Saturday:音終(おとつい)
誰もいない部屋、何もない部屋、一人だけの部屋。
瓦礫にまみれ埃をかぶった薄汚い部屋の隅っこで、わたしは一人、膝を抱えてうずくまっている。
「……――……」
ぶつぶつと無意識のうちに漏れ出る言葉。何を言っているのかはわたし自身にもわからない。誰にも届かない声を、何度も何度も、わたしの身体は繰り返す。
わたしはわたしがわからない。意識と身体が分離してしまったかのようだ。……いや、実際にそうなんだと思う。なんだかずっと、ふわふわとした不思議な感覚に包まれている。ほんの数度飲んだことがあるだけだけど、お酒に酔った時の感覚に似ている、と感じた。だけど気持ち悪くもなければ気持ち良くもない。胸に去来するのは空疎な虚無感だけだった。
そして、その代償に失ったものは命の感覚。昨日からずっと、生きている実感が全くと言っていいほどに消え落ちてしまった。今のわたしはきっと、この場所に『居る』のではなく『有る』だけなんだと思う。空っぽの身体と壊れた精神が同居する、ひどく不安定なわたしという人形。傀儡。
惨めだな、と思う。
だから何? と思う。
もう、何だっていいじゃない。わたしの信じたものは隅から隅まで綺麗さっぱり砕かれた。たった一つの欠片も残さず、完膚なきまでにわたしは壊された。もう戻れない。もう笑えない。笑えない。
惨めで悪いか。わたしは生きた。精一杯に生きたんだ。
心の中で、ひたすらに叫ぶ。
誰に揶揄されようがわたしは生きてきたんだ。色んなものに追いすがって、裏切られるたびにまた新しい温床を探して。
そう、いつだってわたしは何かを探した。独りでいることが怖くて、耐えられなくて、いつだってわたしは誰かを探した。側にいてくれる誰かがほしかった。……そんなわたしを、弱い子だと笑うだろうか。他者に依存することでしか生きていけないわたしを、情けない女だと思うだろうか。……結構。そんなの、誰に言われるまでもなく承知のことだ。わたしは弱く、情けない。一人じゃ数日と生きていけない、脆弱で矮小な小娘なのだ。
でも。でも、誰だって結局はそうなんじゃないか。多かれ少なかれ、人間は誰しも干渉し合い、利害関係を一致させ、時に妥協しながら生きているじゃないか。物理的にもそうだし、精神的にも、そう。わたしがいれば幸せと言ってくれたから、わたしもあなたがいれば幸せ。端的な言い分だけど、突き詰めればすべてそういうことだ。最初から最後までずっと、ただの一人で生きていくことのできる人間が、果たして何処にいるとでも?
……いるはずない。いないよ、そんな人。どこにもいない。いるとしても、その人は決して強い人じゃない。あえて言うなら、そう、壊れてしまっただけ。人であることを失ってから、初めて人は一人になれる。
それなら……わたしは、どうなんだろうか。
壊れてしまったわたしは、ようやく一人になることができたのだろうか。
「……――……」
ぶつぶつ、ぶつぶつ。何を言っているんだろう。聞こえない、届かない、わからない。
心が荒んでいくのを感じる。ささくれ立った感受性は、わたしから一切のものを奪っていったのだ。なのに……痛い。心臓が痛い。頭が痛い。四肢の付け根が痛い。身体の全部が、心の全部が、耐え難い痛みに疼いている。
どうしてこんな痛みに耐えなければいけないのだろう。どん底にまで打ちのめされて、それでもまだ足りないと言うのか。まだまだ苦しめと言うのか。一人になることなど許されないと。誰かは知らないけれど、そんなことをわたしに言うわけだ。
どうして。
どうして、こうなったんだろう。
「……――……」
ほんの一年前まで、わたしは人並み以上には幸せだった。時に厳しかったけれど、大好だったお父さんとお母さん。時に辛かったけれど、常にわたしを支えてくれた音楽。あとは平凡な日常。それで十分だった。ううん、それ以上に何を望むの?
一体、わたしの何が悪かったのだろう。どうして神様はこんな罰を下したのだろう。理由がある? 悔い改めればまた幸せになれる? もしもそうなら、わたしは全てを投げ出してでもやり直したい。
だけど現実と幻想は決定的に違う。決して交わらない、相反する要素。だからわたしは諦めた。やり直すことを諦めて、帰らないものを追うことを諦めて、今を生きることに全力を尽くそうと決めたんだ。
お母さんとお父さんがいなくなってしまったあの日。わたしは、とある男の人に出会った。様々な感情の入り混じった、複雑な顔をしていた彼。軽薄な語り口に、深い闇を湛えた瞳。不思議なひとだった。
言ってしまえば、わたしにとっての新たな温床は、間違いなく彼だったのだろう。
迷惑だったと思う。初対面から胸を貸してもらったり、いきなり告白してみたり。そんなわたしに、彼はこんなことを言っていた。
――夢ちゃんは俺のことを好きになるべくして好きになったんじゃなくて、好きになるために好きになったんだよ。
なんてデリカシーのない人だろう、とは思うけれど。納得もしたくはなかったけれど。
だけどそれは、たぶん、事実なんだと思う。
でも……だけど……うまく言えないけれど……その、彼に出会うたびに胸に疼く気持ちは、彼の不器用な笑顔を見るたびに高鳴る胸の鼓動は、そんな打算的なものじゃなかった。
いつだって不安定で、すぐにでも消えていきそうな儚さを湛えて、そのくせ日を追うごとに少しずつ自分を濃くしていった彼。色々なものから逃げて、それでも少しずつ正面から向き合うことを諦めなかった彼。そんな彼の真摯な横顔は、いつでもわたしを幸せな気分にさせた。
彼の言うところの、過程と結果がたまたま逆になってしまっただけで。
結局、わたしは本当に彼のことを好きになっていたのだ。
だから……彼だからこそ、わたしは、こんなにも壊された。彼じゃなければ、わたしはきっと揺るがなかった。
「……空人、さん……」
どうしてあなただったんですか。
わたしはそれが、死ぬほど悔しい。
*
果たして今が朝なのか、昼なのか、それとも夜なのか。壊れた空の色からは何事も窺い知ることは叶わない。
「おはようございます、春澤さん」
そんな頃合を見計らったかのように。
わたしの元に、予想外の人物が現れた。
「……波津久さん」
不気味に口元を吊り上げ、濁った両眼でわたしを見下ろしている長身痩躯の男性。いつの間に部屋へ入ってきたのだろうか。……戸締りも何もあったものではないし、わたしはこんな状態だし、侵入は実に容易かっただろう。――だなんて、そんな馬鹿みたいに客観的な意見を論じているわたし。
「おやおや、返事をしてくれるとは意外ですね。すっかり嫌われてしまったものと思っていたんですよ、僕は。いやぁ、ふふ、嬉しいなぁ」
「……」
それ以上声を返す気力はない。この人のことはあまり相手にしたくない。わたしは無言のまま背を向けて、彼への無意思を伝えた。
「元気がないですねぇ。どうしたんです、春澤さん?」
「ッ――!」
あなたが――お前が、それを言うのか。
そうだ……そう。この人があんなにも無為な干渉を行わなければ、わたしは今まで通りに生きていることが出来たはずなんだ。
この人さえ……この人さえ、いなければ。
「おお、怖い怖い。女の子がそんな顔をするものではないですよ。くふ、それにね、そんなのはただの逆恨みと言うのです。お門違いも甚だしい」
「な……にを……ッ!」
気付いたとき、わたしは立ち上がって彼と向かい合っていた。
自分でもわかる、滲み出るほどの負の念情。今のわたしは一体、どんなに醜い顔をしているのだろう。
だけど、そんな感情も所詮は一時のものにしか過ぎなくて。
「さてまあ尤も。なかなかに痛快ではありましたけどね、あなた方二人が演じる茶番劇は。厭世のヒーローに悲劇のヒロイン? くくく、そんな体裁の良いものではないですよね。差し詰め、馬鹿と間抜けの織り成す喜劇と言ったところでしょうか。僕はそいつを少しばかりお膳立てしてあげただけです。いつか必ず辿り着く答えならば、それを知るのは早いほうが良いに決まってるじゃないですか。あは、時間は、うふふ、有限なのだから」
狂気の嗤顔が、わたしの身体を鷲?みにする。それだけで昂ぶった感情がみるみるうちに押し潰されていく。わたしはあまりにも弱かった。そして彼の表情はあまりにも、あまりにもあまりにも狂っていた。
「ご機嫌いかがでしょう、春澤さん。僕はとっても愉快です」
怯えるわたしなど意にも介さずという風に、波津久さんは前後の繋がらない台詞を吐く。
以前には『彼』がいた。だけど……たったの一人で向かい合うには、波津久さんは壊れすぎている。その場に立ち尽くしたまま、わたしは両足を震わせた。
「波津久、さん……どうして……」
真っ白な頭で、自分にも意味の伝わらない言葉を呟いた。どうして、その後に続く言葉はまったく浮かんでこなかった。
「どうして? ふふ、あはは、どうして、ですか。そうですねぇ、どうしてでしょうかねぇ」
「……」
波津久さんは嗤う。何が楽しいのだろう。
……だけど、それはもしかしたらわたしの思い違いで。
「きっと、そうすることでしか僕は生きていけないのでしょうねぇ」
「……っ」
その一言が語られるあいだだけ、不思議と波津久さんの表情に昔のそれが重なった。いつもにやにや笑っていて、口調には自信が溢れていて、言うことなすこと全てがちょっと変で、変態を否定して変人を肯定する、在りし日の波津久翔羽という男性。
ほんの少しだけ触れ合った、わたしの家庭教師だったひと。
「うふふ。優しいんですね、春澤さんは。そもそも、そんな馬鹿正直に僕の話を聞く義理なんてないんですよ。話半分に聞き流しておけば良いのです。お互いそれで幸せになれる」
「……波津久さん。わたしには、あなたが理解できません」
彼に対する恐怖が消えたわけじゃない。
だけど、足の奮えは止まっていた。
「理解なんて結構です。そんなもの、本当にされたら困ってしまいます。人は独りで生きていくものですよ」
「それは違います。人は独りじゃ生きていけません」
反射的に抗論が口をつく。ああやっちゃったなとは思ったけれど、この言葉にだけは背きたくない。それを捨てたとき、わたしはわたしでなくなってしまうのだから。
「へぇ……ふふ、言うじゃないですか春澤さん。結構。大いに結構。素晴らしい、それでこそ僕の見込んだ女。嬉しいですよぉ……?」
即座に狂気が辺りを包む。わたしは体を竦ませ、それでも目線だけは逸らさないように心を保つ。目を逸らしたらもう、二度と彼と向き合えることはないと思った。一度でも折れてはいけない。負けてはいけない。どんなに怖くても、どんなに理解できなくても、この男に屈したくはない。
理由は、よくわからない。色々ありすぎて、もしくは文字通り。
「……何しに来たんですか、波津久さん。これ以上わたしを壊して楽しいですか」
気丈なつもりで、弱々しい言葉をどうにか吐いた。
「それはもちろん。他人を壊すことだけが僕の生き甲斐ですから」
「最低……見損ないます」
「ありがとうございます。さてまあ、僕も彼ほどには及びませんがね」
「……彼、って」
左胸の隅っこが、じくじくと傷んだ。
「君の一番大事な人たちを奪った、あの愚かな男のことですよ」
にんまりと、三日月を想起させる嗤顔が浮く。
「…………」
「おや、言い返さないのですね。くふふ……半分は予想の範疇、ですけど」
うるさい。
「理由、衝動、そこにどんな事実があったとて、真なる事実もまた決して変わらない。彼が君のご両親を殺害した張本人である、という事実は」
うるさい……。
「君も心のどこかで認めているのでしょう? もう決して、二宮君を許すことなどできないと」
「――その名前を!」
完全に意識の外側で。
真っ白な頭で、わたしは叫んでいた。
「……口にしないで、ください」
酸欠の脳にようやく酸素が送られると、わたしの威勢はすっかり消えうせて、また怯えた小娘に逆戻り。
ダメだ。彼の名前を聞かされるのだけは、ダメだ。
色んなものに、耐えられそうにない。
「へぇ……ほぉ、なぁるほど……ふふ……くく……」
「滑稽だと思うならどうぞ笑ってください。……でも、その名前を口にすることだけは……許しません」
何をどう許さないのか。そんなの知るもんか。とにかく許さない。
「うふふ……良いでしょう。少なくとも、今だけはね」
相変わらずの嫌な微笑みを浮かべつつ、波津久さんは一度、ぐるりと部屋中を見回した。そして僅かに居住まいを正すと、その濁った目で再びわたしをねめつける。
「そろそろ本日の用件をお伝えしましょう」
「……」
景気のいい話、であるはずがない。
この人が何を考えて行動しているのか、わたしにはわかりそうもない。
「一つ。君を殺すため」
淡々と言う。
「二つ。忘れ物を届けに」
忘れ物……?
「玄関の軒先に置いてあります。後で見てみるといいですよ」
それだけ言うと、波津久さんは踵を返して歩き去っていく。
彼の痩せこけた背中を眺めつつ、わたしは不思議な気持ちで口を開いた。
「……わたしを殺しにきたんじゃないんですか?」
「ええ。ですが、ほんの少しだけ時間をあげます。せめてもの情けだと思ってくれればいいですよ。別れを済ますならそのうちに」
振り返った彼の表情は、やっぱり気持ち悪いほどに歪んだ笑い顔。
「それではごきげんよう、馬鹿で間抜けなお姫様。再び見える時にはきっと、安らかな眠りを与えて差し上げましょう」
誰もいなくなった部屋。
空っぽの頭で、玄関へと足を運んでみる。
「……ぁ」
腐乱しきった二つの肉塊。
濁った瞳でわたしを見ていた。
*
長時間に渡る酷使のせいだろうか、指先の感覚がひどく希薄になっている。
だけど、それよりもずっと希薄だったのは、わたしの感情のほうだった。
「……」
すっかり水分を失って乾燥した庭の土。ざくざくと、錆びたシャベルでひたすら削った。人ふたり分の穴。とても長い時間、その行為を続けていたように思う。もう変わらない空の色からは真偽を窺い知ることは出来なかったけれど。
ほんの少しだけ、その濁った瞳を見つめてから。
わたしは無感慨に土をかぶせ、二人を埋葬した。
周囲から浮き上がった土の色が、なんだか妙に奇妙に映った。
いつしか崩壊が当たり前になってしまった景色を眺めながら。自分の意思というものが、果たしてどこまで身体を操れるのか――そんなことをぼんやりと考えていた。
ふらふらと、おぼつかない足取りでわたしは歩く。幽鬼の夜行さながらに、ふらふら、ひらひら、ゆらゆら……勝手にわたしの中で騒ぎ立てる感情たち。煩い。相手にするのも面倒臭い。少しは黙ったらどうなの?
ああ……気分が悪い。吐き気がする。いっそ全てを吐き出してしまえればいいのに。
だけどわたしは、一人では吐くことはおろか立つことすらできない弱い人間。
だから自分の意思を断ち切った。身体に全てを任せることにした。さて、どこへ向かっているの? 教えてはくれない?
ああ……どうにでもなってしまえ。
何も知る必要なんてない。
意味は、ない。
わたしの意味は、ない。
――本当に?
ちりりん。
鈴鳴るように。
その声は優しく、涼らかに、わたしの頭に流れ込む。
「……そうですよ」
幾度となく聞いた声。
遠く想いを寄せるがあまり、聞こえるはずのない彼の声。
まだ、あなたはわたしを逃がしてはくれないのですね。
ふふ。
――危ないなぁ……危ういよ、夢ちゃんは。
見えない向こう側で、苦笑している彼の姿が見える。
「余計なお世話です。あなたにだけは言われたくないですよ、それ」
わたしも苦笑ながらに答えた。そこに嫌な気持ちはなく、自然な言葉で。
――君は、何を求めているんだ?
……あは。あはは。
何を。
言うに事欠いて、わたしが何を求めているか、だって?
馬鹿馬鹿しい。なんて意味のない質問だろう。下らない。なんて反吐の出る問答だろう。
求めるもの、そんなの、わたしには。
――生きたいんだね、君は。
たとえ幻聴とはいえ、それは荒唐無稽にも程があるというものじゃないか。幻の向こう側にいる彼は、果たして本意でそんなことを言っているのだろうか。
「適当なこと、言わないでください」
ゆっくりと頭を振って、まとまらない思考を払い落とす。幻だ。全ては嘘だ。惑わされるものか。
――そうでもないよ。だって夢ちゃんさ、
勝手に動き続けた足が。
今、わたしの意志で止まった。
――死んでないじゃん?
頬を叩かれたような気がした。
それはもちろん、気がしただけで。
「……当たり前じゃ、ないですか」
人に死が訪れることは、悲しくて理不尽で、だけど仕方ないことだ。
でも。
自分で自分の命を奪うなんて、そんな馬鹿なことがあっていいはずはない。
止まった足の向こうに見えた景色には、悲しいほどに見覚えがあった。そんな気はしてたんだ。わたしの居場所なんて、片手の指で数えるほどにも満たないのにね。
感覚的に彼がいなくなったことを察した。軽薄な口調、ちょっと低めのテノール。もう聞こえない。
もう一度だけ頭を振って、わたしは静かに足を踏み出す。今度は自分の意志で。
眼前にそびえ立つのは、巨大で荘厳な、元・建造物。
コンサートホール。
どう見ても。見れば見るほど。相変わらずだった。あらゆるものが粉々に破砕され、何一つとして綺麗な姿を保つものはない。よくもまあここまで綺麗に壊したものだと、そんな矛盾した感想が浮かんできてしまうほどに。
わたしが生きた、わたしが生きる場所。春澤夢の起源。この身に受けた名を掲げ、高く遠い夢を抱いた、原初のターニング・ポイント。
人の夢と書いて儚いと読む。それを思うたび、わたしはひどく悲しくなる。人は言葉が生まれた原初の頃にまで遡ってさえ、夢というものの脆弱さを理解してしまっていたのだ。そしてその真意は、何よりも雄弁にこの景色こそが語る。
過去に生きた、儚い幻想。
そして人は、幻想を懐古するからこそ真に愚かなのだろうと、わたしは自分自身の胸に痛感している。
「……まだ、生きてる」
思わず感嘆の息が漏れた。
ホールの深奥、そのほとんどが崩れ落ちたステージの上。そんな周囲の風景からそこだけが切り取られているかのように、かつての姿をありのまま健在させる、一台のグランドピアノ。わたしは吸い寄せられるようにピアノの元へと足を運んだ。
音階を奏でることのない今となっては、楽器と呼ぶことすら叶わない巨大なガラクタ。いつ誰に破壊されようと不思議ではない、ピアノであったモノの残滓。だけど、その残滓は今日も変わらず生きている。意味を成さない抜け殻と化して尚、廃墟の中でたった独り佇んでいる。そんな白黒の姿に、名状しがたい気高さを感じた。
ほとんど無意識のうちに指先が鍵盤を叩いていた。当然音響などは感じられず、ただただ空疎な感触だけがわたしの指先を伝うだけ。
二度三度と無為な試行を投じて、わたしはピアノの元を離れた。
そのまま振り返らず、おぼつかない足取りでホールを去る。周囲の風景がほんの少し、来た時とは違って見えた。有象無象でしかないそれらの数々に、在りし日の姿が重なって見えた。
*
行く当てもなく放浪を続けて。
結局、わたしは自分の家へと戻ってきた。
「はぁ――ぁ」
ひとつ大きな息を吐き、ごろりと居間に寝転がる。そのまま身体を縮こめて、どうにか頭の中を空っぽにするよう努めた。けれど無駄な行為。わたしはそんなに器用じゃない。
持ち上げるように身体を起こし、ぼんやりと濁った両目を開いていく。
古びたテーブルの上、わたしの視線が捉えたのは数枚の紙きれ。
「……お母さん」
手書きの五線譜。白と黒が紡ぐ、音と音の連なり。
壊し尽くされ、奪い尽くされた後に残った、ほとんど唯一の形見と言えるもの。そのうちの一枚を手に取り、目で音階を追っていく。それだけでもう十分に、頭の中では一かけらの淀みもなく、穏やかで優しい旋律が広がっていく。
ああ。なんて――なんて暖かい曲なんだろう。お母さんの書いた曲。お母さんの残した――遺した曲。
何度も何度も、この曲を弾いた。今ではもう譜面を見る必要もなく、世界中の誰より上手く演奏する自信がある。譜面そのものはそう難しくはなく、ピアノを志すものであれば誰だって弾けるような曲。だけどわたしにはわかるんだ。音符の一つ一つに込められているお母さんの想いが。
だからこそ、この曲を奏でるときわたしは決まって大泣きする。ひとつ鍵盤を叩くたび、お母さんの感覚が指先越しに伝わってくるからだ。幸せだった日々の思い出が、音へと形を変えてダイレクトに流れ込んでくるからだ。
ふいに、部屋の奥に鎮座する、とあるモノが目に映る。
「……お父さん」
それは白黒。だけど意味を成さない抜け殻となった、コンサートホールにあったそれとは全く違う。鍵盤を叩けば耳障りのいい音階を響かせて、楽譜をなぞれば綺麗な旋律を奏でる、本物の意味を残したピアノ。
調律師だったお父さんが施した最後の仕事であり、きっと最高の仕事となっただろう、このピアノ。
二人はいつでも、わたしと共にあった。
「――」
お世辞にも良いとは言えない座り心地の椅子。些細な問題だ。わたしにとっては最高の椅子。
浅く腰掛け、つと指を鍵盤に沿って走らせてみる。わたしの指先を追いかけるように、滑らかな音の階段が軌跡となって流れていく。
視界が弾けた。
わたしは無我夢中になって、空っぽの頭で、体の動くままに指先を躍らせていた。
「――ぁ、」
この曲――この曲は、お母さんから教わった、一番最初の曲。
簡単なエチュードだけど、わたしはこの曲が大好きで。
「あ――ぁ、」
お父さんがよく言っていた。この曲を弾いているときのお母さんは誰よりも綺麗で、一目見た瞬間から心を射抜かれてしまったんだって。もういい年になるだろうに、いつまで経っても笑っちゃうぐらい仲が良かったんだ。
「あは……あはは――ぁは、は」
そんな二人に見守られて弾くピアノは、どんな大舞台で演奏するより楽しくて、幸せだった。
この古ぼけた一台のピアノには、わたしたち家族の笑顔がたくさん、たくさん詰まってる。
「ぁ、は――は、ぅ……っううぅ、っあ、あぁ……ぁっ……!」
その笑顔は今――どこにあるの?
わたしたちの幸せを、お母さんとお父さんの幸せを、わたしの幸せを、理不尽に奪っていったのは一体誰?
「あぁぁぁぁぁ……う、っく、は、あっ、っううう、ああ……」
返して……。
返してよ……。
返してよぉっ……!
「あああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――」
窓のない縁側、すぐそこに見える乾いた土。
あそこには目に見える形で幸せが埋まっている。
わたしが埋めた幸せの残滓。
「――、ぁ」
とっくに切れていた精神と体とのリンク。
とうとう、それら単体にも限界が来る。
弾けた視界が白色にフェードアウトしていく実感。その光景を全身で感じつつ、なんだか幻想的だな、なんて暢気に思っているのは果たして本当に『わたし』だろうか。
自我と幻想の両方から切り離されて。
わたしの意識も、そこで千切れた。
*
「夢は、ピアノが好き?」
上手くいかなくて失敗した時、自分では良いものが弾けたと思ったのに結果が伴わなかった時。涙で唇を噛み締めるわたしに、お母さんはいつもそう尋ねる。
「そう。なら、いいじゃない。今日上手にできなかったことは、きっと明日上手にできるための糧になるわ。繋がっていくのよ。なんでもね」
幼い日のわたしに、その言葉の意味を理解することは難しかった。
ただ、そう語るお母さんの声がとても優しかったことだけは。
暖かな形あるものとして、今も確かに心に残っている。
「お父さんは、どうして演奏家じゃなくて調律師をやってるの?」
迎夏から日も久しいよく晴れた一日、とある休日。我が家のピアノを背にした縁側、家族三人揃って日向ぼっこ。そんなとき、何気なく口にした一言だった。
「どうして、か。そうだねぇ……」
優しくて、穏やかな口調。
お母さんと同じぐらい、お父さんの声が好き。
「夢も知ってるとおり、僕はとても不器用でね。それに演奏家としては致命的と言っていいほど手が小さい。見てごらん、女のお母さんの手より一回りも小さいだろう?」
そりゃあ私だって演奏家の端くれだもの、と苦笑いしながら手を差し出すお母さん。並んだふたつの手のひらを見比べてみると、なるほど、確かに言うとおり。
「ほんとうだぁ。でも、調律師だって不器用じゃあ仕事にならないんじゃない?」
「はは。苦労したよ」
常日頃、家の物を壊してばかりのお父さん。そのたびお母さんに叱られている姿は、娘としてもちょっと情けない。
そんなお父さんは、ピアノに向かい合うとまるで別人のように格好良くなる。
「それに僕は、自分で演奏するよりも聴くほうが好きだからね。大好きなピアノに関わっていたくて、ピアノを大事にしてくれる人の手助けがしたくて、それで調律師の仕事を目指すことに決めたんだよ」
「へえ……そうだったんだぁ……」
にっこりと微笑むお父さんに、つられてわたしも笑顔を返す。
何を考えずとも間違いなく嬉しい、幸せなひととき。
「夢は、弾くのと聴くのだったら、どっちが好きだい? やっぱり弾くほうかな?」
お父さんの手入れしたピアノで、大好きな曲を弾いているときは幸せ。
同じピアノで奏でられるお母さんの曲は、どんな偉人の残した音楽よりも好き。
答えはすぐに出た。
「両方とも、大好きっ!」
お父さんとお母さんは顔を見合わせると、どちらともなく満面の笑顔を見せてくれた。
わたしも、とても嬉しかった。
仕事としての調律師は決して割の良い職種とは言えない。需要の絶対量がそもそも圧倒的に少なく、供給だけが飽和状態にある中で、成功を収めることのできる者はそうそう多くないのだ。
だから、どれほど名の売れた調律師であっても安定した収入を得ることは難しい。それに加え、扱うモノがモノであるが故に、その仕事は逐次現地へ赴いて行うものとなる。
「お父さん、今日はお仕事で帰ってこれないんだよね」
「ええ、ふたつ隣の県まで出張。大変なのよね、お父さんも」
そんな理由で、お父さんは家を留守にすることが多かった。
その日の夕食はお母さんと二人。小さなテーブルを囲む三つの椅子に空席がひとつ。わかってはいても、ちょっとだけ寂しい。
「はぁ……」
悲しげな溜息。でも、それはわたしのものではなかった。
「お母さん、元気ないね。お父さんがいなくて寂しいんだ?」
自分の寂しさを紛らわすように、少しからかう風にそんなことを言ってみる。
「当たり前じゃない。夢は寂しくないの?」
そしたら、とても真面目な顔で返された。
わたしは何だか恥ずかしくなって、それからやっぱり、寂しくなった。
「……お母さんたちって、すごく仲いいよね。ケンカとかしたことあるの?」
「ケンカ、ねぇ……あまりしたことはないけど、でも、あるわよ。何度かね」
「え、本当? 全然そんなふうに見えないけど」
「人間だもの。どんなに相性がよくっても、どこかで意見の食い違いはあるものよ。それでお互い熱くなっちゃって、ね」
「へぇ……でも、そういう時ってたいていお父さんが先に折れてくれそう。そうじゃない?」
「それが全然。お父さんね、普段はあんなだけれど、自分が正しいと信じてるものには絶対嘘をつかないの。その時のお父さんってね、すごいのよ。勝ったことないもの、私」
「……はー。なんだか、全然想像つかないよ。それって一体、どんなケンカだったの?」
「ふふ、今にして思うと恥ずかしいんだけどね。前に話したことがあったでしょう。高校を卒業してからしばらく、お母さんが外国に留学してたこと」
高校生活最後のコンクールで、向こうのなにやら偉い人の目に留まって、あれよあれよという間に話が進んでいったんだって。わたしからすれば夢のような話だ。
「先方から頂いた話ね。実はお母さん、お断りするつもりだったのよ」
「え、ええっ? 何で、どうして?」
「まあ、そう思うわよね。その頃お付き合いしてたお父さんにも同じことを言われたわ。それで理由を話したらね、さすがに怒るより先に呆れてた」
「え、えと。それで、その理由って?」
「笑わないでね。お父さんと離れたくなかったのよ」
苦笑いを浮かべつつ、お母さんは言う。
「……ひゃあ。まるで映画の中のお話みたい」
「ほんとよねぇ。何が起こるかわからないものよ、人生って」
他人事のように語るお母さんに、わたしは思わず吹き出してしまう。笑わないでって言ったでしょうとぼやくお母さんもまた、笑っていた。
「……でも、それをお父さんは良しとしてくれなかったのね。目先のことに囚われて自分の未来を台無しにするような真似は許さない、って。言われてみればその通りなんだけど、その頃のお母さんにとっては音楽よりもお父さんのほうが大事だったのよ。あ、これ失言。今もね、今も」
「くすくす。言い直さなくたってわかってるのに」
「ふふ。でね、お母さんも言い返すの。真人さんは私のことが好きじゃないんですか、って。最後には泣きながら、私のことが好きじゃないからそんなことが言えるんです、なんて。怖かったのよね。ただ単純に離れたくないっていう気持ちと、時間が経つにつれて心まで離れてしまうんじゃないかっていう気持ちがあって。そうしたらお父さんね、そこで一喝よ」
「……なんて?」
「『どれだけ時間が経っても、どれだけ距離が離れても、僕が君を嫌いになることは絶対に有り得ない』って。あの時のことは今でも鮮明に思い出せるわ。気持ちがね、すっと楽になったのよ」
「う――わ、お父さん、カッコよすぎだよそれ……鳥肌たっちゃった」
「ね。普段のお父さんからは想像もつかないぐらい」
「ほんとだよぉ」
あはは、とまた笑いあう。
お母さんの目じりには、ほんの少しだけ涙が浮かんでいた。
「もうほとんどプロポーズよね、それって。結局お母さんは五年間向こうで勉強することになって、こっちに帰ってきてからすぐ、お父さんと結婚したの」
「ほわぁ……聞けば聞くほど映画みたい。でも、そういうの憧れるなぁ。すごいんだ、お母さんたちって」
「聞く分には綺麗な話よね。でも、お父さんと会えない五年は本当に辛かった。夢もいつか好きな人ができればわかると思うわ。一番大切な人が自分の側にいてくれない、それってすごく苦しいことなのよ」
「……そうだよね。ごめん、簡単に言っちゃって」
「いいのよ。すっかりご飯が冷めちゃったわね。暖め直してくるから、ちょっと待っててね」
かちゃかちゃとおかずの皿を運び、キッチンへと向かっていくお母さん。
その背中を目で追いかけた。
「ねえ、お母さん。今でもお父さんが一番大切?」
「……うーん。どうでしょ、難しいわね」
「ええっ」
あれだけのことを話しておいてそれはないんじゃない。
わたしがそう口にするより先に、お母さんは振り返って言う。
「だって、一番がふたりもいたら選べないじゃない」
向日葵のような笑顔で、にっこりと。
「もうすぐ始まるね、お父さん。なんだか緊張してきちゃった」
「僕もだよ。何度見ても慣れないなぁ、これは」
仕事で各地を飛び回っているのは何もお父さんだけじゃない。
演奏家・春澤琴といえば世間的にもなかなかの売れっ子で、年に何度か、こうした大きなコンサートに招かれている。
「それにしてもすごい人数。これだけの人がお母さんの演奏を聴きにきてくれてるんだね」
「そうだね。すごいんだよ、お母さんは」
今日はたまたま家からそう遠くない会場でのコンサートということで、お父さんとふたり連れだって足を運んでみたわけだけれど。
なんというか、その、すごい。
会場の雰囲気も、来る人たちの人数も。
わたしが普段経験しているようなコンクールなんかとは話が違う。この人たちはみんなお金を払って、お母さんの演奏を聴くためだけにここに来ている。
……改めて実感させられる。わたしが目標としている人は、こんなにもすごい人なんだと。
ちょっとだけ自信喪失。でも、肩を並べるにはまだ早すぎるから。
今のわたしに一番大切なことは、余計な力を抜いて感じるがままに空気を感じること。
「夢。上着、暑いんじゃないかい? 汗かいてるよ」
「あ……うん」
お父さんに言われるがまま上着を脱いだ。しっかりと暖房設備の整った館内ではあったけれど、果たしてそれだけが理由かどうか。
「すごいんだなぁ……お母さん」
思わず唇の端からそんな言葉が漏れた。
そしてこの空間に集まった幾千もの人々――春澤琴の元へと集まった人々の中に、わたし――春澤夢がいる不思議。
世界は想像もつかないぐらい限りなく広いのに、今わたしが見ている世界はこんなにも身近なところに息づいている。
それなのに世界はゆらゆらと揺れている。現実と虚像の狭間でゆらゆらと揺らめいている。手を伸ばせば届いてしまいそうな世界は、実際に手を伸ばしたところで触れることすら出来ないだろう。
なんだか、どうしようもなく不安になる。
このままでいいのかなぁって。
……はぁ。余計な力、入りすぎだよぉ。
「ねえ、お父さん……」
「ん?」
不安を飲み込むことができずに、隣に座るお父さんの名を呼びかける。この不安をどう言葉に伝えればいいのか、それすらわかっていないのに。
「ええと、その……」
あたまの中がまっしろだ。どうしよう。なんて言おう。
考えて、考えて、考えて――それからわたしは、考えるのをやめた。
「お父さんって、どれくらい昔からお母さんのことを知ってるの?」
それは些細で、なんとも他愛のないこと。
そんな意味のない質問にさえ、お父さんは決して笑顔を絶やすことなく答えてくれることを、わたしは誰よりもよく知っていた。
「僕がまだ駆け出しの調律師だった頃からだから、二十年以上は前だろうね。その頃のお母さんはまだ学生で、今の夢より少し上くらいの年頃だったはずだよ」
「へぇ……そんなに昔から二人は知り合ってたんだ」
「そうだよ。初めてお母さんと出会った日なんかは今でも鮮明に思い出せる。今日みたいによく晴れた日、なんとなしに辺りを散歩してた時にね」
お父さんの目に力が入り始める。
お母さんの話をするといつもこうだなぁなんて心の中で苦笑しつつ、わたしはそのままお父さんの言葉に耳を傾けた。
「ふと、どこからかピアノの音が聴こえてきたんだよ。それは今までに聴いたこともないような綺麗な音色でね。演奏そのものはまだ決して上手いとは言えなかったけれど、聴く人の心に直接語りかけるような、とても素直な音だった。ほんの一瞬で心を奪われたよ。そして知りたくなった。こんな音を生み出す人は、果たしてどんな人なんだろうって」
どこか遠くを見るような目で、お父さんは続ける。
「それと職業柄って言うのかな、そのピアノが時々音を外していることも気になったんだ。いてもたってもいられなくなって、気が付けばもう、僕はその音が聴こえてくる家へと歩き出していたんだよ」
「会ったこともない人の家に?」
「あはは、そうだね。どうかしてたんだ、僕は。インターフォンを押して、ピアノの演奏が止んで……それからようやく、自分が果たして何をしているのか気付いた。そのまま家主が現れる前に帰ってしまおうかとも思ったよ。でも結局、僕は扉の前から動くことが出来なかった」
見も知らぬ人の家の前で、どうしようかとおろおろしているお父さんを思い浮かべてみる。その光景を想像することはあまりにも容易で、思わず笑い出しそうになってしまった。
「まあ結局、それがお母さんとの最初の出会いになったわけだけどね。その時家にはお母さん一人で、それでもお母さんは笑顔で『なんの御用ですか?』って。僕はもう頭が真っ白になって、それまでの経緯を正直に話しちゃったんだよ。道端で聴こえたピアノの音に惹かれてこの家を訪れてしまったんです、ってね。お母さん、思いっきり笑ってくれたよ。それから、ありがとうございますって。自分よりずっと年下の女の子の笑顔に見とれたなんて、後にも先にもこの時だけだろうね」
お父さんはとても饒舌だった。幸せな日々を思い出しているのだろう。
屈託のない笑顔は、見る人を幸せな気分にしてくれる。
「その頃から、お母さんのことが大好きだったんだね」
「はは。だからこそ夢が今ここにいるんだよ」
「……うん」
お母さんはきっと、わたしと変わらないただの少女だったのだろう。
そして昔も今もお母さんはきっと変わらず、わたしのお母さんだったのだろう。
そう思うと、少しだけ心が安らいだ。
時間と共に会場の喧騒が徐々に引いてゆく。開演までもうほんの僅か。
「さあ夢。始まるよ、お母さんの晴れ舞台だ」
「……うんっ」
無理なんてしなくていいんだ。
わたしは今のわたしのまま、将来のわたしを目指せばいい。お母さんたちがそうしたように。
そして遠い心に思うのだ。
いつかわたしにも、お母さんにとってのお父さんのような人が現れるのだろうかと。
その知らせを聞いたのは中学三年生の夏休み。
日々レッスンに明け暮れるわたしにとって、それは世界中の色が変わって見えてしまうほどに鮮烈な、同時にとても喜ばしい知らせとなった。
「夢。もう少ししたらね、あなたはお姉さんになるのよ」
ずっと一人っ子で育ってきたわたし。正直なところ、実感が湧かないという気持ちがほとんどだったけれど。
「女の子よ。調べてもらった限りではそうだって。決まったわけじゃないけどね。でも、そうなったら妹ができるのよ、夢」
「わたしに……妹……?」
想像もしなかった新たな未来。
まだ見ぬわたしの妹と共に歩む未来。
それはきっと、とても楽しくて暖かい未来。
「――おめでとう、お母さん、お父さんっ」
わたし達はとても幸せだった。
疑いようのない幸せを誰もが抱きながら、過ぎ行く日々に胸を躍らせていた。
中学校卒業後、ピアノの推薦で高校へと進学を決めたわたし。
全国でも有名な吹奏楽部へ入部し、今まで以上に一層音楽と向き合っていく日々。
大変だったけれど充実していた毎日。
そんな日々がずっと続いていくんだと。
何の根拠もなく、茫漠と考えていた。
ある日を境に。
わたし達の平穏はすべて、過ぎし日の思い出へと消えていった。
日々の感覚が失われてからどれくらいの日々が過ぎただろう、と矛盾した命題が頭を過ぎる。無論そんな思考には微塵たりとも意味はなく、わたしは頭を振って思考を打ち消す。
「あ、動いたよ」
「……本当。何か言いたいことでもあるのかしら」
完全に壊れた毎日。
それでもわたし達は生きていた。
「きっとね、元気出してーって言ってくれてるんだよ」
「……そう、ね。このくらいで負けてなんていられないものね」
「そうだよ。わたし達が頑張らなきゃ」
幾度もの抗争に巻き込まれ、その都度様々なものを奪われていった春澤の家。
落ち着いて眠ることすら侭ならない日々。絶望し、自棄を起こし、或いは狂人と化した者達の蛮行は昼夜を問わず繰り返される。
わたし達は生きた。他の何を捧げても構わない。ただ、お互いを守るためだけに、生きた。
「お父さん、動かないでね。いま傷の手当てしてあげるから」
「……ああ。ありがとう、夢」
家族を守るため、いつもわたし達の先頭に立ってきたお父さん。そのせいでお父さんにはいつも生傷が絶えない。そんなお父さんの姿を見るのは辛いけれど、わたしよりずっと辛いのは当人であるお父さんに違いないのだ。
お母さんもそう。身重の体を引きずって、一時として心の休まらない毎日を送らされる苦痛。本人はその素振りを決して見せることはないけれど、夜中になると洗面所で幾度も嘔吐を繰り返していることをわたしは知っている。満足な食料を得ることも難しい中、ふたり分の生命力を求められるお母さんの体。
辛いはずだ。苦しいはずだ。
だからせめて、わたしだけは笑顔でいようと胸に誓った。
わたしが笑うことで、ふたりの心が少しでも楽になるのなら――。
いまだ光を見ぬお腹の子どもは、三人の話し合いで『今』と名付けられた。
いつまでも遠く、どこまでも高く夢を追って生きていってほしい。それがわたし、『夢』に授けられた願い。
そして夢を追うには、何よりも大切な今を精一杯生きていってほしい。『今』。それが妹の名。
わたしと今は二人でひとつ。二人なら超えられない未来なんてない。そこに理由を見出すことなんて三段飛ばしにしてしまえるぐらい、確固たる自信があった。
どんなに辛く苦しい今も、彼女と一緒なら幸せな今に変わっていく。
「元気で産まれてきてね、今……」
いつになく静かな夜。わたしの隣で眠るお母さんのお腹に語りかける。
ハルサワイマ。まだ見ぬわたしの可愛い妹。
あなたに会える日がとても待ち遠しい。
*
目覚めは最悪の気分だった。
視界はモノクロのまま像を結ぶには至らず、ひどい耳鳴りのせいで聴覚もほとんど機能を果たしてはいない。世界から断絶された感覚、と表現するのがぴったりだ。
だけど、意識はあった。それも、わたしがわたしであると認識できる程度には明瞭な。
「……ぁ」
それがいけなかった。
頬に手をやると、そこには隠しようもない涙の痕が残っていた。
それは過ぎていったものに限らず、今もずっと、あとからあとから溢れ出ている生ぬるい雫。
とても静かな涙。自分の事なのに、まるで他人事に思えてしまうぐらい静かな涙。嗚咽も漏れなければ、そもそも、何が悲しくて涙を流しているのかもわからない。――わからない。そう、わからないにも関わらず、わたしはひどく悲しかった。
「――っ、う、ぐ……」
刹那、強烈な吐き気に襲われる。空っぽの胃を揺さぶる容赦ない衝動。
床にくずおれ、酸っぱい胃液だけを吐き出した。くらくらと眩暈がする。脳が酸欠状態に陥っているのがわかる。立ち上がろうとしただけで足が悲鳴をあげる。
わたしの体は、いったいどうなってしまったのだろうか。
――いや、そもそも、わたしは。
果たして本当に、生きているのだろうか……?
「それは君次第だと思いますよ。しかしながら、実に些事たる問題です。その線引きに何の意味がありましょうか。生と死、今更そんなものにどんな違いがあると言うのです」
頭上から聞き覚えのある声が降ってくる。しかし顔を上げるのが億劫で、わたしは彼と目線を合わせることはしなかった。
「……波津久、さん」
もっとも、その声の主が誰であるかなど、甚だ愚問にも程があるというもので。
結果的に、わたしたちはお互いを認め合う形となっている。
「おはようございます。ご機嫌はいかがでしょう、お姫様?」
「いつから……ここに、いたんですか」
もはや嫌悪の情さえ湧き出ない。全身を満たす倦怠感。
自分事ながら、なんて抑揚のない平坦な声だろう。
「さあ、いつからでしょうね。少なくとも、君が午睡にまどろんでいる間はずっとここにいたような気がしますよ」
「……悪趣味ですね」
「素晴らしい寝顔を見せて頂きましたよ。僕としたことが、たった今し方に至るまで、思わず君に見惚れてしまっていたのです」
「……」
波津久さんは、口元を三日月の形に吊り上げて笑った。気味の悪い表情だ。――でも、だけど、それを見て少し驚く。
笑っている。
嗤ってはいない。
「いったい、どんな夢をご覧になっていたのでしょうね。夢の世界の君は、とても、とてもとても、とてもとてもとても――幸せそうでした。見ているだけのこちらまで涙を流してしまいそうなほどに、ね」
「……」
嘘じゃない。
目を見ればわかる。波津久さんは、本当のことを言っている。
少しだけ優しい声。ほんの僅か、在りし日の彼を思い出させる響き。
もしかして、波津久さんは――そんな甘い考えが一瞬だけ脳裏を過ぎる。
「さてまあ、ただ、それだけの話ですけれど。全く、無意味な時間でした。これなら近場で雑草の駆除をしていたほうがずっとマシでしたね」
そう。それは甘い考え。
そんなこと、わかってる。
「……自分から振っておいて。酷い言い草です」
「くふふ、それはどうも。頭のおかしくなった人間とまともに会話ができるなんて思っちゃあいけませんよ。嫌な目を見るだけです」
「……そうですね。後学にさせてもらいましょう」
そのとき、自分でも驚いたことに。
ほとんど無意識のうちに、わたしは微笑を浮かべていたのだった。
「……これは何とも、調子が狂いますね。今朝の君とはまるで別人のようです。いったい何があったのでしょう。或いは……そんなに、夢の世界が幸せでしたか?」
「……」
「昔の夢を見ていたんでしょう? 君が何より大事にしていた思い出の数々が、全てそこにあったのでしょう?」
波津久さんは真顔でそんなことを言ってくる。エスパーか何かだろうか、このひとは。
「何を驚いているんですか。あんなに幸せそうな顔、『今』の君に出来るわけがない。だとしたら、そこにあったのは過去、思い出だけです。今は彼方より遠い桃源郷。語り尽くされた御伽噺。なるほど、それは全くもって『夢』と呼称されるに相応しい。……くふふ。果たして君に与えられたその名は、皮肉だったのでしょうかね?」
「……ほんとにエスパーじゃないんですか、波津久さんって」
「そんな非科学的なもの、この世には存在しませんよ。僕はただ客観的に見た事実を並べ立てているだけです」
もう、彼に対して怒りの感情を抱くことはないだろう。それは何より悲しい、全くの無意味に他ならないのだから。
だから、わたしは苦笑を浮かべる。全てを諦め、全てを受け入れる、乾いた笑顔を。
桃源郷に御伽噺。随分と言ってくれるものだ。
この人に、いったいわたしの何がわかると言うのだ。わたしに与えられたこの名を、あまつさえ皮肉だって?
……そんなこと、わざわざ言われるまでもない。この人なんかより、この世界の誰より、このわたし――他でもない春澤夢が、一番、それを知っている。
夢。たったの一文字で、こんなにも希望に満ち溢れた響きを表す言葉が、果たして他にあるだろうか?
希望なんてもうどこにもない、この終わってしまった世界で。
荒唐無稽も甚だしいその一文字を、わたしは死ぬまで背負っていかなければならない。
それがどんなに空しいことか、それがどんなに悲しいことか。
この世のいったい誰に、わたしのことがわかると言うのだ。
「――もう、疲れたなぁ……」
ぽつり、と。
誰に言うでもなく。
気がつけば、そんな言葉を漏らしている自分がいた。
「なるほど。疲れてしまいましたか」
「……はい。もう、疲れてしまいました」
心底楽しそうに訊ねてくる波津久さん。真っ白な頭で、ほとんど反射的に答えるわたし。
「今朝、僕が君のもとを訪れた理由を覚えていますか?」
「……忘れ物を届けに」
「それが一つ。そして、もう一つです」
ああ……そう言えば、そうだった。
この人は、そんな下らないことのために、足しげくわたしの元へ訪ねてきたのだった。
「わたしを……殺しに来たんでしたね」
くふふ、と嗤顔だけで肯定の意を示す。
なるほど、わたしを、殺しに、ね。
ふうん……何が楽しいのかな、それ。
「猶予は与えたつもりです。こうして幸せな夢も見られた。さあ春澤さん、今こそ僕は目的を果たそうと思いますが、如何でしょうか。何か、思い残したことはありませんか?」
思い残したこと、だなんて。映画か小説の世界でしか聞けないと思っていた言葉が、今まさに、自分へと投げかけられている。
現実と虚構の区別がひどく曖昧になっていた。言うなれば、今もずっと夢を見続けているような感覚。
……夢、夢、夢。
いつまで経っても、わたしはその一文字から逃げることができない。
「言っておきますが、僕が死に逝く者にこのような余地を与えることなど、これまでは一度としてなかったのですよ。僕が人を殺す理由はそもそも、今際の際の『生きたい」という鮮烈な願いを、暴力的に一方的に刹那的に摘み取ることに快楽を見出しているからです。この意味がわかりますか、春澤さん?」
「……憐れみの、つもりですか?」
「違います。君からはもう、『生きたい』という気持ちが微塵も感じられないからです」
濁った風が、辺りを凪いだ。
ゆっくり、ゆっくりと、時間をかけて飲み込むように、波津久さんの言葉を反芻する。
「本来であれば、そんな手合いは僕の管轄下ではないのですよ。いいえ、むしろ手を下すには最高に適任な人物をひとり知っています。春澤さん、貴女もきっとご存知だ。ねえ? ふふふ、ですが――もう彼は、ここには来ない。そういう風に僕が仕向けたからです。ですから、そうですねえ……これは、僕なりの責任を取っていることになります」
「波津久さんの、責任、ですか」
「そうです。君は元々、彼に殺されて然るべき人間だった。僕が間に入っていなければ、遅かれ早かれ、いずれはそうなっていたことでしょう。しかし、そんな君たちの関係を、僕は完膚無きまでに断ち切った。己の快楽欲しさにね。ああいえいえ、誤解をして頂いては困ります。これは懺悔ではありません。僕は自身の行為に何の後悔も残してはいない。彼が、そして君がそうしなければ生きていけない生き方があったように、僕もそうしなければ生きてはいけなかったのですから。ですから、これは決して懺悔ではありません。正しく言うならば、そう、責任を取るということ。春澤夢を殺してくれる相手を奪った、その責任を僕は取らなければならない」
随分と勝手な物言いだ。わたしには彼の思考が微塵も理解できない。
だけど――理解できようができまいが、今のわたしには、どうでもいいことのように思えた。
そうだ。言われてみて、ようやく気付いた。気付いてしまえば、あとは何とも簡単な話だった。
「わたしは、もう……生きたいとは、思っていない」
言葉にすると、なるほど、すとんと心地よく胸に落ちていく。
そう、わたしはもう――生きたいとは、思わない。
こんなになってまで、何もかもを奪われて、生きたいとは思わない。
明日にはもう誰も彼も、たった今わたしを殺そうとしている波津久さんでさえもが死んでしまうのに、それでも無意味に生きてみようだなんて――今にして思えば、なるほど実に馬鹿馬鹿しい。
「ええ、ですから僕が殺してあげます。嬉しいでしょう?」
にたり、と口元を吊り上げて波津久さんは嗤う。
いつの間にやら懐から取り出された大降りのサバイバル・ナイフが、わたしの目の前で鈍い光沢を放っている。
つんと鼻を刺す臭い。間近で見る銀色は赤黒く変色しており、一体このナイフはどれだけの血を吸ってきたのだろうかと想起させるに足る生々しさを見せていた。
その生々しさが、ようやく、わたしに一つの現実を教えてくれる。
わたしは、これから死ぬのだ。
あと数秒後にはあのナイフで肉を切り裂かれ、臓腑という臓腑を周囲にばら撒いて、無残たらしい死骸となるのだ。
なるほど。わたしは、死ぬんだ。
もうこれから先、生きていくことは、ないんだ。
……そう、なんだ。
「……はぁ」
一度、大きく深呼吸をした。
最後になるだろう空気の味。わたしの胸をいっぱいに満たす。
美味しいとは、思わなかった。
「わかりました。わたしを殺してください、波津久さん」
「言われるまでもありません」
波津久さんの左腕が大きく振り上げられる。
点と線の延長線。狙いは一点、わたしの脳天。
苦しまないよう、一瞬で事を済ませてくれるらしい。これには少しだけ感謝した。
「さようなら、春澤さん」
冷淡な声と共に、その腕が振り下ろされる。
わたしはゆっくりと瞳を閉じて、世の万物に、ちいさくお別れの言葉を呟いた。
その呟きは、周囲一帯を猛烈に揺らす銃声に掻き消された。
「……?」
凄まじい破裂音。そして、いつまでも訪れない死の感覚。
まさか、気付かないうちにわたしはもう殺されてしまったのだろうか。それにしても、一体、この音は何なんだろう……?
恐る恐る、一度は閉じた瞳を開いていく。
果たして、わたしは生きていた。
そこには、驚愕に両眼を見開いた波津久さんが立っていて。
今まさにわたしの命を奪わんと振り下ろされたナイフは、波津久さんの左手ごと地平の彼方へと吹き飛ばされていて。
凄まじい形相であらぬ方向を見つめる波津久さんの目に、わたしの姿など既に映ってはいない。
「……何をしに来たのです、君はッ!!」
波津久さんは憤怒の色を隠そうともせず、苛立ちの声を張り上げる。
「相も変わらずつまんねえ質問するよな、てめえは。決まってんだろうがよ、そんなの」
対する返答は、とても落ち着いたものだった。
聞き覚えのある声。
もう二度と聞きたくなかった声。
この世で一番憎らしい声。
もう絶対に許さないと決めた声。
「あ――」
それなのに、それなのに、それなのに、それなのに、それなのにそれなのにそれなのに――どうして、どうして、どうしてどうして――、
「――そ、そら――」
涙が、溢れて止まらない。
そこから先が、言葉にならない。
くしゃくしゃになった顔で、それでも、彼の一挙一動から目を離すことができない自分。
そんなわたしを見て、彼は。
どこか物怖じするように、僅かな逡巡を見せてから視線を逸らす。
それでも、その間際の一瞬。
彼は、やさしく、にっこりと微笑んでくれていたのだ。
「あ――あぁ――うあぁぁ――」
全身の力が抜け、その場にぺたりと膝をついてしまうわたし。これまでに感じたことのないほどの激情が稲妻のように体中を駆け巡る。
「君は……君という人間は……どうして……どうして……ッ!?」
「どうもこうもあるかっての。そんなに知りたきゃ答えてやるよ」
そんな彼の目に宿るのは、紛れも無い本物の殺意。
すう、と大きく息を吸い込んで。
「夢ちゃんに触んじゃねぇ、このクソ野郎が――!!」
周囲の空気を切り裂かんばかりの裂帛の怒号。
夢じゃない。これは決して夢なんかじゃない。
この粗雑な口調は、この切れ長の眼差しは、間違いなく彼のもの。
たった一日会えなかっただけなのに、まるで何十年ぶりの再会かのように感じる。
そこに立っていたのは、他でもないその人だった。
わたしにとって、何より誰より大切だった、空人さん――っ!
*
「夢ちゃんに触んじゃねぇ、このクソ野郎が――!!」
間に合った。
目覚めてからすぐ、脇目も振らずに全速力で駆けてきた。
もう手遅れかもしれない。
そもそも、俺はもう、夢にとっては両親を殺した殺人鬼にしか過ぎないのだ。
そんな俺のことを、彼女は絶対に望んではいないだろう。
それでも――それでも、走るしかなかった。
どれほど僅かでも、こんな俺に出来ることがあるなら、それだけで行動理念としては十分。
それが親父さんと桜に手向けた、俺の決意と生き方だ。
「馬鹿な……馬鹿な、馬鹿な! 君は……君が、そうも強い人間であるはずがない! 君はもう、あの日に潰れて潰れて潰れきってしまった筈だ! どうして……どうして、そこに二宮空人が立っている!? おかしい、おかしい、おかしいおかしいおかしいおかしいおかしい!!」
「うっせえなぁ……ま、確かにおかしいな。ああ、お前の言うとおりだよ。俺一人じゃ、絶対ここに辿り着くことはなかったな」
「それなら……それなら、何故、何故……ッ!?」
半狂乱で息巻く波津久の元へと、ゆっくりと近付いていく。
ちらりと足元へ視線を遣ると、激しい慟哭に咽ぶ夢と目が合った。
……彼女にはもう、どの面を下げても会わせる顔がない。にも関わらず俺はこうしてここに立っているという矛盾。それならば、何のために俺はここに立っているのかという自問。
だから俺は曖昧な笑顔を浮かべるだけで、断腸の思いで視線を振り切る。言わなきゃいけないことは山ほどあるが、俺にはもう、それを言うだけの権利がない。
この苦悩は、俺が墓場まで持っていかなければならないものだ。
身を切るほどに辛い痛み。だが、今の俺なら甘んじて受け入れることができる。
それだけの強さは教えてもらった。
「死んでいった二人のお陰だよ」
真正面から波津久を睨み付ける。白色に濁った瞳。壊れた人間。
「……死んでいった、ですって?」
そんな波津久が、俺の一言で目を覚ます。何か大事なことに思い当たったという風に。
「そうだ。親父さんと、桜のな」
「……は、なるほど。君は」
にたり、と心底楽しそうに嗤顔を浮かべる。よくもまあ、そんなにコロコロ気持ちのスイッチが切り替えられるものだと感心すら覚えるほどだ。
しかし、そんな相手だからこそ、やりやすい。
俺も遠慮なくスイッチを切り替えていける。
「君の身に何があったかは知りませんし、何も聞きませんよ。ですが、なるほど……変わったのですね、二宮君は」
「てめえの濁った目から見てもそう思うんなら、そうなんだろうな。色々あったよ。誰かさんのお陰でな」
「……相変わらず、本当に君という人は僕を退屈させてはくれないのですね。嬉しいですよ。本当に、心から嬉しい。計算違いもここまで至れば僥倖の極みだ。この下らない寸劇の幕引きには至極相応しい」
「下らない、ね。意外だな。てめえはこの状況を楽しんで楽しんで楽しみ抜いてる側の人間だと思ってたんだが」
「頭は大丈夫ですか? 馬鹿を言わないでください。僕だって、出来ることなら平穏な日々を過ごしていたかったですよ。好き好んで狂人の道を歩むほど、生前の僕は堕落してはいませんでしたから」
「は、生前ね……お前も少しは面白いこと言えるんだな。じゃあ今のてめえはどうなんだ? そこにてめえの意志で動く体があるのに、死んでるとでも言うのか?」
「その通りです。僕は――いえ、波津久翔羽は、既に死亡しています。他ならぬ僕自身の手によって、波津久翔羽という人格は僕の中から放棄されました。その瞬間を、君も見ていたはずでしょう?」
「……は」
こいつが饒舌なのはいつものことだ。生来の喋り好き。相手の意思などお構い無しに、自分の頭に浮かんだ言葉を次から次へと機関銃のように紡いでいく。
そういう人間が、波津久翔羽という男だった。
「だから二宮君、少しでも長生きしたいのなら思い誤ることの無きように。僕は波津久翔羽などという男ではない。今や名を失った一人の狂人に過ぎません。僕が波津久翔羽でないのなら、君を友人と思わなければならぬ謂れもない。――事ここに至って、もう、僕は君を見逃すことはしませんよ」
「どっちがだよ。今まで見逃してたのが誰だったのか、てめえはもう忘れたって言うのか? は、それなら結構だ。俺の知ってる波津久っていうクソ野郎は、三歩進んだだけで物事を忘れるような鳥頭じゃあないからな。頭が良いだけが取り柄のヤツだったが、それなら、少なくともてめえは波津久じゃない」
だけど、今、この時だけは。
その言葉は眼前の相手に向けられるものではなく。
まるで、自身に言い聞かせているかのように聞こえた。
「あはははは、はっはっはっはっはっはっはっは――! なるほど、一個人としてその見解には異論を投じたいところですが、君がそう思ってくれるというのなら目を瞑りましょう。そうだ、僕は君の知っている人間ではない! 僕にとっての君は、数多と刈り取られていった路傍の雑草のひとつと何ら違いはない!」
「雑草だって立派に胸張って生きてんだよ。てめえにそれを笑う権利があるか」
即座に意識を切り替える。今更この男に同情など向けようはずもない。
「は、そんなもの――立派に生きている、ですって? あんなにもみっともなく、恥も外聞も知らず、ただ己の延命だけを乞うた惨めな連中が、立派に生きていたですって? は、馬鹿を言うのも大概に――」
「生きようと願う気持ちの、どこが惨めなんだよ」
「――な」
あの波津久が、僅かに一瞬言いよどむ。
それほどに、自身でも驚くぐらい、俺の言葉には重々しい怨嗟が込められていた。
「死にたいって奴らなら腐るほど見てきたよ。そいつらの最期なんてあっけないもんだ。銃を向けられてるのに一切の抵抗をしない。あまつさえ、さっさと殺してくれだなんて言いやがる。早く楽になりたいからだ。目の前の苦痛から早く逃げ出してしまいたいからだ。……でも、それはそいつらが弱いからじゃない。それが普通の人間の在り方だ。誰だってそうなんだよ。嫌なことがあったら逃げ出したい。……なあ波津久、世の中のほとんどの奴が、こういう奴らだったんだ。お前だって知ってるだろう」
「……ッ、今更、この僕に講釈を垂れるつもりですか」
「んなつもりはねえよ。いいか、波津久。お前が殺してきたのは、そんな大多数の奴らとは正反対の人間だ。こんな腐った世の中で、それでもたった一縷の希望に縋り付いて、どれだけ頑張っても結局あと数日の命ってことも理解して、それでも生きようとしてきた人間だ。……波津久、それでもお前は、お前の殺してきた人間を笑うのか」
完膚なきまでに終わった世界。
夢も希望も粉微塵に砕かれた生き地獄。
狂ってしまわぬほうがおかしい、そんな日々。
それでも、自身が狂っていることすら承知で、毎日を強く生きようとする男がいた。
かつての妻と娘の遺骸を傍らに、彼はいつか来る希望の明日を信じていた。
そんなもの、永遠に来る筈がないと知っていた。
希望の明日など決して存在しないということを、他の誰より知っていた。
そして彼は、俺などの為に、自身が生きるための唯一の幻想すら投げ捨てた。
それでも――それでも彼は、果てしない慟哭の渦に飲み込まれながら、それでも――今日を生きている。
辛くても、苦しくても、生きる意味などなくても、生きている。
「答えろよ波津久。お前はそれでも、笑うのか」
「――く」
別に、この男にそれを理解してもらうつもりは毛頭ない。
それでも、口にせずにはいられなかった。
「く――は」
俺たちなんかじゃ及びもつかない、どこまでも高潔に生きた人間がいたのだということを、俺はいつまでも覚えていたかった。
いや、覚えていなければならない。
利己的な誠意だと思うのならば、そう思わせておけば良い。
「くは――はっはっっはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」
ああそうだ、笑え、笑えよ。
笑い続けることがこいつの在り方だって言うのなら。
どんなクズ野郎でも、俺がそれを否定することは出来ない。
人の生き方はまさしく人それぞれ。こいつだって言うにや及ばず、こうして今日という日を生きている人間の一人なのだから。
「それが答えかよ、波津久」
「は――はははは、あはは、くふふ、そうです、そうですよ二宮君。君はやはり、最初から最後までどこまでも愚かしく馬鹿馬鹿しい。人としての起源からその生涯を終えるまで未来永劫、決して君とは理解を共にすることは無いだろうと確信してはいましたが――その最たる答えが今ここで打ち出されるとは、何とも、神も我々を見下げ果てたという訳ではなさそうですよ」
波津久は満面の笑みで言う。本当に無心に、心底から状況を楽しんでいる、そんな屈託のない笑顔を浮かべている。
その表情に、遠い日の友人が重なった。
重なるのみで、像を結ぶことは、なかった。
「お別れの時間です、二宮君。遺言があれば今のうちに聞きますが」
「てめえなんぞにくれてやる手向けはねえよ。黙って死ね、異端者」
それはお互い様じゃあないですか、と波津久が嗤って。
今更何を言ってんだよ、と俺が吐き捨てて。
殺し合いの合図は、それで十分だった。
両者の体が爆ぜる。
いや、それは殺し合いと呼ぶにはあまりにも一方的なもので。
獲物を弾き飛ばされた波津久の武器は、血に塗れた己の拳だけ。
片や俺の手には、未だ親父さんの温もりが伝わる拳銃が一丁。
そんなもの、開始するまでもなく結末の見えた茶番劇。
にも関わらず、波津久は止まらない。
ただ無心に拳を振り上げ、狂気の哄笑を高らかに響かせながら、一直線に距離を詰めてくる。
その赤く染まった瞳を見て、理解した。
この男は確信している。
二宮空人が己を殺すことは出来ない、ということを。
二宮空人が人の命を奪うとき、そこには必ず相手の『死にたい』という願望が必要であるということを、この男は俺以上に知っている。
故に、二宮空人が波津久翔羽だったモノを殺すことは出来ない。
そんな馬鹿げたことを今も妄信して、俺を殺すための拳を勢いに任せて振り下ろす。
「……馬鹿にすんじゃねえよ、クソ野郎」
かちり、と撃鉄を起こす。
そんなものに迷いを見せるのは、昨日までの俺だけだ。
大事なものを全て奪われ、大事なものの全てに気付き、それでも生きることを選んだ俺が、今更何を惑うのか。
狙いを定めるのにコンマ五秒。人差し指を引き金に添えるのにもコンマ五秒。併せて一秒、それだけのこと。波津久の拳は永劫俺には届かない。
僅かに力を込めれば、波津久は死ぬ。
力を込めた。
「――ッ、待って、空人さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――んッ!!」
緩むことのない決意が、その叫び声の前に一瞬で霧散した。
そこに生じた間隙を縫って、波津久の拳が俺の頬骨を砕く。
為す術もなく地面に仰臥する俺を、一心不乱に見つめる両の瞳があった。
言うまでもない。
春澤夢、その人のものだった。
*
「――ッ、待って、空人さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――んッ!!」
それは果たして、わたし自身の意志によるものだったのか。
意味も理由もわからず、ただ、わたしは喉の許す限りの大声をあげていた。
「……っ!?」
空人さんは両目を見開いてわたしを見ている。波津久さんと殺し合っている最中だというのに、そんなことは二の次だとでも言うように、わたしだけを見つめ続けている。
「――ぐ、あ……ッ!」
その結果として生まれた明らかな隙。それを見逃すはずもなく、波津久さんの拳が空人さんを捉える。
波津久さんもその両手に相当の傷を負っている。片手はたった今、もう片手の傷は――いつのものかはわからないけれど、きっとあれも、空人さんとの衝突でつけられたものなのだろう。
遠目にもはっきりと重傷とわかるそれは、波津久さんの狂行を止める理由には一切ならない。彼は自身のデメリットなどお構いなしに、体のリミッターさえ振り切って、渾身の力を込めて空人さんを殴り飛ばしたのだ。
もはや使い物にならないはずの両手。殴られた空人さんより、殴った波津久さんのほうが明らかに深手を負ったはず。
それなのに、そこに立っているのは楽しげな笑みを浮かべる波津久さんで、
地面に倒れ伏す空人さんは、波津久さんのことなんてまったく見てはいなかった。
「…………」
妙なことになっている。
そして、その引き金を引いたのは、どうやら他ならぬわたしらしい。
ようやく止まってくれた涙を拭い、真っ白な頭で、どうにか考えを巡らせる。わたしは一体何をしたいのか、何のために空人さんを呼び止めたのか――そこまで思考が至るぐらい冷静になってから、ようやく胸に湧き上がる巨大な感情に気付く。
……そうだ、目の前で倒れているこの男は。
誰よりも憎むべき、わたしの両親を殺した相手だったじゃないか。
「……空人さん」
誰にも届かないぐらいの小さな声で、ぽつりと彼の名前を呟いた。
その名を呼ぶことに抵抗も嫌悪感もない。むしろ、わたしにとって大切な一部分を補うかのように、言葉はすっと胸の中に溶けていく。
そのことが、無性に許せなくて。
この程度のことで、両親の敵を許してしまいそうになっている自分が許せなくて。
わたしの自我は、怒りという激情に全てを奪われていった。
「夢、ちゃん……?」
掠れた声でわたしを呼ぶ。呼んでいる。彼が。
ゆっくりと立ち上がり、ゆらゆらと、おぼつかない足取りで彼のもとを目指す。
「……なんで」
ぼそり、と誰に宛てることもなく紡がれる呟き。静かに、しかしあまりにも激情に満ちたその声が、わたしの喉元から生まれたものだとは信じられなかった。今のわたしは、何か自分じゃない別のものに囚われてしまっているのだろう。ほとんど他人を見るような気持ちで、わたしは自分の行動を傍観していた。
「……なんで……」
ぴくり、と空人さんの体が震える。その表情に窺えるのは、畏れ、悲しみ、戸惑い。そんな彼を見て、わたしは理由もなく納得する。
この人は答えを出してなんかいない。今もずっと迷っているのだ。こうしてこの場に足を運んだことを、自分自身、正しいことだと胸を張ることができずにいるのだ。
だから、そんな申し訳なさそうな顔をするのだ。
……どうしてかはわからないけれど、本当、なぜだか、無性に――あたまにきた。
「……空人、さん」
彼のもとへと辿り着く。見下ろすわたし、見上げる空人さん。交錯する視線にかつての心地良さは感じられない。
「夢ちゃん……」
怯えるような、ひどく憔悴した声。
その態度が、余計にわたしの激情を高めていく。
「……なんで、ここに来たんですか」
「……」
空人さんは、答えない。
「……答えて、下さい」
「……」
空人さんは、答えない。
「……なん、で」
「……」
それでも空人さんは、答えない。
それで――わたしの沸点は、あっさりと限界を超えた。
「ふ――」
あたまの中は、きれいにまっしろだ。
他のことなんて、目にはいらない。
「――ふざけないで、ください」
それはきっと、最初に彼と会ったときからずっと言いたかったこと。
いつだって不安定で、行動に伴う理由がぐちゃぐちゃで、そのくせ妙に理屈っぽくて、自分のことをすごく嫌っていて、だけど、きっと自分のことなんて何にもわかってなかった空人さん。
「あなたは、どうして……」
そんな人間が。
そんな人間が。
そんな人間が――、
「どうして、その程度の覚悟でわたしなんかに関わるんですか……!」
そう。
そうなのだ。
わたしはずっと、それが気に入らなかったのだ。
この人は自分がやったことの責任も取れないくせに、それなのに、わたしに関わることを選んだのだ。
一度ならず、二度までも。
致命的に、決定的に終わってしまった後で、それでも彼はわたしに関わることを選んだのだ。
そんな情けない顔をして。
そんな申し訳なさそうな顔をして。
自分で選んだ道を、未だに彼は引きずり続けているのだ。
そんなの――わたしの、知ったことじゃない。
彼がどんな道を歩んでこようが、そんなの、わたしには関係ない。
わたしが望むのは、ただひとつ。
もし、あなたが贖罪を望むというのなら。
そんなのはただの自己満足に過ぎないとわかっていて、なおかつ決してわたしを満たしてくれる行為ではないと承知の上であるのなら。
物事はすべて等価交換。ギブアンドテイク。
わたしの望みと引き換えになら、彼の傍若無人極まりない願いも、聞き入れてあげないこともない。
「……そんな顔で……」
貴方は、わたしの好きだった空人さんでいなきゃいけない。
そうじゃなきゃ、貴方はわたしの前に現れる権利なんてない。
「――そんな顔で、わたしの前に立たないでください――!!」
あらん限りに声を振り絞る。
自分が自分じゃなくなってしまった感覚。
力が抜けて、ぺたりと地面に膝をつく。
「ぁ、ぅ……」
倒れていく体を支える力もない。糸の切れた人形のように、顔面からゆっくりと地面に落ちていく。
真っ白な世界。辺り一面にかかった霧が、急速に色を濃くしていく。
そんな空っぽの世界で、ぼんやりと。
(ああもう、これ、鼻血、出ちゃうかな……)
できれば彼には見られたくないな、なんて。
そんな益体もないことを考えている自分に、気付いて。
「――わかった。もう迷わないよ、俺」
意識を失う間際に聞いたその声は、果たして誰のものだったのか。
倒れる体を優しく抱きとめてくれたその腕は、果たして誰のものだったのか。
(ぁ……)
わたしはきっと、誰にも見せられないぐらいしあわせに顔を崩して、優しい眠りの中に落ちていったのだと思う。
*
「……ふん。三流ドラマはもう終わりですか、二宮君?」
「ああ。悪かったな、待たせちまって。てめえに待ってもらう義理なんて無いのにな」
夢の体を優しく地面に横たえた。呼吸は落ち着いている。一時的に意識を失っているだけだ。
たった一言。
その一言が、俺の中に残った最後の迷いを断ち切ってくれた。
「殺し合いの最中でも、守らねばならぬ静寂もあるということです。いやいや、これで彼女――春澤さんも、どうにか頑張っていけることでしょうね」
「……お前さ。それ、本気で言ってんのか?」
ともすれば軽く聞き流してしまいそうなほど平然と放たれた波津久の言葉。夢をここまで追い詰めた元凶は俺だが、その引き金を引いたのは紛れもなく眼前の男、波津久翔羽なのである。
その波津久が、今この時になって、どうしてそんな言葉を口にするのか。
「本気に決まっているじゃないですか。どうしてそう思うのです?」
にたり、と不気味に吊り上がる口元は相変わらず。
そのくせ、口にしている言葉は、とんでもなく気の抜けたものだった。
「どうしてもこうしてもあるかよ。お前、言ってることとやってることが矛盾しすぎなんだよ。俺を本気で殺す気なら、今し方いくらでもチャンスはあっただろ。それなのに殺さない。夢を本気で壊す気なら、そこで俺を殺すだけで事は十全だ。それなのに、あまつさえそんな言葉を吐きやがる。……何のつもりだよ。お前を理解しようと思ったことなんてこれまで一度も無かったけどな、今のお前に限って言えば本気で理解に苦しむぞ」
「そうでしょうかね。僕は元より享楽主義の人間ですから。目の前に楽しいことがあれば、心のままそれに従うだけの男なのですよ。僕の行動に一貫性を求めるほうが無駄というものです。それとも何か、二宮君は、本気で僕のことを理解しようと考えているのですか?」
「そう言ってる。つべこべ言ってねえで吐けよ、さっさと」
は、と大仰に肩を竦めて見せる波津久。
「どうだっていいじゃないですか、そんなこと。僕はもう、満たされてしまったんですから」
「……何だって?」
くすり、と微笑を漏らしながら。
「この一週間、僕は全身全霊を賭けて戦いました。二十年付き合ってきた波津久翔羽を天秤に賭けてさえ、僕は君たち二人を壊すためだけに生きてきました。そして僕は目的を果たし、春澤夢を壊しました。二宮空人を壊しました。それで全ては終わりです。この戦いは僕の完全勝利に終わった筈だったんです。――それなのに、君たち二人といったら。
うふふ。だからほら、こんなのはもう、まるっきり予想外の話なんですよ。僕にはもう、これ以上どうすることも出来ません」
「本気で――言ってんのか」
「ええ、もちろん。僕はいつだって本気です」
波津久は笑っている。いつまでもいつまでも、笑っている。
心底から楽しげに、笑っているのだ。
「僕の負けですよ、二宮君。君たちは僕が思っていたより、ほんの少し強かったようです。僕では君たちを壊せなかった。
だから、認めてあげましょう。
君たちは、僕よりもずっと強かった」
その姿はまるで、孤高の舞台を演じる役者のようだった。
朗々と、声高らかに、両腕を大きく広げて、黒く焼けた空に向かって叫びを上げる。
「はは、あははははは! 今日ほどに素晴らしい日はもう二度と訪れはしないでしょう! 二宮君――それに春澤さん! 君たちは最高だ! 君たちのような人間と戦えたことを、僕は生涯の誇りに思います!」
笑う。ただただ、波津久は笑う。
それが自身に残された最後の矜持だとでも言うように。
「はは、あははは、ははははは、あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは――!!」
狂気に狂ったようなその笑顔。
世の中全ての快楽を一身に授かったようなその笑顔。
「……何で、今更」
握り拳に血が滲むほど、言い様もなく腹が立った。
こいつは本当に、どれだけ勝手な物言いをすれば気が済むのだろう。
そして、何より――
――どうして今になって、あの頃と全く同じ笑顔を浮かべるのか。
「……ふざけん、なよ」
悔しさに涙すら滲んだ。怒りに手が震えた。意思の外で指先が引き金を弾いた。破裂音と共に打ち出された銃弾が波津久の右肩を貫いた。周囲に鮮血が舞い散った。
それでも波津久は笑い続ける。血飛沫で真っ赤に染まっていく体に目もくれず、大空を割らんばかりの哄笑をひたすらに響かせる。
「ふざけんな……」
お前はもう、とっくの昔に消えて無くなった筈じゃなかったのか。
こんな再会を、俺は、俺は――
「――ふざけんなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! 波津久ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!」
今は亡き筈の友の名を。
喉が張り裂けんばかりの咆哮を張り上げて。
狂ったように、拳銃の引き金を引いた。
「ははははは、あはははははは! いいですよ二宮君、それでこそ僕の二宮君だ!」
狙いは一寸たりとも違わず、放った弾丸の全ては等しく波津久の肉体をこそぎ落としていく。
それでも波津久は止まらない。上から下まで全身を真紅の色に染めて、狂った笑顔を浮かべたまま、力強くその体躯を爆ぜた。
「黙れ――黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
再び照準を定めようと、勢いのまま銃を構える。その時、ぐにゃりと照準が歪んだ。
何事かと周囲を見渡すが、答えはすぐに見つかった。
俺は泣いていたのだ。周囲を憚ることもなく、子供のように涙を流していたのだ。
「ああ――君に出会えて本当に良かった! 君ほどに愚直で滑稽で馬鹿で愉快で最悪で痛快な男は他のどこにも居なかった!」
波津久の突進は止まらない。痛覚が麻痺してしまっているのだろう。常人であればとっくに絶命しているだろう数の弾丸を身に受けて、それでも波津久は走り続ける。
他の誰でもない、俺との雌雄を決するために疾走する。
「さあ――」
波津久が大きく腕を広げる。血塗れの腕を振りかざす。
にっ、と無垢な笑顔を浮かべて。
長い長い関係に、その手で終止符を打つために。
「――決着を付けましょう、二宮君ッッッ!!」
裂帛の気合いと共に打ち出された拳は、俺の左肩にクリーンヒットする。
みしみしと骨が軋みをあげ、破砕音と共にへし折れた。
銃を取り落としそうになってしまうほどの激痛。気を抜けば膝をついてしまいそうなほど猛烈な一撃。この死に体の何処にこんな力が残されていたのだろう。一瞬、ぐらりと世界が揺らいだ。
だが倒れない。この程度で倒れてなどいられない。残った力の全てを両足に込め、揺らめく世界を無理矢理に引き戻した。
痛みを奥歯で噛み締める。残った右腕で銃杷を握り締め、霞んだ視界で波津久の姿を探す。
「……ふふふ。やっぱり、負けてしまいましたね」
声が聞こえた。
振り上げた右腕、銃口と水平線の延長線上。
そこに、持てる力の全てを出し尽くした男の姿があった。
「……おまえ」
その姿に、俺は一瞬間だけ殺意を奪われてしまった。
全身は銃創だらけ。満身創痍などという状態ではない。
波津久の瞳にはもう、光は映っていなかった。
……いや。
波津久はもう――既に、死んでいる。
とっくに死んでしまった体で、尚も意識だけを保って立っている。
「いやはや、数奇な人生でしたよ。その最期を飾るのが君とあらば、こんな人生でも僕は毅然と胸を張ることができます」
有り得ない光景。
だが、現にこうして波津久は俺の前に立っている。
「謝りませんよ。もちろん君だって謝る必要はない」
右腕が震えた。
いや、全身が震えていた。
理由なんてわからない。俺はただ、最後の引き金を引こうとしただけだ。
なのに、指が動かない。力を込めれば込めるほど、馬鹿みたいに指先が震える。
「ぐ……畜、生……ッ!」
認めたくない。事ここに至って、そんなことを認めてしまうわけにはいかない。
心の中で否定すればするほど、理解不能の震えは一層激しく俺の身体を苛む。
「ふふ。それにしても、ねぇ。二宮君、君も思いませんか?」
動け。動け動け動け動け。
ほんの少しでいい。ほんの少し指先を動かすだけで、こいつの減らず口を黙らせることができる。
そう。
これで、永遠にこいつの憎まれ口を聞くことも無くなるのだ。
「いやはや、まったく。随分と長い喧嘩でしたよねぇ」
その一言が引き金となった。
全身の震えの理由にも納得がついた。
簡単なことだったのだ。
思い出のフラッシュバック。
脳裏に焼きついたそれは、おそらくきっと、もう一生離れることはないだろう。
――君、ずいぶん変わりましたね。
で……その生徒会長さんが俺に何か用?
――人間観察マニアの僕としてはみすみす見逃せるような状況じゃないんですよ、今の君は。
で、結局俺に何がしたいの? 友達にでもなってくれるわけ?
――話が早くて助かります。そういうことです。
よくわからんけど、好きにしたらいいんじゃないか?
――交渉成立ですね。では、残り僅かな学園生活ではありますが、友人という新たな関係の下、共に日々を楽しんでいきましょう。
馬鹿みたいなやり取りを通して、俺たちは互いに干渉する道を選んだ。
あの日に何気なく交わした会話が、まさか今日まで尾を引くことになるなんて思っていなかった。波津久だってそれは同じだろう。
若気の至りというやつだ。恥ずべき過去。こんなヤツと係わり合いになった時点で、俺の人生は半ば決定付けられてしまっていたに違いない。
後悔先に立たず。どうして俺は、あんなにも軽々しくあいつの言葉を飲み込んだりしたのだろう。
最悪だ。俺は心底馬鹿だった。
本当に、あまりにも最悪すぎて。
どうしようもないほど、笑えてきたじゃないか。
「……まったくだ。あの世じゃせいぜい仲良くやろうぜ、腐れ縁」
「ええ。お先に失礼させて貰いますよ、悪友」
乾いた破裂音が、水平線の彼方へと消えていく。
同時に、心に強く刻み込んだ。
俺には。
波津久翔羽という、生涯唯一の友人がいたことを。
*
気絶した夢を右腕だけで背負い、俺は宵闇の道を行く。
道なき道。何もない道。何もかもが遠き夢の日の彼方。
感慨に耽ることもなく、今日という日もこうして終わっていく。
「ん……ぅ、え、え?」
背中から可愛らしい声が聞こえた。夢が目を覚ましたようだ。
「起きたんだ。体の調子はどう?」
「あ、はい。別にどこもおかしいところはないです、けど」
二度三度と首を傾げる。何から質問していいか困っている様子だ。そんな仕草が言い様もなく愛おしくて、俺は敢えて何も言わずに夢の言葉を待つことにした。
「……っ! 空人さん、その腕――!」
声を上ずらせて俺の左肩を凝視している。肉から骨が突き出しており、随分と酷い有様だ。もう二度と動くことはないだろう。
「大したことないよ。痛くないし」
「う、嘘ですっ! じゃ、じゃなくて! いいから、早く降ろしてくださいっ!」
「えー。夢ちゃんの控えめな胸、気持ち良かったのに」
「っ……! いいです、自分で降りますっ!」
じたばたじたばた。
「わ、うわ、危ない、夢ちゃん危ないって」
「空人さんのほうが危ないですッ!」
喧々囂々。
と言うほどでもないけれど、俺たちはしばしそんなやり取りに興じた。
「……本当に大丈夫なんですか?」
「正直言うと結構痛い」
「全然大丈夫じゃないじゃないですかっ!」
地が出せるようになったのか、春澤夢という子は割と騒がしい女の子だったらしい。
楽しくて結構なことである。じゃないじゃない、という響きが妙におかしくて、不謹慎にも噴き出してしまうところだった。
「俺のことは気にしなくていいから。それにね、夢ちゃん。男ってのは傷をそのまま残しておく生き物なんだぜ」
「……それって」
「男の勲章ってやつ。どうよ、カッコいいだろ?」
びし、とポーズを取って傷痕を見せ付けるようにする。
そんな冗談に流されることなく、夢はどこまでも真摯な表情で、じっと俺の左肩に視線を注いでいる。その瞳には様々な情念がないまぜになって映し出されていた。
「波津久さん、殺しちゃったんですね」
「ああ。殺したよ」
淡々と紡がれる会話。
これでいい、と思う。
「……そう、なんですか」
ふっと、夢が一瞬だけ視線を逸らした。
だが、ほんの一瞬だ。すぐに毅然とした態度を取り戻す。
「今だから言えるのかもしれませんけど、それでも言ってもいいですか」
「夢ちゃんの言葉は夢ちゃんだけのものだよ。言ってごらん」
すぅ、とひとつ深呼吸。
「たくさん嫌なことされました。許せないこともたくさんあります。憎いと思ったことも一度や二度じゃありません。……でも、不思議ですね。波津久さんのこと、わたし、そんなに嫌いじゃなかったです」
「……そっか。そりゃ、あいつも地獄で喜んでるよ。きっとね」
なんだか妙に嬉しかった。
夢も、ちゃんと気付いていたのだ。
波津久翔羽という人間の本質に。
「あいつさ、最後に言ってたよ。『君たちは、僕よりもずっと強かった』――ってね。俺たちは二人で勝ったんだ、あいつに」
「……勝った、ですか。それって喜んでいいんでしょうか?」
「もちろん、大喜びしていいさ。あの最悪のイカレ野郎に負けを認めさせることのできる人間なんて、俺たちの他にはどこにもいないよ」
ははは、と笑いながら言った。
「そっか。そうですよね」
くすくすと、微笑みながら答えてくれた。
それは不思議な感覚だった。
叩けば響く。ただそれだけのことが、こんなにも愛おしい。
その感情を一言で呼ぶなら、幸せ。
そう。俺は、幸せだった。
これまでの人生の中でも、比類なく最高に幸せな時間を生きていると思った。
生き抜いてみるものだ。こんな感情を知ることが出来たのなら、今日までの人生も全て有意義なものに思えるじゃないか。
「さて、着いたよ。俺たちの帰る場所だ」
「うわぁ――」
小さな口をぽかんと開けて感嘆の息を漏らす夢。
そんな横顔を眺め、隣で含み笑いを漏らす俺。
「すごい……夢を見てるみたいです」
「だろ。俺の自慢の場所だよ」
もう随分と散ってしまって、満開とはいかないのが残念と言えば残念だけれど。
それでも夢は瞳を輝かせて目の前の光景に魅入っている。
ひらひらと舞い落ちる花びらを手ですくい取り、
「ほらほら、空人さん!」
なんて、わざわざこちらに見せつけてくる。
童心に返ってはしゃぐ夢。胸の奥がじんわりと暖かくなる。
もう、迷いはない。
「夢ちゃんに紹介したい人がいるんだ」
「紹介……ですか?」
ああ、と答えて夢の手を引く。
小高い丘を越えた先、桜の木の根元。背を寄りかからせて眠る二人は、今日も安らかな寝顔で俺たちを迎えてくれた。
「紹介するよ。俺の親父と、妹だ」
夢と桜は前に一度会っている。だが、こうして紹介するのは初めてだ。
どんな顔をするのだろう、と少しだけ不安はあった。
だけど。
「お会いできて嬉しいです。とっても優しそうなお二人ですね」
満面の笑顔で答えてくれる夢に、そんな不安は杞憂であったことを知る。
良かった。
本当に、良かった。
「ああ、優しいよ。馬鹿みたいに優しくて、そのせいで損をしてばっかりの二人だ。でも、夢ちゃんがそう言ってくれるなら二人もきっと報われる」
「そんな必要ないですよ。お二人はもう、たくさんのものを空人さんから貰っているんだと思います。じゃなきゃ、人はこんな風には笑えません」
「そっか。それは嬉しいな」
瞳に熱いものがこみ上げる。さすがに惚れた女の子の前で涙を流すわけにはいかないので、俺は大慌てで目を擦った。
見て見ぬふりをしてくれたのか、夢は何事もなかったかのように言葉を続ける。
「わたしも、空人さんに言っておかなきゃいけないことがあります」
言われるまでもなく、解っていること。
俺たちが共に歩んでいくため、それを避けることは出来ないのだ。
「聞くよ、夢ちゃん」
だから、勇気を振り絞って頷いた。
少しの間をおいて、夢は静かに口を開いた。
「空人さんは、わたしのお母さんとお父さんを殺しました」
穏やかな響き。恨みも憎しみも感じられない、暖かな言葉。
だけど、その華奢な腕の震えは隠せない。
いや。隠すつもりも、無いのだろう。
「ああ。君の両親を殺したのは、間違いなくこの俺だ」
夢の両手に力がこもる。爆発しそうになる感情を必死に抑え込んでいるのだ。
「空人さんは、それでも私と一緒にいることを選ぶんですよね」
「ああ。俺は、夢ちゃんのことが大好きだから」
びくん、と夢の体が跳ねる。
「……空人さん、はじめて、好きって……」
「あれ、そうだっけ?」
「……そうですよ。今まではずっと、言ってくれませんでしたから」
文句ありげなジト目が突き刺さる。なにやら、俺は今まで大変なポカを犯していたらしい。
「……面目ない」
「くす……いいです、もう。今ので一生分、満足しましたから」
聖母のような微笑みを浮かべて、とすん、と夢は俺の胸元に顔を埋める。
「わたしも、妹がいたんです。一度も会ったことのない、この世に産まれてくることすら許されなかった、世界で一人だけの……わたしの、妹」
過去形で語られる、悲しい告白。
「……流産、だったんだ」
「はい。あんな環境で、今日生きるか死ぬかの瀬戸際だって言うのに、元気な赤ちゃんが産めるはずがないですもんね」
顔を隠したまま、俺の胸の中で訥々と語る。
「名前も決まってたんです。今って言うんですよ。わたしが夢で、妹が今。自分で言うのもなんですけど、すごくいい名前だと思いませんか?」
「そうだね。夢に、今か……はは、二人揃ったら出来ないことなんて何もないね」
「そうなんです。だからわたし、今が産まれたら教えてあげたいことがたくさんあったんです。その中でも、ピアノだけは絶対に教えてあげたいなって思ってました。いつか二人で一緒にピアノを弾けたら、そんなに幸せなことはないなぁって」
「音楽一家だもんね、春澤家は。きっとすぐに上達して、夢ちゃんに追いつくぐらいの腕前になったんじゃないかな」
「妹に負けたらお姉さんは形無しです。だからわたし、これまで以上に必死になってピアノを練習するんです」
「お互いそうやって競い合っていけるんだ。いいライバルになれるよ、きっと」
「そうです……ぐすっ、よね……」
何も言わず、夢の小さな背中を抱きしめた。
触れただけで崩れてしまいそうなぐらい、痩せ細り衰えてしまった体。
それでも、その体は確かに温かかった。
生きているから、この温もりがある。
「今は、わたしたち家族の唯一の支えだったんです。あの状況で、それでもわたしたちに明日を信じさせてくれる、唯一の希望だったんです」
いっそう強く押し付けられる夢の顔。
涙混じりに語られる、最後の真実。
「希望を失って、人は生きてはいけません」
短い言葉が、胸の奥底を激しく揺らした。
無条件に生きていける人間などいないのだ。誰もが皆、その心に何かしらの希望を抱えて生きている。
数多の絶望を経験し、やがて生きていくことにさえ絶望した人間の末路。その行く末を、俺は幾度となくこの目で看取ってきた。
人間という生き物は、とても脆弱なイキモノだ。
「……わかってます。空人さんのせいじゃないんです。それどころか、空人さんはお母さんとお父さんを救ってくれたんです。だから、わたしは、ほんとうは――」
だが、こうして今、俺の胸の中で肩を震わせる少女は。
ゆっくりと上げた顔には、大粒の涙が幾重にも重なって頬を伝っていて。
それでも少女は、寸分たりとも違えることなく、俺の両眼を毅然と見据えて。
「――空人さんに、お礼をいわなくちゃ、いけないんです」
全身を稲光で貫かれたかのような衝撃。あれほどまでに俺を拒絶していた夢の姿はもう、どこにもない。
人の気持ちは短期間では変わらない。ましてや、昨日までは殺したいほど憎んでいた相手を、今日になって許してやってもいいなどと、そんな話は絶対に有り得ないのだ。
それでも夢は絶対に視線を逸らさない。心臓を焦がし、身を滅ぼさんほどの狂おしい葛藤。その全てを華奢な身体に押し込めて、夢は最後の答えに辿り着いたのだ。
その決断を。
強さと言わずして、何と言うべきか。
「もう、二度と言いませんから。……ですから、ちゃんと聞いててくださいね」
とん、と軽く胸を押される。大した力ではなかったが、その意思を汲んで俺は夢の背中に回した腕を解いた。
僅かに空いた二人の空間。手を伸ばせば触れ合えそうな距離。逆に言えば、手を伸ばさなければ永劫に触れ合えない距離。
すう、と夢が息を吸い込む。
滂沱と溢れる涙は、心を切り刻まれる痛みに耐える雫。
その有り様は、俺の目にはあまりにも神々しくて。
目を潰さんばかりの眩さを放つ夢は、まるで神話に出てくる天使そのもので。
瞬きひとつも許されない。
これからずっと、彼女の全てを見守っていきたいと、心から願った。
「空人さん」
震える声が俺の名を呼ぶ。
夢は、それでも笑顔で言った。
「わたしの両親を殺してくれて、ありがとうございました」
言い終えた瞬間にはもう、俺は夢の体を抱き締めていた。強く強く、折れてしまいそうなほど強く、遠慮も配慮もなく、力の限り彼女の存在を確かめた。
溢れそうになる涙を必死に堪えた。夢は最後の瞬間まで笑っていたのだ。なら、俺も絶対に泣くわけにはいかない。
「言っちゃいましたね……わたし」
「ああ。確かに聞いたよ」
自嘲するような呟きに、しかし後悔の念は感じられない。
「あはは……もう、お母さんたちに顔向けできないです」
「そんなことない。最高の娘を持てたって、きっと誇りに思ってくれてるはずだよ」
「そうでしょうか」
「そうに決まってる」
ほとんど間髪を入れずに返した。すると、夢は突然くすくすと笑い出す。
「……なんで笑われんのかな?」
「ごめんなさい。ふふ、怒らないでくださいね。うれしかったんです、わたし。そんなに真剣な顔の空人さん、初めて見ましたから」
「俺って、そんなに不真面目なキャラだった?」
「というより、飄々としてるって感じです。会話をしてて、なに言ってるんだろうこの人は、って思うことも多々ありました」
激しくショックを受ける俺だった。
「俺は夢ちゃんにそんな風に思われてたのか……」
「気を落とさないでください」
フォローになっていない。
「張本人に言われてもなぁ……」
「だって事実ですし。……それにわたし、そういうところも含めて、空人さんのことが好きなんですよ?」
不意打ちだった。小首を傾げながら語る仕草は、気が狂いそうになるほど愛おしい。
最初に彼女と出会ったときは、向こうからの一方的な想いを告げられただけだった。それが今ではこの通り。
俺はもう、心底から春澤夢という少女に夢中になっていた。
もうどうだって良くなってしまった神様の存在とやらにも、ことこの点に関してだけは、心底から感謝の言葉を贈りたい。
俺を彼女に逢わせてくれて、ありがとうと。
「そういえば、もうひとつ言うことがありました」
何かを思い出したように手を叩く夢。妙にわざとらしい。
「……まだ何かあったっけ?」
だから、俺もわざとらしく返事を返す。
「大事なことです。わたし、無条件で空人さんを許すなんて言ってませんよ?」
くすり、と微笑む夢。その笑顔には言い知れない艶が滲んでいる。それは少女のものと言うより――女の浮かべる表情だった。
「簡単なことです。でも、空人さんにしかできないことです」
柔らかな風が俺たちの間を撫ぜた。
ふわりと舞い散る桜の花びらが、幾重にも重なって夢の体を覆っていく。
「わたしに、生きるための希望をください。
わたしの希望になってください。
朝も昼も夜も、ずっとずっといつまでも、わたしの希望でいてください。
世界でたったひとり、わたしだけを好きでいてください。
それが叶うなら、他にはもう何もいりません。
愛しています、空人さん」
それはまるで、薄紅色のウェディングドレスのようだった。
俺たちをずっと見守り続けた輪廻の木。彼女からの粋な贈り物。
世界一の演出を前に、俺の言葉は最初から決まりきっていた。
「約束するよ。俺はいつまでも夢ちゃんの希望であり続ける。一生、ずっとだ」
「絶対……ですよ?」
「信じられない?」
「信じます。……けど」
「けど?」
「……ほんのちょっとだけ、不安です」
そう言って顔を俯かせる夢。
無理もないだろう、とは思う。
だが、それに甘んじるわけにはいかないのだ。
「結婚しようか、夢ちゃん」
「え……ぇ?」
顎の下にそっと手を差し入れ、俯いた顔を無理矢理に起こし上げる。
驚愕に見開かれた目。桜色に上気した頬。
「ん……ぅっ……」
精一杯の慈しみを込めて、やさしく、そっとキスをした。
触れるだけの幼い口付け。時間にすれば僅か数秒の出来事。
それでも俺には、その一瞬が永遠にも等しく感じられた。
ゆっくり、惜しむように離れる唇。
「……返事、聞かせてくれるかな?」
夢の瞳からぽろぽろと涙がこぼれている。
それは幾度となく見てきた悲哀の雫では決してない。
桜色の唇が、溢れんばかりの歓喜にわなないて。
「――はいっ。不束者ですが、よろしくお願いします」
今度は、夢のほうから唇を塞がれた。
甘やかな感触は麻薬にも似た蜜の味。
幸せに触れているのだと、実感した。
「空人さん……空人さん、空人さん、空人さん、空人さんっ……!」
何度も何度も俺の名を呼ぶ夢。
俺たちはもう迷わない。一人ではどんなに弱くても、二人なら。
自信があるのだ。
最期の瞬間さえ、彼女が一緒なら、笑い飛ばしてやることだってできる。
ようやく掴んだ幸せの形。
例え死んでも、もう絶対に離さない。




