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Thursday:想人(おもいびと)

 俺が初めて手にかけた人間は、実の両親である。 

 彼らが生来強い人間であったかどうかと問われれば往々にして否ではあるが、それでもやはり、彼らの息子として俺が産まれていなかったのなら、二人は誰と変わらぬ普通の生活を送ることが出来ていたはずだ。どこかで道を間違えたのだろう、きっと運が悪かったのだろう、どちらにしても――俺のような子供を授かってしまったせいで、両親は心に病巣を抱えてしまった。

 巨大企業の跡継ぎとして生まれた父と、良家の箱入り娘として育った母。お互いに世間知らずな部分は否めなかったものの、そんなものは問題とならないほどに彼らが保持していた人生におけるアドバンテージは大きかった。安定した職業、安定した未来、安定した収入。そんな二人がくっついたわけで、傍から見れば二宮家は完璧なまでに幸せな家庭に見えていたことだろう。

 だが、実情はすでに口頭した通り。

 そんな二宮の家庭はギリギリのところでどうにか形を保っているだけの積み木細工のようなものに変わりはなく、物心ついた頃にはもう、家庭内の家事全般を行っているのは母ではなく父でもなく、しかして当然俺でもなく、消去法と言えば聞こえは悪いけれども、つまるところ妹だった。エプロン姿で『今日のごはんは肉じゃがだよ。今ちょっと手が放せくて、悪いんだけどお風呂洗ってきてくれないー?』と台所を縦横していた妹は当時小学四年生。その頃からあいつはどこに出しても恥ずかしくない立派な主婦であったことに違いない。

 よくある話だ。家庭崩壊、という言葉を使えばこうも長い説明は要らなかったかもしれない。

 だが、ここで。

 崩壊したものには遅かれ早かれ必ず終焉が訪れる。崩壊した状態に存続は在り得ない。必ず誰かがそれを見咎め、どういう形に転ぼうと、決してそのままの状態を許さない。それが人間社会の常というもの。崩壊は終焉を誘発する。そうして結果、崩壊した環境も終焉と共に改変され、異常はやがて平常へと修復されていくものだ。

 しかし、その一面において二宮家に広義が適用されることはなかった。

 欠落した両親を抱えた家庭は、崩壊したままの状態で、しかし決して終焉を迎えることはなく続き続けた。誰としてその業を見咎める者は居なかった。

 そんな人間社会におけるイリーガル――それこそが、前述のアドバンテージとやらに他ならない。収入。金。金だ。金さえあれば、あとは優秀な妹がそれを生かしてくれる。子育てに関しては完全に諦観していた両親だが、幸いなことに彼らは世捨て人になることはなく、むしろ精一杯に汗水流して働いてくれたし、そうして俺達に金を与え続けてくれた。

 それが俺達のためだったとは限らない、むしろ自分達のためだったのは間違いないとは言え、やはりそれは感謝するべきであり同時に同情するべき事実だった。彼らは仕事にしか逃げ場、生き場を見出せなかったという、その事実。今の俺自身を思えば尚更だ。どれほど接触を拒んでも、俺たちは間違いなく親子であったということ。血は、争えない。

 だから同情、という言葉はおそらく間違ってはいないだろう。そういうわけで、その点において俺は両親の生き方を言及するつもりは毛頭ない。少なくとも彼らは精一杯だった。決して生きることに手を抜いてはいなかった。諦めるべきを諦め、立ち向かうべきを立ち向かった。一般常識ではなく、彼ら自身の良識に従って。誰が認めなくても、俺が認める。彼らの生き方を誰よりも間近で見守り、なおかつ誰よりも遠くで傍観してきた俺が認める。誰にも文句は言わせない。

 俺たちの過去を知らない奴に、文句を言う権利なんてない。

 以上のように、誰もがみんな欠落を抱えた、そんな幼少期の記憶は聞くに耐えないものである。これ以上をこの場で語るつもりはないけれど。

 それからの色々は以下省略して、以降、二宮空人の生きた物語の概要を取り纏めると。


 そうして俺は成長し、

 そうして俺は親父さんと出会い、

 そうして俺には友達が出来て、

 そうして俺の世界は崩壊し、

 そうして俺は終焉した。


 というだけの話。

 だから、これまでの話にはもう、それ以上の意味はない。

 この物語は完全に圧倒的に完膚なきまでに終焉を迎えた。

 そして、その時。

 俺が「俺」になり『俺』となった、その時。

 今一度断っておこう。崩壊を終えて終焉を迎えたそれに、もはや意味なんてある筈がない。

 ただ灰色の惰性のみに彩られた、誰も望まないアンコール。

 そんな始まりでさえ、俺の胸には、今もなお克明に刻まれている。


 ――空、人――


 その名を最後に彼らに呼ばれた日、ほんの僅かでも華やかな夢を見て生きていられた日、それは果たしてどれほどに過去を遡れば良かったのか、今では遠く見当も付かない。


 ――そらと、そら、と――


 終わった瞳で、虚ろな言葉で、そんな両親の表情を直視するのは、例え俺が『俺』になりつつあったことを差し引いても、ひどく心を揺さぶられた。

 辛かった。痛かった。背を向けたかった。

 辛くても、痛くても、背を向けなかった。


 ――頼む、そらと、そらと――


 きっと俺はその時、最初で最後の親孝行をしてやれたんじゃないかと自負している。今更何を、とも思う。つまるところ、それは俺の自己満足のためにはひどく都合の良い贖罪だったのだろう。

 ……それでも、

 愚息と真っ向切って向かい合うことを一度として行わなかった愚親が、

 その長くない生涯の中、最初で最後、

 この俺に、

 空を見上げて生きる人、と名付けた彼らの息子に、

 望んだことだ。

 迷う必要なんて、どこにも無かっただろう?


 ――――。


 すみません、なんて言葉は余りにも今更で。

 ありがとう、なんて言葉は余りにも空々しくて。

 がんばるよ、なんて言葉は余りにも滑稽で。 

 実の両親に手向けるべき永訣の言葉を、俺は余りにも持っていなかったのだ。

 そんな生涯を、強いてきた二人。

 そんな生涯を、与えてくれた二人。

 無い頭を絞って俺は言った。


 ――お疲れ様。


 今もずっと、忘れられない。

 空っぽの物語の始まりを。



  *



 薄ぼんやりと、黎明の空を見上げていた。

 時刻にして午前五時ちょっと前。

 徐々に明るさを増していく周囲の風景に反するように、空だけは依然として黒いままその姿を現してゆく。どうにも不思議な絵面ではあるが、俺の目の前でこうして実際にそれが起こっている以上、無駄な詮索などせず正直に現実として受け入れてしまおう。思考することに一切の無駄は無かれど、しかして無駄な思考は文字通りに無駄なのだ。その辺は感受性の問題だとしか言えないけれども。

 はてさて、俺は一体どうしてこんな時間に目を覚ましてしまったのか、その答えは存外にして単純で。

「ふぁーあ……」

 要するに、寝ていないのである。寝られなかったとも言う。

 久々の完徹に、体のほうも非常に正直な反応をもって応えてくれる。だったらどうして肝心なところでこうも天邪鬼なのか、と静かな怒りも沸かんというもの。正直きつい。

 どんなに目を閉じても意識は閉じてくれないという感覚、というものは誰しも一度は記憶のあるものに違いないだろうが、慣れない枕ならいざ知らずこれほどまでに親しみ深いここ涅槃において果たしてそんなことがあっていいのだろうかと少しは憤慨したくもなる。理不尽だ。非常にとっても理不尽だ。

 ……まあ、その理由は解ってるんだけど。

「おまえがデートとか言うから、柄にもなく緊張しちまったじゃねーかよ」

 俺は中学生か!

「あはは、なになに空人、緊張してたの?

 そりゃするっつーの。

 へー、へー、へー。

 なんだよ……何か文句あんのかね。

 全然。いや、嬉しいなーって。

 そういうことを真顔で言うのはやめてくださいと常々。

 いいじゃんいいじゃん、……えーと、

 ……あー、やめた」

 虚しすぎる。昔はそっくり同じ声だったのになぁ。

 年月ってのは、分け隔てなく男女の間に壁を作るものらしい。

「ま、高望みだよな」

 そんなことないよ、と返事があればどれほど嬉しかったか。

「なあ、桜」

 桜は、妹は、昨日の別れの瞬間から全く変わらない姿勢のまま、完全にその身を大木に預ける形で、そこに居た。

 いつだって、どんな時だってそこに居た。

「親父さんと一緒だったんだな、おまえは」

 どいつもこいつも俺も、みんな馬鹿ばっかりだ。

「馬鹿ふたり、お似合いじゃないか」

 独り言は続く。

 誰に咎められても、俺は続ける。

「なあ、桜」

 何度でも。

 誰が諦めても、俺だけは諦めない。

 桜の存在を、諦めない。

 理由なんて馬鹿みたいに単純明快。

「ほんと、今日はいい天気だよ」

 俺が桜の双子の兄で、

 俺が桜の唯一の家族で、

 俺が桜のことを世界で誰より愛しているからだ。

「変わらないことは、いいことだ」

 永遠に変わらず、恒久を誓い、久遠を受け止める、俺がこの世に生まれた瞬間からずっと変わらず想い続けている覚悟。

 例え桜の瞳に、耳に、心に、俺のそれが重なることがないとしても、そんなのは理由の欠片にすら為りやしない。

 俺にとっての桜は、そんなものじゃない。

 何度だって言う。

 俺は、桜の存在を、諦めない。

「ちょっと早いけど、朝飯にしようか」

 親父さんから頂いた例の食料山から適当な量を選び出し、二人分、綺麗にそれを並べてゆく。

「いただきます」

 いただきます、と声が重なったように感じたのはどう好意的に解釈しても俺の空耳だったんだろうが、そうだとしても十分に嬉しかった。桜は食事のマナーに関しては決して妥協しない女だったので、あいつの目の前でいただきますを忘れた日にはそりゃもうちょっとした惨事を目の当たりにすることになる――そんな遠い日の一幕を思い出したりして。

 久方ぶりの、桜と二人で食べる食事。

 例え、まったく手をつけられることなく余った約一名分の後片付けを強いられていたとしても。

 そんなのは、何の問題にもならなくて。

 それは何の見栄も虚飾もなく、心から幸せな時間だった。



  *



 今を遡ること二十年前。

 とある夫婦の間に、それはそれは元気な双子の男女が授けられました。

 爛漫の春、萌芽の季節。どこまでもどこまでも、空高く天越えて伸びゆく桜木のごとく、兄妹は健やかに成長していきました。無垢な笑顔は豊かな暮らしを支え、夫婦は疑うことなき真実の幸せを噛み締めて、慎ましやかに日々の暮らしを送っていきました。

 優しい潤滑油に満たされた、幸せの歯車。

 確かな今と約束された将来。

 安穏の毎日。

 決して道を違うことなく歩んできた半生。

 築かれた地位。

 それら全てを投げ打ってでも守りたい笑顔。

 信じるものは揺るがない。

 宝物を、間違えない。

 努力と実績を積み重ねてきた彼ら夫妻には、一微とて非はありませんでした。


 だけど。

 そんな完璧な歯車でさえ、どこか一箇所でも狂ってしまえば、完璧に狂うのです。


 始まりは、ほんの些細なことで。

 ほんの些細なことを、ほんの些細なことと割り切ってしまったことが。

 気付かぬうちに、少しずつ、少しずつ。

 歯車は、磨り減って。

 磨耗して脆くなった歯車には、やがて一条の亀裂が走り。

 ほんの一条の亀裂は、時間と共に修繕を許さぬほどの損壊となっていて。

 双子の兄は、いつからか歩むべき道を違えて。

 双子の妹は、そんな側でいつでも彼を支えて。


「……言いたいことがあるなら、言えよ」

「あはは、空人、顔がなんだかすごいことになってるよ。早く手当てしなきゃ大変だね」

「うるさい」

「言いたいこと言えって、空人が言ったんじゃん。わがままだなー、もー」

「……うるさい」

「はいはい、いいからおうちにかえろ。そしたらちゃんと手当てしてあげるから。患者さんがたくさんのお医者さんになんて連れていけないもんね、空人みたいなやんちゃぼーず」

「……勝手にしろよ」


 天下無敵の妹の前では、彼がどんなに悪ぶってみたところで大した意味はありません。まるで絵に描いたような反抗期の少年。そこには一見、ある種の微笑ましささえ見て取れるではありませんか。


 ――本当に?


「空人、それなぁに?」

「見りゃわかるだろ、ただのナイフだよ」

「どうして、そんなに真っ赤なの?」

「聞き分けねー奴でさ。落としてきた」

「落としてきたって、なにを?」

「指」


 ――本当に?


 他愛の無い子供同士のじゃれ合いだと、これでも微笑んでいられる大人がいるでしょうか。

 少年はその界隈ではちょっとした有名人。大人たちの間を横行するのは、とても十歳そこそこという子供に対して使われるとは思えぬ卑称。彼らも必死だったのでしょう。彼らの子が異端子に接触してしまうことをどうにかして防ぎたいと願う親心の前では、良心や体面などは二の次であったに違いありません。責められるべきは、彼らではありません。


「死神」

「悪魔」

「居なくなってしまえば」

「近寄っちゃいけません」

「親の顔が」

「塵」

「な、何を」

「話をするなんてもってのほか」

「や、やめ」

「お前らはいつもそう言うんだ」

「う、あ、あ」

「か、金なら」

「それだけの覚悟はあったんだろう?」

「あ、あ、あ、あ」

「言っただろう?」

「悪魔」

「知ってただろう?」

「死神」

「命までは取らねえよ、んなことしたら足がつく」

「なら」

「命を奪わなくても」


「人は、殺せるんだぜ?」




 少年の過去は、当然と必然のみに彩られた灰色の物語。

 ただ一度の偶然は、レールを踏み外したきっかけにしか過ぎなくて。

 ただ一度踏み外したレールは、もう二度と彼の歩みを助けてはくれなくて。

 ただ一度の『ただ一度』が、少年とその家族を完膚なきまでに狂わせました。 


 真に救われなかったのは、果たして誰?

 その寸劇の舞台の主役を演じた、少年?

 完璧なはずの歯車を粉々に砕かれてしまった、両親?

 そんな環境など何のその、いつも笑顔だった少年の片割れ?


 誰知らぬ結末を携えて、なおも運命は無邪気に嘲笑うだけ。

 その機嫌の赴くままに、用意されたシナリオの全てを引き裂いて。

 時間は、それでも止まらない。

 一度流れた水が、流れ着くところまで絶対に止まらないように。

 止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない時間が流れ流れ流れ流れて。


 少年は、成長と共に愚かな行為を重ね続け。

 両親は、時間と共に全てから目を逸らし。

 少女は、少年と共にいつだって笑顔で隣を歩み。


 たったそれだけの、昔話。

 悲劇ですらない、偶然による必然の歴史。


 最後の最期に、もうひとつだけ。


 異常なのは、誰だった?



  *



「うぉ、軽っ」

 幸せな朝食を終えて。

 一人では起き上がれない桜を背中に担ぎ、俺は寝床を立ち上がる。

 ほとんど重みの感じられない感触という何とも名状しがたいものを背に感じながら、俺は行く当てもなくふらりふらりと歩き出す。

 黒い空、黒い雲。

 絶好のデート日和。

「どこ行きたいよ、桜」

 ……。

「はぁ、返事ぐらいしろよなー」

 なんて言いつつも、笑顔はどうにも隠せない。久々の空気は本当に新鮮で、乾ききっていた日々の連なりに鮮烈に響き渡る。嬉しい。嬉しいんだ、俺は。こうして桜と一緒に歩けることが嬉しい。きっと、そう。

 緩みきった表情をどうにか引き締めて、やっぱり俺は、行く当てもなく歩き続けた。


 ………………

 …………

 ……


「行くとこねぇー!」

 思わず天を仰ぎ見た。

 どこをどう歩いてもデートスポット的かつロマンティックな場所なんて見当たらない。

 ひとつだけ、候補にあると言えばあるんだけど……、

「そこはもう、ゴールだしなー」

 そしてスタートでもあったりする。

 夜景は本当に綺麗なんだよな。考えてみればこれ以上ないほどに素晴らしい場所ではある。

 でもそれは折角のデートの時間を自宅で持て余すようなもので、それは俺としても余り好ましくはないし、俺以上に桜はそういう情緒のないことを許さない。

「だよな、桜」

 ……。

「ノーリアクション!」

 身悶える。

「はぁ……我ながらなんて甲斐性のない」

 はぁ、と途切れることなく続く溜息。歩けど歩けど景色の先には見るに耐えない瓦礫だらけ。俺はこんなにも世界を見ていない人間だったのか。それとも世界が俺たちを見放しているだけの話なのか。どちらにしても決して喜ばしいとは言いがたい話である。

「酒でも飲まなきゃやってらんねーや」

 ぶつくさ垂れながらそれでも歩く俺は、そんな自分の言葉にふと思い留まった。

 酒……酒、か。

 自分がたった今言ったことだ。そこへ行くための大義名分は十分に足りている。

 幸か不幸か、眼下にはちょうど分かれ道。

 灰色のアスファルトからところどころ茶色が剥き出しになった、いつも見ている交差点。

 俺はいつもそこで当然のように、迷うことなんて微塵もなく、それは例えればまるで学生時代、半ば無意識的に通学路を辿っていくあの感覚のように、《左》を選んでいた。

 ……いや、それは少し言葉が違う。

 そもそも『選ぶ』ような選択肢なんて、そこには存在しなかった。

 この道にあった概念は《左》だけ。

 そう、元来この場所は交差点なんかじゃなかった。一方通行の直線路だった。

 意識することすらなかったのに。

 それなのに、今。

 全ての終わりまで今日を含めてあと四日、そんな今。

 この場所が――交差点に、なった。

 白か、黒か。

 右か、左か。

 完膚なきまでに、フィフティフィフティ。

 理由は、多分、わかってる。

「……どうするよ、桜ぁ」

 我ながら何とも情けない声。突っ張っていた当時から更正後のあの頃に至るまで、常々どうにかせねばと自制していた頼り癖は、結局、根本的なところでは決して消えないレベルで俺の内面に根付いてしまっているらしかった。

 ほんと、ダメ人間なんだよなぁ、俺って。

 それを痛感する都度こんな風に落ち込んで、そのたび「そんなことないってば」と激励の言葉を頂いて、そんな安っぽい言葉でもあいつが言ってくれたなら俺は馬鹿みたいに単純に嬉しくなって……そんな日々が、確かにあって。

 少しだけ、泣きたくなった。

「……桜」

 惚れた女の目の前で泣くなんて、そんな格好悪いことが出来るはずがない。

 だから俺は、精一杯の虚勢を張って。

「行こうぜ、桜」

 この日の逢引きを提案したのは俺。

 だったら、デートコースを選ぶのも俺の役目。

 桜を楽しませるために。

 考えるべきはそれだけで十分。

 その瞬間、自然と足が動き出す。

 逡巡なんて、最初から無かったかのように。

 俺は微笑んで。

 桜は微笑んでるか?

 背負ったままの体勢では確認することが出来なかったけど。

 きっと。

 俺は微笑んだ。

 そして俺はいつものように左の道を。

 選ばなかった。



  *



 前略。

 後悔はしていない。

 どちらかと言えば、運命を恨んでいる。

 右の未来も左の未来も、結局どちらも鼠色だったということ。

 後悔はしていない。

 憤っているだけだ。

「あ、貴方様は――」

「……マジっすか」

 見慣れない道を歩くこと小一時間。開けた景色の先に待ち受けていたものは、今は昔の小さな住宅街だった。閑散とした郊外、それでも確かに人が生きていた名残を残す場所。そんな街と外の世界とを分ける、ちょうど入り口の境目で。

 確かに、このまま脇役で終わる人じゃないとは思ってたけどさぁ……。

「――二宮様ではないですか! いやはや、何とも奇遇! いえいえ、これこそ運命! そうですそうとも、偶然を疑ってはいけません、偶然は尊ばねばなりません、それゆえ偶然は必然と呼べるのです。やや、こんな場所でお会いできるとは何たる幸運! 本日は大変お日柄もよく……」

「うるせえよあんた!」

「ひ、ひぃっ! ももも申し訳申し訳申し訳申し訳申っっっっし訳ありませぇぇぇぇん!」

 もしかしたら人違いかもしれない、なんてありふれた幻想を思い描いたりしてみたけれど。

 そんなことはありませんでした。

「……どうも、こんにちは。奇遇っすね、三木さん」

「いえいえですからこれは奇遇ではなく運め……いやいや違った、まったくもってその通りでございます、二宮様」

 一所に留まっていられない性分なのだろうか、やたらと大仰な身振りで辺りを縦横している中年の男性。

 どうやらこの人、完膚なきまでに三木幹介その方らしい。

 そっくりさんとかじゃないらしい。

 全身全霊で溜息を吐きたい思いをどうにか堪え、背中の想い人との時間を思いっきり妨害された理不尽にもどうにか平常心を保ち、削りに削られまくった僅かな自我で、俺は目の前に立つ中年カルトおやじと向き合った。

「……三木さんは、散歩中か何かですか?」

「散歩。ええ、そうですね、その通りでございます。人は元より光から生まれた太陽の子。散歩は良いものです。とても晴れ晴れとした気分になれますから」

「言ってることはわかりますけど……三木さん、あんた、昨日のことをもう忘れたってわけじゃないですよね?」

「私こと三木幹介は幼少期より親兄弟にも友人恩師にも鳥頭と罵られる日々を送って参りましたが、さすがに自分の人生に関わるような大きな出来事は決して忘れることなく生きてきたつもりです。現に私は二宮様、貴方様のことを生涯忘れまいという大きな自信と確信をもってここに存在することが出来ています」

「違うでしょうが! あんたは殺されかけたんですよ! 昨日! そこんとこわかってるんですか!」

「ええ、ええ、覚えていますとも。あんなに恐ろしい思いをしたのは私の人生の内でもあれが最たるものでしょう。いやはや、実に恐ろしかった。この年になってみっともなく失禁までしてしまい……何とも、顔から火が出る思いでございます」

「…………」

 この人は……このひとは……ッ!

 変な人だとは、思っていたけれど……ッ!

 本当に……救いようのない……お馬鹿さんだった……ッ!

「……どうなさいました、二宮様? どこかお体の具合でも?」

「ええ……少し頭痛が」

「そ、それは一大事! 早急に拙宅にて介抱をばッ!」

「お願いですから気にしないでください」

「いえいえそんな訳にはいきません! 命の恩人が窮地に晒されている今この時に私が動かずして誰が動くと言うのでしょうか! いいえ誰も動きはしない! ですから私は」

「黙れっつってんだろが!」

「ひぃぃぃっ申し訳申し訳申し訳申し訳申し訳申っっっっっし訳ありませぇぇぇぇえええええええええん!」

 しばしエンドレス。

 後略。



  *



「本当に申し訳ありませんでした……私、少々舞い上がってしまっていたようです。以降、冷静を努めようと心がける次第」

「わかってくれりゃ……いいんです……」

 あんな感じで喧々囂々、実に二時間超。

 そりゃ息も切れるし喉だって痛い。

「当店自慢のエスプレッソです、ご賞味くださいませ」

「ああ、こりゃどうも……つ、熱っ」

 淹れたてのコーヒーをゆっくりと喉に流し込む。途端、口いっぱいに広がる柔らかい感触。一口目こそ熱さに辟易していたものの、その舌触りを覚えてからは自然に二口三口と喉が鳴る。ブラックであるにも関わらず舌先に感じられる確かな甘み、そしてその裏で味を引き立ててくれる酸味が見事に溶け合い、至上の味わいが生み出されている。言うだけのことはあるなと、ほんの一瞬だけ感心してから――

「って、いつの間に何処ですかここは!」

 空っぽのカップをテーブルに叩き付けながら叫ぶ。

 なんだかよく知らぬ間に、俺は全くもって見も知らぬ建物の中にいたのだった。

「いつの間に……と申されましても。何と言いますか、その、成り行きでしょうか」

「成り行きって……」

「成り行きは成り行きでございますよ」

 極上のコーヒーのお陰で喉も潤い、枯れた声にも活力が戻る。そうなった原因も過程も全てこの三木幹介という意味のわからない男の存在にあるのだが。

 急速に頭へと血が上っていくのを感じつつ、それでも何とか平静を装いながら辺りを見回してみる。荒れたカウンターや椅子のない客席、傷跡に蹂躙された内装、それでもどこか落ち着きを保った空間。そして先程の残り香か、ほのかに薫るコーヒー豆の匂い。……どうやら三木さんの語ったとおり、この場所は当時喫茶店だったモノの跡地らしい。

「……この店、三木さんが?」

「ええ。しがない個人経営の喫茶店でして、どうにか日々の暮らしを綴っていく程度が精一杯といったものでしたけれど。それでも、たくさんのお得意様が支えとなってくださったお陰で、当店は今日まで営業を続けてこれたのでございます。まこと、私たちを見守ってくださっている神様には感謝すべきであり、同時に最も身近な神様であるお客様には至上の敬意と笑顔をもってお応えしていくことが私の努めであります。明るく、笑顔で、さわやかに! それこそが当店、カフェテリア・ミキミキのモットーでございます」

 ミキミキってそれかよ。

 どこかで聞いたことのあるようなモットーだ。

 そして心底どうでもよかった。

「いや、それはそれとして……成り行きってのもまあ、俺は別に構わないんですけど」

 ひとまず席を立ち上がり、いまだ背負いっぱなしだった妹・桜をゆっくり、丁寧に抱きかかえ、隣のカウンター席に座らせようとして、

「んだよ、横着すんなよ」

 その華奢な体にはまったく力がこもらず、どうにも上手いこと椅子に腰掛けさせることができない。どうしたものかと少し考え、並んだ二つの席を使って横にさせることにした。それでも余った上半身は、この際ということで――俺は再びカウンター席に座り、桜の頭をちょうど俺の膝の上に重ねてやった。膝枕。万国共通カップルの憧れ。逆のシチュエーションならもっと嬉しかったけれど。

「二人っきりじゃなくなっちゃったけどさ、喫茶店でのデートってのも悪くないよな?」

 …………

 返事がないということは、否定ではないということだ。

 桜がそのつもりなら、もう俺に言うことはない。

「……三木さん。エスプレッソをもう一杯、お願いできますか」

 三木さんは、そりゃもうあからさまに嬉しそうな顔をして。

「ええ、ええ、承りました。ただいまご用意いたします」

 と、勢い込んでカウンターの奥へと踵を返した。

「三木さ……いや、マスター」

「……マ、マスター……な、なんと高尚な響き……そして、なんと懐かしい響きでありましょうか……ああ、二宮様、貴方というお方は……」

 背を向けたまま、かちゃかちゃと道具を用意しつつ、それでも歓喜に満ちた声で三木さんは応える。仕事に関してはきちんとこなす、そこらへんは出来た人間らしい。

「……気分の問題ですよ。こっちも、ムードは大事にしたいんで」

「ほうほう、なるほど。大事な女性と過ごす時間は得てして、何事にも換えがたく大事な時間であるものです。そのお手伝いを演出するのも喫茶の長たるマスターの努め。私、全身全霊を込めてムード作りに心血を注ぐ次第でございます」

「心血はいいですからコーヒーを注いでください」

「御意」

 待つこと数分、しばらくして、こぽこぽ、こぽ、という耳触りの良い沸騰音が聞こえてくる。それに伴って、香ばしい薫りもまた辺り一面へと広がり始める。

「お待たせいたしました、エスプレッソでございます」

 ことり、と差し出された一杯のカップ。欠損が激しく、僅かばかりの装飾は剥げ落ち、それでもなお感じられる気品の残滓は、きっと三木さんの仕事が為す技なのだろう。俺にはコーヒーの微細な良し悪しを感じ取れるような細やかな味覚の持ち合わせはないけれど、そんな俺でも目の前に差し出された三木さんのコーヒーは本物であると理解できる。今までの三木さんのイメージからは遠いような、近いような、何だか微妙な現実ではあるけれど……何にしろ、美味しいことは良いことだ。素直な気持ちで、有り難いと思った。

「それと、こちらは当店からのサービスになります。ティータイムは出来るだけ大勢で楽しむものでございますから」

 そんな言葉と共に差し出された、これまたひどく破損したカップの中には、白く湯気をたてた濃茶色の液体が満たされていた。ミルクの白い渦が未だ余韻を引いているその様は、薫りにも見た目にも穏やかな印象を与える。

「当店のカフェオレは本場を相手取っても十分に胸を張ってお勧めできる一杯でございます。是非、お連れのお嬢様に」

 …………

「……ありがとう、ございます」

 感謝の気持ちを呟いて、汚れにくすんだカップを受け取る。なんだか複雑な心持ち。ひとまずそのカップを隣に置いて、俺は自分の分のエスプレッソに火傷しないようゆっくりと口をつけた。

 それはやっぱり、熱くて、美味かった。

「マスター」

「はい、何でございましょう」

「いつも、こんな風なんですか?」

「……と、申しますと?」

「毎日こんな風に店を構えて、客を待ち続けて、たまの気分転換に散歩をして。それが今もずっと、続くあなたの人生なんですか?」

 不意に、思ったこと。

 ただ純粋に知ってみたくなったこと。

 そんな俺の言葉に、三木さんは。

「ええ、その通りでございます。どんなに住み辛い世の中になっても、どれほど生き難い世の中を強いられても、この店だけはずっと守り抜いて参りました。ただそれだけの人生でしたから。せめて自分の貫いてきたことだけは最後まで守り続けようと、私は強く心に決めているのでございます」

 とても饒舌に、淀みなく、そう答えた。

「……客、来ます?」

「残念ながら」

 はっはっは、と笑いながら三木さんは言う。自嘲的なそれとは少し違った、ある種の諦念を感じさせる、少し物悲しい笑い声。

 ……昔はきっと、流行ってたんだろうなぁ。

 これだけのコーヒーを出せて、この盛大に変わっているとは言えど見るところを見ればそれと同じぐらいには愉快なマスター。もしもこの店の存在をもっと早くに知れていたら、学生時代のあの頃に知ることができていたなら、きっと俺の思い出のアルバムももっと増えていただろうに。

 放課後、ちょっと寄り道をして、見慣れない小道へと胸を躍らせて。行き着いた先に待つ閑静な住宅街、そんな中で存在を主張しすぎることなく、あくまでも同調を基として佇む一軒の喫茶店。俺は、生涯唯一の友人と一緒にその店の門をくぐるんだ。美味しいコーヒーに舌鼓を打って、くだらない雑談タイムはどんどん延長されていって。すっかり遅くなった帰り道、どこで油売ってたんだよもうご飯冷めちゃったじゃんばかばかばかー、とぷんすか怒るあいつにその日あったことを話して聞かせて、週末、今度は二人で今日みたいにデートに来てみたりして。

 そんな夢物語が、瞬く間に脳裏を過ぎていく。

 夢だと解っているから、悲しくはない。

 夢だと解っているから、空しくもない。

「……マスター」

「はい、何でございましょう」

「俺……今日から、この店の常連になっていいですか?」

 その一言に、三木さんは目を大きく見開いて。

「よ、喜んで! い、いやしかしそのお言葉、ま、まことでございましょうか?」

「もちろんです。すごく気に入りました、ここ」

「は……あははぁ、はは……この命あるうち、こんなにも嬉しいお言葉を頂ける日が来ようとは……なんとも、ぐずっ、す、捨てたものなどありはしませんよ、ずびっ、まこと、に」

 早くも感極まっていた。

「いい年こいて……」

「嬉しいものは、ずずっ、嬉しいので、ひぐっ、ござい、ますっ」

 そんな三木さんを見ていれば、自然に浮かんでくる笑顔もある。

 誰かが幸せになってくれること、それはやっぱり、嬉しい。

 一度は形を完成させ、それでもいつからか捻じ曲がっていた、俺の起源。

 だけど、忘れちゃいなかった。

 じんわりと胸に広がっていく、この、暖かい気持ち。

 満たされた心は、拍動を一層強くする。

 体中に響くその鼓動からは、ひどく久しぶりに、自分自身の素直な気持ちを感じることができた。

「……ご馳走様でした。美味しかったです」

 暖かいエスプレッソを綺麗に飲み干して、カップを置く。

 そしてそれとは対照的に、まったく手をつけられることなく放置されている濃茶色のカフェオレ。白い湯気はいつの間にか立ち消えて、渦を巻いていたミルクのラインもすっかり沈殿し、文字通りに鳴りを潜めてしまっている。

 膝の上の想い人は、未だ一向に眠りを覚ます気配がない。

「マスター、ちょっと聞きたいことが」

「ええ、ええ、ずびびっ、なんでも、なんなりと」

「今日の俺のこと、どう思います?」

 この夢のような空気のせいなのか。なんとも、夢のお陰とは言いえて妙ではあるが――眠り姫の代わりに、俺の目が、少しだけ覚めた。

「……どう思う、と申されましても。二宮様は、二宮様でございます」

「ああ、その二宮っての、これからはやめてくれませんか? できることなら名前で、空人って呼んでほしいです。俺を名字で呼ぶのは嫌いな奴一人だけで十分なんで」

「ほうほう、了承いたしました。それでは恐悦ながら空人様。改めまして、空人様は空人様でございますよ」

 全く迷うことなく、三木さんはきっぱりと言い切った。

「遠慮や世辞なんて、俺は望んでないですよ?」

「承知の上でございます。私の目には、空人様は空人様として映っておりますよ。大丈夫です、何も心配することなどございません」

「そう……ですか」

 それは、俺の予測した答えとはあまりにも食い違っていて。

 三木さんが本当にそう思っているのか、それとも、だからこそ言ってくれているのか、彼の飄々とした表情からは窺い知ることができなかった。

「空人様、何か、今日に思うところでも?」

「……」

 信じているけど、疑ってなんかいないけど、それでも気付きたくないと思っている――俺。

 自覚はある。

 目を覚まさない想い人。

 自分が半ば狂気を演じていることぐらい、自覚している。

 そして、自覚することと認めることは、違う。

 自覚した上で、俺は自身を貫き通す。

 俺は、この狂気を、迷わない。

 誰に何と言われようが絶対に迷わない、決意がある。

 自分勝手に決めた、俺だけの常識として、狂気は常軌に成り代わる。

 ……だけど、それは俺だけのものだと思っていた。

 狂気を認めてくれる人なんて、いないと思っていた。

 実際、いないだろう。

 三木さんはただ、俺は俺と言ってくれただけだ。

 狂気を見ているわけじゃない。

 見ているのは、ただ――


「三木さん、あの」

「空人様、少しばかりお話をさせて頂いてもよろしいでしょうか?」

 まるで俺の心を先読みしたかのように。

 揺れ動く俺とは対照的に、大樹のごとく揺るぎ無い不動の言葉。

 そんな三木さんは誰かに似ていると思った。

「失礼は承知でございますが、私めのような者でも与えて差し上げられる言葉がございます。空人様、貴方様は私にとって何にも代えがたい命の恩人であり、そして同時に、普通の人間です。空人様がお抱えになっているだろう悩みは普通の人間であれば至極当然のものなのです。そのために――ほんの少しだけ、お話をさせて頂きたいのです。いかがでしょう、空人様?」

 にっこりと微笑みながらそう語る三木さんの言葉尻からは、これまでに見てきた奇人っぷりからは遠くかけ離れた包容力を感じ取ることができる。

 きっと、簡単なことなのだろう。

 彼が『彼』でいることのできる場所が、きっと、ここなのだ。

 いつも笑顔で客を見守り、時には客の愚痴を聞き、またある時には一緒に悩みと向き合ってくれる存在。

 閑静な住宅街に佇む小さな喫茶店には、いつどんな時も安堵をくれる暖かいマスター。

 もう大多数から必要とされなくなってしまっても。

 たった一人の常連のため、こんなにも親身になって気持ちを注いでくれる。

 一人では抱えきれない気持ちでも、二人なら解きほぐすことができるかもしれない。

 自然な気持ちが、こぼれ出る。

「……是非。お願いします、マスター」

 苦笑しながら、俺は全てを三木さんに委ねることにした。

 客は客らしく、マスターはマスターらしく。

 本当に、もっと早くにこの場所を知ることができていたなら。

 後悔は先に立たずして、しかして後に立てるものでもない。

 俺たちにはもう、今しかないのだから。

「ふふ、それでは空人様。少しばかり長い話になりますが、どうか気安くお聞きくださいませ」

 もしかしたら、まだ俺は変わることができるのかもしれないと思った。

 穏やかなまなじりを湛えつつ、三木さんはゆっくりと昔語りを始めて――


 その、矢先。

 ちりんちりんと慣らされる、小気味良い呼び鈴の音。

 カフェテリアへの来訪者を知らせる音。

 三木さんはそのまま視線を上げ、俺は首だけで振り返りつつ、ほとんど反射的に入り口のドアへと目をやった。

 開いた扉。

 男が一人。

 長身痩躯の、男が一人。


「いやはや、遠出はしてみるものですね。こんなところにこうも風情溢れる場所があったとは、今日の日までの無知を恨みます。――おや、奇遇ですね、二宮君」


 この世で唯一、二宮空人を『名字』で呼称する男。

 波津久翔羽が、そこに居た。

「ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」

 一瞬の静寂の後、止まった時を切り裂くかのごとき悲鳴が店内を満たした。自分の命を奪いかけた相手が今再び眼前に対峙しているのだ、三木さんのその反応はあまりにも当然と言えるものだった。

「おやおや、こちらもはたまた何とも奇遇。見知らぬ場所には見知った顔がふたつ……ふふ、うふふふ、面白い。実に愉快な日ですね、今日は」

 一方の波津久は狼狽する三木さんのことなど気にもかけない様子で、相変わらず気味の悪い笑みを浮かべながら一歩一歩と歩み寄ってくる。本人にとっては何の他意もないだろう一歩のたびに、三木さんは一層体を竦ませる。

 追う者と追われる者。

 食う者と食われる者。

 狩る者と狩られる者。

 食物連鎖にも似た、今や見慣れたその光景。

「そんなに怯えないでくださいよ。僕は今、お客としてこの場所に来ているんです。一人を殺すためではなく、一杯のコーヒーのためにこの喫茶店を訪れているんです。いかな僕でも、目的のついでに別の目的を果たすような無粋な真似はしません。昨日は昨日、今日は今日。今はもうそのようなつもりは一切ありませんから、どうぞ平素の貴方を取り戻してくれるよう心から願います。ほらほら、まだ怖いというのなら、そうですね、これで如何です?」

 一方的に口上を述べてから、波津久はおもむろに懐へ左手――もう片方の手には赤黒く変色した包帯が巻かれていた――を差し込むと――次の瞬間にはもう、宙空へと放り出されるサバイバル・ナイフ。その行動が意味するところはまさにそのまま、波津久はこの場において一切の殺傷行為を放棄したという事実。その光景は、死と直結した恐怖に心を縛られていた三木さんにとっては十分な安堵となったのか、彼は少しずつ、ゆっくりと平静を取り戻しているように見えた。

 そしてその代わり、今度は俺の心がざわめきに震える。

 意識の外で殺意が芽生える。

「……なんのつもりだよ、お前」

 激情に震える声を僅かな理性で押し止め、俺は波津久を睥睨する。

「なんのつもりも何も、たった今しがた言ったじゃないですか。コーヒーが飲みたくて喫茶店を訪れることの何が悪いと言うんです? まさか二宮君、そんなことまで僕に束縛をかけるつもりで? それは何とも、いかに僕らが親友同士と言えど越権行為というものですよ。君が君の時間を自由に使えるように、僕は僕の時間を自由に使う権利があります。僕の言っていること、何か間違っていますか?」

 ああ――この物言い。

 当時、学校創立以来の天才と呼ばれていた生徒会長。

 そんな部分に限って、こいつは腹立たしいほどにあの日のままだった。

「ああそうだね、それはお前の自由だよ。んなこと束縛して何の得になるってんだよ。馬鹿馬鹿しい。……俺が言ってるのはそういうことじゃねえだろうが。お前のその高尚な頭はお飾りか?」

「嫌だなぁ、そんな風にいちいち噛み付かないでくださいよ」

 くくく、と口元を吊り上げて笑う波津久。

 気に入らない。

 より一層、睨む視線に力が篭もる。

 両手を軽く振りながら、波津久は相変わらずの演技がかった声で言う。

「ええ、はいはい、僕が悪かったですって、うふふ。話の論点をずらしたのは僕のほうですからね。この通りです、謝ります。ですからほら、そんなに怖い顔をしないでくださいよ。今日は喧嘩をしに来たわけじゃないですから。仲良くやりましょうよ、せめて今ぐらい」

 今ぐらい。

 言われるまでもない。

 俺たちに今以上はない。

 知ってるだろうが、お前も。

「二宮君」

「……なんだよ」

「僕が君に嘘をついたことがありますか?」

 過ぎ去る、記憶。

 自身の心に正直であるという一面においてのみ、出会ったあの日から今日に至るまで、俺は俺は波津久翔羽という男を疑ったことはなかった。

 良い意味でも、悪い意味でも。

「俺の知る限りじゃ、ないかもな」

「でしょう? それに加えて、今日はもっと特別に事情が違う。久しぶりの再会じゃないですか。三人の、ね」

 その語末の一瞬に、俺は信じられないものを見た。

 波津久の表情から、嗤顔が消えた。

 波津久の表情から、狂気が消えた。

 そんな波津久の表情はまるで、まるで、あの頃の――

「お久しぶりです、桜さん。さてまあ尤も、今はもう僕の声なんて届いていないのでしょうけれど。それでもお会いできて光栄です。嬉しいです、とても」

 穏やかな声。

 それが当然だった頃。

「……お前」

「解っていただけました? どれだけ堕ちても、誰にだって大事にしたいものはあるんです。僕は二宮君のことと同じぐらい、桜さんのことが好きでしたからね。彼女の前で乱暴な真似なんて出来るわけがないじゃないですか」

 波津久は笑う。

 いや、それは既に笑いではなく、嗤いだった。

 当たり前だ。

 この姿こそが、波津久の本来あるべき形なのだから。

 息を吐く。

 短く緩い、息を吐く。

「隣、座りますよ?」

「好きにしろよ」

 俺の言葉を待たぬうち、波津久はもう歩くことを躊躇わず。

 そして今、俺と波津久は――肩を並べた。

 正確には、俺と波津久と桜の三人。

 もう二度と揃うことはないと思っていた俺たちの歩幅。

 ひどく不揃いで、お互いがお互いを思いやることなど微塵もなく、好き勝手に歩いてきた道。

 永劫に不一致を続ける道。

 その不一致が、ほんの僅かに本質を揺らした。

 これより先は本当に、もう決して起こることはないだろう束の間の邂逅。

 それを忘れてはならない。

「なあ、波津久」

「何ですか、二宮君」

 思い違ってもならない。

「お前、金は?」

「ないですよ。君と槇原さんぐらいでしょう、そんな概念に未だ固執している人なんて」

 幻想を幻想と認めなければならない。

「……貸し一つな。三木さ……じゃなかった、マスター。エスプレッソひとつお願いします」

「は……はいぃっ。え、ええと、どちらのお客様にお出しすれば……?」

 忘れず、思い違わず、否認せず。

「まったくもって気は進まないんですけどね……申し訳ない、この社会のゴミに出してやってください」

「おやおや、嬉しいですね。君が僕に奢ってくれるなんて、まったくどういう風の吹き回しでしょう? さてまあ、それはともかく有り難う。感謝しますよ、同胞」

 それを誓えるのなら、きっと神様だって。

 一時の夢を見るぐらいのことは、許してくれる。



 雑談と呼べるほどにも華の咲かない、淡々と紡がれる会話の中で。

「僕だってね、好きで人殺しなんてことをやってるわけじゃないんですよ」

 臆面もなく、当たり前のことを当たり前に述べるかのように、波津久はそんなことを口にした。

「……サイコもここに極まったか」

「なんですかその目は。ああいえいえ、それ以上を語る必要はありません。君の表情が全てを雄弁に語ってくれています。こう言いたいのでしょう? 『寝言は寝て言え』」

「よく解ってんじゃねえかよ。自覚はあるんだな」

「違います。僕が掌握しているのは二宮君、君の言動パターンのほうですよ。本当、辟易してしまうほどに口が悪いですからねぇ、君」

 ずず、世辞にも良いとは言えない行儀でコーヒーをすする波津久。

「お前には言われたくないね。初対面の時、お前が俺に何を言ったか覚えてるか? あれ以上に相手のことを扱き下ろした自己紹介をする奴を俺は生まれてこの方見たことがないよ」

「そんな昔のことなんて覚えてませんよ。随分と根に持ちますねぇ、そういう人は得てして誰からも嫌われるものですよ?」

「おいおい稀代の天才様、てめえの記憶力は俺みたいな一般ピープルにも劣るのか?」

「滅多やたらに記憶を溜めるのは馬鹿のやることです。真に賢い者は記憶の取捨選択をすることが出来ますからね。史上に名を残す大犯罪者様の乾いた脳味噌でもこの概念は理解できますか?」

「は。やっぱり最悪じゃねえか、てめえの口は」

「君ほどには及びません」

 ずず、波津久はもう一口。

 俺も自分のカップを傾け、口元へ運ぶ。

 すっかり冷めたカフェオレは、もはやオブジェと化してカウンターに置かれたまま。

「ここまで語りが進めばもう、とうに殺し合いが始まっている頃合なのでしょうけどね。いや、君は僕を殺すことが出来ないのですから僕が君を一方的に殺すだけでしたか。さてはてそれはともかく、やはり桜さんがいると違いますねぇ。どんな悪口暴言が飛び交おうとも場を取り持ってくれる、そんな安心感がありますよ」

「そりゃ、桜だからな。俺らみたいな失敗作とはワケが違う」

「失敗作、ふふ、失敗作ですか。なるほど、その言は確かに的を射ていますね。さすが二宮君、言うことが違う」

「嬉しかねえよ。てめえと同類だなんて吐き気がする」

「うふふ。今更ですが、僕も随分と嫌われてしまったものですね」

「本当にな。昔のお前はどこ行ったんだか」

「そんなに変わってないですよ、僕は。それに君もね。僕らの殺伐とした会話は今に始まったものではないでしょう? 君に『殺すぞ』と言われるたび、僕は懐かしささえ覚えるのですが」

 流れるようにこぼれていく言葉。

 それが、ほんの一瞬、喉に詰まった。

「……そうだった、かもな」

「そうだったんですよ」

 コーヒーカップを傾ける。

 やけに軽い。

 それもそのはず、既にカップの中身は空だったのだから。

「……マスター、お代わりもう一杯」

「かしこまりました」

 異様とも言える俺たちの会話に板挟みにされ、さぞや心穏やかではいられないはずの三木さんは、そんな俺の心とは裏腹にすっかり平静を取り戻していた。不自然に目を逸らすこともなく、穏やかな眼差しで俺たちのやり取りを見守りながら、コーヒーのお代わりを求められれば即座に応対してくれる、そんな絵に描いたような『喫茶店のマスター』として、彼はカウンターに立っていた。

 居場所というものは、概念レベルで個人に生き方を指し示してくれるもの。それは人間の弱さであり、強さだ。

 ならば、俺の居場所は。

 俺の生き方は。

 ……俺の生き方は、なんだった?

 いつ、どんな時にも考えること。

 失った過去、過ぎ去った過去、取り戻せない過去、決定した過去。

 後悔、という概念とは少し違う。

 俺には俺だけの過去があって、俺だけの過去が今日の俺を作っている。


 ――その全てが、わたし自身です

 あの日、世の理不尽に苛まれながら、少女は心を告げていた。

 ――わたしは、まだ、存在しているんでしょうか

 あの日、細い肩を震わせながら、少女は恐怖を叫んでいた。

 ――わたしは、今もまだ、生きているんでしょうか

 あの日、虚ろな瞳に僅かな灯を宿らせて、少女は意味を問いかけていた。

 ――わたしは、わたしで、居たいです

 あの日、その余りにも脆い心を曝け出し、少女は感情を雫に託していた。


 想いを過ぎるのは、今この場所にいない少女の言葉。

 今この場所にいる想い人は、どれだけ待っても言葉を与えてはくれない。

 気付いてはいた。

 気付いていることを自覚することが嫌だった。

 終わってしまうのが、嫌だった。

「二宮君。僕がこれを聞くのは少し躊躇われるのですが」

「んだよ」

「桜さんのことです」

 ……人が揺れているときに、こいつは。

 頼むから滅多なことは言わずにいてほしい、なんて馬鹿みたいな祈りを胸に捧げた。

「あれ以来、目を覚ましたことは?」

「…………」

 穿たれたのは、核。

 誰にも触れずにいて欲しかった、核心。

 祈りは誰にも届かない。

 神様なんて、存在しない。

「質問に答えてください、二宮君」

「……ああ、あるよ」

 嘘じゃない。

「本当に? それはいつの話ですか?」

 本当だ。

「……つい最近。というか、ここ三日間。夜になると目を覚ますんだよ。んで、俺は毎晩桜と喋ってた」

 嘘じゃない。本当だ。

「それは――」

 嘘じゃない。本当だ。嘘じゃない。本当だ。嘘じゃない本当だ嘘じゃない本当だ嘘じゃない本当だ嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない幻想なんかじゃない桜は

「それは君の歪んだ心が描いた幻想ではないのですか?」

「桜は幻想なんかじゃねえッ!」

 波津久の襟首を掴み、無理矢理に席を立ち上がらせる。

 その拍子に、支えを失った桜の体が木張りの床面に投げ打たれる。

 椅子に寝転んだ状態から地面に叩きつけられる衝撃、それは常人であれば相応に痛覚を伴うものであるはずだ。

 だが、桜からはそれらの一切が感じられない。

 桜の体が床に転がり落ちたとき。

 無音、だった。

 どすん、とも、ばたん、とも、鳴りはせず。

 まるで紙切れが宙を舞い、ひらひらと地面に着地するように――桜は、冷たい床に細すぎる体を横たえていた。

「二宮君、手を離してください」

 感情の篭もらぬ声で、波津久は言う。

「……ああ」

 虚空を見つめ、俺は掴んだ手から力を抜く。

 交錯しない視線を向き合わせ、俺たちはどちらともなく元の席へと腰を下ろした。

 しばしの沈黙が店内を満たす。

 重苦しくもない、息苦しくもない。

 ただ、空っぽだった。

 何も、なかった。

「……一応、謝っておきます。すいませんでした、二宮君」

 先に口を開いたのは波津久。

「本気で悪いなんて思ってないんだろ?」

「いえ、今回はさすがに反省しています。他人がそれを言うならまだしも、君と桜さんの間に最も近い僕がそれを言うべきではなかった」

「……波津久に気ぃ遣われちまったよ。世も末だ」

「実際、世の末ですからね」

「面白くねえよ」

「それは申し訳ない」

 俺は笑わない。

 波津久は嗤った。

 俺たちは狂っているのだろうか。

 何をもってして、人は狂っていると判断されるのだろうか。

 常軌を逸脱することを狂気と呼ぶならば、逸脱した狂気の先に見出されるものは果たして何なのか。

 胸に響くは耐え難き疼痛。

 精神を蝕み肉体を腐らせ人間を終了させるそれこそが狂気。

 知りたくもないことを知らなければならない理不尽。

 知らなければならないことを知ることが出来ない矛盾。

 純粋に生きれば生きるほど誰先に死んでいく欺瞞に満ちた世。

 何もかもがわからない。

 わかりたくなんかない。

 納得なんてしたくない。

 逃げ出してしまいたい。

 向き合いたくない。

 苦しい思いはしたくない。

 あと三日しかない。

 嫌だ。

 嫌だ嫌だ嫌だ。

 こんなのは、嫌だ――。


「ならば二宮君、僕はもう二度と君の気持ちには干渉しません」


 波津久が、何かを言っている。

「桜さんがそこにいる以上、僕はもう君の内部へ干渉を行うことは出来ません。今日はこれでも随分と頑張ってみたほうなんですけどね。僕ももう、限界みたいです」

 ――限界。

 そうか。

 波津久、お前もそうだったのか。

「本当に楽しい時間でした。例え虚構だとしてもあの頃に戻れたような気がして、嬉しかったです。今更ながら気付きましたよ。利害の一致という言葉で始まったこの関係を、僕は本気の本気で気に入っていたんですね。……僕は君たち二人のことが大好きで、大好きで、大好きでした」

 僅かに残ったコーヒーを一気に飲み干して、波津久はおもむろに席を立ち上がった。

 座ったままの俺と、桜の――を見下ろして。

「これから僕は自己完結を行います。この言葉は僕の為だけの言葉であり、君達には全く関係のない言葉です。それだけ、理解しておいてください」

 波津久は踵を返し、三木さん、桜、そして俺の三人全員に背を向けた。

 その表情を窺い知ることはもう、誰にもできない。

 そして元親友は、誰もいない舞台の上で、たった独り、口上を述べる――。


「二宮桜はもう死んだ。二宮空人はその死を認めない。僕にはもう、この終わった二人の間に立つことは永劫に叶わない。よって今この時をもって宣言する。僕は二宮桜、二宮空人の両名との友情を全て放棄する。これより先、僕はこの心に残った狂気のみに従い、完膚なきまでに彼らの敵となることを宣言する。さようなら桜さん、さようなら二宮君。


 僕は、


 波津久翔羽を放棄する」


 静謐が世界を満たし、二の句を告ぐこともなく溢れ出していく。

 何者もが語る言葉を持たない。

 この空白は、空言を否定するための時間だ。

 この空白は、事実を認可するための時間だ。

 夢の終わりを告げる終焉の音だ。

 俺は目を閉じ、ふたつの顔を思い描く。

 思い描き、自らの手でその片方を削除していく。

「異論はありませんね、二宮君」

「……言ってろ、糞野郎」

 俺は認めない。

 二宮桜は死んでなんかいない。

 俺は認めよう。

 波津久翔羽はもう居ない。


 誰にも破れない静謐を穿ったのは、そこに居た誰でもなかった。

 未来を失った現在に偶然はない。

 必然を偶然と呼ぶのは亡者だけだ。

「――必ずや来て頂けると信じていましたよ。最高のタイミングだ。ふふふ、これで役者は全て揃いましたね」

 止まった空間を割り裂いたのは、奇しくも涼やかな呼び鈴の音色。

 俺はもう自分の目を疑うようなことはしなかった。

 ただ、必然を受け止めた。

 俺はそこに立つ人物を、顔を上げるより先に知っていた。

 神様なんて存在しない。

 運命なんて存在しない。

 俺たちは必然に踊らされ、翻弄されながら生きていく、それはさながら人形劇の傀儡。

 しかし、自分という明確な意思を持った傀儡だ。

 操られて生きているんじゃない。

 生きているから操られている。

 その順序を取り違えてはならない。

 誰だって生きている。

 まだ、生きているんだ――。


「あれ……そ、空人さん? それに……え、え?」


 耳に優しい小波のような声。

 その声で俺のような人間を好きだと言ってくれた。

 驚愕に見開かれた表情の中にも決して消えぬ悲しみを湛えている。

 きっと誰よりも、誰よりも、生きている少女。

 棒切れよりも細い足で、この壊れた世界に立っていた。

 春澤夢が立っていた。

「こんにちは春澤さん。こうして面と向かい合うのは実にお久しぶりですね。どうです? 僕のこと、覚えていらっしゃいますか?」

 店先で扉を開いたきり、その場にただ立ち尽くすことを余儀なくされている夢。そんな彼女に差し向かい、誰よりも先に言葉を放ったのは波津久だった。

「え……も、もしかして……波津久、さん?」

 狂気に染まった瞳と正面から相対し、夢はその口調に色濃い怯えを漂わせながら答える。

「そうですよ。嬉しいなぁ、覚えていて下さったんですね。うふふ、二年前に君の家庭教師を任されていた時以来でしょうか。いやはや、あの頃からお変わりないようで。少し安心しましたよ」

「う、嘘……?」

 その会話の筋を辿れば、謎のひとつが氷解していく。どうして波津久は夢のことを知っていたのかという謎――二人には、面識があったのだ。それも『以前』に。

 それを思えば、夢の疑念と恐怖に満ちた表情にも合点が行く。

 そこに立っている男はもう、波津久翔羽ではなかったのだから。

「今までも何度か町ですれ違っていたんですよ? それなのに春澤さんときたら一度たりとも気付いてはくれなくてねぇ。酷い話ですよ、まったく」

「夢ちゃん、そいつから離れろ。そいつの話を聞くな。そいつの目を見るな」

 無意識のうちに席を立つ。波津久と夢との距離を割り開くように、俺は狂った空間に我が身を捻じ込ませた。

「空人……さん、そら……と、さん。はい、空人さんが言うなら、わたし……そうします」

 その目に色濃い虚空を湛えながら、それでも夢は俺の目を真っ直ぐに見据えている。

「ふふふ、くく、うふふふあはははははは! 夢ちゃんに空人さん! これはこれは、お二人は随分と仲がよろしいようですねぇ! いやはや、僕の知らぬ間にこんなにも面白いことになっていたとは!」

「黙れよ」

 視線――死線。

 交錯なんてさせない、一方的な死線を波津久に投げ付ける。

 波津久の瞳は赤黒く血走り、映る深淵は冥府よりも深く暗い。

 徹頭徹尾完全完璧に死んでいる瞳。

 それでも波津久は生きている。

 何故、この男は死なないのか。

 求める理由に対して、返すべき答えは実に単純。

 この男はもう死んでいるのだ。

 死んでいるのに生きているのだ。

 そんな存在を人と呼ぶことはできない。

 屍人。

 腐臭。

 こんな光景を、夢に見せるわけにはいかない。

「行こう、夢ちゃん」

「あ――」

 半ば強引に夢の手を取り、脇目も振らずに歩き出す。

 扉に手をかけた瞬間、首筋にひやりとした金属の冷たさを感じた。

 まるでそいつの瞳のように刃先を赤黒く変色させたサバイバル・ナイフが、明確な目的をもって俺に向けられていた。

「逃げられると思うならご自由に。アドバンテージはどちらにあるか正しく理解し、それを踏まえた上で君にリスク管理が出来るのならばの話ですがね」

 刃先を俺の首に押し当てながら、しかし波津久の瞳に映っている獲物は決して俺ではなかった。

 波津久翔羽は、春澤夢を、見ていた。

「それにしても二宮君、君はどうやら本気でこの子にお熱のようですねぇ。いやいや、僕は応援しますよ? うふふふ」

「……波津久」

 背中越しに交錯し合う殺気。波津久は嗤っている。見なくても解る。俺は笑わない。見せなくても解っているだろう。

「いえいえ、冗談で言っているのではありませんよ。僕は事実にただただ驚いているだけです。君が春澤夢を好いているというその事実に。だってねぇ、うふ、くふふふ、青天の霹靂とはまさにこのことですねぇ」

「下らねえことを次から次へと……何が言いたいんだよてめえは!」

「だってほら、春澤さんのほうはすっかりその気みたいですよ?」

 狂人の虚言と知っていて、それでも俺はその言葉の意味を疑ってしまった。

 決して気を緩めてはいけない筈の殺し場。

 それなのに――夢の表情を窺った瞬間、僅かにその一瞬、それでも確かに残滓は残り、完全に俺の視界から波津久が消失した。

「……え?」

 俺が見たあまりにも異常な光景。

 殺し合いの最中に相手の存在を忘れてしまうほどに信じられない光景。

「夢……ちゃん?」

「……は、はい」

 この状況で。

 波津久の言葉で。

 春澤夢は。


 ――その両頬を、薄い桃色に染めていた。


「ふふ、ふふふ、はっはっはっははははは! まったく、何なんですか君達は! どれだけ僕を笑わせてくれれば気が済むんですか! 面白い、面白い、面白過ぎますよぉォッ!」

 力のあらん限りにと髪を掻き毟り、度を越えた興奮に身を悶えさせる波津久。恐怖、あるいは嫌悪の対象にしかなり得ないその奇行でさえ、つい先刻に夢が見せた表情に比すれば何の感慨も抱かせはしない。

 俺の中で原因不明の感情が蠢いている。

 正体不明の激情が出口を求めて彷徨っている。

「はァ……はァ、くふふ、それにですねぇ、本当に面白いのは二宮君、君のほうですよ。気付いていますか? 無意識でしたか? 君は今――誰を置いて逃げようとしたんです?」

「――――ッ!」

 脳髄が揺れる。

 激情が一層強く暴れ回る。

 俺は……俺は、誰を置いて逃げようとした?

「おやおや、これはやはり効いたみたいですね。さてまあそれも仕方ないでしょう、自身がどれほどに酷薄な人間であるか気付いてしまった時、人という生き物はかくも脆く崩れ去ってゆくものですからねぇ。二宮君、君は本当に酷い人間だ。――こうも簡単に自分の肉親をそして恋人を捨てて、新たな想い人を得ようとする、そんな人間なんですよ君は!」

「黙れぇぇぇぇェェェェッ!」

 空をも突き破らんと激昂のままに咆哮を上げた瞬間にはもう、俺の理性は微塵もなく吹き飛んでいた。

 僅かに残った自我の残滓が、踏み入れてはならない場所を本能的に守ろうとする。

 守る為に、叫ぶ。

「あぁぁぁぁぁぁぁぁァァァァァァァァッッッ!」

「あァははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」

 雄叫びの防壁など歯牙にもかけず、波津久は俺を見下ろし嗤う。

 自身ですら踏み込めない領域に、この男を完全に踏み込ませてしまったことを理解する。

 もう手遅れだ。

 何も、かも。

「よく聞きなさい春澤さん。君の大好きな二宮君にはね、実はもうお相手がいるんですよ。それも実の妹と言う、ね。人の恋模様は様々ですから僕にそれを言及するつもりは毛頭ありませんけど……うふふ、それでは春澤さんに質問です。あなたのまだ見ぬ二宮君の恋人はこの店の中のどこかにいます。さぁて、それは誰でしょう?」

「ぁ……は、え、それ、は……」

「解っているんでしょう? もう貴女にはとっくのとうに解っているはずですよぉ? さあ答えなさい迷うことなく心のままに真実をいざ口にするのですさあさあさあさあさあさあさあッ!」

「――い――嫌ァっ!」

 両腕を力の限り突っぱねて夢は全身で波津久を拒絶する。余りにも非力な少女の細腕では波津久の身体を揺さぶることは到底出来なかったが、その場から走り去る程度の時間を稼ぐには十分なものだった。

「逃がしませ――がはぁぁッ!」

 夢に意識を取られ、完全に俺への注意が消えた波津久の横っ面を力の限り薙ぎ倒す。波津久の痩躯はいとも容易く宙へ舞い飛び、数瞬後には派手な轟音を響かせながら板張りの喫茶店の壁に亀裂を走らせていた。

「く……が……は……はぁッ、はぁッ……」

 背部を強打し、呼吸を許されない苦しみに喘ぎながら、それでもその瞳には依然として濁った輝きが煌々と灯っている。すぐにその表情から苦痛は絶ち消え、やがて男は全てのものを見下すように、声高らかな哄笑を響かせる。

「……はぁ、は、ははははははははは! もう我慢の限界というわけですかそうですか! 痛いなぁ、痛いなぁ、痛いなぁぁぁぁ!」

 もう、いい。

 この男のことは、どうだっていい。

「空人……さん……そらと、さぁん……」 

 店の一角に身体を縮こめ、四方から襲い来る恐怖と精一杯に戦っている少女がいた。

 守らなければならない、脆く小さな存在。

 この少女がいる限り、俺はどこまで堕ちても這い上がることができるような気がしていた。

「……こっちに来るんだ夢ちゃん。逃げるんだ。逃げよう。一緒に、逃げるんだよ」

「一緒って、その(ひと)もですか?」

 ――余りにも唐突な、背筋を凍らさんほどに怜悧な声。

 それはいつか聞いた覚えのある、少女の心の裏に秘められた沼底に棲む魔物の声。

 夢の言葉の意味を正しく解せば、今、俺に求められているのはたった一つだけの正解の言葉。

「ごめんなさい……ごめんなさい。こんなときにこんなこと言っていいはずないんだってこと、自分でもわかってます。……でも、わかっててもどうしようもないんですよぉっ!」

 夢が次いだ二の句が人間の声だったことに安堵し、だがそんな安堵には何の意味もないことを理解し、身動きひとつ取れぬまま、俺はその場に立ち尽くしていることしか出来なかった。

「教えてください空人さん。……その人は、誰ですか?」

 夢の目線が俺を捉え、そして外される。外された先、新たに捉えられたシルエットが果たして何であり誰であったかなど、説明するだけ時間の無駄というものだった。

「……こいつ、は」

 言え。

 さっさと言ってしまえばいい。

 何を逡巡することがあるのか。

 たった一言、その名を口にするだけでいい。

 それだけで俺達の間に走った亀裂など簡単に修復される。

 二宮空人と、春澤夢。

 たった数日という短い時間の中でも、俺達の心は堅く結びつき決して離れないものとなったのだ。

 どんなに痛くても苦しくても怖くても涙を堪えられなくても、その口からはっきりと自分の過去を語ってくれた夢。

 なればこそ俺も、それ相応に応えるべき言葉があるはずだ。

 その言葉のため――俺は、ひとつの天秤を用意する。

 天秤の片皿には春澤夢を。

 天秤の片皿には二宮桜を。


 ――――――――――――――――――――


 その次の瞬間には。

 天秤は跡形もなく砕け散っていた。

 何が起こったのか、それを理解するには俺の精神は脆すぎた。

 俺は今、決して犯してはならない禁忌を犯したのだ。

 これはその代償。

 支払うべき対価。

 自覚を、

 しろ。

 俺は、

 今、

 何を、

 した?


「……答えては、くれないんですね」

 砕けた天秤のビジョンは消え去り、ようやく色を得た世界で俺を待っていた言葉は、そんな無味乾燥なものだった。

 違う、と言いたかった。

 違う、だなんて言えなかった。

 変わりに口を吐いて出たのは、

「……ごめん」

 辿り着いたのは、他のどんな選択肢よりも選んではならない最悪の回答。

 俺が俺として存在する限り、いつか訪れることは決まっていたはずの瞬間。

 それが今なのだろうか。

 それが今なのだろう。

 馬鹿は死ななきゃ治らない。

 死ぬことでしか終焉を回避することができない。

 それが馬鹿に残された末期の末路。

「うふふふふ、辛そうですねぇお二人とも。何なら僕が全てを終わらせてあげてもいいのですけど?」

 唐突に俺たち二人を遮った言葉の主へ、俺たち二人は同時に視線を遣った。

 にやにやと薄汚い笑みを口元に浮かべ、心底愉悦そうに俺を見下ろす波津久がいた。

 それでも俺は――僅かでも現実から目を逸らすことが出来るならば、鬼だろうが悪魔だろうが関係なく手を差し伸べて欲しかった。

 何たる愚鈍か、俺はこの波津久の言葉にさえ救済を求めてしまったのだ。

 それを認めるしかない自分を、本気で殺してやりたくなった。

「反論がありませんねぇ。あまり面白くはありませんが、まあ良いでしょう。――ついて来なさい、お二人さん」

 高圧的に言葉を切り、この場所にはもう興味を失ったとばかりに踵を返して歩き去る波津久。向かう先は店の外。前言通りこの場所はもう終わり。だが荒廃と退廃は決して終わらない。俺と夢は無言のまま、波津久の言葉のままにその背を追ってゆく。

 心が乾き切っていた。

 半ば諦観にも似た感情が俺の自我を奪い始めていた。

 そして永遠にも等しい数秒の後に辿り着く、波津久の手によって用意されたシナリオ――。


 店の外、俺たちを待っていた光景は至って単純明快なものだった。

 荒れ果てた大地、波津久の足元には二つの死体が転がっていた。

 だからどうした、と一笑に伏してやりたくなるようなその光景。

 今更この男が一人や二人の人間を手にかけたところで何がどうなるというのか。

 そう思っていた。

 思っていただけでは、何も変わらない。

「僕はこれより真実のみを口にします。ですからお二人にも真実を口にしてもらいたい。これは僕の為ではなく、他でもない君たちの為なのです。僕に君たちを騙すメリットがないということは予め知っていて下さい。うふふ、では始めに――この二人を殺したのは僕ではありません。僕はこの死体をこの場所まで運んできただけであり、それ以上のことは神に誓って行っておりません」

 そんなことを、至極当たり前だという風に吹く波津久がいた。

 自分は殺していない、だと?

 この場所に運んできただけ、だと?

 果たしてこの男が何を言いたいのか、その時の俺には全く理解することが出来なかった。

「では二宮君、君に問いましょう」

 ――波津久の、その言葉を聞くまでは。


「この二人を殺したのは誰ですか?」


 波津久の言が明らかに俺に対して向けられているものだということに気付いて、そこで初めて俺は理解した。

 死後数日を経ているのだろう、半分以上腐敗が進行している遺骸からはもう、生前の面影を感じ取ることは不可能だった。

 それでも俺は覚えていた。

 忘れることなど出来なかった。


 ――仲睦まじいおふたりさん、ひとつだけ質問があります


 今にして思えば、今日の『俺』が始まったのはあの日からだったような気がする。

 それはもう二度と訪れることのない月曜日だった。

 きっとずっと空虚な夢を見ていた、あの日だった。


 ――生きたいですか

 ――死にたいですか


 一人では崩れてしまいそうな歩みを、二人寄り添うことで懸命にその歩みを支えていた晩年の夫婦。

 ギブアンドテイクと称して、命を奪う儀式と称して、二人の人間をこの世から消失させた男。

 生きていた二つの命があった。

 求められる理由があれば、それを良しとして殺人を疑わぬ男がいた。

 死を望んだのは二つの命。

 己の信じるべき心など捨て、ただ求められるままに凶刃を振るったのは一人の男。

 それは、誰だ。

「……俺だ」

 そう、俺だ。

 この二人を殺したのは、間違いなく俺だ。

「ふふ、そうですね、その通りです。この仲睦まじい夫婦の命を奪ったのは君です。二宮空人が殺したんです。正直に話してくれて嬉しいですよ、二宮君」

 たった一人、満足げに笑みを浮かべる男。

 俺が行った行為の重さを鑑みたとき、その事実を事実として認めないわけには決していかない。

 ……だが、どうしてそれをこの男に言及されなければならないのか。

 この男に俺を苛む資格などない。

 俺を苛んで良いのは、こいつじゃない。

 波津久じゃないのなら――それは、誰だ?


「……そ、らと、さん」


 低く、重く、沈み、滲んだ声。

 一瞬、それが誰の発した言葉であるか判断に迷った。

「空人さん……空人さん……空人さんが……殺した、んですか?」

 そこに居たのは、紛れもなく春澤夢だ。

 魔物などではない、正真正銘の春澤夢だ。

 それにも関わらず、背筋を凍らせるようなあの声で、夢は冷淡な言葉を紡いでいた。

「……言っただろう、俺は人殺しだって。求められたから殺した。その事実に間違いはないよ」

 夢が何を思い何を考えているのか、今の俺には理解できるはずもなく、ただ聞かれたままに事実を伝えた。

「空人さんが……殺した、空人さんが……殺した、空人さんが……殺した」

 まるで空虚を見つめるように、只々その言葉を反芻する夢。何か様子がおかしいと気付くには、俺は余りにも遅すぎて遅すぎて遅すぎた。

 色を失った夢の表情に、やがて崩壊と言う名の黒色が宿り出す。

「空人さんが……空人さんが……空人さんが……」

「ゆ、夢ちゃん……?」

 馬鹿みたいに軽々しく少女の名を呼んで、その小さく震える肩に手を添えようとして―― 


「触るなぁぁぁぁァァッ!」


 その時、何よりも解りやすい形で、はっきりと。

 先刻、波津久を拒絶したときのそれとは比べ物にならないほどの形相で。

 二宮空人は、その存在を否定された。


「まだ気付きませんか二宮君。ふふふ、気付きたくないというのが本音でしょうか?」

 俺は今眼前の少女に何を言われたのか何をされたのか何をしてしまったのか巡る疑念は終わりなき螺旋回廊となって際限なく俺の思考を蝕んでいく。そして呆気に取られたまま呆然と立ち尽くす俺に向けられるのは泥のように粘ついた波津久の視線。

 この世の一切が俺を見放したように感じられたその錯覚は、果たして本当に錯覚だったのだろうか。

「波津久……おまえは、何を……ッ!」

「ですから言ったでしょう、僕は何もしていません、と。やったのは全て、全て、全て――何から何まで君ですよ?」

 この男が何を言っているのか。

 俺がやったことは一体何なのか。

 夢の豹変に隠された事実とは。

 点が線へと結びつき、線が意味を形作り、やがて一つの仮説として打ち立てられた自身の回答に――俺は、それ以上を考える気力を失った。

 そんな俺を言及するように。

 そんな俺を苛むように。


「ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――」


 痛んだ髪を振り乱し、澄んだ瞳を真っ赤に充血させ、溢れ出す涙は滝のように衣服を濡らし、搾り出される絶叫は天すらも渦巻かせ、細すぎる両腕は絶え間なく大地を叩き付け、


「――おとうさぁぁん、おかあさぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」


 夢は狂ったように泣き叫ぶ。

 一切のモノから剥離された世界の中で、少女は狂い泣き叫ぶ。

 知らなければ幸せでいられることがこの世の中には間違いなく有ったのだ。

 知ってしまったが故に破綻していくものが有ったのだ。

「あはははは、うふふふふ、はァっはっはははははははははは!」

 波津久は嗤う。

 声高らかにこの世に蔓延る万物を嗤う。

 砕けた二つの心を見下ろして、無限の悪意を宿らせた瞳で嗤う。

 何て滑稽な光景だろう。

 何て滑稽な俺だろう。

 思考する猶予など与えられず、ただ無遠慮に襲い来る真実を受け入れることだけが俺に出来る全てであることに違いはなかった。

 すっかり白んだ空っぽの頭に浮かぶ言葉は、たったひとつの簡単なもの。

 知った。

 荒唐無稽に。

 刷り込まれたビジョン。

 当然に。

 悪いのは誰だ。

 お前じゃない。

 善悪など関係なく。

 それは都合の良い言い訳で。

 事実を見据える。

 死にたい。

 生きている。

 死んだのは誰だ。

 俺じゃない。

 誰だ。

 俺は誰だ。

 罪を犯したのは誰だ。


 ――俺だ。



  *



 そして、いつしか誰もがその場を去っていた。

 波津久は哄笑高らかにその場を去り、夢は慟哭の渦に飲み込まれたままにその場を去った。

 取り残されるべきは俺。その事実が罪の呵責を一層に攻め立てた。

「……俺、は」

 俺は。

 俺は果たして何を言葉にしたいのだろう。釈明? 自責? 激昂?

 そんな空虚なものに果たしてどれだけの意味が宿ると言うのか。

 救いを求める権利が無い。権利を口にする権利すら無い。権利って何だっけ。行って良いこと。行う自由を与えられたもの。自由。自由。自由――。

「はは……はは、ははははは……」

 何もかもが滑稽すぎて笑えてきた。

 自由。

 そんなものに何の意味がある。

「はは、ははははは……ははは、あははははははは……ッ!」

 俺は笑っている。

 いや、きっと嗤っている。

 二宮空人がこの世で最も忌避するあの男の表情そのもので、きっと俺は嗤っている。

 俺は――

 俺は、俺は、俺は、

 俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は――!


「……空人様」


 そう、それは俺の名前。

 その名を呼ぶのは――

 ……誰、だ?

「私のことが解りますか?」

「……三木、さん……」

 誰もいなくなったはずの俺。

 それでも彼は、三木さんはそこに居た。

「良かった、まだ貴方の世界は壊れてはいない。大丈夫ですよ。まだ、大丈夫です」

「……何を、言っているんですか。俺は、もう」

「一部始終を見聞させて頂きました。勝手な憶測になりますが、大体の事情は察したつもりでございます。……空人様、続きをお話ししませんか?」

 その厚ぼったい表情に浮かぶのは、カフェテリアのマスターとしてではなく三木幹介本人としての、掛け値なしの笑顔だった。どうして彼はこんな笑顔を向けてくれるのか。どうして俺たちの一部始終を見届けた直後にこんなことを言えるのだろうか。解らない、この人が、解らない。

「……続きって、なんですか」

「続きは続きですよ。始まってもいませんでしたが」

 はは、と三木さんは笑った。笑うところだったらしい。笑えるわけがなかった。

「波津久様がご来店される直前、私はちょっとした身の上話をさせて頂こうと思っていたのですよ。今日はどうにも盛況でして、ここまでお話をさせて頂くタイミングが掴めなかったのですが」

 ――ああ。

 そう言えば、そんな話の流れになっていたことを思い出す。

「……でも、今更そんなこと、意味がありませんよ」

「ええ、意味はないかもしれません。今の空人様にかけて差し上げられる言葉はもう、私にはございません。ですからこれは狂人の戯言と思って聞き流していただく程度で構いません。無理に聞く必要もありません。どうか選んでくださいませ、空人様」

「……そう、言われても」

 正直、何かのために頭を動かす余裕など微塵にも無かった。頭の中は空っぽで、ただただ汲めども尽きない自虐の念だけが全身を満たし、焦がし、溶かしていくだけ。

 思ったことが言葉にできない。言葉にしたことを考えられない。能動的にも受動的にも生きることができない。保てない。

 だが、三木さんはまるで、それら全ては取るに足らない些事であるとでも言うように。


「空人様。貴方にとっての大切な人とは、誰ですか?」


 心の間隙を縫うような一言。

 しかし、責めるような口調ではない。

 それよりはむしろ、諭すような――。

「大切な人。その名前を挙げるのは、簡単なようでその実とても難しいことです。その名前を口にした瞬間に自身の在り方が決定付けられてしまうのですから。私自身も、その名を挙げることが出来るようになるまで非常に長い時間を要しました。……だから、それ故に、私は大切な人の名を迷うことはありません」

 三木さんは言葉を迷わない。選んだり、悩んだりもしない。当たり前を当たり前に口にしているだけ。三木さんの穏やかな語調を通して、本来解るはずもない相手の内面が、不可視の物体として俺の内面に流れ込んでくるようだった。

 聞いてみたくなった。

「……三木さん。貴方にとっての大切な人って、誰ですか?」

 ただの鸚鵡返しだ。

 僅かな意味すらも持たない戯言だ。

「家内と、娘です」

 そんな言葉にすら、三木さんは満面の笑みで答えてくれる。

 当然と言えば当然の答えなのかもしれない。でも、俺には決して解らないものの一つでもある。終わった家族の中で育ってきた俺には、理解したくても出来ないものだ。

「……三木さん、結婚してたんですね。それにお子さんまで」

「ええ、一生に一人という良き相手に恵まれました。愛しい娘も授かりました。いい機会です、ぜひ空人様にご紹介させて頂きたいのですが」

「……ええ、喜んで」

 少し、意外な言葉ではあった。

 だって――――それは。

 それを考えた時、俺は今更ながらに思うのだった。

 何て哀しい世の中なのだろうと。

 当たり前が当たり前でなくなってしまったことを当然だと思うことを余儀なくされてしまったこの世の中を、今更ながらに偲ぶのだ。

 本当に、まさしく、今更だ。

「少し待っていてくださいね。今、二人を起こしてきますから」

 笑顔を崩さぬままに三木さんは踵を返し、誰もいなくなったカフェテリア・ミキミキ店内へと戻っていった。


 それから数分。

 三木さんはまだ戻らない。

「……?」

 怪訝に思い、三木さんの動向を窺うために喫茶店の中へと足を運んでみた。

 一歩。

 二歩。

 恐る恐る、歩を進める。

「三木さん……?」

 店内に薫るコーヒー豆の匂い。

 その匂いが、どこが淀んでいる。

 それは俺のよく知っている、何かの臭いに似ていた。

「空人様」

 店内の最奥には扉があった。そこから顔を覗かせたのは他でもない、三木さんだった。

「……申し訳ありません、二人ともなかなか目を覚まさなくて。失礼とは存じますが、こちらの部屋へ来て頂けないでしょうか」

 三木さんの表情はいつもと変わらない。

 その意味は。

 予感した。

 彼は。

 この臭い。

 そうだとしたら。


 三木さんに促されるまま、扉の先へと進んだ俺。

 眼下に広がるその光景は、予想したそれと寸分違わず符号していた。


「紹介します。私の、大切な二人です」

 何もない、本当に何もない無機質な部屋。

 その部屋に存在を許されているのは。

「あ――」

 三木さんの穏やかな視線に見守られ。

 腐乱した二つの死体が、横たわっていた。



  *



 先の波津久との乱闘によって店内に散乱した椅子や机。元から瓦礫に埋もれていたものもあれば、新たに破壊を受けたものもある。だが今の俺にそれを直そうと思えるほどの気持ちの余裕はなく、三木さんには悪いと思いつつも席を立ち上がろうという気にはなれなかった。

 第一、三木さんのほうもそれは同じだっただろうから。

「お待たせ致しました」

 カウンターを挟んで、向かい合い。

 常連とマスターという関係を保ちながら。

 もう何杯目かわからないコーヒーを三木さんから受け取って、俺は小さく嘆息する。

「空人様」

「……はい」

 それは、僅かに一瞬のことだった。

 ただ一瞬、それを見ただけだった。

「……もう、言葉は要らないと思います。いえ、私たちに交わせる言葉など本来在りはしないのです」

 自分の狂気に気付いてはいる。

 それ故に現実に気付くことが出来ない。

 正しくは、気付くことから目を逸らし続けている。

「……俺は。いや、三木さん、あなたは」

 今は閉じられた、そして二度と開くことのないだろう扉に目を遣った。そこで見た光景、そこで嗅いだ臭い、そこで知った想い、それらが連なり奔流のように俺の胸の中に流れ込んでくる。考える必要もなければ受け止める必要もない。ただ感じているだけなのだ。無遠慮に、なのに優しく、記憶の奔流は俺の心に浸透を続けてゆく。

 本来であれば俺などが立ち入っていい領域ではなかった。

 それにも関わらず、三木さんは自身の狂気を包み隠さず俺に伝えた。

 そうすることでしか伝えられない事があったから。

「……ごめんなさい。ごめんなさい、三木さん」

「謝ることなどありませんよ。貴方様は私の命の恩人、その感謝には私の全てを捧げても足りないほどなのですから」

「だからって――」

「いいんです。私も……そろそろ、疲れたのですよ」

 そう言って微笑を見せる三木さんの姿が、今はひどく小さく見えた。いつか出会った、生を高らかに謳う男の姿はもう、どこにもなかった。

「無理をしていたというわけではないんです。在るがままに在った、ただそれだけのことでした。そうしていられた頃の私は、例えどんな苦境を前にしてもただひたすらに生を妄信していることが出来ました。……それは幸せで、幸せで、幸せで――何物にも代え難い、倖せでした」

 綻び始めている。

 彼は自ら扉を開き、自らの異質を曝け出したのだ。

 それは即ち、異質を異質であると認めることに他ならない。

 俺がずっと避け続けていた、いや、避け続けている、認める、というその行為。

 これが――これが、本当の意味で、知る、ということなのだろう。

「空人様。……せめて、貴方様は救われてください。私めのような愚鈍な真似を繰り返す道化はもう、要らないのです」

 人はそれを諦観と呼ぶだろうか。

 人はそれを逃避と呼ぶだろうか。

 ――違う。

 どちらも、違う。

 そんな簡単な話じゃない。

 生きる為の礎を破棄するということは、そんな一言に片付けられていい言葉じゃない。

「貴方様の道はまだ閉ざされてはいないはずです。出来ることを探すこと、それを放棄しない限りは、きっと」

 三木さんの表情を直視できない。あまりにも申し訳なくて、有り難くて、優しくて、切なくて――だから、せめてもの誠意。

「ありがとう、ございます」

 震える声なんて知らない。どれだけ辛くても目を逸らさない。それが今の俺に出来ること。

 三木さんは優しい笑顔を保ったままに、俺の誠意を受け取ってくれた。

「貴方にとっての大切な人は、貴方にしか背負うことが出来ません。いつか気付く時が来るその日まで、どうか背負うことを諦めないで下さい」

「……はい」

 俺は一気にコーヒーを飲み干し、勢いよく席を立ち上がった。向かうべき場所、見据えるべき存在を、もう迷うことはないだろう。

「桜、行こう」

 店内の風景に同化するかのごとく、そこに横たわる俺の妹。

 しゃがみ、肩に肩を入れ、ほとんど感じることのない体重を支え――そして、背負う。

 義務や権利など関係ない。

 初めから、そうする他に選択肢など在りはしないのだから。

「ご馳走様でした、三木さん」

「ええ、またのご来店をお待ちしております」

 俺たちは笑顔で別れ、笑顔の再会を誓い合う。

 返した踵に逡巡はなく、あとはただ帰路への扉を開くだけ。

「……空人様!」

 そんな、優しいだけの展開は。

 あまりにも虫が良すぎるという、話なのだ。

「私は私の真実を知りました。しかし、まだそれを理解するまでには至っていません。この曖昧な心のままでは、私は幾日と待たずして精神を無くしてしまうでしょう。……ですから空人様、お願いです。真実を、その真実を一言、口にして頂けないでしょうか」

 三木さんは懇願する。

 あまりにも残酷な願いを、俺に。

「……それで、本当にいいんですか?」

「……ええ。そうすることでこれからも生きていけるなら、あの二人もきっと笑顔で私を見守ってくれるはずですから」

「――――」

 絶句が絶句を超越する。

 それはもはや畏敬の念情。

 かつて、彼はこう言っていた。


 ――それは意味のあることです

 それは人間であることの定義です

 それは私達が幸せになる為の手段です

 総括いたしまして、それは希望です――


 全てを失おうとして、未だその言葉を口に出来るのか。

 この人は――この人は、強い。

 本当に、本当に、強い。

 涙が出るほど、強い――。

「――わかり、ました」

 彼の強さを信じよう。

 俺の痛みなど微々たるものだ。

 貴方なら。

 きっと、きっと『生きて』いける。

「三木さん、よく聞いてください」

「……はい!」

 覚悟を決めた三木さんの表情。

 彼はやっぱり、笑っていた。

「あなたの――あなたの奥さんと、娘さんは――」


 ――ありがとう、ございます。

 ――三木さんの乾いた唇が、そんな言葉を紡いだような気がした。


「――もう、亡くなっています」


 喫茶店を後にする。

 背中に負った重みを感じ、確かな一歩を踏みしめてゆく。

 帰るべき場所を一直線に目指し、俺たちは今、歩いていく。

 その道中ずっと止むことなく轟き続けた、とある男の慟哭があった。

 愛する女を想い、愛しい娘を想い、幸福に満ちた生涯を想い、男はただひたすらに天を仰ぐ。

 もうどこにも存在しない希望の為に、男は無限にも等しき絶望と対峙する。

 その男の咆哮を、悲しみを、怒りを、苦しみを、嘆きを、俺は、絶対に、忘れない。

 忘れることなど、出来ない。

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