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Fryday:人音(ひとのね)

 二宮桜。

 二宮空人の妹。

 より正確には、空人とは二卵性双生児という間柄。

 性格は極めて明朗闊達。

 極度のブラザー・コンプレックス。

 幼少時より家事全般に精通。

 特殊な家庭に生まれながらも、捻じ曲がっていった兄とは正反対に、清廉潔白を絵に描いたような少女であった。

 勤勉であり、常に努力することを忘れなかった。

 高校卒業後、現役で都心の帝王大に合格。

 同校の波津久翔羽と共に校内初の快挙と謳われる。

 合格通知を受け取ったその日のうちに入学を辞退。

 理由は本人曰く『空人がいないから』とだけ。

 以降、フリーターとして一年間を過ごし、

 彼女の時間はその後、停止している。


 二宮桜の起源は、どこまでも笑顔に由来する。

 彼女は物心付いた時から最期の瞬間に至るまで、一人として例外なく、誰にも笑顔以外の表情を見せなかった――という冗談のような所業を、実際に完遂してしまった人間だった。

 常識で考えてみれば、それは明らかにおかしいことだと誰だって気付くだろう。いつどんな時でも常に笑っていられる、そんなことが出来る人間がいると言うなら、そいつは立派な異常者だ。

 だが、彼女の生来の人当たりの良さや文武両道を地で行く生き方――他の人間より少しだけ優れている部分があったというだけで、周囲の人間は彼女を『そういう人間』なのだと勝手に解釈し、彼らの中の常識から二宮桜という人間をいともあっさりと乖離した。

 しかし、そんな彼らを愚かだと蔑むのは早計だ。正しくは、それが人間に備わった起源よりの愚かしさなのだ。

 自分には理解できないと判断した『異常』を、何の躊躇もなく、周囲がそうしているからという理由だけで、容易く『平常』とカテゴライズしてしまう愚かしさ。

 自分が間違っているのではなく、世界が間違っているのだという責任逃れ。

 彼らは二宮桜に備わった異常性を失念していたのではない。

 それが異常であると思い至ることすら出来なかったのだ。

 言い換えるならば、それが彼らにとっての平常だったのだ。

 例えば、人間が空気を吸って生きるのは言うまでもなく当然のこと。

 それら当然のことを、そもそも根本から疑おうとする人間が果たしてどれほど存在するだろうか?

 つまり、そういうことだった。

 ……だが。

 それでもこの世でたった一人だけ、そんな当然を疑うことを許された男がいた。

 誰よりも彼女の近くで生きてきた彼には、虚構の平常などに惑わされない程には彼女のことを理解していた。

 それなのに、疑うことが出来たのに、男は当然を疑おうとはしなかった。

 出来なかったのではなく怠り続けただけ。

 その馬鹿は、よりにもよって彼女の愛情を一身に受け続けた双子の兄だった。


 彼女は強かった。

 彼女は強かった?

 どんな時でも笑顔を崩さない、それが彼女の強さ。

 どんな時でも笑顔を崩さない、それが彼女の強さ?

 違う。

 違う!


 結論を言えば。

 彼女もただ、兄と同様に異質であっただけ。

 生まれ持って抱えたその症状は槇原夜鐘のものとも類似している。

 だが、喜怒哀楽の全てを知らずに生まれた彼とは違い、二宮桜は怒と哀、それらふたつの感情のみを失った状態で人の世に生誕することを許された。

 その身に感受する事象の全てを喜と楽の感情でしか定義することの出来ない欠陥品。

 彼女は常に笑っていた。

 否。

 彼女は常に笑うことしか出来なかった。

 望む望まないに関わらず、どんな境遇にも笑顔でしか立ち向かえなかった。

 感情を持ちながらにして感情を知ることが出来ないという、半ば逆説的なジレンマ。

 遅いか早いかというだけの話で。

 二宮桜という人間が壊れてしまうのは、時間の問題だったのだ。


 二宮空人が、その実の両親を手にかけた時。

 その行為の瞬間に立ち会ってしまった、誰かがいた。


「……空、人? なに……してるの?」


 それまでの十九年という人生を、いつどんな時も笑顔で過ごした幸福な人間。

 実の兄を心底から愛し、彼のどんな行いに対しても笑顔で迎え続けた一途な少女。

 その男が誰を傷付けようと、誰を憎もうと、誰を疎もうと、誰を殺そうと、常に笑顔を向けることしか出来なかった愚鈍な女。

 自覚することすら許されず、その反動を、十九年分の反動を、全て心の内に溜め込んで。


「空人……あは、何、やってるの? あはは、また、殺しちゃったの……? しょうがないなぁ、あはは、空人は、あはは、あはははははは……」


 最後の最期のその時まで、彼女が笑顔を崩すことは無かった。

 兄がその手で誰を殺したのか、それを知った瞬間、彼女の心は粉微塵に破裂した。

 溜め込むことだけを続け、吐き出す方法を知らず、なればこそ破砕は自明の理。

 もしも彼がほんの少しでも彼女の心に向かい合えていたなら、一度でも彼女の笑顔に甘えることなく真実を見据えることが出来ていたのなら、結末は違ったものになっていたのかもしれない。


「あはは、あはははははは、あはははははははははははははは、あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」


 終わり無き永劫の笑い声を響かせて。

 心を失った彼女は、やがて抜け殻となった。

 それから一年の時が経ち、未だ彼女は目覚めない。


 簡単な話。

 一年。

 目覚めない。

 冷静に考えれば、誰にでも解る。

 考えることを放棄しない限り、誰にでも理解できる。


 彼女の肉体が、とうに生命活動を停止していることなど。



  *



 唯一孤高を気取った餓鬼は、その実誰よりも他人の温もりを求めていたという事実。奪われたのは愛する時間。負わされたのは生きる義務。

 中途半端な餓鬼はヒールにすらなれず、然らばヒーローになどなろう筈もなく。

 幻を慈しみ、現を疎む、厭世の世捨て人。

 果たして、それが、俺だったのか。

「……それでも、俺には、認められない」

 桜は眠る。

 今日もまた眠る。

 何の為に眠る?

「ヒロインじゃなかったのかよ、おまえ」

 二宮空人という舞台を踊った、唯一にして絶対の主役。二宮桜の存在なくして二宮空人の存在は有り得なかった。そして今なら言えるだろう、二宮桜という舞台にとっても俺は居なくてはならない唯一の主役だった。二つの異質は共存によってお互いを確定する。異常なまでに壊れた人間にとって必要なものは、異常なまでに壊れない人間。逆もまた然り。歯車が回れば隣の歯車が回る。そうして俺と桜は生きてきた。

 俺たちが双子としてこの世に生を受けたことなど、数多もの必然に満たされた歯車のほんの一部にしか過ぎぬ些事。例え俺と桜が何の関係もない他人として生まれてきたとしても、結果どころか僅かな過程すら決して変わることはなかった筈だ。

 だからこそ、俺たちが愛し合うことに迷いなど存在し得なかった。

 唯一無二の片割れを欲し合い、求め合い、奪い合い、与え合った。

 世界は二人だけのもの。

 俺が真であり桜が理。

 誰に禁忌と蔑まれても、そこに意味など在りはせず。

 その筈だった。

 その筈、だったのに。



 見上げた空。それを異変と呼ぶのなら、きっと、そうなのだろう。今朝方、目を覚ましたときにはもう、脳天に広がる平素の黒い空はその面容を違えていた。

 赤い光。

 朱いひかり。

 陽を駆り、緋を狩る、血色の紅点。

 西日に傾く朝焼けは、まさにその名の如く真っ赤に黒雲を焦がしていた。

 今日は何曜日だ。

 今日は金曜日だ。

 人生最後の平日は、終焉の手始めに大空から一切の黒を奪っていった。



  *



 ――空虚が腐り、

 ――虚無が荒び、

 ――無為が爛れた。


 それは決意だったのか。

 唯一の選択肢を選び取ることを、果たして勇気などと呼べるのか。

 桜ならきっと言ってくれるだろう。「空人は、すごいね」と臆面もなく当たり前のように言ってのけるのだろう。世辞ではなく心からの本音を口にするのだろう。そして俺は大馬鹿よろしくその言葉を真正面から受け取ってしまうのだろう。

 悪くはない。これ以上の底辺は無いと知った今でも、愛する人による鼓舞の言葉なら素直に喜べる。俺がこれから為そうとしていることを鑑みれば、それぐらいの気負いは許してやらなければ損と言うものだ。


 波津久翔羽は己の手によって存在を放棄された。

 三木幹介は絶望と対峙することを決断した。

 春澤夢はこの世で最も愚かしい(さつじんき)に心を壊された。


 誰が居る?

 今の俺には、誰が居る?

 二宮桜が居る。

 正解だ。

 だが、答えは単一とは限らない。 

 もう一人、二宮空人にとって欠くことの出来ない男が居る。

 その人はいつでも其処に居て、いつまでも其処に居続ける。

 誰の為でもなく、自分の為ですらなく。

 彼もまた、終わった人間と形容されるに相応しい人間であるのかもしれない。それを本人の目の前で口にすることを想像するだに軽く苦笑しつつ、俺はようやく目的を持って煤けた腰を上げた。

 通い慣れた道を今日は真っ直ぐに辿って行く。道中に選択肢は存在しない。目を閉じたままだって問題ない。この俺が、あの場所への道を誤る筈がない。

 桜には悪いけれど、今日は留守番を頼もうと思う。今から俺が手繰る道は飽くまでも俺の物語であり、そこに彼女を同席させる意義はないのだから。

「行ってくるよ、桜」

 振り返らずに、足取りを辿る。

 今日の終わりにはきっと、家路を戻ることを約束して。



  *



 今更、どんな顔をして会えと言うのか。

 否、逃げた俺には会う権利すら無いのではないか。

 道中の心を満たすのは、そんなネガティヴな感情ばかりだった。ひたすら前を目指す足をどうにか引き留めようと、無意識が意識を奪ってしまおうと、逆向きのベクトルが俺の歩みを際限なく妨げる。薄弱な意思。周知のことだ。今更、弱い自分を隠すことなどないだろう?

 自覚こそ全て。苦痛は耐えれば済むことだ。それを覚えていられる限り、俺の足は決して止まらない。弱さに押し潰されることはいつものことだ。押し潰されたならば這い上がればいい。また押し潰されようとも幾度でも這い上がればいい。命ある限り幾度でも、幾度でも。数え切れない沢山のものと引き換えに知ることが出来た、それは唯一の俺の財産。

 三木さんは言った。俺の道はまだ閉ざされてはいないのだと。道を模索し続ける限り、俺という人間はまだ終わらないのだと。

 信じてみようと思った。信じない理由が無い。それだけを心の軸に据え、俺はただただ道を歩いた。

 目的地までの数十分、頭に浮かんできたのは今までこの手で命を奪ってきた人々の顔。不思議な感覚だった。いつまでも忘れることはないと思っていたが、意図して思い出そうとすることも無かった、彼らの顔。皆一様に能面のような表情を浮かべながら、最期のその瞬間だけは僅かに満足そうな微笑を見せてくれていた。その微笑だけを唯一のものと信じ、俺は今この瞬間までを生き抜いていくことが出来た。

 死を求める彼らの傍ら、生を求める俺が居た。

 真に求めていたのは彼らだったのか、俺だったのか。

 禅問答めいた哲学観念は、今となっては誰として知ることは叶わない夢想。故にその天秤に意味は無く、全ては無駄な徒労としか成り得ない。知るべきは別。この期に及んで客観的な思考など必要ない。自分が何を感じたか、大切なのはその一点。

 それを忘れなければいい。

 覚えていれば、それでいい。

 救いなんて無くたって構わない。

 それだけを心に据えていられる限り、俺は血塗られた道を辿っていける。もう引き返せない一本道を自信満々に歩いていける。何も知らない餓鬼のように意気揚々と進んでいける。

 ずっと前から、もう、自分には何かを考える権利なんて無いと思っていた。それをただ、思っていたというだけで留めておけたのは誰のお陰だったろう?

 出会いが、在った。

 お世辞にも沢山とは言えない、それこそ片手の指で足りてしまう程に僅かな出来事。それでも俺には無限にも等しき大きな出来事。彼が、彼女が、彼が、彼女が、彼が――今日この日のこの瞬間まで、俺に考え続けることを強要し続けてきたのだ。強要だなんて、まったく傲慢も甚だしいじゃないか――と、自分の言葉ながら少し笑えた。

 実際、それは強要などでは無かっただろう。どうしてもそう呼びたいのならば、余りにも優しすぎる強要。狭義で呼ぶのなら俺はこう呼びたい。

 其処にあった真実は、願望。

 強要などではなく、願望。

 彼らは皆、『俺』を「俺」に、そしてあわよくば「俺」を俺に変えてやろうと、その為に様々な言葉と行動を示していた。その先に祈ったものは、願いと、望み。

 二宮空人はまだ終わっていないのだと。

 誰よりもそれを信じていなかったのは、俺だったのかもしれない。

 ……全く、どこまで皮肉は続くのだろう。

 いつだって俺は終わってから気付く。何もかもが終わったあと、ようやく気付かねばならなかったことに気付く。何たる稀代の大馬鹿野郎か。ここまで至ると到底笑えもしない。


 それなら、と俺は思う。

 それなら、いつか笑ってやろうじゃないか。

 今日の日を大声で笑ってやれる、そんな明日を掴んでやろうじゃないか。

 それを希望的観測と呼ぶものは居ない。無論、俺だって恐れ多くて呼べやしない。

 勇気と無謀は違うのだと、そう謳ったのは果たして誰だったろうか。

 だが、前言を撤回するつもりはない。

 一心不乱に、荒唐無稽に、勇猛果敢に、俺は明日を追ってやる。

 時間が無い、などとは只の言い訳。それは人事を尽くした者にのみ許される言葉だ。俺にはまだまだ出来ることが山程ある。一生涯を賭しても足りない程、出来ることは限り無く残っている。ならば尚更、時間などは問題にならないじゃないか。

 さあ――信じよう。

 意思の無い者を救う神など在りはしない。

 意思に満ちた者を救う神など必要がない。

 神は存在しないのではなく、元より存在する意味が無かったのだ。

 だから、信じよう。信じて、信じて、その末にもまだ信じよう。神の存在などこちらから願い下げだ。お前なんかに俺の人生は作らせない。

 そう思うことが出来た時。

 いつしか下らないネガティヴな思考は俺の中からすっかり消え失せていた。不安定が売りの二宮空人が、今はすっかり安定していた。青天の霹靂。もう青い空を見ることなんて叶わないけれど――はは、何とも愉快じゃあないか。この程度で愉快になれる俺が、誰よりも何よりも愉快じゃあないか。

 それが、例え束の間のまやかしだとしても。

 生きたかった過去と、今この現在は違うと知っていても。

 ほんの僅かな勇気と引き換えに出来るのなら、そんな戯言も悪くない。

「どうも、こんにちは」

 ハッピーフライデー、果て無き真紅に染め上げられた空。

 選ぶべき表情は無にして絶。

 皮肉と言えば、そうかもしれない。


「良く来たな、空人」


 薄汚れた路地裏、誰一人として訪れる者は居なくなった小さな酒店。立ち続けるのは一人の男。何処までも巨大な一人の男。俺に残された唯一の選択肢。偶然の希望と必然の絶望。天秤に掛ける相対性など到底見出せない、博打とすら呼べない粗末な末期。

 だが、打算的な感情を抜きにしてこそ、初めて生まれる覚悟もある。

 そう信じる他に無いだろう。

「――会いたかったです、親父さん」

 だから俺は、この場所に立つことを選んだ。

 だから俺は、この男と向かい合うことを選んだ。

 理由は明快。

 この生涯に意味を問いかける為に、だ。

「全てを失ったか」

 開口一番。

 何よりも早く親父さんが口にした言葉は、彼らしいといえば実に彼らしい言葉ではあった。まずは段取りと説明を――などと考えていた自分が阿呆のように思えてくる。俺から親父さんの間に必要以上の言葉は不要。親父さんから俺の間には必要最低限の言葉すら不要。

「……相変わらず、何でもお見通しなんすね」

「今日のお前は殊更。随分と透き通ったものだ。……少し、意外ではあるな」

 相変わらず、何時も変わらず、仏頂面の親父さん。これっぽっちも意外だとは思っていないような顔で、そんなことを言う。

「俺なりに考えましたから。答えを出すにはまだ、至らないですけれど」

「ほう。成程、な」

 しばし、口を閉ざす親父さん。果たして何かを考えているのだろうか。全く読めない表情は、いつだって俺の心を不安にさせる。もう慣れたと思っていても、心の根底では常に恐れが付き纏う。それは俺自身、疑心暗鬼を拭い去ることが出来ていないからだ。親父さんの赦しを、全力で信じることが出来ていないからだ。無理矢理にでも信じなければ、俺は永遠に彼と向き合うことは出来ないだろう。

 だから、俺は、無理をする。心の叫びを力任せに押し留める。信じる、という行為からは程遠くかけ離れたその行為が、今の俺にとっての最善ならば――。

「空人」

 そして、その行為は幸福にも実を結び。

 永遠とも等しき時間を経て、親父さんが俺の名を呼んだ。

「お前は俺に、何を求める」


 ――答えるならば。


「昔話を」

 その問いこそが、俺の求めた全て。

「昔話だと?」

 良いことも悪いことも、話し方ひとつで場を賑わせてくれる、団欒の材料。

 多分に漏れず今回のケースも同様であると、俺は思っている。

「過去をより良く知ることは、未来をより良いものにする――受け売りの受け売りですけどね。とても感銘を受けたことを今でも覚えています」

 いつしか『彼女』は言っていた。

 とても良い言葉だと思った。

「過去を知り、未来を知る、か。しかし空人、俺とお前の間に知るべき過去と呼べるようなものが果たして存在するとでも? そこに何かしらの意味が宿ると、本気で思っているのか?」

「思ってますよ。近ければ近いほど見えないものってあるんですよ。俺たちに必要なのは、過去の反芻。少しばかりお互いを思い返してみませんか、親父さん」

「…………」

 親父さんは再度、押し黙る。しかし先程の沈黙とは意味を違えるもの。親父さんは沈黙したのではなく、沈黙させられた。そうせざるを得ない状況に追い遣られた。

 アドバンテージを手にしたのは俺。少なくとも、何を為すより先に門前払いにされるような事態だけは避けることができそうだ。それで半分、目的は果たしたようなもの。――とは言え、半分では到底、完全には事足りない。

「……じゃあ、こうしましょう。まずは俺の独り言。それを聞くか否か、それを親父さんに強要することはしません。ただ一つ、いつものようにそこに立っていてくれればそれで十分」

「上手く言ったものだ。この状況下で人のアイデンティティを利用するか」

「そんな事。自己たる親父さんにはアイデンティティを放棄する権利がある。今の今まで、只の無心に想いを抱え込んできたという訳ではないでしょう?」

「……」

 三度、言葉を飲み込む親父さん。その表情に伺い知るべきものは無い。

 ならば事は十全、時を進めるのは俺自身。

「……親父さん、あなたに出会ったのは今から四年前。四年……そうです、四年。たったの四年。……あの時の遣り取りは一言一句違わず、今も全て覚えています」

 もう親父さんの顔は見ない。これは誰かに聞かせるための言葉ではなく、俺の独り言に過ぎないのだから。

「偶然に道端で肩がぶつかって、それに言いがかりを付けた俺のことを思いっきり殴ってくれたのが親父さんでした。殴られる、なんて呼吸にも並んで慣れたこと。その行為に何を感じることもなく、理由も動機も必要なく、ただ無心に行為を行為として返せばそれで済むだけのこと。それなのに俺はあの時、片手を振り上げることが出来なかった。生まれてこの方初めて、他人の暴力を認めたんです。認めると言っては少し語弊があるかもしれません。……恐怖。そうです、それは純粋な恐怖。未知なる巨大な相手に身を震わせるちっぽけな存在。それがあの日の俺で、今も尚変わらない二宮空人その男。

 あの日を境に、俺の人生は狂い始めました。狂った道が、更に狂い出したんです。それを世の中一般では更正とも呼ぶそうですが。……要は単純なこと。親父さんは、俺にとってそのまま、父親だったんです。実の親に見離され、心安い友人を得ることも出来ず、唯一の安寧はある意味俺以上に狂った(さくら)だけ。俺を叱ってくれる人なんて誰もいなかった。人として生きていくには、俺は余りにも物を知らな過ぎた。只の糞餓鬼にしてはあんまりにも性質が悪い。そんな俺を叱ってくれた唯一の人。それが親父さん、あなたでした。尤も、親父さんがアレを叱責と捉えているかどうかは俺には及びの付かないところですが」

 そこまで言って、一度、言葉を切る。

 浅く深呼吸をした。胸の中が汚れた空気に満たされていく。

 気にすることもなく、俺は再び口を開いた。

「それからの俺の人生は歪みに歪んだ酷いモノでした。ようやっと得た普通の思考を、そのまま忠実に受け入れることが出来るほどに、俺という入れ物は優秀じゃなかったんです。

 それまでに関わってきた殆ど全てのものから足を洗いました。そうしたら、はは、今でも笑えますよ。残らなかったんです。何も、何一つ。馬鹿と阿呆を取り去った俺は、空虚と呼ぶ他にない空っぽの存在だったんです。……たった一人、桜を除いては。あいつは変わらなかった。いや、俺の望むように変わることで、変わらないでいてくれた。少しずつ変わっていった俺をいつだって笑顔で受け入れてくれ、いつだって笑顔で送り出してくれた。その笑顔が……その笑顔の意味を、本当ならその時に知るべきでした。……いつだって俺は、遅すぎるんです。何もかもが中途半端。何もかもが最悪な方向へ転がってからようやく正解に気付く、そんな笑えない冗談ばかりを繰り返してきた愚図。そいつはもう、俺のアイデンティティと呼んでもいいかもしれませんね。どれだけ反省しても、後悔しても、事実は在るがままに事実として在り続けるんですから。

 ……でも、そんな酷い人生でも、俺にとっては全てであり、何よりも有意義な時間でしたよ。狭く息苦しい世界の中で生きてきたガキの頃に比べれば、空っぽから始まる人としての人生の何と輝かしかったことか。初めて知ることが沢山ありました。友達も出来ました。……ここだから、独り言だからこそ言いますけど、今に至るそいつとの腐れ縁を、俺はこれっぽっちも後悔してないんですよ。今はもう害悪にしか過ぎないあの男。誰よりも憎み、何よりも恨み、願わくばこの手で捻り殺してやりたいあの男。だけど後悔だけは不思議と無いんです。何とも、思い出ってやつは綺麗なもので。存在を否定する段階まで至って尚、根本を否定することには至らずにいる。何でしょうね……自分でも分かんないですよ、そこら辺。

 親父さんとの出会いが高校二年。卒業後すぐ、この星の余命が公の下に晒された。それから数ヶ月と待たずに世界は今みたいな惨状に取って代わって。結局、俺が人間として生きることが出来たのは僅かに一年弱。……だけど俺は思います。果たして一匹の虫が、人間と比べて短すぎる命を嘆くことがあるでしょうか? 果たして一人の人間が、星と比べて短すぎる命を嘆くことがあるでしょうか? 答えは否。俺も、そうです。その一年半は二宮空人という人間にとっての全生涯。短すぎると嘆くことはお門違い。だから、それに関しても後悔はありません。想うのならば、もう少し早く親父さんに会えていれば尚のこと良かっただろうという願望だけ。出来すぎた話です。親父さんと出会えたことは、それだけで十分に、俺にとっては奇跡のような出来事だったんですから。

 ……あとは、言った通りです。そんな全てを俺は手放した。新たに得ることの出来た僅かなそれすら手放した。俺に残されたものと言えば、桜の――」

 桜の――桜は。

 数々の岐路を踏み越えて、今尚揺るがぬ一本道。

「――桜、だけです」

 霹靂ですら覆せない、頑強に根付いたファクター。

 今は、まだ。

 長口上を終え、深呼吸するように息を吐く俺を、親父さんは相変わらずの無機質な眼差しで見下ろし続けていた。

「なるほどな。正直な話。少し、安心したぞ」

「安心……ですか?」

 どこか見当違いとも取れる親父さんの言葉に、俺は首を傾ける。

「物分りが良すぎてもお前らしくない。いつまでも一線を捨てることの出来ない、それこそが俺の知っている二宮空人だ。最後の最後で期待に応えてくれたな」

「……そりゃ、どうも」

 褒められているのか、いないのか。なかなかどうして本気で解らない。当惑する俺をよそに、親父さんはどこか遠い目を店の外へと向けていた。

「昔話、か」

「……」

 その真意は。

 彼の本意は。


「――悪くは、ないな」


 親父さんが、その重い足を一歩、前へと動かした。

「……親父……さん?」

 それこそ、正しく青天の霹靂。

 だって。

 そんな筈。

「良いと言っているんだ。その誠意に免じよう。俺はお前の言う所の、下らないアイデンティティとやらを捨てることにした」

 無にして絶、絶対唯我の不動の男。

 槇原夜鐘の名を背に刻む、彼は俺の父親で。

 何時までも、何処までも一所に立ち続ける事を選んだ男が。

 痛ましき、忌まわしき過去の一切を俯瞰し続けることを選んだ男が。

 育まれた個を全て放棄し。

 瓦礫と灰燼に塗れた世界に降り立って。

 想像すら許されなかった筈の光景が。

 今、俺の眼下に映る。

「行くぞ空人。俺がお前の目になろう。そして、お前は俺の足だ」

 自分で決めた事とは言えど。

 まさか、こんな日が来るとは思わなかった。


「さあ」


 ――ああ。

 断言しよう。若しくは、予言しよう。

 今日は間違いなく、人生最良の日になるだろう。

 今日は間違いなく、人生最悪の日になるだろう。

 どちらもきっと、遠からぬ未来には過ぎ去りし過去になっているはずだ。


「昔話を、始めよう」


 槇原夜鐘は歩き出す。

 その重い足を引き摺って、永遠の時を立ち続けた場所を放棄する。

 予感した。

 彼はもう二度と、この場所に帰ってくる心算は無いのだと。



  *



 もうずっと、この肌に感じることは無いだろうと思っていた空気があった。過ぎ去りし過ちが、その可能性を俺の脳裏から完全に消し去っていた。

 罪滅ぼしのつもりだったなら、それは何とも愚鈍なことだ。

 単なる白痴であったなら、それは何とも幸福なことだ。

 無言のままに俺たちは歩く。道ならぬ道を並んで歩く。並ばない肩を並べて歩く。その不和、その不毛、その不可思議。一寸先には闇か、はたまた光が宿るのか。

「変わり果てたな。四方八方、どこに生活の残滓を感じ取ることも出来やしない」

 先に重い口を開いたのは、親父さんのほうだった。

「……親父さんにとっては、そうなんでしょうね。俺はもう見飽きちまいましたよ。変化も何もない世の中です」

「笑えないジェネレーション・ギャップだ。皮肉なものだな」

「全くです」

 指標も無く辿る道筋は、とても不安なものに違いは無かった。だけれども、今この目に映る世界は俺のものに在らず。俺の目は親父さん、そして俺は親父さんの足。この身に背負いし理念は、何も疑うことなく前を目指すことのみだ。

 果たして親父さんが何処を見据えて歩いているのか。如何にして思案を深めようとも、正しい解答には到底辿り着けそうに無かった。

「空人、お前の考えていることを当ててやろう」

「…………」

 不躾に、唐突に。

「何処に連れて行かれるか、それが不安なんだろう。想像出来ない未来、それが怖いのだろう。違うか」

「……嬉しくはないですが、正解だと思いますよ。俺は小心者ですから」

「答えが欲しいか」

 俺の言葉など意にも関せずという風に、親父さんはそんなことを訊いてくる。

「……はい。欲しいです」

 彼の前で、虚偽ほど意味を持たないものは無い。

「ならば教えてやる。目指すべき場所など、ない」

「……それは、どういう――」

「意味はそのまま。俺に目指すべき場所などない。考えてみれば解ることだろう。今も昔も、俺に目指すべき場所が一度でも在ったと、お前は本気で思っているのか?」

 無表情に話す親父さんが、何故か今だけは生来のそれと違って見えた。

「約束だからな。お前の知ること、知らぬことも含め、全てを語って聞かせてやろう。槇原夜鐘という男の、無為な生涯を」


 それを遮る理由なんてない。

 俺はただ、黙って彼の話を聞くことを選ぶ。



  *



 槇原夜鐘。

 今より五十余年前、槇原家の一人息子として世に生を受ける。

 両親は共に農業を自営。昔気質の厳格な父親と、それを支える寛大な母親。恵まれた環境でゆっくりと生を育まれ、夜鐘はすくすくと成長していった。病気一つ知らない、健康に愛された子供だった。

 ただ一点を除いては。


 自我というものが形成されるより前、肉体の要求がそのままに全身を支配する赤子の時分、人は誰しも腹が減れば泣き、気分が良ければ笑う。母親の胎内で育ってきた赤子は、世に産み落とされた直後では呼吸の方法をまだ知らない。だから彼らは皆等しく、一様に泣き、その行為を通じて呼吸の手段を学ぶのだ。

 だが、夜鐘にはそれらの一切が無かった。腹が減っても無表情、気分が良くても無表情。産声すら上げずに産まれてきた。彼は生後しばらく、人工呼吸器の装着を余儀なくされる日々を送った。母親の手に抱かれることすら許されず。

 理由は解らない。ただ、現実が全てを物語る。夜鐘は感情の一切を奪われた状態で、世に生を受けてしまったのだと。


 夜鐘の両親は強い人間だった。二宮兄妹と似通った境遇の中で育ちながら、その点でのみ彼は幸福であったと言えるだろう。

 父はいつも、いつでも夜鐘に人の感情を説いた。筋道の通った理屈はすぐに飲み込むことの出来た夜鐘が、どれほどの時を要しても一度として理解することの叶わなかった感情論。彼の障害は先天性のもので、後付の矯正には何の意味もないと再三に渡り医師の言付けを受けても尚、父は自身の教えを曲げなかった。そんな父親の哀しすぎる背中に、母はいつ何時も離れることなく寄り添い、支えることを選んだ。受け入れられることのない愛情を惜しみなく夜鐘に注いだ。そして誰にも気取られぬよう、一人静かに涙で枕を濡らす日々を送った。

 喜怒哀楽の全てが欠落した夜鐘。そんな彼の感じられる事柄は只一つ。

 正か、誤か。

 そして彼はいつでも、自身の導いた正に従った。父の語った感情論には常々首を傾げながらも、その節々から感じ取れる正義にだけは首肯した。

 今日の日の夜鐘の立ち居振る舞いには、父親から受け継いだものがその大半を占めている。それがただ彼の在り方を模倣しているだけであったとしても、父の言葉は確かに夜鐘に届いていた。救いがあるなら唯一、その点。

 表情を持たない夜鐘を、当然のように周囲は気味悪がった。可愛そうにと憐憫の情を向けてくる大人もいたが、誰しもそれは表向きの顔。ましてや表裏を知らぬ同年代の子供では言わずもがな。彼にどんな罵詈雑言が向けられたかは語るに落ちる。

 ただ、夜鐘は周囲のどんな言葉にも影響されなかった。喜怒哀楽の一切を知らないという、その意味、その結果としてもたらされるもの。

 反応のない玩具を面白がる子供など居ない。

 いつしか彼は、周囲から徹底的なまでに無視されるようになっていった。道端ですれ違っても視線を交わすことすらせず、行事、祭事などではいつも夜鐘だけが蚊帳の外。何よりも決定的だったのが、彼自身がそれを路傍の石ほどにも気に留めることが無かったという点。ただ、当然の過程が当然の結果を結んだだけ。

 彼の人生に干渉することが出来たのは、たった二人の肉親だけだった。そしてその二人ですら、感情を持たない彼の前では有象無象の一片に過ぎなかった。


 不毛な日々に苛まれながらも、両親はついに夜鐘を成人させ、大学を卒業するまでに育て抜いた。夜鐘にとって得たものが何であったとしても、それは社会に受け入れられる為には何より雄弁となるステータス。

 彼は卒業後、割合規模の大きな製造会社に就職した。何時も無表情を崩さない夜鐘を周囲は不審がったが、彼の仕事は誰よりも精密で、正確だった。会社の上層部は彼を有力な駒として使っていくことを取り決めた。こうして社会の車輪に取り込まれていきながらも、夜鐘はようやく、形骸としての『個』を得ることが出来た。

 だが、それは文字通りに、所詮は形ある骸。物言わぬ人形と果たして何が違うのか。

 ギブアンドテイクという言葉がある。需要には等しき供給を、褒賞には並ぶべき代償を。プラスとマイナスの総和がゼロになるように、そうして世は綺麗に廻り回っている。……しかし現実はそうではない。それもまた飽くまでも形骸論にしか過ぎないのだ。プラスとマイナスが綺麗にゼロに落ち着く場所が、果たしてこの世の何処にある?

 人間のルールは絶対ではない。求めることを放棄した者に待ち受けるのは、ゼロではなく終わり無き簒奪。人間の歴史を紐解けば、そこに始まるのは交換ではなく略奪だ。常世もまた同じ。だから人は愚かな騙し合いを続ける。不毛な輪廻を、幾度と無く繰り返す。

 夜鐘はその内、GIVEを放棄した人間と呼称されるに誰よりも相応しい人間であったと言える。どれほどに不当な仕事量、明らかに見合わない給与を与えられようと、不平一つ口にすることなく、いつも無表情に帰宅の途に着く夜鐘は、会社側にとって実に都合の良い存在だったのだろう。彼はその肉体の続く限りに労働を強いられ、その日暮らしも侭為らぬ僅かな手当てを寄代に、終わらない車輪のループに身を埋めていった。そんな毎日が彼の体を徐々に蝕んでいった、などとは言外にして自明の理。

 数年と待たず、夜鐘の体は病に蝕まれた。苦痛を感じることが出来ないが故、その時にはもう、彼の体は極限を超えて酷使され尽くした状態だった。

 産まれた時より既に、運命に見限られていた彼の人生。その体力が尽きると同時に、留められていた運命の奔流が一気に彼の身を襲う。


 父親が倒れた。

 急性心筋梗塞。

 入院から一週間と保たずに、彼は帰らぬ人となった。

 その後を追うように。

 心の支えを失った母は、ある日、変わり果てた姿となって、地元の駅のホームにて発見された。

 偶然か、必然か、果たして真相は闇の中。

 ただ、不動の事実は唯一つ。

 夜鐘は天涯孤独の身となった。


 帰るべき家を失った。両親の残した遺産は親戚連中に総取りされた。

 そして、これは果たして不運と呼んでいいものか甚だ疑問ではあるが――夜鐘の勤めていた会社が、倒産した。この頃には数多の債権を抱え、そして皮肉にも夜鐘に強いられた不当な労働条件が世に明るみとなり、体制を立て直す間もなく組織は崩壊した。社員は一人の例外も無く即日解雇、退職金などは出るはずもなく。


 ようやく体調を回復させ、以前の体の自由を取り戻した頃には、もう全てが遅すぎた。齢三十代も半ばを過ぎ、僅かながらの貯蓄は長きに渡る入院生活で全てが失われ、今更この身を使ってくれる企業も有りはしない。帰る家もない。真の意味での孤独。

 それでも、夜鐘の世界は何一つとして動かなかった。幼少期、父からの熱い弁を受けていたあの頃と、全く変わらない世界が広がっていた。

 それは果たして幸福か、不幸か。夜鐘には解らなかった。



  *



 荒涼とした大地に、親父さんの低い声だけが哀しく響き渡る。

 俺はただ、彼の口から語られる事実を頭の中で反芻させることしか出来ずにいた。

 淡々と、訥々と。

 昔語りは、紡がれる。

「……その、後は?」

「……」

 幾許かの空白を噛み締めるように、親父さんは黙って虚空を見上げた。気のせいだろうか、それとも実際にそうなのだろうか、空の朱色はより一層濃くなっているように感じられた。

「……これは、俺の勝手な想像なんですけど」

 前々から、ずっと思っていたことがあった。

「親父さんって、方々に沢山のコネを持ってますよね。だから、今でも色んなものを手に入れることができる。それは食料だったり、酒だったり。……それに、銃器も」

「そうだな」

「これって……マトモな世界とやらで手に入るものなんですかね。俺みたいな半端者でも、簡単に手に入れられるようなものなんですかね」

「無理だろうな」

「じゃあ、そういうことなんですね」

「ああ、そういうことだ」

 何の手応えもなしに答えは語られる。だからこそ、その答えそのものには何ら感じ入るものはない。結果はむしろ、聞くより先に解っていたとさえ言える。

「……どうして、ですか?」

 だから、そんな馬鹿みたいなことを。

 馬鹿だから、訊いてしまうのだ。

「理由なんてない。ただ、向いていただけだ」

「向いて……ですか」

「どんな奇天烈な状況にも動じない鉄面皮とやらが、連中には大したものだったんだろう。全てを失ったはずの俺は、いつの間にやらその方面で地位を築いていた」

「……なるほど。道理で勝てる気がしないわけですよ。身体能力云々の前に、親父さんとは経験そのものが段違いだったってわけだ」

「そうでもないだろう。俺は中途の参入者、お前は生まれた時からこの世界に立っていた。差し引けば同じようなものだ」

「……」

 俺が歩いたのは、修羅とも悪鬼とも呼べない半端な道。

 彼が歩いたのは、果たしてどんな道だった?

「……じゃあ、もうひとつ。なら、どうして酒屋を?」

「それも大した理由はない。これから先はもう十分に生きていけるという段になって、有り余った小金を使い切るのには丁度いいと思っただけだ。結果として、それが俺の人生を大きく変えることになったのだがな」

 一呼間。

 そして、親父さんは思いも拠らない言葉を口にする。

「俺は、お前と出会った」

 いつしか、矢印という言葉で俺と夢の関係を表したことがある。同じ言葉を使うのならば、この矢印は俺から親父さんにだけ向けられた、一方通行のものに違いないと思っていた。

 しかし、それは違うと合わせ鏡が言う。もう一本の矢印の存在を、彼は今、はっきりと明示する。

「空人、お前は馬鹿だ。安定した自我を持たず、その一方で根底では何一つ変われない、あまりにも弱い人間だ。桜とは全く違う。あれは強い。あまりにも強い。強すぎた故に、あれは壊れた」

「……壊れて、なんか」

「黙れ」

 それはいつもの様に、感情のこもらない平坦な声。

 それなのに、その筈なのに――その一声が、俺の身体をあらん限りに縛り付ける。

 動けない。何の言葉も返せない。黒の向こうに虚空を湛えた隻眼が、俺の両目を力強く見据えている。目を逸らすことなど到底許されない。

「お前は馬鹿だ。お前は弱い。今だってそうだ。そうやって、いつだってお前は自分に折り合いを付けられずにいる。だから俺はお前を選んだんだ。桜じゃない。あれも俺を慕ってくれていたようだが、俺が見ていたのは桜じゃない。空人、お前だ。お前だけだ」

「意味が……わかり、ません。どうして俺が、どうして親父さんに」

 毒を塗られたように痺れる喉。精一杯に搾り出した声。消えゆきそうに掠れた、力無い声。

「わからんか。それなら教えてやろう」

 一歩、二歩。親父さんの歩みに従って、俺たちの距離は近付いていく。

 そして、三歩目が大地を踏みしめた瞬間。


 凄まじい衝撃と共に、俺の視界は白色に染められた。


「ぁ――ぐ、は……っぁ?」

 遅れること数秒、張り飛ばされた右頬へと激痛が走り抜ける。

 ……張り飛ば、された?

「痛いか、空人」

 見下ろされる俺と、見下ろす親父さん。その構図に見るデジャヴ。あの日の規視感。それは忘れもしない運命の邂逅。

 いつだって鮮明に思い描ける。

 それが、俺たちの出会い方。

「何……する、んですか」

「言われなければ解らないのか? お前は俺に殴られた」

「それぐらい解ります……! だから、どうして――」

「どうしてだろうな。俺も解らない」

「……は?」

 思わず口をついて出たのは、その場にそぐわぬ頓狂な声。

 あまりにも理解できない、親父さんの放った一言。

 だけど、誰に理解できなくても、俺だけは理解しなければならない、その一言。

 だって、その意味は――。

「どうして俺にお前を殴る必要があるのか。どうして槇原夜鐘という欠陥品が、他人を殴るという能動的な衝動に駆られるのか」

「……それ、は」

「あの日からずっと。今日に至るまで。俺が自分の意思で干渉を行った人間は」

 ……そう。

 ……そう、だったんだ。

「二宮空人。お前を置いて、他には居ない」

 言い終えて、親父さんの鋭い眼光が一瞬だけ外された。見上げた先には紅色の空。地に倒れ伏す俺の目にも、それは否が応でも映り込むビジョン。

 ……実に不謹慎ではあるが。

 俺はその光景を、その朱色を、心底から綺麗だと感じていた。

 そして再び、親父さんの隻眼が俺の双眸と焦点を結ぶ。

「昔話はもう終わりだ。お前の言う通り、無益ではあるが確かに意味はあった。感謝しよう、空人」

「……どういたしまして、親父さん」

 未だに痛む頬を押さえながら、俺はゆっくりと立ち上がる。

「答えることが辛いのならば、頷くだけでも構わない」

 予感の影が、現実として徐々に形を結び始める。

「お前は今日、どうして俺の元を訪れた」

「……それは、親父さんが俺の代わりに答えてくれました」

「そう。その結果に対して、空人、お前は」

 認めたくは、なかったけれど。

「もう駄目だと思ったか」

 頷く。

「もう無理だと悟ったか」

 頷く。

「もう耐えられないと絶望したか」

 ……頷く。

「そしてお前は、迷うことなく俺の元へと駆けつけた」

「……はい」

 ああ――本気だよこの人。やる気まんまんじゃないか。

 ……でも、そんな彼の言葉を受け入れたのは。

 他でもない、俺自身。

「約束を果たそう」

 こんなにも俺を想ってくれる、一人の男。

 こんな結末を迎えてしまったことも、それを思えば幸せなことだ。

 だから――だからこそ、俺は――

「あの、親父さん」

「何だ」

 ――あなたに受けた恩義を想い、

「俺は、まだ駄目だなんて思いたくないんです」

 ――あなたに支えられた人生を尊び、

「俺は、まだ無理だなんて悟りたくないんです」

 ――あなたを目指して歩いた道程を誇り、

「俺は、まだ絶望を受け入れたくない」

 ――全身全霊の、誠意を示したい。

「それが、俺の本音です」

「……そうか」

 短く呟くと、親父さんは一瞬だけ張り詰めた気配を解いてくれた。

 だけどそれは、あくまでも一瞬のことで。

「俺に抗ってでも、見続けたい夢があると?」

 夢。

 皮肉にしては、出来すぎた名詞だよ。

「そうですね……そうかもしれません」

 なぜだか、自然と笑みが浮かんだ。これから始まるであろう光景を想像すれば、泣き喚きはしようとも笑うなんてことは絶対に在り得ない筈なのに。

 誰のお陰だろう。

 誰かの、お陰なんだろう。

「……良い顔だ。お前はそんな顔を作れるような人間だったか」

「たった今作ってみた顔です。出来はどうでしょう」

「褒めてやろう」

 おいおい……ちょっと嬉しいぞ。いいや、割と本気で嬉しいぞ。この人、今まで俺を褒めてくれたことなんてあったっけか。

 いや、そもそも。

 親父さんがその長い人生の中で他人を褒めたことが、一度だってあっただろうか。

「……できれば、良い気分のまま帰らせていただくと言うわけには」

「残念だったな。お前が本気でそう思っているのなら別だが」

 基本はやはり受動的な人なのだ。

「はは、やっぱり親父さんに冗談は通用しませんね」

「笑えないのだから冗談も何も無いだろう。少しはマシになったがな」

 それはそれは。

 光栄なことです。

「……そろそろ無駄話、飽きました?」

「飽きはしないがな。無駄とも言わないが、時間は有限だ」

「そうなんですよねぇ……せめて、もう少し時間があれば」

「結果が、変わっていたとでも?」

「……は」

 我ながら馬鹿を言ったものだ。

 ……でも、この会話を、この半端に心地良い時間を終わらせたくないと思う気持ちは本物で。避けられない終わりがあるなら、せめて少しでも長く。もう少し、もう少しだけ――何の気もない、父親とのお喋りに花を咲かせたいと心ながらに思うのだ。

 そんな、小さな、切なる願いは。

「俺とお前の間にはもう、言葉などは必要ない」

 いつかの言葉に霧散していく。

「……そう、でしたね。俺たちゃ相思相愛ですから」

「気の乗らない言い方だが、間違ってはいないだろうな」

「ははは」

 何で……どうして、こんなに嬉しいんだろう。

 嬉しくて、楽しくて、気分が弾んで。

 なら……一体、何が悲しいんだろう。

「親父さん」

「何だ」

「俺を――」

 その先の言葉を口にすることは、俺にとって桜の次に大事なものを失ってしまうということ。

 二番目の矜持。

 ……でも。

 そっちを認めてしまうぐらいなら、俺は。


「――殺して、ください」


 何も考えず、ただ衝動のままに言葉を求めた。

 言い終えてから、自分自身がその言葉を飲み込むまでに幾らかの時間を要した。

 飲み込んでから、成程それが本当の俺の願いだったんだな、と不思議な納得を覚えた。

 納得してから、なんだか随分あっさりと覚悟がついた。

「親父さん。俺を、殺してください」

 ようやく見つけた真意を噛み締めるように、同じ言霊を反芻した。

「約束は果たす。言われなくともそのつもりだ」

「……恩に着ます」

 本当に。

 本当に、あなたが居てくれて、良かった。

「だが、お前は本当にそれで良いのか」

「はい。……でも、こんな言い方していいのか、どうか。怒らないでくれます?」

「それも皮肉のつもりか?」

 はは、と俺は微笑して。

「……親父さんになら、いいかなって」

 何たる他力本願か。

 人生そのものを否定せんとする俺の言葉は、世界でたった一人、彼だけが聞いて良い言葉。他の誰にも聞かせてはならない言葉。

 出来ることなら、親父さんにだって聞かせたくはなかったけれど。

「そうか」

 相変わらずの能面で、親父さんは俺を肯定してくれた。

 俺の勘違いじゃなければいいな、なんて。

 ……甘い。甘いよなぁ、俺。どれだけ親父さんに甘えてるんだか。結局、やっぱり、いつまでも、俺は変わらず餓鬼のまま。

 でも、心の中でだけ、誰にも聞かせず言い訳をするのなら。

 ……あなた以上に心を許せる人なんて、いないんです。

「何か、思い残すことは?」

 死刑執行人よろしく、抑揚のない彼の台詞は、油断すれば思わず噴き出してしまうぐらいにハマっていた。本職としても十分通用するに違いない。時代が時代なら天職のような気もする。

「……」

 少しだけ、考えて。

「ありません」

「そうか」

 短い遣り取りを終えて、俺は懐に手を差し入れる。指先に感じる鋼鉄の冷たい感触。慣れ親しんだ、慣れ親しみたくもなかった、今日ではすっかり俺の相棒。

「できればこいつで。親父さんなら素手でも一瞬でしょうけど、……ぶっちゃけ、怖いんで」

「情けない。だが、お前らしい」

「どうも」

 息子から父親の手へ。テレビのリモコンを渡すような気安さで、それは俺の手から親父さんの手へと渡される。

「合図は必要か」

「要りません。親父さんのタイミングでお願いします」

「了解した」

 無駄のない、流れるような動作で撃鉄が起こされる。淀みなく、迷いもなく銃口は俺の頭蓋へ向けられる。

 あとは、その指先が僅かに動くだけで、全てが終わる。

「なんだか、随分あっさりしたもんですね……」

「そんなものだ」

 含蓄の深すぎる言葉をいただいた。

 返す言葉などありもせず、俺は黙って親父さんの目を見据えた。

「……」

 一度、親父さんが銃杷を握り直した。躊躇ではなく、ただの予備動作。

 感情を持たない彼に、躊躇なんて言葉が適用されるはずがない。

 ……おしまい、かぁ。

 自分ですら聞き取れないほど小さな声で、俺は胸の内を呟いた。世界の終わりがこんな形で訪れてしまったこと、何一つ成し遂げられぬままにリタイアを宣言してしまったこと、それに加えて親父さんへの罪悪感とか、家路を戻ると約束したはずの桜のこととか。実のところ、思い残すことはそれこそ山のようにあったりする。

 それを思い起こさせるかのように、胸の奥に押し留めた一かけらの自分が、さっきからずっと、伏し目がちに呟いているのだ。誰にも届かない小さな声で、自信なさげに、だけどずっと、呟いているのだ。

 ――本当に、それでいいのか。

 何度も何度も、呟いている。馬鹿みたいにずっと、呟いている。

「……いいんだよ」

 俺は笑った。

 弱い自分を嘲笑し、滑稽な自分に微笑んだ。

 頑張った、もう十分だ、やるだけやったんだ、後悔なんてない。

 そんな二束三文の慰め言は、絶対に言ってやらない。

 ……いいんだよ。

 俺が俺に贈ってやれる言葉は、その程度が精一杯だ。

「は――ぁ」

 息を吸う。

 息を吐く。

 身体から感覚が抜けていく。

 生きている実感が薄れていく。

 何とも優秀なことに、俺の身体は今より既に死ぬ為の準備を始めてくれているらしい。

 これなら苦痛もなく、安らかに逝けるだろう。

 ……安らか、ねぇ。

 俺の人生を思い起こすと、何とも、それほど縁遠い言葉は無かった気がする。かと言え、激動の人生であったかと問えば、果たしてそれも違うだろう。

 結局、俺が一人で餓鬼みたいに喚き散らしていただけだった。最初から最後まで、ずっと。一人で勝手に絶望して、一人で勝手に諦めて、一人で勝手に当たり散らして。親父さんのそれよりもずっと、何倍も何十倍も無為な人生。

 そして、そんな人生に意味を与えたのは、不特定多数の馬鹿な人間たちで。

 馬鹿だよ、馬鹿。お前らは本当に馬鹿だね。俺みたいな大馬鹿の人生に関わろうだなんて、それを馬鹿と呼ばずして何と呼べと?

 滑稽だね。愚鈍だね。阿呆だね。そうやってお前らは、沢山の人に笑われてきたんだろう。どうしてあんな馬鹿に関わるのか、って。どうしてあんな屑の相手をしてやってるのか、って。笑われて当然だ。俺だって笑っちゃうもん。

 ……いやー……ごめんね、本当。好き勝手言っちゃって。いくら最期だからって、言って良いことと悪いことってあるよね。すごく反省してる。許しては……くれないか。

 いや……お前らは馬鹿だから、きっと許してくれるんだろうね。馬鹿同士でしか解り合えない何かとやらに縋り合って、お前たちは俺を許してくれるんだろうね。

 ……ああ……ごめん……ごめんなさい。この期に及んで、そんな風にしか思えない俺を許してください。綺麗に物事を考えられない俺を許してください。許しを得ることを求めてしまう俺を、どうか許してください。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 それと、この言葉を許してくれるのなら。

 ……ありがとう。

 俺なんかの人生に関わってくれて、本当にありがとう。

 どれほどの感謝も届かない。命を賭けてもまだ足りない。それぐらい、お前たちが俺にくれたものは果てしない。

 良かった。

 お前たちに出会えて本当に良かった。

 お前たちにとっての人生の汚点は、俺にとっての誇りです。

 さしあたっては、まず親父さん。

 あなたにだけは、命あるうちに伝えたい。


「――ありがとう」


 文字通り、その言葉が引き金となった。

 機械的な動作で人差し指が動き、かちり、と聞こえるはずのない撃鉄の音が耳を叩く。

 射出された弾丸が空気を切り裂く音、肉にめり込む音、全てが鮮明に身体を伝う。

 そして。

 骨を砕き割る音と共に。

 紅の空を目指し、高々と朱色が舞い飛んだ。

 それが何を意味するかって、そんなの、考えるまでもないよね。


 ハッピーフライデー、果て無き真紅に染め上げられた空。


 一人の馬鹿が、その短い生涯を閉じました。



  *



 遠い昔の、遠い日のこと。

 今は懐かしき、在りし姿の走馬灯。


「また来たのか、坊主」

「何度だって来るさ。あんたを負かす日まではな」

「言ったろう。お前には一生無理だ」

「……ッ、やってみなけりゃわかんねえだろうがよ! 何だよ、そんなこと言って、結局俺とやり合うのが怖いだけじゃねえのかよ!」

「怖い、か」

「……な、なんだよ……気味悪い顔しやがって……」

「俺はいつでもこの顔だ。なあ坊主。怖い、とは一体どういうものなんだ?」

「んだよ……挑発のつもりかよ、それ」

「純粋な疑問だ。生まれてこの方、俺は一度も恐怖というものを感じたことがないのでな。」

「は……馬鹿言ってんじゃねえよ。そんな人間が何処にいるってんだ。サイボーグか何かかよ、あんたは」

「サイボーグか。成程、そうだな。その通りかもしれない」

「……頭わいてんのか、あんた?」

「そうかもな。間違ってはいないだろう」

「……変な、奴」


 最初は憎悪の対象でしかなかった巨人。

 そんな大きな男の前で、俺はあまりにもちっぽけで。

 本当のことを知ったのは、それから随分と後のことだった。

 ちなみに、それを教えてくれたのは桜だったり。


「なあ、あんた。感情がないってのは、一体どんな気分なんだ?」

「知ってどうする?」

「別に何も。ただ、あんたのことが知りたいだけだ」

「俺のことを、知りたい、か」

「……何だよ、悪いかよ?」

「いや、悪くはない。お前がそう望むなら構わんさ」

「……じゃあ、さっさと教えろよ」

「感情があるというのは、一体どういう気分なんだ?」

「……はぁ?」

「そういうことだ、坊主。わからんよ、俺にも。感情という概念そのものを知らない俺が、こうしてお前と感情云々と話していられること、それ自体がすでに奇跡のようなものだ」

「何だかな……面倒臭いね、色々と。えっと、要はさ」

「要は?」

「俺とあんたは決定的に違って、お互いを理解することは土台無理な話だと。そういうことか?」

「そうかもな。間違ってはいないだろう」

「は。あんた、そればっかだなぁ」


 俺の人生史に残る、最大級の変人。……後にして思えば、俺の周りの人間にマトモな奴なんて一人としていなかったんだけれども。

 やがて、時は過ぎ、時は過ぎ、さらにまた時は過ぎ。

 少しずつ、俺たちの関係は変わっていった。


「なあ親父さん。マトモに生きてくのって、何だか色々めんどいんだなぁ」

「藪から棒に。いきなりどうした、坊主」

「ん、ああ、いや。学校のことね」

「ああ、近頃から通うようになったと言っていたな。それがどうした」

「どうもこうも。ま、当然っちゃ当然なんだけどさ。つまんねーよ、あそこ」

「当然だろうな。お前のような人間には根本から向いていない場所だ」

「は。何だよ、出来た大人ならそこで応援してやるもんだろ。ひでぇよ、親父さん」

「だが、事実だ」

「っふ……ははは。はーぁ、追い討ちかけるかよ、普通。はは……んでも、親父さんらしーわ」

「額面通りに受け取っておこう。……それより、坊主」

「んあ?」

「俺は、お前の父親になったつもりなどないのだが」

「ん……ああ、ま、いいじゃんよ。何となく呼んでみただけ。他意はないさ。気に触ったかい?」

「お前がそう呼びたいのなら好きにすればいい。俺にそれを遮る権利はない」

「何とも、ね。そんじゃま、好きに呼ばせてもらうとしますよ。それより親父さん、こっちも言いたいことあんだけど」

「言ってみろ」

「俺の名前、ちゃんと覚えてる?」

「覚えているが」

「ほんとかよ……だったら、俺はいつまで坊主なわけ?」

「他意はない。何となくそう呼んでいただけだ」

「……あんたって奴は……」

「気に触ったか?」

「キレる若者、多感な世代、隠したナイフ……」

「それは大事だ。今まで悪かったな、空人」

「……ほんと、変な大人だよ。親父さんって」


 こうして俺たちは矢印で結び付けられた。もっとも、この頃の俺はそれを一方通行のものだと信じて疑わなかったわけだが。

 不思議なもので、それから色々なことが好転し始めた。私生活、取り巻く環境、大事な人、俺自身。何もかもが順風満帆。もちろん、ツケとして溜まり溜まった障害のオマケ付きではあったけど。

 楽しかった。生きることが楽しかった。初めて覚える感情だった。信じられなかった。

 あまりにも突然に、俺の人生は意味を持ち始めた。


 もう少し、ゆっくりと時間をかけて育めば良かったのだろう。

 良い事だけが続いてしまえば、人間、誰だってダメになる。それ以前が悪い事だらけであったなら尚更だ。

 昔と今の狭間で、俺は自分を見失っていたのだと思う。当時のことはあまり覚えていないのだ。逃避か、自衛か……どっちにしても、その頃の俺は壊れていたんだろう。皮肉にも原因は不幸ではなく、その真逆。


 弱さ故の凶行。

 記憶ではすっかりぼやけてしまっても、指先にはいつまでも焼き付いて離れない、肉を裂く手応え、感触。

 何度も何度も何度も何度も刺して裂いて突いて薙いで。

 無意識のうちの衝動と思い込むことで罪の意識を転嫁しようとした。だが、それは詭弁。

 無意識ではなかった。それどころか、凶器よりも鋭敏な自覚があった。

 だから、それは罪悪。

 振り切れたメーター。殺人に手を染める実感。恐怖すら行動理念。

 その時の俺は、自分自身にかけて間違いなく。

 親父さんを、殺していた。


 全てが終わって、俺はただ立ち尽くしていた。

 後悔、罪の意識、犯行理由。そんな下らないもの、その時はどうだって良かった。

 俺が立っていて、親父さんが倒れているという、その事実。


「……親父、さん?」


 殺した相手に、情けない声で。

 ぴくりと動いた親父さんの身体に、覚えたものは歓喜か、恐怖か。


「やってくれたな、空人」


 どう見ても出血は致死量。

 それなのに親父さんは、血まみれの身体を無理矢理に起こし、もう使い物にならない筈の足で、しっかりと大地を踏みしめていた。


「だが、空人。これで」


 視力の残された片方の眼。

 いつもと変わらぬ表情で、親父さんが俺を見る。


「弱いお前は、死ぬことが出来ただろう?」


 それを最後の一言に、親父さんの意識は白濁の彼方へと飛んでいった。

 俺はきっと、一生分の涙を流し尽くした。



  *



 ……でも、違ったみたいで。

 一生だとか、人生だとか、そういった類の言葉は軽々しく口にしてはいけないものらしい。

 あの日に見上げた空は青かった。

 この日に見上げる空は赤い。

 そう、親父さんに脳天を撃ち抜かれて死んだ筈の俺は、今も変わらず赤い空を見上げている。

 ……死んで、ない?

 その事に気付いた時、思い出のフラッシュバックが在りし日の姿を結んだ時、この目で『それ』を見据えた時。

 様々なファクターが重なって、真実はようやく像を結ぶ。


「お……」


 握り締められた銃杷。

 握り直された銃杷。

 真逆に向けられた、銃口。


「親父さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」


 薬莢の爆ぜる音は、その絶対的な暴力の軌跡を紅の空に残していった。

 二人の馬鹿の胸に、ぽっかりと風穴を空けながら。



  *



 時刻は夕時を追い抜こうとしているのにも関わらず、依然として朱色を衰えさせる気配を見せない空。

 そんな中、今日も一面に舞い散る、桃色の欠片。

 一度は諦めた帰るべき場所。

 朝とまったく同じ姿勢で、桜は俺の帰宅を迎えてくれた。

「……ただいま」

 ぼそりと呟いて、四肢を地面へと投げ出した。

「……」

 すぐに立ち上がり、桜木と正面だって向かい合う。

 そこに眠るのは、桜と、そしてもう一人。

 胸からは今もどろりとした液体が流れ出ている。閉じられた瞳。その顔に生気は窺えず、頬などはもう青白く変色してしまっている。

 ほんの数十分前まで、その片目にはまだ光が宿っていたと言うのに。

「親父さん」

 ――なんだ、空人。

 声をかければ、彼はいつもそう言って俺に応えてくれた。

 応えてくれないことなんて一度もなかった。

 だから、こいつはその一度目らしい。

「……馬鹿だよ、あんた」

 親父さんを理解するのに言葉は要らない。だけど、今回ばかりは理解したくなかった。

「馬鹿だよ。馬鹿だ。馬鹿だよ、あんたは」

「随分と馬鹿にされたものだな」

「うわぁぁぁぁぁぁっ!」

 超絶ビビる俺。

 今しがた再認した、返ってこないはずの声。

「おおおおおおおおおお親父さんっ?」

 その表情を見やる。

 変わらず、生気の宿らない顔。

「何をそんなに驚いている、空人」

「何を何で何がどうしてっ!?」

「落ち着け」

 動かない口元。低い声だけが木霊のように。それは聞こえるものと言うよりも、感じるもののそれに近い。

 この声を感じるのは、初めてじゃない。

 そう。夜な夜な続いた桜との会話に、この状況は酷似していた。

「……は、なるほど。そういうわけで」

「そういうわけだ」

「俺、そろそろ本気でやばいのかなぁ……はぁ、波津久の野郎に何て言われるか」

「感受性豊か、結構なことじゃないか。生霊が見えるのはお前のような人間だそうだ」

「あんたもう死んでますよ!」

「物の例えだ。少し落ち着けと言った、空人」

「これが落ち着いていられますかって……」

 天を仰いだ。

 末期だな、俺。

 もう引き返せないところまで来てしまったんだと、今更ながら再確認。

「……どうして、あんな真似を?」

 はっきりと自覚までしておきながら、現状に甘えてしまう自分がいた。まだ整理がついていないのだろう。まるで他人事のように俺は訊いた。

「どうしてだろうな。俺も解らない」

 ついぞと同じ台詞を吐く。

「……これ、干渉ってレベルじゃないでしょう。俺には解りませんよ」

「だろうな。だが、じきに解るさ」

「……どうして、そう言えるんですか?」

「どうしてだろうな、俺も――とは、許してくれないか」

「許しません」

 許してたまるか。

 それを訊くまでは絶対に逝かせない。

「……」

 幾許かの空白の後、重低音の木霊が響く。

「俺は約束を果たした。それだけのことだ」

「……約束?」

「お前を殺した」

「……何言ってるんですか。死んだのは俺じゃなくて、」

「お前は死んだんだ。これで二度目だな」

「――っ!」

 説明不要の既視感が俺を襲う。

 二度目があれば、一度目も。

 そう、今日はあの日の焼き直し。ただ一つ、結果に大きな差異を湛えて。

「……あなたは、どうして」

 声が、震える。

「どうして、そこまでしてくれるんですか。どうして、そこまでして俺なんかに干渉するんですか」

「さあな。大事なものに理由が要るか?」

「は――」

 これ、俺の幻覚だよな。

 ……幻覚の、はずなのに。

「どうしてかは知らんが、俺が生きてきた中で最初で最後、唯一絶対の相手がお前だった。生涯を賭けるには十分だ」

「だからって、俺なんかに――」

「お前なんかだからこそ、だ。お前が高尚な聖人だったなら、俺はそもそも干渉しようなどとは思わなかっただろう。お前がどうしようもない馬鹿で、誰かの手を借りなければ碌に生きてもいけないような愚図だったからこそ、俺のような人間でも感じ入るものがあったんだろうな」

「……」

 酷い言われ様だ。

 だけど、有り体な世辞を並べられるよりは何百倍も納得のいく言葉だった。

「お前はこれから、まだ変わっていける」

「……本当に?」

「地獄から這い上がってきた人間は天井を知らぬものだ。この名にかけて、俺が保障しよう」

「……うれしい、です」

 じわじわと、込み上げてくるものがあった。

 最近、本当に涙腺緩くなったな。

「お前は人を殺しすぎた。お前が変わるためには、まず思い出さねばならないことがあった。一つでいい、大切なのはきっかけだ。それを知れば、お前はまだまだ生きていける」

 夢に出会った。

 波津久に出会った。

 三木さんに出会った。

 そして、最後の一押しが。

「あと二日。どう転ぶかは知らんが、せいぜい汗水流すことだな」

 遠ざかる木霊が、最後の言葉を紡ぎ出そうとしている。

「……善処、します」

 ふわり、と。

 何かに包まれたような、優しい感覚。

「無為な人生だったがな」

 そして、桜は今日も舞う。

 白色の世界の向こう側で。

 別れの言葉を語る親父さんの顔は。

 ひどく不器用で、付け焼刃のそれで。

 いびつで不恰好で、無理してることが一目瞭然で。

「そう悪くはなかったぞ、馬鹿息子」

 だけど、確かに笑っていたんだ。

 気に掛かることは色々あったけれど。

 あんまりにも嬉しくて、ガキみたいに笑顔を返したら、白色の向こうにはより一層いびつな笑顔が見えた。

 そんな俺たちは。

 まるで、本当の父子のようだった。



 世界がさらさらと溶けていく様を、俺はただじっと眺めていた。

 ふと気付くと、世界は元通りの朱色に染め上げられていて。

「……親父さん」

 返事はない。

 当然だ。死んでいるのだ。

「……桜」

 その隣には、親父さんにそっくりな顔で眠る妹がいた。

 ミイラのように痩せ細った身体。ぼろぼろの衣服。堅く閉ざされた瞳。

「は――ぁ――」

 だけど、二人とも。

 やけに安らかな顔で、眠っている。

「あ――あぁぁぁ――」

 そんな二人の姿は、この世界の何よりも高く尊いものに違いない。

 その寝顔が、いつまでもどこまでも、俺を見守ってくれているような気がして。

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……あぁ……うあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――」

 もう二度と彼らの声を聞くことはないだろう。その事実が悲しくて、悲しくて、悲しくて、悲しくて――俺はただただ、涙を流した。流して流して、尽きるまで流した。

 その果てにやがて訪れる、心地良いまどろみ。

 任されるままに身を預け、しばしの休息へと意識を飛ばす。

 優しい夢から目を覚ますことができた時、俺は、きっと。

 自分に出来ることの全てを、やり遂げようと思います。


 さようなら、大好きな貴方。

 さようなら、大好きな貴女。

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