一を守り切った。

 ならば、『今』の自分に出来ることは。


 終わりなんてない。

 それが、結論。

 そう。妥協さえしない限り、人が生きるという行為に終わりはないのだ。

 人は生き、やがて誰かを愛し、子を成し、想いを継ぎ、そうして生を全うする。

 言葉ほどに単純な話ではない。人が生きる一連のプロセスとは、得てしてとても複雑にねじれ、絡まり、幾重にも枝分かれしているものだ。

 だが一方で――そのプロセスは、どんなに複雑に絡み合っていたとしても、最後には必ず一つの円へと帰結するという面も持ち合わせている。

 生と死は隣り合わせの二律背反。生きるから死ぬ。死ぬから生きる。

 永劫に続く輪廻の輪。それはさながら決して解けないメビウス・リング。

 人の生き方を解き明かす方法なんてものは、この地上のどこを探したって存在しない。

 だからこそ、迷うのだ。

 人が迷うのは当然の理。それに抗う術はない。

 なればこそ、人類に出来るせめてもの抵抗。

 俺は――



  *



 左肩に滲む痛みが、浅い眠りから自意識を呼び覚ます。

 紅色に染まる黎明の空。昨日までに見た死色の黒はすっかり鳴りを潜め、空は今、最後の生を全うするかの如く、鮮やかな赤色に燃えていた。

 今日を迎えるためではなく、それは滅びを迎えるための朝焼け。

「……なんだよ、これ。綺麗じゃないか」

 それなのに、世界はどうしようもなく美しかった。思わず嘆息してしまうほどに。

 そんな感情を覚えたのは、一体いつぶりのことだろう。たった一日で世界はそんなにも変わってしまうものなのだろうか。

 だが、それは違うのだ。世界はいつだって不変のままに佇んでいる。変わったのは俺のほうだ。

 変わらない世界を前にして、俺たちはいつだって変わって惑って迷って嘆く。だからこそ、今日のこの美しい空がある。

 じっとりと汗ばんだ首筋に手をやると、べたつく感触。すぐに粘ついた空気に気付く。周囲は異様なまでの暑さに包まれていた。真夏の盛りでもここまでに苛烈なものではない。俺のすぐ横で寝息を立てている夢の素肌にも、玉のような寝汗が浮かんでいる。

 昨日までの気候からは考えられない気温。この暑さはどうしたことかと思考を巡らせると――すぐに、その答えに行き当たった。

 あと数時間後をもって地表に激突するのはただの星に非ず、この銀河系を束ねる恒星そのものだ。

 表面温度だけでも摂氏数千度を上回らんとするそれは、実際に激突するより先に、地表に存在する生という生を一切合切に焼き払ってしまうことだろう。

 俺たちに与えられる死とは、そういうことなのだ。

 激突を間近に控えた今、空は灼熱の炎に燃え、その熱は徐々に大気の気温を上昇させていく。

 緩やかに訪れる終焉。生きたまま身を焼かれる苦痛。それは決して楽な死に方ではないだろう。

 だからこそ、彼らは自ら命を絶った。そのために、俺は彼らを撃った。

 結果として、彼らは楽に死ぬことが出来たのだろうか。

 ……それは解らない。解らないから、俺は今日もこうして生きている。

 ふと、桜の根元に置いた拳銃が目に入った。立ち上がってその場へと歩み寄る。拾い上げる。

「……結局、最後まで手放せなかったな」

 二宮空人という男のアイデンティティ。それはもう、一朝一夕には覆せぬほどに確固たるものとして俺の中に根付いてしまっているのだろう。

 恥じる気持ちはない。悔恨の情念もない。手首に感じるこの重みは、その一言で語れるほどに容易なものでは決してない。

 いつだって俺と共にあった、それは言わば唯一無二の相棒。数多もの人間を殺し、或いは、幾らかの人間には救いを与えることが出来たのかもしれない、それは完膚なきまでに殺人の道具。

 もしも今この引き金を引けば、俺は楽に最期を迎えることが出来るのだろうか。

「――はは」

 愚問だった。

 あんまりにも馬鹿げたことを考えるものだから。ほら、親父さんと桜のやつも呆れた顔でこっちを見ている。

 わかってる。ちゃあんと、わかってるよ。

 銃杷をぎゅっと握り締め、燃え盛る空へと銃口を突き上げる。

 一発、二発、三発四発。次々に引き金を引いた。

 聞き慣れた破裂音の連続が、雲間を切り裂いて天空へと飛び立っていく。

 弾装が空っぽになるまで撃ち尽くした。

 役目を終えた拳銃を、そっと桜の根元に置く。

「これでいいんでしょう、親父さん。心配は要らないよ、桜」

 二人は柔らかく微笑んだ。もちろん実際に笑ったわけではないけれど、二人ならきっとそうしてくれるはずだ。

 為すべきことを為す。

 その為には、一秒だって足を止めているわけにはいかない。

 名残惜しい気持ちを抑えて、柔らかな気持ちで踵を返した。向かう行き先が決まっている以上、もう振り返る必要はない。

 二人の見送りを背に、俺はゆっくりと歩き出す。

 あれだけの爆音を響かせた後でも夢はすやすやと眠ったまま。よほど幸せな夢でも見ているのだろうか、額にじっとりと浮かべた汗すらも気にならないといった様子で、蕩けるような寝顔を見せている。

 大物だよ、この子は。俺なんかには不釣合いなくらい。

 思わず苦笑を浮かべて、ほんの少し歩調を速めた。



  *



 灰燼に埋もれた町の残骸。その中に在ってさえ、今もなお息づく日常の在処。

 目的を果たすより前に、なんとなく、その場所に寄ってみたいと思った。

「マスター、エスプレッソをひとつ」

「かしこまりました」

 にこにこと人好きのする笑顔を浮かべるのは、紛れもなく彼本人。

 三木幹介、その人だった。

「もしかしたらと思って戸を叩いてみたんですけど、正解でした。こうしてまたマスターのコーヒーが飲めるなんて、こんなに幸せなことはないですね」

「そんな風に言ってもらえる私こそ、幸福の極みというものです。店を開いた日から今日まで、これほどまでに嬉しい日は無かったですよ」

「いや、はは。需要と供給が見事に合致しましたね」

「いやはやまったく。年中無休で頑張り続けた甲斐がありました」

 はっはっは、と心地良い笑い声を交し合う。

 初めて彼と会ったあの日、こうして共に笑い合える日が来ることを、果たして誰が想像できたただろうか。

 人間は弱さを知っているからこそ、時に想像を超えた強さを見せる。

 三木さんは、まさにそんな人間だったのだ。

「……正直、マスターはもう、この場所にはいないんじゃないかって思ってたんですよ」

 伴侶と娘を失うという筆舌に尽くしがたいほどの悲しみを、一気にその身へと背負った三木さん。彼は不幸であるが故に、幸福な人間だった。俺に関わってさえいなければ、きっと最期の瞬間まで彼は家族と共に在ることができただろう。

 あの魂を削るような慟哭を、俺は今でも鮮明に思い出すことができる。

 人が壊れていく音。救いようの無い、徹底的な絶望。

 そんな中に身を沈めてさえ、三木さんは今日もこうして、喫茶店のマスターとして生涯を全うしようとしているのだ。

「私も、もう無理だと思っていましたよ。……ですが、どうしてでしょうね。そうせずにはいられない、とでも言いましょうか」

「そこが凄いんです。あなたはきっと、この世界で生きている他の誰よりも強い」

「いいえ、それは違いますよ。私は弱い人間です。人並みに脆く、人並みに絶望だってします。それにも関わらず今日こうして立っていられるということは――私はきっと、巡り合わせに恵まれたのでしょうね」

「巡り合わせ……ですか」

 ええ、と表情を柔らかく綻ばせる三木さん。

「誰も来ないと解っているなら、この店に意味はありません。私は早晩店を畳んで、妻子と過ごした日々を想いながら最期の時を待ったのでしょう。ですが、実際にそうなることはなかった。それが何故だか、理由がお分かりになられますか?」

「……」

 その在り方に溜息さえ漏れる。感謝の気持ちで胸が満たされる。

 要するに。

 この人は、俺一人のために今日も今日とて店を開いていたというわけだ。

「空人様。あなたに出会えたことは、私にとっては妻子の存在と同意義です。……失礼を承知で存じ上げますが、あなたは決して完璧な人間ではありませんでした。時に迷い、時に過ち、そうして積み重ねてきた過去の中には、許されざる出来事もあったことでしょう」

 全ての役目を終えてさえ、右手に残ったその感覚。

 墓場まで持っていかねばならない、それこそが俺の十字架なのだろう。

「ですが、今のあなたはとても良い顔をしています。それが全ての答えではないでしょうか」

 少し前までの俺なら、その言葉を信じることは出来なかったに違いない。

「ありがとうございます、三木さん」

 深々と、心の底から頭を下げた。彼の言うところの巡り会わせ――そのことにも、感謝した。

「ご馳走様でした」

 空になったカップを置いて、惜しむ気持ちを抑えて立ち上がる。出来ることならずっとこの場所にいたい、そう思わずにはいられないほど居心地の良い三木さんの店。今日が今日でなければ、俺はきっと日が暮れるまでずっとこの場所で時を過ごしたことだろう。

「もう行ってしまわれるのですか」

「ええ。ちょっと、やることがあるんで」

「そうですか。それは良いことです」

 ほっほっほ、と楽しげに微笑む三木さん。ころころと表情の変わる三木さんを見ていると、親父さんとはまるで正反対の印象を受けるけれど――その根底に位置するものは、とても似通っているのだということに気付く。

 きっと、良い父親だったのだろう。家族が家族でなくなるその瞬間までも。

「コトが済んだら、マスターに来てもらいたい場所があるんです」

「……私に、ですか?」

 その場所に、その瞬間に、彼には是非とも居合わせてもらいたい。

 そのことを話すと、三木さんはこれまでで一番の笑顔を浮かべ、大袈裟なほどの身振りで何度も何度も頷いてくれた。

 初めて出会った時とはずいぶん印象が変わってしまった彼ではあったけれど、滑稽なまでに体を揺らして喜んでいるその姿を見ていると、なんだか最初からこういう人だったような気もする。

 人間の本質は深いけれど、その実、本当の姿は隠せない。

 最後まで俺の左腕のことを尋ねずにいてくれた三木さんに感謝しつつ、俺はもう二度と訪れることのないであろう喫茶店に、もう一度深々と頭を下げるのだった。



  *



 歩いて歩いて、地平の果てまで歩き続けて――実際、そのくらい歩いたような気がした。

 異常なほどに上昇した周囲の気温が容赦なく俺の体を焦がしていく。僅かに体を動かすだけで、滝のような汗が全身から噴き出す。

 酸素を求めて口を開いても、粘ついた熱さが余計に喉の奥を焼くだけだ。

 衣服はすでに衣服としての役割を果たしていなかった。汗でべったりと体に貼り付き、言い様もなく気持ちが悪い。

 ほんの一時間前までは、ここまで酷くはなかったはずだ。

 真っ赤な空に浮かんだ紅色の球体。もはや肉眼でもはっきりと捉えられるようになった、それ。

 あの球体が、もうほんの数えるばかりの時間をもって、この星に終焉を告げる死神なのだと言われても、なんだか実感がなかった。

 ただ、もうほとんど時間が残されていないという事実だけは、腹立たしいほどに伝わってきた。

「……ふう」

 淀んだ息を吐き出して、昂ぶりかけた思考を落ち着かせる。

 ようやく辿り着いた目的地。俺は意を決して、止まった足を再び前へと踏み出した。

 半壊した家屋。こうして一人でこの場所に来るのは、最初にここを訪れて以来だろう。

 かつて春澤夢とその家族が過ごした家。

 暖かな音楽に包まれた、幸せの記憶に満ちた場所。



 虫一匹鳴かない静寂の中で、俺は春澤邸をぐるりと見て回った。

 目的を果たすより前に、愛する人がその生涯を過ごした場所のことを知っておきたかった。

 居間以外の部屋には足を踏み入れたことはなかったが、どこもほとんど似たような有様だった。

 原型を留めないほどの破壊。そこが何のための空間であったのか、それさえも解らない部屋もいくつか存在した。

 だけど。――俺には、はっきりと見えていたのだ。

 未知のドアをひとつ開くたび、ぱあっと視界に浮かんでくる、家族の情景。

 今よりも少し幼い夢が、幸せそうに両親と身を寄せ合わせ、屈託のない笑顔を浮かべている、その情景が。

 人に言ったら笑われてしまいそうだ。あるいはただの幻覚かもしれない。ただでさえ他にも前科のある俺のことだし。

 ……でも。例え真実がどうであれ、そういう風には思いたくなかった。

 この光景は、きっと、かつてこの家に生きた人々が、自分たちの幸せな思い出を伝えようとしてくれているのだと。

 そう、思うことにした。

 記憶の風景が映し出す夢の笑顔はどれも眩しいくらいに綺麗で、直視するのが恥ずかしいくらいだった。やっぱり夢は笑っている顔が一番だと改めて思う。

 彼女を見守る二人の両親もまた、穏やかに、とても嬉しそうに、微笑んでいた。

 本当に幸せそうな家族が、そこにいた。

 もしも願いが叶うなら、俺もこの場所に居合わせたいと、そう思った。


 そうして部屋を回り続け、最後に辿り着いた大きな部屋。

 居間に設置された大きなグランドピアノの前で、俺はひとつ小さな息を吐いた。

 こうしている間にも周囲の気温はどんどんと上昇していく。それはもはや暑いと言うよりは熱いという域にまで達し、剥き出しの素肌には今まで感じたことのない傷みさえ覚えるようになっていた。

 余計なことを考えている暇はなかった。ここで行き倒れるようなことがあれば、俺は死んでも死にきれない。

 覚悟を決めて、ピアノの四足を覗き込む。それらは切り替えひとつで滑車が回るようになっていた。全ての足を切り替えて、押し運びができる状態にした。

 あとは椅子も別に運ぶ必要がある。どうしたものかと考えていると、不意にあるものが視界へと飛び込んできた。

 それは何の変哲もないビニールテープだった。居間の隅っこに、ぽつりと取り残されている。

 誰からも必要とされることはないだろうと、寂しそうに己の身を投げ出していた。

「はは」

 ちょっとした運命のようなものを感じ、俺は即座にそのビニールテープを手に取った。

 ぐるぐると肩から肩へ巻き、背中に直接椅子をくくりつける。右腕だけでの作業はずいぶんと骨が折れたが、どうにか最後まで巻ききることができた。

 傍目にはとても不恰好な姿になってしまったが、そんなことはどうだっていい。目的を果たせさえすればいいのだ。

 作業を終えて立ち上がると、椅子の重さがずしりと肩に食い込む。右半身はともかく、壊れた左腕にとって、それは悲鳴を上げてしまいたくなるような激痛を走らせることになった。

 一瞬だけ表情が歪んだが、すぐに歯を食いしばって己を奮い立たせる。このくらいで膝を付いているようじゃあ、胸を張って夢の元へは帰れない。

 波津久の野郎、クソ迷惑な置き土産を残していきやがって。

 天に向かって悪態を吐き、それを最後に、俺は左肩の痛みを忘れてしまうことにした。

 あいつは――あの悪友は、死んでさえなお、俺に別れの言葉を残すほどの気概を見せてくれたのだ。

 まだ生きている俺が、この程度のことで音を上げてはいられないだろう。

 よし、とひとつ気合を入れて。

 大きな大きなグランドピアノを、力の限り押し歩いていく。

 目指す先は、もちろんあの場所。

 輪廻の花咲く、丘の頂。



  *



 わたしが目を覚ましたとき、そこに空人さんはいなかった。

 何度も目をしばたたかせ、きょろきょろと辺りを見回してみても、やっぱり空人さんの姿はどこにもない。

 もしかして、昨日までのことはぜんぶ夢だったのだろうか。

 わたしを好きだと言ってくれた空人さんの言葉が、夢だった……?

 そんなはずがない。あんな幻覚があるはずがない。あれは間違いなく現実としてあったことだ。

 わたしたちは結ばれた。短いけれど、とても長い時間を越えて、ようやく。

 その何よりの証拠に。わたしの体の中には、今でもはっきりと空人さんの温もりがある。

「……あはは」

 思い出すだけで嬉しくなる。そう、わたしは夢なんて見ていない。昨晩のことは、たとえ死んだって絶対に消えない思い出としてわたしの中に残ることだろう。

 じゃあ、空人さんはいったいどこに行ってしまったんだろうか。

 一瞬、とても厭な想像が頭を過ぎる。そんなはずない、と慌てて頭を振って思考を打ち消した。

 最悪の事態は思い浮かべることなく済んだけれど、それでも心がざわめいて仕方がない。空人さんが側にいない、それだけで自分がどうしようもなく欠けた存在であるように思えてくる。

 わたしたちはもう、二人でひとつなのだ。

 依存ではなく、共存。

 だからこそ、空人さんの居所が知れない状態にあるということが、どうしても耐え難く思えてしまう。

「どこに行っちゃったんですか、空人さん……」

 ぽつりと呟いてみても、やっぱり返事はない。なんだかとても悲しくなってきた。

 不安が最高潮に達そうとする間際、丘のふもとに、とある人影を見つけた。空人さんではないけれど、見知った顔。

「あのひとは……」

 お互いの表情がわかるくらいの距離にまで近付くと、彼は満面の笑顔を浮かべながらぶんぶんと手を振った。

 一度しか会ったことはないけれど、よく覚えている。

 数日前に立ち寄ったボロボロの喫茶店。

 忘れもしない――忘れちゃいけない、あの時に。

「こんにちはー!」

 小走りでこちらを目指しながら、大きな声で挨拶してくるその人。最初はちょっと戸惑ったけれど、額に玉のような汗を浮かべながらも決して翳らない笑顔に心を打たれ、結局わたしも「こんにちはー!」と大きな声で挨拶を返したのだった。ちょっと恥ずかしいけれど、お腹の底から声を出すのは、ちょっと気持ち良かった。

「ふう、ふう……いやはや、話には聞いていましたが、本当に立派な桜の木でございますね。こうして一度お目にかかることが出来て良かったです。心が洗われるようだ」

 ようやく坂を上りきった男性は、桜の木陰ではあはあと息を整えながら、大きな桜の木を見上げている。

「ああ、すいません。申し遅れました。私、三木幹介と申します。覚えていらっしゃるかはわかりませんが、こうしてお会いするのはこれが二度目になりますね」

「覚えてますよ。喫茶店の……えっと、マスターの方、ですよね」

「おお、おお。あなた様も私をそう呼んでくださるのですか。まさか空人様の他にも私をマスターと呼んでくれるお方がいようとは。ああ、今日はなんと素晴らしい日なのでしょうか」

 わたしが口にしたほんの一言で、心底嬉しそうな笑顔を作る、三木と名乗った男性。

 とても心の綺麗なひとなのだと、一目でわかった。

「空人様からお話には伺っております。春澤夢さんですね?」

「ええ、そう――じゃなかった。違います」

 今までずっとそう呼ばれていたせいだろう、反射的に肯定してしまいそうになる。慌てて口元を覆った。

「違う?」

「はい。今は、二宮夢と言います」

 怪訝な顔でわたしを見つめていた三木さんの表情が、最初は驚愕、それから一気に歓喜に満ちたものへと変わっていく。

 なんだろう。今までと違う名前を名乗るのは、どこかくすぐったくて、だけど少し誇らしい。

 春澤(ひとり)だったわたしは、二宮(ふたり)になったのだ。

「そうですか、そうでございますかっ。これはこれは、いやなんとも素晴らしい。お二人のご成婚、心から祝福させて頂きましょうとも!」

 ご成婚だなんて、なんだか恥ずかしい。

 でも、まるで自分のことのように喜んでくれる三木さんを見ていると、それ以上に幸せな気持ちが胸を満たしていく。

「ありがとうございます、三木さん。ほんとうに、ありがとうございます」

 めいっぱいの感謝を込めて、深々と頭を下げる。

 頭を上げたとき、三木さんの瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。

「こ、これは失礼……ううっ。駄目ですねえ、年甲斐もなく」

「いえ、そんなことないです。空人さんが三木さんのお店に入り浸ってたの、なんだかわかるような気がします」

「夢さん……うっ、ぐずっ」

 鼻をすすり上げる三木さんを、わたしは微笑ましい気持ちで見つめていた。

 人好きのする笑顔に、穏やかな態度。そしてどこまでも純粋な心。

 ……なんだか、お父さんに少しだけ似てるな、なんて。そんなことを考えていたときだった。

「私にも、ちょうどあなたくらいの娘がいたものでして……どうしてでしょうね。初対面も同然だというのに、夢さんをあの子に重ねてしまうのですよ。もしもあの子がずっと生きて、いつしか素敵な男性と巡り合うことができたなら、あの子もきっとあなたとそっくりの笑顔を浮かべて私に知らせてくれたのだろうなと、そう思うのです」

「……」

 言葉が言葉にならなかった。

 わたしは――わたし達は、こんなにも祝福されている。

「も、申し訳ありませんっ。こんなことを言って、お気を悪くなされたでしょう。戯言と思って聞き流してくだされば……」

「……そんなこと、しません。忘れません。三木さんがそう言ってくれたこと、わたしは絶対に、忘れません」

 自然と涙が溢れてきた。嬉しさと悲しさの入り混じった、止め様のない涙。

 生きることのできなかった三木さんの娘さん。あなたのお父さんは、今でもこんなにも貴女のことを想い続けてくれています。

 とても良いお父さんだと、わたしは思います。

「ううっ……ぐすっ、すんっ、ううぅっ……!」

「……夢さん。あなたは、とても優しい人なのですね」

 いつの間にか立場が逆になってしまったわたし達。ふと、頭に柔らかな衝撃を感じた。なんだろうと思って俯いた顔を起こす。

「そういうところは空人様によく似ていらっしゃる。とてもお似合いのお二人だと思いますよ」

 にっこりと微笑みながら。

 三木さんは、わたしの頭を優しく撫でてくれていた。

 ゆっくり、やさしく、なでなでと。

 その感触が、幼い頃の記憶を鮮明に呼び起こしていく。


 ――夢は、とっても優しい子だね――


 そう言って、よくわたしの頭を撫でてくれたお父さん。

 お母さんよりもずっと小さくて頼りないその手は、だけどわたしにとっては何よりも安心できる大きな大きな手のひらだった。

「うぁ……あああ……ひぐっ、うわぁぁぁぁぁんっ!」

 噛み殺していた嗚咽が、限界を超えて弾けた。

 ただただ、涙だけが後から後から湧いてくる。

「うぁぁぁんっ、お父さん、おとうさんっ、おとうさぁんっ! わぁぁぁああああんっ!」

 幼い子どものように泣きじゃくるわたしを前に、三木さんは何も言わず、ただ静かに頭を撫で続けるだけ。

 その優しさが身に染みて、余計に泣けてしまうわたしだった。



  *



 歯を食いしばり、朦朧とする意識をどうにか奮い立たせる。

 周囲に広がるのはどこまでも果てしない荒野。そのど真ん中を、馬鹿でかいグランドピアノを押して歩いていく姿というのは、他人から見ればさぞや滑稽に映るのだろうなと、そんな益体もないことを考えてみた。

 意味はないけれど、意義はある。

 考えることはいいことだ。それを続けていられる限り、俺は俺を見失わずに進んでいけるような気がする。

「ふぅ……はぁ、畜生……」

 悪態ならば吐いて捨てるほどある。存分に捨ててしまおう。

 灼熱の外気は容赦なく俺の身を包み込み、母なる大地もかくやというほどに熱烈な抱擁をもって歓待してくれる。ありがた迷惑もいいところだ。

 なんだかさっきから喉が妙に痛い。焼け付くような痛み。呼吸をするだけで弱りきった気道が悲鳴を上げる。体に水分が足りていないのだ。

 これだけ汗を流してるんだから当然だろうなぁ、なんて他人事のように考えながら、俺は再び止まった足を動かし始めた。

 右腕に全体重を乗せ、ほとんど寄りかかるようにしてグランドピアノを押していく。元より人一人の力で運べるような作りをしていない上に、あちこちがでこぼこになったこの悪路だ。ピアノが思うように進んでくれないのは自明の理ではある。

 疲労はとうに限界を超えていた。背負った椅子を支えるビニールテープはきりきりと張り、刃物をも思わせる鋭さで両肩に抉り込む。止血もろくにしていない左肩からは再度血が噴き出し、ずたぼろの衣服を鮮やかな朱色に染めていった。

 満身創痍。いつ崩れ落ちてもおかしくはない死に体を引きずって、荒れ果てた道を、一歩ずつゆっくりと、踏みしめていく。

 もしも叶うのならば、今すぐに四肢を大地に投げ出し、ふわふわと揺らめく意識を睡魔に売り渡し、いつまでも眠ってしまいたい。

 でも、それはできない。そうしたら、きっと俺はもう、二度と立ち上がれない。

 俺が立ち上がれなければ、このピアノを丘に送り届けることはできなくなる。

 その先の未来に、俺の望む幸せはない。

 自分でもどうかしているとは思う。こんな日に自分から死ににいくような真似をするなんて馬鹿げてる。長い苦しみの果てにようやく結ばれた愛する人と、一日中寄り添って最後の日を過ごす――そんな涙が出るくらい魅力的な選択肢もあった。

 それでも俺は、自らの意思で、こうすることを選んだ。

 ここまで諦めず必死に永らえてきた命。でも、だからこそ、この日にこそ、存分に使う価値があるのだと心から思う。

 一人じゃ生きてはいけなかったから。

 多くの人に支えられて、今だってずっと支えられて、ようやくこの大地に足を下ろすことのできる俺だから。

 あの桜の丘は、俺にとって特別な意味をもつ場所だから。

 何より、夢の奏でるピアノの音は、比類なく世界で一番綺麗なものだと信じているから。

 理由なんてそのくらいで十分だった。十分も十分、十二分。

 大好きな人達に、最高の場所で、最高の音楽を聴いてもらいたい。

 最愛の人の手で、最高の場所で、最高の音楽を弾いてもらいたい。

 その場に俺が居合わせることができたなら、後にも先にも、これ以上の幸せはないだろう。

 ゴールの先に待っている最高の未来を思い浮かべるだけで、もりもりと体に力が湧いてくる。頭を振って意識を切り替え、疲労は忘れるに徹し、俺はひたすらピアノを押して桜の丘を目指していった。

 あとどれくらい歩けばいいのか、とんと見当はつかないけれど。

 いくらだって歩いてやるさ。

 みんながいるんだ、あそこには。



  *



 ようやく泣き止むことのできたわたしは、それから三木さんに色々な話を聞いた。

 この異常なまでの暑さはなんなのか――だいたい予想はできていた。なるほど、こうしてわたしたちは焼かれて死んでいくらしい。あまり実感はないけれど。

「ここは木陰になっていてずいぶん涼しいですからね。他の場所で最後の瞬間を迎える方々より、いくぶん長生きできるかもしれませんよ」

 そんな冗談を言う三木さんに、あははと笑って返すことができたくらいだ。つまるところ、わたしには危機感が足りていないのだろう。

 でも、それならそれで構わないと思った。恐怖に怯えて膝を抱えて死んでいくよりは、余計なことを考えずに笑いながらその時を迎えたい。

 正直なところ、この一週間に色々なことが起こりすぎて、今さらその程度のことでどうこう思うことはない、というのが本音かもしれない。

 これから死ぬのだというときに『その程度のこと』呼ばわりは自分でもどうかと思うけれど、そう考えるのが一番自然のような気がした。

「空人様は、この丘に、夢さんのピアノを運ぼうとしていらっしゃいます」

 その言葉を聞いたとき、何かの聞き間違いじゃないかと、まず自分の耳を疑った。

 でも、どうやら本当のことらしい。今朝方、三木さんの喫茶店を訪れた空人さんは、確かにそう言い残して店を出て行ったという。

 正気の沙汰とは思えなかった。あれだけの大怪我をしているのに。

「夢さんがそうお思いになられるのも当然でしょう。ですが、空人様はとても強い意思をもって、今もきっとこの丘を目指して歩き続けていらっしゃいます」

「どうしてそんなことをしなきゃいけないんですかっ。わたしはただ、空人さんが側にいてくれればもう、他には何もいらないのに……!」

「空人様はそうではなかった、ということでしょうね」

 その言い方になんだか無性に腹が立った。わたしと空人さんを否定されたような気がしたのだ。

 すぐに三木さんは頭を下げ、失言でしたと謝ってくれた。そんなつもりで言ったのではないと。

「空人様は、今よりももっと幸せな未来を思い描いていらっしゃるのです。残り少ない時間でご自身にできる最善のことを、ただただ無心に追いかけていらっしゃるのです」

「意味が……わかりません……」

 泣きそうになって呟くわたしに、三木さんはたった一言、こう口にした。

「コンサートですよ」

「……え?」

「空人様は、この場所でコンサートを開こうとしているんです。この場にいる全員の幸せのために。そして何より――夢さん、あなたの幸せのために」

「コンサート……みんなの……わたしのために……?」

 まるで想像の範疇を超えている事実に、わたしはただ呆然と言葉を返すことしかできなかった。

 三木さんは穏やかな笑顔のまま続ける。

「不肖私を含め、観客は揃っていらっしゃいます」

 三木さんの瞳の先には、桜木に寄りかかるように眠る二人の亡骸。

 二宮桜さんに、槇原夜鐘さん。

 二人は今日も、優しい横顔で終わりゆく世界を見守っている。

「これ、私にとってはちょっとしたトラウマものなんですけれど……空人様が預かっていて欲しい、と」

 そう言って、懐から恐る恐る取り出したのは――見覚えのある、サバイバル・ナイフ。

 波津久翔羽さん。かつてのわたしの家庭教師で、空人さんの大親友。

「気が進みませんか?」

「……そんなこと、ないです。波津久さんにも、わたしの演奏、聴いてもらいたいです」

「それは良かった」

 にっこりと笑う三木さん。きっとこの人は、空人さんからほとんど全てのことを聞かされているのだろう。

 こんなにも空人さんに信用されているなんて、なんだかちょっと羨ましい。

「そういうことですよ。それに私も、夢さんの演奏は是非ともお聞かせ頂ければと思っていたのです。あれほど空人様が熱をあげてお話をされていたのですから、それはもう大層素晴らしいものに違いありません。こう見えても私、クラシックを聴くのが昔からの趣味でしてね」

「そんな……期待されても、わたし……」

「はっはっは、大丈夫ですよ。夢さんはきっと、いいえ、間違いなく最高の演奏を聴かせてくださることでしょう。知っているんですよ、私。大いなる主と神とメシアとサタンがね、そうなるだろうと予言を下さったんです」

「……?」

 ずいぶん楽しそうに言う三木さん。最後のほうはちょっと、何を言ってるのかわからなかったけれど。

「ともかく、待ちましょう。空人様がこの桜の丘を、最高のコンサートホールに仕上げてくれる、その時を」

「……待ってるだけなんて、嫌です。空人さんが大変な思いをしているのなら、今すぐ助けに行ってあげたいです。あんな体で、あんなに重いピアノを、ここまで運んでこられるわけが――」

「空人様が言っていました。『夢ちゃんは絶対にそう言うだろうから、なんとしてでも足止めしといてくれませんか』と。他の誰でもない空人様の頼みです。残念ですが、夢さんを行かせるわけにはいきません」

「どうして!」

 思わぬうちに大きな声が出る。

 まったく物怖じすることなく、三木さんは言った。

「『コンサートで頑張るのは夢ちゃんの役目。じゃあ、その舞台を整えるのは俺の役目だ。自分の役目くらい、きちんとやり抜きたいんですよ』――夢さん。わかってあげてくださいませんか。男性にはね、人生に何度か、不合理とわかっていても成し遂げなければならないことがあるのですよ。俗に言う、ロマンというものです」

「……卑怯じゃないですか、それって」

「はっはっは。私にもそういう頃がありました」

 一緒になって笑う気にはなれなかった。

 ただ、胸の中の燃えるような気持ちは、すうっと冷えていったように感じられた。

 本当に、仕方のないひと。

「……ちゃんと来てくれなきゃ、許さないんだから」

「きっと来てくださいますよ。良い嫁たるもの、いつだって夫の帰りを信じて待つものです」

「空人さんは浮気なんかしません」

「そういうつもりで言ったわけではないのですけれどねぇ……」

 遠く遥かな地平線。

 そこに、愛しい人の姿はまだ、ない。

 でも、あなたが待っていてくれと言ったから。

 わたしは、いつまでも待ち続けることにします。



  *



「……ヤバい。死ぬかも」

 何度目かもわからない極限を迎え、身も心もすっかり憔悴しきってしまった俺は、ついにそんな独り言を漏らしてしまった。

 もうどれくらい歩いただろう。でもきっと、そんなには歩いていない。時間だってそれほど経っているわけでもない。

 磨耗しているのは、俺の気力のほうだった。

 終わりの見えない丘への道は、あまりにも過酷で、あまりにも孤独で。

 あれだけ流れていた汗も、今はぴたりと止まってしまっている。体中の水分をすっかり流し尽くしてしまったのだ。

「ここで死んだら……カッコ悪いよなぁ……」

 うわごとのようにぼんやりと呟き、焦点の合わない瞳を意地で抉じ開け、どうにか足だけは止めずに、前へ、前へと体重を乗せていく。牛が歩くよりも遅い速度で。

 それからさらにしばらく歩くと、全身ががくがくと謎の震えを覚えるようになった。恐怖とも高揚とも違う、もっと生理的なもの。自分の意思とは関係なく、腕が、膝が、まったく言うことを聞かずに震え出す。

 がくがくがく、がくがくがく。一歩を踏みしめようと片足を上げると、残った片足では自重を支えきることが出来ず、俺の体はあっさりと地面に崩れ落ちた。

 どうにか立ち上がろうと体を捻る。が、まったく腰に力が入らない。片腕だけでは体が持ち上がらない。両足は痙攣したように激しく震え、何の使い物にもならなくなっていた。

 ……立てない。立ち上がることが、できない。

 これまで必死に耐えてきた最後の意地は、こんなにも容易く壊れてしまうのか。

 あれだけ懸念していた出来事が、ついに現実になってしまった。一度倒れてしまえばそれが最後、もう二度と立ち上がれはしないだろう――嘘だ。そんなの、嘘だ。

 必死になって体をよじり、もがき、どんなに不恰好でもいい、立ち上がれさえすれば、それさえできれば。

 地べたを這いずり回るミミズのように、何度も何度も体をよじる。背負った椅子が邪魔になり、寝返りひとつ打つこともできない。半ば自棄になって壊れた左腕を無理矢理に大地に突き立てると、全身に電撃のような激痛が走った。

 喉の奥から呻き声が漏れ、耐え切れず地面にうずくまる。薄目を開けて左肩に視線を遣ると、そこは今まで以上に濃い赤に染まり、心臓の拍動に合わせて、どくどくと血を吐き出し続けていた。

「……マジで……死ぬのかな、俺……」

 呼吸を荒げながら、首だけを動かして天を仰ぎ見る。

 真っ赤に燃える空の下。真っ黒なピアノが、己の存在を誇示するように、そこにいた。

 自分はこんなところで役目を終えるために生まれてきたのではないと、地面に横たわる俺を強い眼差しで睨み付けていた。

 そんなところで何をしている。早く立ち上がれ。早く自分をあの丘へ送り届けろ。そのためだけにお前は今日まで生きてきたのではないか。――そんなことを、言われたような気がした。

「こっちの事情も知らないで……気楽なもんだ」

 畜生、と悪態を吐いて、もう一度右腕に力を込めた。

 でも、結果は変わらなかった。

 どんなに命を削ったところで、俺は立ち上がることができなかったのだ。

 これまで意識して考えようとしなかった事柄が、一気に現実味を帯びて脳裏を過ぎる。具体化していくビジョン。この先に待っている末路。

 ピアノを丘まで送り届けられなかった俺は、このまま、この場所で野垂れ死ぬ。

 誰にも知られず、想いを遂げることもできず、星と共に無残な最期を迎える。

「それは……いやだなぁ……」

 想像しただけで悲しくなった。

 厭だ。こんなところで死ぬのは、厭だ。

 俺はまだ、何一つやり遂げていないじゃないか。

「畜生……!」

 何度も何度も体をよじる。無駄だと知っていても、そうせずにはいられなかった。

 絶対に諦めたくはなかった。その選択肢を選んだ瞬間に、俺はきっと死んでしまうのだと思った。

 だから、せめて、諦めない。最後の最後まで、絶対に諦めない。

「立てよ……立つんだよ、この野郎……!」

 立って。

 歩いて。

 歩き続けて。

 そうして、俺はゴールするんだ。

「なんで……なんで、立てないんだよ……!」

 愉快なマスターが待っている。

 可愛い妹が待っている。

 でっかい親父が待っている。

 奇特な親友が待っている。

「最後ぐらい、意地張って見せられねぇのかよ……!」

 誰よりも大切な、共に道を歩んでいくと誓った、生涯の伴侶が待っている。

「カッコ悪ぃよ、最悪だよ、一人じゃ何もできやしないのかよ……!」

 みんなが、俺を待っている。

 それなのに。

 それなのに俺は、こんなところで、無様に這いつくばっているだけなのか。

「くっそぉ……ちくしょぉ……ッ!」

 知らず、涙が溢れていた。

 頬を伝っていく熱い雫。この灼熱の中でさえ、その液体は決して体から熱を奪うことはしなかった。

 悔しい。ただただ、悔しい。自分の非力が。自分の惨めさが。

 大見得切って得意顔で、夢には決して告げず、一人で最後までやり抜くつもりだった。

 その末路が、これ。

 志は半ばで途絶え、大好きな人たちの顔を見ることも叶わず、どことも知れない場所で死んでいく。

 あまりにも俺らしい最期。

 一人では何も出来なかった俺は、最後まで何も出来ないままに死んでいく。

 もう一度、遥かな空を仰ぎ見る。そこには煌々と輝く死の象徴。まるで俺という矮小な存在を嘲笑うようにゆらめく陽炎。

「……駄目、なんだな」

 そういうこと、らしい。

 俺は一人じゃ駄目だった。一人じゃ何も出来やしなかった。

 頑張って生きてみたけれど、結局のところ、こんなにも弱いままだった。

「今更……気付くなんてなぁ」

「ほんとだよ。て言うか、今まで気付いてなかったことにびっくりです」

 びくん。突然の声に、思わず体が跳ねた。

 聞こえてはならないはずの声が、今、確かに聞こえた。

 鈴鳴るように心地良い声。血を分けた片割れの声。もう死んだはずの、桜の声。

 目をこすり、陽炎の向こうを注視する。

 すると。

「ずっとずっと、私が守ってあげてたんじゃない。子どもの頃からさ、ずっと。一人じゃなんにもできない空人のことを、それこそ死んでからもね、ずっと見守ってあげてたんだよ?」

 いるはずのない、桜が立っていた。

 当然のように、そこに立っていた。

「……さく、ら?」

「そーだよー。空人の永遠の愛人、二宮桜ですよー」

 言葉を失い、ただただ、呆けたように桜の姿を見眇めることしか出来ずにいた。

 桜はくすくす笑いながら、そんな俺を優しい眼差しで見つめている。

「変に格好つけるからこういうコトになるんだよ。空人はね、もう根っからダメな子なんです。こういう時に最後まで頑張れるような子じゃないんだよ。いつだって他の人の肩を借りて、それでようやく立っていられるような情けない男の子なんだよ」

 すぐに気付いた。幻覚だ。

 もう二度と見ることはないと思っていたのに、ここに来て、またしても桜は俺の前に現れた。

 二宮空人の弱さの象徴。

 断ち切ることで、俺はようやく変わることが出来たのだと思っていた。

「人間、そんなに簡単には変われないんだよ。空人は一人じゃ何にもできない。それはね、ちゃんと認めなきゃいけないこと。もっと年月を重ねて、たくさんの経験をしていけば、少しは変われるかもしれないけれど。もうさすがにさ、そんな時間はないじゃない?」

「……なんだよ。そんなつまらないことを言うために、わざわざ化けて出てきたのかよ」

 幻覚だと気付いているのに、俺は『桜』に対して言葉を返してしまった。

 その時点で認めたようなものだった。――桜の言う、俺の弱さとやらを。

「ふふ、つっかかる空人かわいー。そだよ。それだけ言いにきたんだよ、私」

「……ハッキリ言うなぁ、おまえ」

「嘘ついたって何にもならないじゃない。それに空人、なんか勘違いしてるみたいだけど」

 くるりと回って、踊るように。

 そして振り向いた桜は、紛れもなく――


「一人じゃ何もできなくたってさ。私たちがいるじゃない」


 いつか愛した女性の、涙が出るくらい綺麗な笑顔が、目の前できらきらと輝いていた。

 無意識のうちに手を伸ばしていた。その輝きに少しでも近付きたくて。

「ふふ、それでいいんだよ。一人で頑張らなきゃいけないのは、本当に孤独な人だけ。でも空人はそうじゃないでしょ? 助けてって言えば、ちゃんと助けてくれる人がいるんだよ?」

「助けて……くれる?」

「そうそう。さっきからずっと見てたけど、もう見てらんないよ。一人で立てないならね、他の人に手を引いてもらえばいいんだよ。簡単なことでしょ?」

 くすくすと笑う桜。相手を揶揄するようなものではない、慈愛に溢れた微笑み。

「そんなこと……」

「やっても無駄だって思ってる? それなら、試してみればいいじゃない」

 伸ばした手に触れる桜の感触。ぎゅっと握り締められると、手を介して暖かさがじんわりと伝わってきた。

「それじゃいくよ。んっ、しょ……!」

 ゆっくりと引き起こされていく体。自分ではどうやっても動かすことの出来なかった腰が、ふわりと浮いた。夢を見ているようだった。

「あーごめん、もう無理。空人おもーい」

 ずどん、と腰から地面に叩き落とされる。

 超痛かった。奇しくも夢ではないことが証明された。

「ここまで来て何なんだよそのオチは! アホか!」

「しょうがないじゃん、私力ないし。空人が重いのが悪いんです」

「重かねーよ! こんだけ期待して損したのは生まれて初めてだよ!」

「あはは。そうそう、空人はそれくらい元気じゃなきゃね」

 そりゃそうだ、幻覚なんだから。

 いったいどういう道理で俺の体が浮いたのかはわからないけれど、結局のところ、結果は何も変わらない。

 当たり前の事実が、そこにあった。

 はずなのに。

「そんなにがっかりしないでってば。私じゃダメだったけど、空人にはまだまだ頼れる人がいるじゃない?」

「そういうことだ。手を出せ、空人」

 続けて聞こえた低い声は、間違いなく桜の声ではないだろう。

 じゃあ、誰の声?

 考えている間に俺の体はぐんと引き起こされ、何が起こっているのか理解することもできないまま、次の瞬間には、俺は二本の足で地面を踏みしめていた。

「は……え、何……?」

 ぽかんと口を開けたまま、眼前に立つ大きな男の顔を見上げる。

「そんな間抜け面を見せるんじゃない。やることがあるんだろう、お前には」

「……親父、さん……?」

 間違いない。親父さんだ。親父さんが、すぐそこに立っている。

 その岩のような手で俺の体を引き起こし、何事もないという風に平然と立ち続けている。

「嘘だろ……だって、これは俺の見てる幻覚のはずで……こんなの、説明が……」

「だとしたら、お前は一人で立ち上がることが出来たんだろう。説明などそれで十分だ」

 それだけ言って、親父さんはその巨大な腕をグランドピアノにそっと添えた。

「早く行くぞ。待っている相手がいるんだろう」

「あ、もちろん私も手伝うよー」

 右隣に親父さん、左隣に桜。二人の幻覚に挟まれて、俺は再びピアノと向き合って立っていた。

「空人の好きなタイミングでいいからね。一緒に押してこ。大丈夫、三人ならこんなの楽勝だよ」

 ……何なんだよ、この都合のいい幻は。

 どれだけ優しいんだよ、あんたらは。

 こんなの……卑怯だよ。

「……は、ぁ」

 小さく息を吸って、吐いて。

 それから、ゆっくりと右腕に力を込めた。

「はは……ははは、なんだよ、なんだよ、これ……!」

 あれだけ重かったピアノは、驚くぐらい軽かった。

 親父さんが、桜が、俺に手を貸してくれている。こんな情けない俺のことを、最後の最後まで見捨てることなく、今もずっと助けてくれている。

 するすると前へ進んでいくピアノ。今までの苦労が嘘のようだ。今の今まで、俺はいったい何をしていたのだろうか。

 どんなに頑張ったって、一人じゃ絶対に駄目な時はある。

 そういう時は、誰かに助けを求めればいいんだ。

 そんな簡単なことに、俺は今、ようやく気が付くことが出来たのだ。

「快調快調っ。これならすぐに丘まで帰れるねー」

「桜。全く力を入れていないだろう、お前」

「なななっ、なんでバレてるのー!?」

 親父さんに不正を見咎められた桜が、慌ててピアノを押す仕草を見せる。

 片やその親父さんと言えば、ひたすら寡黙に前だけを見据え、無表情のまま、俺と歩調を合わせて前進を続けていた。

 相変わらず機械のような人だけれど、時おり額に浮かんだ汗を拭う様子は、生前より幾分人間らしい。

「はは、あはは、ははははは……!」

 二人が交わす、そんな何気ないやり取りがあんまりにも面白くて、俺は思わず噴き出して笑ってしまった。

「ずいぶん楽しそうですねぇ。僕も混ぜてくださいよ?」

 不意に、背中から聞こえる第三の声。

 振り向くまでもない。嫌味ったらしく虫唾の走るこの声が、あいつじゃなくて他に誰だと言うのだろうか。

「お前は呼んでねえ」

「呼ばれなくたって来ますよ。もう待ちくたびれてしまいましてね、もしやどこかで野垂れ死んではいないかと心配していたのですが」

 くふふ、という耳障りな笑い声。

 変わらないヤツだよなぁ、こいつも。

「杞憂だったようですね。この調子なら、僕が手を貸す必要もなさそうだ」

「当然だっての、お前の手なんか借りねえよ」

 背中越しの会話。俺の隣で、桜がくすくすと笑っていた。

「まあ、そうは言ってもですねぇ」

 後ろからの声が、真横に並んだ。

「三人よりは四人のほうが、少しは楽になるでしょう?」

 ふっと、さらに軽くなるピアノ。

 首だけで横に目をやると、にやにやと笑っている、もう見飽きた顔がそこにあった。

 ああもう。どいつもこいつも、俺の周りにはどうしてこんな物好きばかりが集まってしまうのだろうか。

「……一度しか言わねえからな。絶対だぞ」

「なんです、二宮君?」

 できる限り無心に。何でもない風を装って。

「……あ――」

 言葉にしようとした瞬間、どうしようもなく涙が溢れてきた。

 無理だった。平然と言うなんて、出来るわけがなかった。

 思わず笑ってしまうくらい、馬鹿みたいに俺は泣いた。

 泣きながら、笑いながら、ほとんど自棄になって、叫ぶ。

「はは……はははっ、こんなこと、一生言いたくなかったけどよ! 畜生この野郎、ありがとう! ありがとう、ありがとう、ありがとぉ……っ!」

「……くふふ、おやまあ、これはまた。どういたしまして、二宮君」

 傍から見れば、頭がおかしくなってしまったんじゃないかと思われても仕方ない。

 それでも俺は、その言葉を言わずにはいられなかった。

「ねーねー空人、私にはー?」

「自分から催促するかよ普通! ああもう、だけど言ってやるとも! ありがとう! 助けてくれてありがとう! お前が妹で良かった! 大好きだよ、桜ぁっ!」

「ふふ、私も大好きだよ。槇原おじ様にもちゃんとお礼の言える空人はもっと好きだなー」

「当たり前だっての言われなくたって、親父さんも……」

 ありがとう、と口にしようとして、言葉が詰まる。

「……ごめんなさい。最後の最後まで、情けない奴でごめんなさい! 親父さんの誇れるような男になれなくてごめんなさい! 迷惑ばっかりかけてごめんなさい! うわぁぁぁぁぁぁっ、ごめん、ごめんなさいぃっ!」

「馬鹿な奴だな。今更になってそんなことを言われても困るだけだ」

「だってさ空人。でも、よく言えたね。えらいえらい」

「やめろよそういうこと言うの、あぁぁぁ畜生、畜生、畜生ぉぉぉ! ありがとう、親父さんありがとう! いつまでも俺の親父さんでいてくれて、ありがとぉぉぉぉぉぉっ!」

「……俺は何も特別なことはしていない。親父が息子を守るのは、当然のことだろう」

 ぶっきらぼうに言い捨てる親父さんは、だけど少しだけ微笑んでいるように見えた。

 そんな親父さんを見ていたら、もう俺は本格的に駄目で。子どものようにわんわん泣きながら、ただただ帰るべき場所を目指してピアノを押し続けた。

 良かった。この人たちと共に生きることができて、本当に良かった。

 避けられない死を目の前にして、こんなにも晴れやかな気分でいられることが、果たして他の誰にできるだろうか。

 誰にもできない。俺だからこそ、こんなにも幸せな気持ちで、この日を生きていくことができる。

 屑みたいな人生だと思っていた。生きる価値なんてないと思っていた。誰からも必要とされてなんかいないと思っていた。

 そんなこと、なかった。

 俺はこんなにも幸せだった。

 世界で一番幸せだ。絶対だ。俺より幸せな奴なんてどこにもいない。

 感謝の気持ちで胸が満たされる。世の中のすべてが愛おしく思える。

 断言する。俺はこの日を迎えるために、これまで醜くも必死に生きてきたのだ。

 ありがとう。

 これ以上に今の気持ちを伝えられる言葉を、俺は知らない。

 だから、何度だって同じ言葉を伝え続けよう。

 世界が終わる、その瞬間まで。



  *



 長い道程も、みんなと一緒ならあっという間だった。

 開けた視界の先。今日まで寝食を共にし続けた、薄紅色の大樹。

 遠くから俺の名前を呼ぶ声がする。一人は三木さんだ。外見に似合わない甲高い声で、ぶんぶんと手を振りながら満面の笑顔で俺を迎えてくれている。

 もう一人は、声にならない声で、その大きな瞳に涙をいっぱいに浮かべて、俺の姿をまっすぐに見つめ続けていた。

 泣かせてしまったことに対する罪悪感の反面、こんなにも想われていたのだという事実が、なんだか嬉しくもある。新婚早々、最低な亭主だなぁ。

 舞い上がる砂埃に視界を遮られながら、傾斜のある丘を上っていくのは、これまでの道とは比にならない労力を必要としたが、俺は――俺たちは、どうにか最後まで、上りきることができた。

 丘の頂上まで辿り着いた瞬間、これまで共に歩んできた仲間たちの姿は空気に混ざるように掻き消え、役目を終えた俺自身の体も、ふらふらと地面に吸い寄せられるように崩れ落ちていった。

「――空人さぁんっ!」

 倒れこむ間際、血に濡れた体もまったく厭わずに、夢が俺の体を抱き留めてくれた。か細い腕は柔らかくて暖かくて、これ以上ないくらい心地良くて。

「はは……ただいま、夢ちゃん」

「馬鹿、空人さんの馬鹿馬鹿馬鹿ぁっ! すっごくすっごく心配したんですよぉっ! もう、空人さんの顔は見れないんじゃないかって思って、わたし……わたし……っ!」

 震える声を隠そうともせず、夢は真正面から俺の顔を睨み付ける。ああ、怒ってる。そりゃ怒るよなぁ、勝手に一人で死にかけたりしたら。俺が彼女の立場なら絶対に同じことを言う。

「ごめん……でも、ほら。帰ってきたからさ」

「当たり前ですっ……! ほんとに馬鹿です、空人さんはっ……!」

 夢には俺を罵倒する権利がある。俺は夢に罵倒される義務がある。どれだけ頬を叩かれたって、俺の抱えた負債はもう、一生をかけたって返しきれないほどに大きいものだから。

 暖かい胸の中で、甘んじて苦言を受け入れ続ける。

「馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿ぁ……大好き、大好きっ、空人さぁんっ!」

「ん……っ!」

 すると突然、柔らかな感触が俺の唇を塞いできた。

 真っ暗になった視界。さらさらと頬を撫でる頭髪の感触。夢からキスをされているのだと気付くまでにはずいぶんと時間を要した。

 その間にも夢は貪るように口付けの嵐を降らせる。俺がそこにいることを必死に確かめるかのように。

「大好き、大好きなんです……ん、ちゅっ……空人さん……もうどこにも行かないで。ずっとわたしの側にいて。……んっ。そうじゃなきゃ、空人さんのこと、嫌いになっちゃいますからっ」

 息遣いがすぐ間近に感じられる距離で、夢は瞳を潤ませながら言う。

「大丈夫、もうどこにも行かないよ。それと……その。俺も大好きだよ、夢ちゃん」

 返事の代わりに、再び唇を押し付けられる。

 甘く痺れるような感触は、俺たちが生きている確かな証拠でもあった。

 俺は帰ってきたのだ。愛しい人が隣にいてくれる、この場所に。

「いやはや……若いとは素晴らしいことですね」

 背後から聞こえた声に、俺と夢は弾かれたように顔を離した。ほとんど同時に後ろを振り向くと、これ以上ないほどに楽しそうな笑顔を浮かべた三木さんがそこにいて。

 すっかり彼の存在を失念していた俺たちは、慌てて状況を取り繕う。正直今さら意味はないだろうけれど。

「あ、あの、その、これはその」

 夢が真っ赤になって手を振ったり首を振ったり、なにやら謎のジェスチャーを見せている。俺と同様、こちらもまた三木さんの存在を失念していた様子だった。

「ほっほっほ、良いのですよ。感動の再会に水を差すような真似はいたしませんとも」

「うう、あうぅぅぅ……」

 本気で恥ずかしくなってしまったようで、夢は顔をすっぽりと俺の胸の中へと埋めてしまった。それって余計に恥ずかしくないか?

 胸に幸せそのものを抱きながら、俺はにこにこ顔の三木さんと視線を交わす。

「よくぞ帰ってきてくださいましたね。私は信じていましたよ」

「……マスター」

 全身汗びっしょりで、今にも倒れてしまいそうなほどに息を荒げているくせに、言葉だけはいつもと変わらない風を装い続ける三木さん。それ以上を語らない優しさに、俺はただただ深く頭を下げた。

 夢がこうしてずっと俺を待ち続けていてくれたのは、間違いなくこの人がいたお陰なのだろう。この懐の広さに、俺はいったい何度助けられてきたことだろうか。

「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」

「何もお礼を言われるようなことはしていませんよ。私の方こそ、ありがとうございます。あなた様は最後までやり抜いてくださった。こんなにも辛い道程を、一人きりで戦い続けてくださった」

「……いいえ、それは違います。一人なんかじゃない。俺は一人じゃ何もできませんでした」

 あの長い道程を思い描く。

 一度はきっと死んでいた。

「みんながいてくれたから。だから、俺はここまで来れたんです」

 迷うことなく、毅然と言い放つ。

 幻覚だって何だって、俺は。妹に、親父に、親友に、この死にかけの体を支えられて助けられて、ここまでようやく辿り着くことが出来たのだ。

「一人きりじゃ、俺は生きていけなかった」

 決して長くはなかった、けれど決して短くもない生涯を、一から十まで順々に思い出していく。まるで走馬灯のように。

 思い浮かべたその景色の中。俺の側にはいつだって、誰かが一緒にいてくれた。

 なぁんだ。そう考えてみれば、単純なこと。

 俺は最初から最後まで、いつだってずっと誰かに支えられながら、そのくせ一人きりで生きているつもりになっていたのだ。

「どうして。今の今まで、気付けなかったんでしょうね」

 僅かな悔恨を込め、ぽつりと呟いた一言。

 そんな戯言でさえも聞き漏らすことなく、三木さんは正面から、明朗な声ではっきりと答えてくれた。

「考え方を変えれば良いのですよ。ずっと気付けなかったかもしれないことに、時間が残されているうちに気付くことが出来たのです。喜びこそすれ、何を憂うことがあるのでしょう?」

 そんなことをあっさりと言ってのける三木さんに、俺は苦笑混じりの――心からの笑顔で、感謝の言葉を告げた。

 そして三木さんもまた、相変わらずの笑顔のまま。

「さあ、コンサートの準備を始めましょう。空人様、ここまで来て手出し無用などとは言わせませんよ。無賃で名ピアニストの演奏を聞かせて貰おうと言うのですから、最後のセッティングくらいは私に任せていただきますからね」

 むん、とおどけた仕草で力こぶを作る三木さんに。

 お願いします、と泣きそうな笑顔で答える俺だった。



「桜って木はさ。一年かけてようやく花を咲かせて、それなのにほんの数日で花びらをぜんぶ散らしちゃうんだ。なんだか悲しいと思わない?」

「悲しいとまでは思ったことはないですけど……寂しいな、とは思いますね」

「そう。綺麗な花をつけるのはほんの一瞬。まるで俺たちみたいだ」

 夢の膝の上に頭を乗せて、もうずいぶんと散ってしまった桜を見上げながら、俺は穏やかな気持ちで微睡みかけていた。

 これが単純な眠気から来るものではないことを何となく理解しながらも、また同時に、心はとても落ち着いていることに気付く。

 夢や三木さんより少し先にその時を迎えてしまうのは心残りだけれど、仕方ない。俺が選んだ最善の未来は、最高の形で実現しようとしているのだから、これ以上文句を言ったら罰が当たるというものだ。

「でもさ。散ってしまった桜の木は、一年経てばまた満開の花を咲かせるんだ」

 春が去って、また春が来て。

 親から子へ、子から孫へ。

 移ろっていく。止まることなく、いつまでもどこまでも流れていく。

「輪廻転生ってさ、夢ちゃん、信じてる?」

「うーん……あったらいいなとは、思います」

 白んでゆく視界に映る、夢の少し困ったような顔。いきなり何を言い出すのかと思われてしまったかもしれない。他でもない俺自身、自分が何を口にしているのか、ほとんど自覚のないままに言葉を紡いでいるのだから。

「もしも生まれ変われるならさ。俺、もう一度夢ちゃんと会いたいな」

 びくん、と夢の体が反応した。

 ずっと交わり続けていた視線が、僅かに斜めに逸らされる。華奢な体はふるふると静かに震えているようだ。

「わたし……精一杯、我慢してるのに」

 非難するような声で、夢は言う。

「そんなこと言われたら……我慢、できなくなっちゃう、じゃないですか」

 白く綺麗な頬を、透明な雫がひとすじ、伝って。

 どうにか動く右腕だけを伸ばして、雫が地面にこぼれる前にすくい取る。

「いいよ、我慢しなくても。俺だってもう、たくさん泣いた」

「……空人、さん……」

 小さな指で俺の手を取り、きゅっと握り締めながら。

 夢は最後に、声をあげずに静かに泣いた。

 積もった想いを吐き出すように、様々なものを受け入れるために。

 流せる限り涙を流してから、彼女は俺の名前を呼んだ。

 空人、と。

 意を汲み取って名前を呼び返してやると、夢はなぜだか顔を真っ赤に染めて、再び俺から視線を逸らした。

 そう言えば、こういう風にお互いを呼ぶのは初めてのことかもしれない。意識したことはなかったけれど、夢の反応を見るに、やはりきっと初めてだったのだろう。今さら何をやってるんだろうね、俺たちは。

 でも、嬉しかった。またひとつ心が通い合ったようで。

「空人様、夢さーん! 準備、終わりましたよぉー!」

 大きな声でぶんぶんと手を振る三木さん。桜の根元に場所を移したピアノと、その正面に敷かれた簡素なビニールシート。その上には親父さんと桜の亡骸、加えて波津久のナイフが既に着座していた。

 俺と夢は顔を向き合わせ、どちらともなく微笑を作る。

「終わったみたいだよ。それじゃ行こっか、夢」

「はい。……立てますか?」

「肩、貸してくれるかな」

「喜んで。足元に気を付けてくださいね」

 夢の小さな体にもたれかかるようにして、俺たちは僅かな距離を歩いていく。ゆっくり、慌てず、一歩ずつ。

「空人」

「なに?」

「いえ、呼んでみただけです」

 くすくすと笑う夢の横顔は、喩えようがないくらい綺麗だった。

 こんなに綺麗な夢が、こんなにも綺麗な場所で、これから最高に綺麗な音楽を奏でてくれるのだと思うと、今のうちからもう胸が幸せで満たされていく。

 重なり合う二人の歩みは、やがてビニールシートに辿り着き、止まる。

 正面に桜とピアノが見えるように、その場へと静かに体を横たえた。

「ごめんね、こんな姿勢で」

「いいですよ。途中で寝たら怒りますけど」

「そりゃ怖い」

 それは、なんとしてでも最後まで聴いていなければなぁ。

 怒った顔よりはやっぱり、笑った顔を見ていたいものなぁ。

「それじゃあ、行ってきますね」

「うん。行ってらっしゃい」

 できれば逆が良かったな、なんてアホみたいなことを考えながら。

 夢が座椅子に腰かけ、ピアノと向き合い、緊張したように深呼吸をしている様まで、その一挙一動を余すことなく網膜に焼き付ける。

 気が付けば俺のすぐ隣には三木さんが腰を下ろしていた。視線が合うと、いつもの人好きのする笑顔を浮かべ、だけどそれきり何も言うことはなかった。

 俺と同じようにして、じっと夢の様子を眺める三木さん。彼もまた、この光景を決して忘れまいとしてくれているのだろう。

「今までのどんなコンテストより、緊張します……」

 そんなことを言う夢を、俺たちは暖かな眼差しで見守り続ける。

 もちろん桜も親父さんも、それにきっと波津久も。

 辺りは水を打ったように静か。風もぴたりと止んでいて、桜の葉音ひとつすら聞こえない。

 舞台は完璧に整った。みんなのお陰で、こんなにも素晴らしい舞台が出来上がった。

「……みんな、見ていてくれてます。お父さんのピアノと、お母さんの楽譜も」

 目を閉じた夢が、ふっと体から力を抜いて。

 ひとつ息を吐いてから、両手を構えて凛と姿勢を正す。

「頑張らなきゃ、ですね」

 空の上、雲の向こうにはもうじき辿り着く灼熱の星。

 世界は終わる。間違いなく、終わる。

 でも。

 そんなこと、今はもう関係ないんだ。

「頑張れ、夢」

 最後の舞台を完成させるために。

 世界で一番のピアニストが、今、ゆっくりと最初の一音を奏で始める。

 それだけで自然と頬を伝っていく涙。ふと三木さんを見ると、彼もまた目頭を熱いもので覆っていた。

 心配なんて無用だった。

 あたたかい旋律の波に包まれながら、俺は赤い空を見上げて、心ながらに思う。



 うん、色々あったけれど。

 良かったよ。今まで、頑張ってきて。

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