表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/9

Wednesday:追想(ついそう)

 高校二年の夏。波津久と出会うちょうど一年前のこと。

 その頃の俺はというと、自分自身の在り方みたいなものに毎日イライラしてる真っ最中だった。多感なお年頃だったのだ。恥。

 日に日に堕落していく俺に対して、あいつはやっぱり、いつまでも変わらない接し方を続けてくれていた。そんな人間が身近にいてくれるということ、それは本当ならとても嬉しいことで、起こり得ない奇跡みたいなものなんだと、あの頃から既に知っていたのに。

 それなのに俺は、あの頃の俺は、そのことを鬱陶しくて仕方がないと思っていた。我ながら本当に馬鹿である。何に対しても反発したかったんだろう。少し考えれば解ることなのに、当時の俺は何に対しても考えることから目を逸らし、ただ妄信的に逃避を続けていただけの糞餓鬼に違いはなかった。

 そんな折。

 全ての始まりは実に些細なことから生まれ出て、今を越えた未来へと繋がっていく。



 道端でとある男とすれ違う。

 軽く肩が触れ合った。

 思春期っぽく安上がりにキレてみた。

 何を言ったかなんて覚えてない。ただ記憶の中に残っているのは、どこまでも無表情に俺の罵詈雑言を受け止め続けている相手の異様ともいえる存在感だけ。

 何一つ言い返すことのできないチキン野郎じゃないかと、いい気になっていられたのは最初の幾分だけだった。

 一微たりとも変化を見せない男の表情。

 そのうち俺は、そいつのことがどうしようもなく怖くなっていった。理性とか観念とかそういうのとは別で、動物的な本能で相手は俺よりも遥か高次の存在であると認識せざるを得なかったのだ。

 気がついた時には体が勝手に動き出していた。儚い蜃気楼のようで、それでいて濃厚すぎる存在感を漂わせる男に対し、俺は腕を振り上げずにはいられなかった。

 その瞬間になってようやく、眼前の男は僅かな意思を鉄面皮に宿らせて、


 俺は、そいつに思いっきりぶん殴られた。




 目が覚めた。

 白いベッドの上。

 頬に感じる明らかな違和感。

 というか、どう考えても骨折していた。

 なんなんだこれは。

「あ、起きた?」

 不意に横から声がして。寝転がったまま聞こえたほうへと向き直ってみたら、案の定と言うかやっぱり、あいつがいた。

「空人がケンカに負けて帰ってくるなんて、すっごく久しぶりじゃない?」

 バカみたいに明るい声で、あまりにも場違いに嬉しそうな顔で、そいつは言った。

「うっさいよ。あと状況説明。句読点含む三十字以内の文字で簡潔に」

「こちらのおじ様にぶっ飛ばされて頬骨を骨折、二週間の入院だって」

 ぴったりだった。さすが我が妹。

 で。

 こちらのおじ様。

 いた。

 っていうか、隣に座ってた。

 気付けよ俺。

「気分はどうだ、小僧」

 鋼鉄の存在が、俺という矮小な存在をその重厚な瞳に映していた。

 黙っていれば有無を言わさず飲み込まれてしまうような。

 でも、どうしてだろう。少なくとも嫌悪の情念はそこにはなかった。

 俺は一瞬で理解する。眼前の男は俺なんかには生涯追いつくことの出来ない人間で、だからこそ生涯を賭して追い続けるだけに値する人間なのだろうと。

 だから、俺は言った。

「俺の名前は二宮空人。今、あんたのことすっげー殺したい」

 相も変わらず眼前の男は無表情を崩すことは無かった。

 相も変わらず場違いな笑顔を崩さないお気楽娘とのコラボレーションは、なんだか笑いを誘わずには居られなかった。

 それから俺は、馬鹿みたいに笑った。

 あいつと一緒に、馬鹿になって笑った。

 男はそれでも無表情。

 その時の俺には、その無表情が今までの生涯で出会ってきた幾百幾千数多のどんな『表情』よりも、優しいものに見えていた。

 錯覚かな。錯覚か。

 まあいいやな、それでも。


 今でもずっと忘れない。

 一言一句、全部覚えてる。


 そうして俺は、俺の人生を大きく変えることになる男との邂逅を果たしたのだった。



  *



 さて、回想シーンはこの辺りで引き上げにしておこう。

 俺としてはもう少し暖かい過去に触れていたかったりもするわけだが、何分リアルの方が軽く抜き差しならぬ状況になっているようなので仕方がない。

 心の底で露骨に悪態をつきながら、俺はその抜き差しならぬ状況とやらを作り上げた原因である長身痩躯の男へと視線を投げた。

「何やってんだよ、お前」

 まるで旧知の友に語りかけるように。

 まるで窮地の友を突き落とすかのように。

「何をやっている……と言われましてもねぇ。君がそれを尋ねるのですか?」

 今日も今日とて、波津久翔羽はそこに居た。

「あ……あ、あぁぁ、は」

 波津久の足元、捕獲された獲物よろしく睥睨されているのは、極限までの焦燥に表情を婉曲させられた中年の男性。腰を抜かしてしまったのだろう、彼は身動きさえもままならぬまま、その股間に明らかなそれと解る染みを作っていた。波津久の長い右腕は、寸分違わず彼の心臓へと向けられている。そしてその手には鈍色に光るサバイバル・ナイフ。

 状況は一目にして瞭然だった。

 それでも、俺は問いかける。

「もう一回聞くぞ。何やってんだ、お前は」

 波津久は微笑した。心底気持ち悪い笑顔だった。

「ふふ、あはは、いつもいつまでも君という人間は面白い! だから僕は君のことが大好きなのですよ、二宮君!」

「気持ち悪いから止めてくれっての」

 淀みの無い動きでカバンを開け、一微の隙さえも与えずに、俺は拳銃を構えた。

「消えろ。じゃなきゃ撃つ」

「……ほお、これもまた」

 愉快だなぁ、と呟きながら波津久は再び笑った。含み笑いを殺し切れないといった様子で異常者は嗤った。実に一方的な()(がお)だった。

「はは、くく、あはは、そうですねぇ、それもまた面白い。この場で君に撃ち殺されてみる、という選択肢も言い得て愉快ではある。例えそれが口上だけのハッタリだとしてもね。十分ですとも、僕にとってはそれこそが十分。うふふ、そうですね、そうとも、二宮君」

「お前のサイコには出会った時からずっと付き合わないって決めてる。誤魔化してんじゃねえ。そんなワケわからん言葉で俺が銃を下げるとでも?」

「いえいえいいえ、まさか、そんなまさか。誤魔化すだなんてとんでもない。君を誤魔化せるだなんて初めから考えてもいませんとも。僕は何時だって本心で君と付き合っているつもりですよ。だから聞かれたことに対してはきちんと応えます。いいでしょう、消えてあげますよ。それが君の望みならね。さてまあ、尤も。こちらとしても一つだけ言いたい事はありますよ。このまま尻尾を巻いて帰るには少しばかり忍びない。僕だってそれ相応の代償を払って日々を生きているのですからね。それに見合うべき権利は少なからず保有している筈だ。

 ですから――これ、(ころ)してからでもいいですよね?」

 ひっ――そんな声にならない悲鳴が漏れる。

 間髪を与えず、俺は引き金を引いた。

 一瞬の空白を越えて訪れる、炸裂の音声。

 紅い飛沫と共に飛散する肉片。

 狙い通り、弾丸は波津久の右手を貫いて、遥かなる地平線へと姿を消した。

 数秒の間隙の後、乾いた金属音を伴って、右手もろとも吹き飛んだサバイバル・ナイフがひび割れた大地へと突き立てられる。

「……痛いなぁ。何するんですか、二宮君」

 大して痛そうな顔もせず、獲物と右手を失った波津久はそんな言葉を呟いた。力なく開かれた掌からはおびただしい量の血流が止め処無く溢れ続けている。中年男はこれ以上ないほどの見事な尻餅をつき、呆然と口を開いたまま、と思えば時折何かを噛み潰すかのように口を閉じ、眼前で起こっている事態をどうにか飲み込もうと四苦八苦している様子がありありと見て取れた。

「勘違いするなよ。これは交渉じゃない、一方的な決定だ。さっさと消えないお前が悪いんだよ」

「強引なところは相変わらずですね。昔から君は自分がイニシアチブを持っていなければ気の済まない種の人間でした」

「解ってるんなら話は早い。これ以上同じことを言わせないでくれよ」

「はいはいはい、解りましたよ解りましたとも。僕だって無闇に痛い思いはしたくない。君は絶対に僕を殺すことは無いでしょうけど、今ので殺す数歩手前までは躊躇してくれないという事が解りましたからね。今日のところは大人しく引いておくことにします」

 そうしてようやく、波津久は足元の男を解放した。空いた左手で着衣の内ポケットをまさぐり、なにやら白い布を取り出すと、無造作にそれを右手に巻いていく。

「包帯、ね。準備いいじゃん」

「君の過去を思えばね。初対面から今に至るまで、君と出会う際、僕はこいつを欠かしたことは一度たりとも無かったですよ」

「うわ……マジかよ。てめぇ、そんなんでよく友達名乗ってられたよな」

「君がそれを言うと冗談にしか聞こえませんね」

 波津久はそんな数言の間に完全に包帯を巻き切って、それから当たり前のように背後に落ちたサバイバル・ナイフを拾い上げた。近くで見るとよく解る、余りにも使い込まれている刃物のそれ。刀身にはうっすらと朱色が滲み、その切っ先には刃こぼれの様相が明瞭に見て取れる。

 気分が悪い。

 俺がそれを言うのか。

 俺がそれを言うのだ。

「それじゃ、もう一発貰うより先に消えておきます。またの機会を、二宮君」

「もう二度と会わねえよ」

「ふふ、それは出来ない相談ですよ。残念ですが」

 波津久の表情が、見る間に重厚な狂気に染まっていく。

「君もご存知の通り、友達というものは対等であって然るべきです。前者が対価を支払ったのなら、後者もいずれそれに見合った対価を払わねばなりません。問いましょう二宮君、無償の友情なんてものが実際に存在するとでも? 知っている。知っている筈だ。そう、答えは否でしょう? 僕がそれを君に教えた。だが、僕がそれを教わったのは他でもない君だ。僕らは所詮は他人なのです。己同士の利益に繋がらないのならば、限られた生命を共同する意味なんて無いのですから。そういうわけでしてね……この右手の代償、近い内に清算して頂きますよ。勘違いしないでくださいね。これは交渉ではありません、一方的な決定です」

 皮肉のつもりか。下らない。

「……んなこと言って、俺から何を奪うつもりだ? お前も知ってるだろ、今の俺に残されてるモノなんてせいぜい心臓と四肢ぐらいのものだって」

「夢」

 空耳にしては、やけに鮮明な空耳だった。

 それもそうだろう。

 だって――

    ――それは。

「ふふふ、それでは二宮君。また会える日まで、ごきげんよう」

「――ッ、波津久、待てよ!」

「おやおや……消えろと言ったのは君ですよ。それがこの場に及んで『待てよ!』ですか? くふふ、笑わせる。冗句は笑える内こそ冗句として認知されるもの。だから今はいい。だからこそ二度目はありません。そこで二宮君、僕は君に尋ねますよ。――本気で言っているのですか?」

「……」

 何も答えられなかった。倫理的に間違っているのはどう見ても俺だったけれど、この際そんなことは理由にはならない。言い返せない理由になんてならない。違う……違う! ……でも、だったら!

「反論が無いようなので、否定と受け取らせて貰いますね。それでは今度こそ僕は帰ります。まったく、何度も同じことを言わせないで欲しいものです」

「……っ!」

「せいぜい大事にすることです。彼女をね」



 その言葉を最後に、波津久翔羽は俺の前から姿を消した。

 俺が望んだ通りに、姿を消した。



  *



 しばしの間、俺は虚無感と現実に押し潰されていた。

 奴は。波津久は、何故。

 疑念は汲めども尽きることがない。何より、その疑念を解消しようとする行動に何の意味も存在しないということが致命的。

 知ってどうすると言うのか。

 そこに意味なんて無いだろう。

「……くそ」

 先刻からこっち、酷く気分が悪かった。俺の中の人間がまだ正常に機能してくれている証拠だとすれば、そんな痛みも甘んじて受け入れようとも言うものなのだが。

 ……冷静になれ。

 本当に大切なのは思考することじゃない。思考を行動に移すことだ。今の俺に出来ることは? 決まってる。奴の凶刃ごときに、あの子が奪われていい筈がない。

 そうだろう?

 ああ、そうだ。

 答えはあまりにも呆気なく、あまりにも自然と浮かび上がる。出会って数日とさえ経っていない少女に対し、どうして俺はこうも入れ込んでいるのか――なんて、そんなことを考える必要はない。当たり前なんだ。そうすることが。

 俺は昨日、確かに言った。救いになりたいと。その誓いは、そう、今でこそ果たされるべきものなのだから。

 迷わない。

 決めた。

 行こう。

 行かなきゃ、あの子の元へ――

「あ、あの、貴方……」

「あぁ?」

 そんなことを思い詰めていた最中。自分でも驚くほどに暴力的な声が出た。

「ひぃっ……す、すいませんすいませんすいませんすいませんっ……!」

「……?」

 そこでようやく、俺は気付いた。眼前で平謝りを続けている中年の男性の存在に。

「……誰っすか、あんた?」

「あ……わ、わたくし、たった今ぞや、貴方に命を救って頂いた者でございますっ……! 私、心の底より感謝しております……! ですから、ですからどうかお怒りをお鎮め下さいませ……後生でございますぅ……」

「あぁ……成程」

 すっかり失念していた。というか、初めから波津久しか見えていなかったと言うべきか。

 結局は過程よりも先に立つ結果。そう、波津久が気に入らなかったという過程を経て俺が行った行動は、最終的には彼を救ったという結果に帰結したのだった。

「私、いったい何とお礼を述べたら良いのか……あぁ、主よ神よメシアよサタンよ、無知なる私に真実の言葉を差し与え給え!」

 最後のは悪魔じゃないのか。

 別に信仰は各人の自由だと思うけど。

「あの……もう少し落ち着いてくれません?」

「は、はひぃっ! も、申し訳ありません申し訳ありません申し訳ありませんっ……!」

「……いや、だから。それと最初から怒ったりなんかしてませんから」

「ま……まことでございますか……?」

「本当です。あと、その喋り方も出来れば崩して欲しいっす。年上相手に畏敬されるような立派な人生は送ってません」

「……りょ、了解致しました!」

 微塵たりともわかってねーじゃねーか!

 何なんだこの愉快な人は!

 ……じゃなくて。

「まあ……何にせよ、感謝されて悪い気はしませんよ。どういたしまして、と言っておきます」

「あぁ、何とお優しい方でしょうか……こんな方が居るからこそ、生きることは止められないのです」

 いい加減、気持ち悪くなってきたぞ。

 ……そのせいで聞き逃すところだったじゃないか。

 久々に聞いた。自分とその身内以外の口から、その単語を。

「今、生きるって、言いました?」

 問いを返した、まさにその瞬間だ。――ついさっきまで死んだ魚のような顔をしていた男の表情が、見る間に水を得た魚のように生き生きとしたものへと変わっていったのは。

「ええ、ええ、言いましたとも。人としてこの世に生まれ落ちた以上、その命在る限りは生き続けることが絶対の責務であり同様に同等に権利。私は、私達は最後の日まで生き抜きますとも。そこには畏怖など必要ありません、神聖なる魂の浄化、それこそが我々にとって唯一の救済! 恐れ、穢れ、全ては無のままへ!」

「……は、はぁ」

 引かなかったと言ったら嘘になる。TPOの概念は万国共通で、だからこそ喫煙席と禁煙席があるんじゃないか、なんてことを考えたりして――が、今はそんな倫理観念云々を議題に挙げている時ではない。目の前の男は異端なのだ。

 表だった意味での異端などに意味はない。

 だが、この男の異端は。

「……あの、ひとつ聞いても?」

「ええ、ええ、何だってお答えしましょうとも。命の恩人たる貴方に面し、開かぬ口など何処にも在りはしないのですから」

「じゃあ聞きますよ。……あなたは、あなたの言ってる『生きる』ってのは、一体どういう意味です?」

 声を細めて、問いかけた。訊かずにはいられなかった。

 俺は無意識下にそれを決めつけていたのかもしれない。彼の言が、彼の眼差しが、彼の存在が、いわんや――狂気たらんことを。

 そんな俺に対して、彼は。

「それは意味のあることです。それは人間であることの定義です。それは私達が幸せになる為の手段です。総括いたしまして、それは希望です」

 全く迷うことなく。

 朗々と。

 真っ直ぐに、言ってのけた。

「……は」

 愕然とした。

 死ぬことを否定したがる奴なんて腐るほど見てきた。

 死ぬことを否定しない奴も少数ながら知っている。

 だけど、

 生きることを肯定する人間が、果たして俺の現在に、居ただろうか?

「生きることを、肯定する――」

 自分に語りかけるよう言葉を反芻して、同時に確信する。

 彼という存在が、路頭の脇役では決して在り得ないことに。

 例え路頭の脇役だとしても、その配役には意味が、意図が確実に有るということに。

 俺は居住まいを正して、眼前の男を完膚なきまでに意識する。

「……俺、二宮って言います。二宮空人。あなたの名前、聞かせてもらいたいんですが」

「おお、二宮様! 覚えました、しかと記憶しました把握致しました、私は未来永劫永久久遠にその名を忘れることはないでしょう!」

 頭を垂れ、恭しく敬服の礼を行う彼。こういう人なのだろう。性格の矯正を求めることは不可能だと思い知る。

「恐れながら、私の名を申し上げます。三木幹介、それが私の名でございます。ミキミキとお気軽にお呼び下されば幸福の極み」

「……全身全霊を込めてお断りしておきます」

「むぅ……それは残念。いやさて、二宮様。私の命を救ってくれた貴方様。貴方様の為に私が出来ることがあれば何とでもお申し付け下さい。どんなことでも喜んでお受け致しましょう」

「あ、いや、そんな気を遣ってもらわなくても。そういうつもりで助けたワケでもありませんし」

 っていうかぶっちゃけ、モノのついでに助けただけの話だし。さすがにそれは言えないが。

「いえいえ、そんな訳にはいきません! どうか、どうか何なりとご用命をば!」

「んなこと言われても困りますって。あなたが笑っててくれればそんだけで十分です」

「ぬ。笑う……と申しますと?」

「そのまんまの意味ですよ。嬉しいと思ってくれたなら、笑ってくれればいい。そういう話です」

「なるほど……こんな風にでしょうか?」

 にっ、と唐突に笑顔を作る三木さんだった。

 見るも不気味でした、なんてとても言えません。



  *



 それから紆余曲折うんぬんかんぬん。半ばエンドレスと思われたやり取りにもどうにか折り合いを付け、ようやっと俺は三木さんと道を異にしていた。

 あれだけ強烈なキャラだ、ポッと出のその場凌ぎで終わるような人じゃないだろう。きっとどこかで再会したら、その時は……どうしようね。

 ま、なるようになるだろう。

 なるようにしかならないとも言う。

 どう転ぶのか、この世界。

 間違っても楽しみなんかじゃないけれど。



 空が、黒く焼けていた。

 無意識にそんな一文を浮かべたのち、俺は昨日、それと一言一句違わず同様の台詞を吐いていたんだっけなと気付く。漫然とした気持ちの中に潜む、それは俺の本質。焼けた空を黒いものとしか認識できない、それが、俺自身。

 思考をする。どうしてこんなにも空は黒いのだろう。――お答えしましょう、それは星の許容量を遥かに超えた大気汚染によって永遠に晴れぬ黒雲が地上を覆い尽くしてしまったからに他なりません――と模範解答を並べてみれば、そう、答えはあまりにも簡単だ。だけど俺が求めているのはそんな単純明快、無味乾燥な解答じゃ決してない。

 欲しいのは、そう、応えだ。当たり前のことを口にされるだけでも構わない。それが応えであるのなら。非常識なんて求めていないから、俺は応えが欲しい。だから言う。

 とは言ったものの。

 果たして、誰が俺の話を聞いてくれるのだろう。

 果たして、俺の話を聞いてくれる人は誰だろう。

 果たさずとも、そんな人が居るのかどうか。

 思案。

 一度考え事を始めるとこれが無駄レベルにまで止まってくれないというのは、はっきり正さねばならない悪癖である。

 ただ、思案をする事それ自体は決して悪いことではないと思う。ものを考えるということ、それはこの世に生きる全ての生物の中で唯一人間だけに許された行為だからだ。逆に言えば、考える事を止めた、諦めた、放棄した、または忘却してしまった人間、そんな彼らは極論、犬畜生と同列であるとも言えてしまうのではないか。人間である事の線引きなんて、ひどく単純なものなのだ。

 銃声が響く。乾いた音。ひどくあっさりとした、作り物の音。

 作り物で、人は死ぬ。

 ……一度、頭の中をクリアにする。無理矢理にでも、頭を真っ白にする。一瞬だけでも救われる。その一瞬を間違わなければ、俺はきっと、生きていける。生きていけるのなら、間違いはない。死ぬことは間違いで、生きることは正しい。そんなの当たり前だろう。

 さて、ここで思案における結論を得たところで――俺は果たすところ何を言いたいのか、自分でも解っていないのだった。

 呆れたもんだ。

 疲れたな。

 考え事に疲れたら、体を動かすことにしよう。

 大丈夫。

 銃声が響く。乾いた音。ひどくあっさりとした、作り物の音。

 作り物で、人は死ぬ。

 大事なことは忘れない。

 大事なものは無くさない。

 俺は俺のやるべきことをやる。それこそが俺の生きる理由。存在する理由。理由が在る理由。理由の為に俺は今日も壊道を歩く。行く道の最中、需要を受ければ供給も忘れない。安楽家業、二宮空人の本懐を果たす。そしてまた、銃声、響く、乾いた、作り物、


 波津久にぶち込んだ一発と合わせ、今日これまでだけで六弾倉のリボルバーから半分以上の弾丸が目的を果たして飛んでいったことになる。概念としての結果はそれだけの事。観念としての結果は――――――――――――――――。



 解ってる。

 分かってる分かってる。

 判ってる判ってる判ってる。

 だからこそ、別りたくないんだ。



 それでも、考えることは止めないと言う。

 人類代表、世界で一番馬鹿な俺。



  *



「……あぇ、空人、さん?」

「うす、おはよ」

 昼下がりの春澤家。午睡にまどろむ優雅な時間、と言うには程遠いけれど。

 居間。

 寝袋に包まれたお姫様。

 どうにも、見ているだけで楽しい絵面ではある。

「睡眠時間のとりすぎは逆に寿命を縮めるんだとさ。参考までに、手元の時計は午後一時三十分を示しております」

「う……いちじ……じゅみょう……?」

 当初の予定通り、俺は今日とて夢のもとへと訪れていた。波津久との一件もあり、色々と心配は尽きなかったのだが、この様子を見ればそんな心配も杞憂と終わってくれたようだ。

「なんで……ここに、いる、ですかぁ……?」

「夢ちゃんに会いたくなったから」

「……なー、ななな、なー」

「面白い驚き方するね、きみ」

「だ、だって、だってですねー……」

 見るも明らかに慌てた様子で寝袋から這い出る夢。そんな挙動のおかげで着衣がところどころ乱れていく。いきなりサービス全開っすねお嬢さん。ああ、良きかな。

 ……と、あれ。なにやら歯車が噛み合わない。

 感じた違和はすぐに見つかる。

 夢の服装。

「夢ちゃん。その服、どうしたの?」

「え、服って……これ、ですか?」

 居間にふたり、向かい合う形で座りながら。

 夢はなぜか、制服姿でその場に佇むのだった。

「そうそう。昨日までは普通に洋服着てたじゃん」

 ぁ、と小さく声を漏らしてから、夢は僅かに頬を染めた。

「んと……その、別に深い意味とかはないんですけど。昨晩、暇だったんで家の中を掃除してみたんです。そしたら中学の頃の制服が見つかって、なんだか懐かしくなっちゃって。それで」

「中学? 夢ちゃんって今、高校生だったよね?」

「そうですけど、高校の時の制服は見つからなくて。騒動のときに持っていかれちゃったみたいですね。どんな衣類であれ貴重は貴重ですし、気持ちはわからなくもないです。仕方ないです」

「なるほどね。……でもさ、中学の時の制服って。よくサイズ合ったなぁ」

「……変わらなかったですから」

「変わらなかった?」

「中学校から今まで、変わってませんから、体型」

 それはそれは。

「ごめん、気にしてるようなこと言わせちゃって」

「いえ、空人さんが気にすることじゃないです」

 無表情。

 ……なんか怖いんだけど!

「と、ともかく。今日も夢ちゃんが元気そうでよかった」

 あまりにも露骨に誤魔化してみる。

「どもども。空人さんもお変わりないようで、何よりです」

 そして、にっこりと。

 少女は、今日も微笑むのだった。

 相も変わらず、不安定な子である。

 そしてまたしてもこの俺がそれを言うのか、というお話。

 本日も素敵に予定調和だ。

「昔話、」

「……ん?」

「昔話って、いいですよね。良い事も悪い事も、話し方ひとつで場を賑わせる材料になってくれます」

「そりゃまた唐突な……昔話、ねぇ」

「わたしにも、月並み程度にはありますよ。空人さんが聞いて面白いお話があるかどうかわかりませんけど、それでもちゃんと、過去を言葉にできる程度には昔話を持ってます。空人さんは、どうですか?」

 突然の夢の言葉を受けて、俺の思考はしばし巡り巡る。

 昔話。

 過去。

 過ぎた事。

 行った事。

 覆らない事。

 疑いない事。

 今日の日の俺を構築する、すべての要素。

「……そう。夢ちゃんは、そうなんだね。昔話か。ああ、あるよ。色々あった。夢ちゃんみたいな清い子には到底聞かせられないような、そんなのばっかりだけどね。でも、俺の昔話じゃ場は賑わわないよ。話し方なんかじゃどうにもならないことだって、ある」

 それを、まったく考えなしに口にしたわけじゃなかったけれど。

 結局俺は、真実を本音と共に言い放っていた。

 そこに含まれるモノを知ってか知らずか、夢は神妙な面持ちで俺の言葉を受け止めている。今までに見たどの表情とも違う、それは俺にとって初めての春澤夢。

「そうなんですか……それじゃ、わたしたち、きっと正反対の人生を送ってきたんですね。十七年と二十年、年数はちょっとだけ違いますけど、わたしと空人さんがこうして交錯することはおそらく在り得ないことだったんだと思います。……でも、空人さん。それでもわたしたちは今、こうして向かい合っています」

 向かい合うふたり。

 なるほど、その通りだ。

「今日の夢ちゃんは哲学チックだね。続けてみて」

「……哲学なんて銘打つほど、複雑なことを考えてるわけじゃないんですけど。空人さんの期待してるようなことは、わたし、きっと言えません」

「そんなこと言われたら余計に期待しちゃうじゃん」

「あーうー」

 困っていた。

 俺も困るっつーの。

「と、とーにーかーくー……わたしが言いたいのは本当に単純なことで」

 夢は一度、小さく深呼吸をして。

「わたし、空人さんのことを全然知りません」

「……」

 とりあえず、絶句した。

 気の利いた返事なんて、すぐには浮かんできてくれなかったから。

「わたし、空人さんのことを全然知りません」

 二度目。

「……」

「……」

 三度目はなかった。

 ああ、俺から喋れ、ってことね……。

「……それは悪意ある解釈にのっとって、お前みたいな赤の他人なんかにこれ以上裂いてやる時間はないからわたしの目の前からさっさと消えて下さいさようなら、とでも意訳すればいいのかな?」

「全然違います! 普通に好意的に解釈してくださいよ!」

 夢は、驚くほど感情的にそう叫んだ。

 いやその通り、驚いた。

「ご、ごめん。ちょっと意地悪だったね」

「自覚してるなら最初から言わないでください……」

「これからは気をつける」

「ぜひに」

 で、だ。

「夢ちゃんは……俺のことを、知りたいと?」

「……そう、言ったつもりです」

 それは――それはつまり、どういう、意味。

 それは――それはつまり、そういう、意味。

「わたしたちは、知り合いました」

「そうだね」

「だから、知り合いたい」

「……それはなかなか、面白いことを言うね。言葉遊び?」

「面白いかどうかはともかく、言うべきことを言ってるな、という自覚はあります」

「でも、遊びのつもりはない、と」

「そういうことです」

 ふぅ、とひとまず息を吐く。胸の中に溜まってるあれこれを一切追い出してから、それから俺はいつものように思考を開始する。

 思考を開始して、思考は停止した。

 だって、その思考を試行することの必要性なんか――微塵も、ない。

「俺のことを知る覚悟――あるんだよね?」「はい」

 超即答。

 いいよ。それなら、いい。

 じゃあ、知ってくれ。

「二宮空人は人殺しだ」

「…………はい」

 ほんの一瞬の驚愕の表情、割合長かった思索のための黙考、そして導き出された二文字の返事。

 この子は、ちゃんと向かい合ってくれている。

 なら、応えよう。

 続けよう。

「一応断っとくけど……人殺しってのは観念的な意味じゃないよ。俺は実際に人の命を奪うことを生業としてるわけで」

「……」

 返事は無い。

 無理も無い。

「君も……いや、こんな言い方は良くないと思うけどさ。……大事な人を失った身なら、わかるだろ? この世界には、死を求める人があまりにも多すぎる。そういう人たちを静かに葬ってあげることが俺の仕事」

「仕事」

 少女が抑揚のない声で反芻する。俺は首肯だけでそれに応える。

「仕事。生き甲斐。それを行うことを止めたら俺自身が停止してしまう行為。自分が望み、相手も望む、利害の一致、誰もが救われる、めでたしめでたし、ってね。それを建前に俺は人を殺すわけだ。そうすることで喜んでもらえる。そうすることで俺の価値を認めてもらえる。そうじゃなきゃ俺は駄目なんだ。そうでなきゃ俺は駄目なんだ。……でも、そうしても俺は駄目なんだ。わかるんだ。わかってるんだよ。駄目なんだよ、俺は。こんなの。当たり前じゃないか。俺は狂ってるかもしれないけど、これでもまだ人間なんだ。なあ……だったら俺は、どうしたらいい?」

 自分でも驚くほど自然に。

 俺は。

 ずっとずっと、聞きたかったことを。

 この時初めて、誰かに聞いた。

「昔はこんなんじゃなかったんだ。……いや、言い訳か。今にして思えば、昔っから俺はこんな感じだったような気がするよ。現実問題、人を殺すようになったことのきっかけを辿れば、星の堕落とは何ら無関係だったりする。そうだ――そうだったんだ。あの日の俺が今日の俺で在ることは、笑っちゃうぐらい必然だったんだ。はは」

 笑ってみた。

 夢は、もちろん笑わない。

「ごめん……ごめん。今のうちに謝っとく。今日の俺、ちょっとヤバいね。ついさっきまで、ほんのついさっきまでは冷静な自分でいられたはずなのにね。おかしいよ、どうしてだろ、だけど――ごめん――だけど聞いてほしい――聞いてくれ」

 返事なんて待たない。

 返事なんて待てない。

「俺は――俺は、どうして『俺』なんだろう。どうして俺は俺でもなく俺でもなく俺でもなく『俺』なんだろう。どうして『俺』は俺に変われなかったんだろう。どうして、二宮空人は『俺』のまま『俺』になってしまったんだろう」

 成りたいモノに成れなかった。

 追いたいモノを追えなかった。

 消したいモノを消せなかった。

「良心とか、常識とか、それ以前に人としての問題とかさ。そういう観点から考えてみれば考えるまでもなく瞭然だ。俺が行っていることは正しくない。知ってる――知ってるんだ。気付いてるんだ。言われなくたって判ってる。判りすぎるぐらい判ってる。それなのに、それなのにそれなのにそれなのに」

 熱が、想いが、奔流が、止め処もなくどうしようもなく昂ぶっていく。俺の意識とは一切合切関係なく、俺の意識の下に誠心誠意忠実に。どっちがどっちでどっちがどっち。ぐるぐるぐるぐる思考は廻る。まわる。めぐる。

「望まれたなら何をやっても構わない、なんてのは独裁主義者の戯言だ。やっちゃいけないことがある。人としてこの世に産み落とされた以上、たとえ死んでも超えちゃいけない一線がある。俺は昔からほんとにほんっとにほんっとーに駄目な奴だったけど、その一線だけはどうにか自分の中に匿ってやれてたよ。やれてたはず。それは今だって変わらない。変わらないはず。変わってないんだ。昔から今から未来から、俺という人間は二宮空人という人間は微塵たりとも変わっていない。変われていない。……ってことはさ」

 何言ってんだ。何やってんだ。

 明らかに間違っている。在り方そのものが間違っている。異質すぎる光景を俺は傍観している。まるで意識が感覚を遠巻きに俯瞰しているように。その上で達観を決め込もうだなんて、それはさすがに虫の良すぎる話というものだ。

「昔も、今も、これからも。俺は最初から今も最後までどうしようもなく人殺しだったってことなんだ。一線を引いていたつもりで、それはあくまでも『つもり』なだけだった。これが現実。きみが知りたかった俺の本質、俺の起源はまさにそれ。人を人とも思わない、人を人とも思えない、そんなどうしようもない人間失格が俺――」

 ――誰か、――

 ――誰か、俺を、――

 ――誰か、俺を、果ての無い、――

 ――誰か、俺を、果ての無い、この闇から、――

 ――誰か、俺を、果ての無い、この闇から、救い出して、――

 ――誰か、俺を、果ての無い、この闇から、救い出して、くれ――



「嘘は、ダメですよ」



 少女はそれが宇宙の摂理であるとでもいうように、当然すぎるほどに、真っ直ぐに。

 無意識に浮いていた乾いた笑みが、刹那のうちに霧散した。


「話の大筋……は、ですね。信じます。信じたくないですけど、信じます。空人さんが今まで言わなかった、だけど今確かに言ってくれたことを、わたしは信じます。――だけど、最後に言ったことだけは信じません。信じる信じないなんていう天秤にかけることそのものが嫌ですよ。だから空人さん、嘘はやめてください」

「……ちょっと待って。嘘って、なんだよ」

「人を人とも思わない、人を人とも思えない」

 俺が先ほど言った言葉をそっくりそのまま、抑え気味の抑揚で、諳んじる。

「もしそれが本当だとしたら、空人さんはきっと、いいえ、絶対に、わたしの中にいることはないですよ。わたしは人で、空人さんも人で、だからこそこうして向かい合うことが出来てるんじゃないですか。だから、嘘なんです。嘘はやめてください」

「…………――――…………」

 何かを言い返したつもりで、現実に俺は何も言い返せてはいなかった。

 きみは、何を、言い出すのか。

 今まで誰も口にしなかった、ましてやきっと思いもすらしなかったことを、こんなにもあっさりと言葉にしてしまうのか。

 それは唐突でそれは突然でそれは偶発で――それでもまさか、それは必然だとでも?

 理解が出来ない。

 納得が出来ない。

 肯定は出来る。

 ……ああ、そうか。

 なら、それだけで事は十分に十全。

「それにですね」

 流れるような自然さで。

 まさに、実に、淀みなく。

「空人さんの言ってること、すごい矛盾しちゃってるんですよ。空人さんはきっと、そのことにちゃんと気付けてるはずです」

 矛盾――矛盾――矛盾――矛盾。

 馴染みの深い響きだ。

 クリアな音声が耳に染み入る。

 その言葉は、確か。

 二宮空人という個の存在意義を、他のどんな言葉よりも色濃く言い表した言葉だった――。


「人を人とも思わない、人を人とも思えない人に、『人』殺しなんて出来るはずないじゃないですか」


 それは、思わず間抜けに場違いに当たり前に頷き返してしまったほどに。

 成程納得、正論すぎた。

「空人さんは、誰よりも誰よりも誰よりも誰よりも人を人だと思っているはずです。人を人としか思えていないはずです」

 昨日。

 波津久翔羽はこう言った。


 ――何も違いませんよ、僕達は。


 それは、俺たちは結局何も変わらない人殺し同士であると、そういう意味だと思っていた。

 心のどこかで、波津久の言葉に納得していた俺がいた。

 だけど。

 だけど。

 あの男は、人を雑草と同じにしか見ることの出来ないあの男は。

 ……なぁんだ。

 なんだよ。

 違うじゃねえか!

 全然――違うじゃねえか!

「空人さんは――」

 それを有り体に言い表すのならば、憑き物が落ちた感覚とでも言えばいいのだろうか。

 ともあれ、こうして人は気付くのか。

 二宮空人は、きっと。

 二宮空人は、ずっと。

「空人さんは、人間失格なんかじゃありません」

 その言葉が、欲しかったんだ。



  *



 心の深層に佇む、それ。

 心の深窓に咲く、それ。

 幾千幾万幾億幾兆幾京幾咳ともつかない枝分かれ、分岐点。その数と種類は途方もないほど超大にそして多岐に渡り、同時にそれこそ『人間』を一個体として分かつ唯一にして最大の因子。俺たちはそうしてオリジナリティを、それが多数派あるいは少数派に組するかなんてのは全くもって別次元の話として、獲得していく生物だ。

 だが、それは裏を返せば、原初を辿れば行き着く先は皆同じということを意味しているとも言える。この星で最多の教徒数を占めていたとある宗教の教えなんかにも、そういった意味合いの片鱗を窺い知ることが出来るように。あれは確か、人間は一組の男女を起源として始まったとかいう教えだったか。うろ覚えではあるが、ああ、確かそんな感じだ。

 つまり、人間ってのは元を正せば純粋に単純に簡易な生物であると言える。それが成長の過程を辿るにつれて、あまりにも大量の純粋と単純と簡易が絡まり合ってしまい、その結果として彼らは複雑で難解で混在した生物に仕上がってしまったというだけの話。正しい起源に正しい過程が伴ったところで、必ずしも正しい末期に辿り着くとは限らないというある種教訓的なモノを、俺たちは自分でも気付かないうちに内包しているというわけだ。

 そんな風に思考を次々と展開してみると、何だかこう、不思議な気分になってこないだろうか。少なくとも俺はなる。つまるところ俺たち人間ってのは、いったいどうして何なんだろう、と。

 この星に生を与えられた数多の有機物の中にして唯一、思考と行動に一貫性の付与を許された前述の当該固体。数にして惑星上に存在する全生命中のほんの零コンマ数パーセント、数字の上だけではとてもじゃないが取るに足る存在とは思えないちっぽけな俺たちは、しかしそれでも確かにこの星の支配者層として、その文明を余すところ無く根付かせることに成功してきた。成功してきたように見えていた。だけれども、事実それが間違いなく『正しい』在り方だったと、果たして俺達は胸を張って言うことが出来るのだろうか?

 生きるために殺すことは動植物の摂理であり、殺すために殺すことはあまりにも当然な言葉の摂理ではあるが、しかし、殺すために生きる『人間』という存在の異端は、もはやそれを言葉に出すことさえおぞましい。ここ数百年の人間の歴史を紐解けば、それは誰知らぬ念情の渦巻く中で殺害のために殺害を犯し続けてきた歴史と言い換えても過言ではないだろう。植物を殺し、虫を殺し、動物を殺し、星を殺し、宇宙を殺し、そして何より――人間を殺し。


 俺たちが今現在置かれているこの状況は。

 在り方を完全に取り違ってしまった人間への。

 星が与え給うた然るべき制裁と呼べはしないだろうか。


 ……正直な話。

 実に下らない一寸劇だと思っている。或いは、その程度でしかないと思っている。

 だが、いや、だからこそ、俺は自身の役割を過大に妄信したりはしない。

 せいぜい村人Dだとか、あるいは中ボス手前に出現するイベント戦闘モンスターだとか。我ながらよくわからん比喩だとは思うが、自身の役割を最大限に果たそうと足掻くこと、最善を目指そうと努力すること、そこだけは間違えたくない。そこだけは間違い無く揺るぎ無い。

 例えば無理矢理に前例を引用してみたりすると、だ。村人Dには村人Dなりの生活があり、その生計を立てる為に骨身を削って労働をし、愛すべき家族を支え、生きることを疑うことなく、やがて生涯を閉じるその日まで、迷いながら葛藤しながら、それでもきっと生きていくだろう。

 中ボス手前に出現する以下省略だって、まさか最初から勇者に敗北するつもりで戦いをふっかけるワケじゃないだろう。とは言え、まさか勝てると思って戦いに臨むワケでもないだろう。あまりにも歴然と開いた力の差を目の前にしながら、それでも彼らは戦うことから逃げようとはしないのだ。

 理由は単一。なぜならば、それこそが唯一無二にして絶対の存在意義であるからだ。存在意義を諦めない。存在意義を全うする事。その為だけに彼らは戦い、そして散る――前述に違わず、よくわからん比喩になってしまったけれど。

 つまるところ、だからこそ。

 俺も、やっぱり、そう願う。

 そうありたいと、心から願う。

 諦めないことを宣言する。

 全うすることを宣言する。

 だから、どうか。

 誰だっていい。

 できれば君がいい。

 俺の名前を、呼んでくれないか。



  *



「きみもご存知の通り、人は常に誰かに依存することを求める生き物だ」

「はー」

「だけどね、それを証明しようとして、もしも自分以外の全ての人が消えてしまったら果たして自分は生きていけるのだろうか、なんて仮定を打ち出して事を考えてみようとするならそれは大間違いだ。成り立たない仮定にその定義は伴わない。わかるだろ? 自分の他に人間が誰も居ない、なんて状況は絶対に在り得ないんだから。こんな風にぶっ壊れてさえ俺たちは一人になんかなれていないわけで、それが何をも先にして論より証拠。オーケー?」

「は、はー」

「さてここで課題の時間だ、春澤夢くんっ」

「は、は、はいっ」

「俺は果たして何を言いたかったのでしょうか。ごーお、よーん、さーん、にーい、いーち、はい時間切れー。さあお答えをどうぞ」

「……えっと、その……えと、ギブアップです。答え、教えてください」

「はえーよ! もっと頑張れよ!」

「そんなこと言ったって問題が滅茶苦茶なんだから仕方ないじゃないですか。問題そのものが問題として成り立っていない問題をどう頑張って解けっていうんですか」

 この子は考えてないようで意外と考えているのであった。

「わかった、わかったよ。俺が悪かった。それじゃ正解発表だ」

「ごくり」

「俺が言いたかったのはね、俺と夢ちゃんのことなんだよ」

 擬音を鍵括弧に入れるなよ何だその漫画語は、と突っ込みたくなるのをどうにか抑えて。

 夢はなんだか、なんだろう、とても微妙な表情をしていた。

「えっと……それは、つまり?」

「俺たちは、互いに依存しているということ」

 そういうこと。

「あー……なるほど。っていうかストレートすぎますね、それ」

「ストレートに言ったんだから、そうに違いないだろうね。それがこうして問答形式になってみると、案外に真実は遠ざかる。不思議なもんだ」

「わざわざ遠ざけた理由がわからないんですけど……」

「そこは余興だね。でも、考えてみると面白いもんだよ。互いの立ち位置とか、移動距離とか。出会ってからたったの三日、されども俺たちにしてみれば三日もの時間。そうした齟齬の間に生まれてくるこの違和、相違。うわあ、すげえ生きてる実感するよ。ゾクゾクするぜ」

「……なんか今日の空人さん、妙にテンション高いですね」

「うん? 俺はいつでも――いや、いつもの俺はこんな感じだよ。こういうのが大好きなんだよね。無益であれ有益であれ、思考をすることは決して悪いことじゃない。思考は人間だけに許された武器なんだよ。自分だけに許された武器を存分に振るう感覚っていうの、男子として生まれた生き物になら誰彼問わずわかってもらえると思うんだけどな」

「はー……なんだか、すごいことのように思えてきたような、こないような。……はあ、でもですね。必ずしもそれを武器と認識しない人だっているんじゃないですか? 例えばほら、大昔に実際に使われていた小剣なんかは武具というよりむしろ防具として使用されたらしいですし。物事を狭めて考えちゃうのはよくないです」

「……なんだかなぁ、君、本当によくわからん子だね。会話もキャラも何もかもが安定しないってのはどうかと思うんだけど、それも個性といえば個性になるのかな」

「それを言ったら空人さんだって同じです。人間としては失格じゃなくても物語の主人公としては失格です」

 そういうこと言うな。

「まあ何だ、ずいぶんと話が逸れちゃったけど、えっと、依存だったか。そうそう、俺たちは互いに依存してるって話。俺と夢ちゃんが始めて出会った日のこと、覚えてる?」

「覚えてるも何も、一昨日ですし。百年経っても忘れない自信ありますけど」

「……ま、覚えててもらったようで何より。あの日あの時、きみは言ってくれたね。俺のことを好きだとか何とか」

「……はい」

 赤くなった。

「でも、それは嘘だ」

「それはどういうことですか?」

 黒くなった。

「や、ごめん。言い方が悪かった。君としては本気だったんだろうし、本気なんだろう。その気持ちを否定することなんか出来ないし、俺だってそうあってくれたほうが嬉しいし。だけれども現実問題、夢ちゃんが俺に抱いた最初の気持ちはきっと恋愛感情じゃなかったはずなんだ。そして、それが依存するということ。依存と恋愛は似ているようで違う。違うようで似ている、とも言えるね。割合遠からず近しい感情ではあるんだよ。でも、だけど、同じじゃない」

「……まだ、ちょっと、わからないです。えっと、最後まで聞いてみることにします。どぞ」

 元に戻った。

 難しいなぁ。

「つまり、夢ちゃんは俺のことを好きになるべくして好きになったんじゃなくて、好きになるために好きになったんだよ。恋愛から始まった依存じゃなくて、依存から始まった恋愛だ。手段と目的が真逆になってる。それってやっぱり、別物だよね。そこんところがやっぱり、依存なわけだ」

「納得……は、したくないですね。少なくとも、わたしは」

「それで十分だよ。それに、俺だって一緒なんだから」

「空人さんも?」

「ああ、俺も。というか、俺のほうが症状は深刻だね。依存度で言えば、夢ちゃん→俺なんかより俺→夢ちゃんの矢印のほうがずっと太いと思うよ。知っての通り、俺は最初、君のことを避けようとしてたんだから」

「わたしとしてはもしかすると今もそうなんじゃないか、なんていう一抹の不安もあるんですけど」

「昨日までは、ほんの少しそんな気持ちもあったかもね。だけど、さっきので完全に消えちゃったよ。自分でも信じられないね。たったの一日で、僅か二十四時間で。それがどれだけ異常なことか、それがどれだけ奇妙なことか、それがその上でどれほどの奇跡であるのか、俺はよーく知ってるよ。確かに今の俺たちにとっての二十四時間はとてつもなく貴重で濃いものなんだろうけど、そんなこととは関係なしに在り得ないはずの現実を生きてるんだ、俺は。夢ちゃんと出会ったお陰だよ。誇張抜きにね。まったくもって、実に在り得ない。もう俺は、『たったの三日」だなんて誰に対しても言えなくなっちまったじゃないか」

「……えへ、なんだか、そんな風に言われると普通に嬉しいじゃないですか」

「自分でも心底、よくわからん気持ちだとは思うんだけどね。それでもやっぱり、夢ちゃんが幸せなら俺も嬉しいよ。こういう気持ちは悪くない。むしろ大好きだ」

「しあわせです」

「しあわせだー」

 世間では、こういうのをバカップルだとか呼ぶそうですね。

 失礼極まりない話ですよ、奥さん。

 何言ってんだか。



 はてさて。

 あのあと――俺と夢は当たり前のように居間で一緒に昼飯を食べ、やることもなくしばし仰向けになってそこら辺をごろついていたところ、不意に夢が「空人さん、外に出ませんか」などと言ってきたので別段断る理由もなく、こうして二人なかよく瓦礫の町をてくてくと散歩していたというわけで、そうして俺たちはついぞ今までよくわからんけどとにかく抽象的な話に満開の花を咲かせていたわけだ。まあ、実際に口を開いていたのはほとんど俺だったような気もするけれど、あんまり気にしない。

 さてはまず、有意義な時間ではあった。やっぱり、いつどこでだって会話ってのはいいもんだ。応えてくれる相手がいるってのは素晴らしいことだ。波津久みたいな例外も無きにして有らずとは言え、こういった言葉のキャッチボールは何にも換えがたく尊重されるべきである。俺は何度もそれを見てきたから、知っている。

 孤独になった時点で、人間は終了するのだから。

「もうすぐ着きますよ、空人さん」

 弾むような、歌うようなリズムで、ついでにすっげーいい笑顔で夢は言う。

「ほいほい。んで、結局のところ夢ちゃんは俺をどこへ案内しようとしてくれてたのかな」

「あ、言ってませんでしたっけ」

「言ってねーです」

「す、すいませんです。別に秘密にしてたとかそういうのじゃなくてですね」

 構わんけどね。

「えーと……でも、もう着いちゃいますし、ここまで来たら最後まで秘密にしておくことにします」

「まあ、どっちでもいいよ。俺が知らない場所だっていうなら、俺がそれを知ることにほとんど意味なんてないわけだし」

「ご理解いただけてなによりです」

 にっこにこ。

 いや、ゴキゲンだねぇ。

「俺らさってさ」

「はい?」

「受け入れてるのかな、それとも逃げてるのかな」

 あまりにも空気を読み違った問いかけには彼女の笑顔を地に突き落とそうと言うつもりなんて毛頭なくて、……そういうわけじゃないけれど、今の夢を見ていたら、なんだか聞かずにはいられなくなって。

「たぶん」

 思ったよりもずっと短い間隙を伴って、夢は続く言葉を紡ぎ出す。

「少なくとも、断言できるほど前者ではないです」

「……そうだね」

 そうして次がれた彼女の言葉は、一言一句違わず、俺が胸に抱いていた気持ちと変わらないものだった。気付いてはいるけれど、それを認めることが出来るまでにはキャパシティ不足。人間らしい悩みと言えば、聞こえも少しはいいのかな。

「変なこと聞いて、ごめん。できれば忘れてくれ」

「空人さんの言ったことを、忘れられるわけないじゃないですか」

「ああ……じゃあ、覚えててくれ」

 いい加減、俺は責任というものを知ったほうがいいのかもしれない。この少女に俺が与えている影響――それはもう完全に完璧に、俺の力の管轄下なんて遥かに吹っ飛んだところで、絶対という言葉のもとに、もはや『ルール』と呼び名をつけても何ら支障のないところまで――到達してしまっているらしいのだから。

 そして前述のとおり、俺が春澤夢に与えている影響以上に、彼女が二宮空人に与えている影響が大きいということもまた、正しく理解をする必要がある。尤も、この件に関しては理解の有無に関わらず結果は大して違わないのだが、その僅かな差が二宮空人を守ってくれるかどうかの分かれ目となるのかもしれないと仮想すれば、俺はやはり最善をもって尽くすべきだと思うのだ。

「あ――見えましたよ、ほら」

 どこかで繰り返したシチュエーション。

 日々は往々にしてデジャヴする。

「……あれって」

 最初のうちしばらくは、それに対する認識は周囲に数多点在する崩落した建築物らと何ら変わらぬものだった。その全容を眼下に差し入れて、俺の隣を歩いている少女が誰であるかを念頭に入れ替えて、そうすることでようやく、俺はそれが果たして何であるかを理解する。

「コンサートホール、ってやつだよね」

「はい、そうです」

 その意図、その意味、その意思。

「空人さんの過去、教えてもらいましたから」

 過去。

 現在。

 蜃気楼。

「ここには、わたしの過去があります」

 そのために。

 あくまでも、『知り合う』ために。

「過去をより良く知ることは、未来をより良いものにする――学校で、歴史の時間に教えてもらったことの受け売りなんですけど。わたし、それは人生そのものにも応用が効く言葉なんじゃないかなって。座右の銘です」

 前を向くために、振り返る。

 矛盾から生まれた真理は、それでも真理であることに違いはない。

「もう二度と来ることはないと思ってたんですけど。……空人さん、一緒に来て、くれますか?」

 愚問だな。

「行かない理由がない。見せてくれよ」

 俺と一緒で、断言できるほど前者ではない――それでも俺とは違って、きっと断言できるほど後者でもない、春澤夢を。

「ありがとうございます。そう言ってくれると思ってました」

 笑顔で応える彼女の表情は、だけど。

 先程までのそれと、全く変わっていない筈なのに。



  *



 それは荘厳な空気に満たされた、この世で最も神聖で静謐な場所。この空間に時が満ちたその瞬間、神の代弁者たる絹糸の指先から音符が放たれた正にその瞬間、世に溢るる確執、しがらみ、怨恨の一切が意味を失い無為と帰す。

 法規も無ければ暴力も存在し得ず、唯にして在るものは舞台上の奏者と舞台下の観客、たった一条のその概念のみ。彼らは音を与え放つ為にその場に在ることを許され、彼らは音を受け入れる為にその場に在ることを許される。

 音。唯一にして絶対の構成元素。世界が人の手を離れる、それは無限の語彙を駆使してさえ尚、奇跡、としか表現することが出来ない時間。果たしてこの場所で幾百幾千の音楽が舞い、果たしてこの場所で幾万幾億の拍手が踊ったのだろうか。そして、果たしてこの場所でどれほどの奇跡が歴史を積み上げてきたのだろうか。

 それはきっと余りにも、余りにも余りにも、余りにも余りにも余りにも、想像を超えて余りあるのだろう。光が薫る、夢が煌く、命が謳う――そんな場所。

 そんな場所の、残り滓。

 今では何一つとして意味を持たない、瓦礫と灰塵のひとかけら。

「酷いな、これは」

 こんな光景、今までに何度となく、まさしく腐るほどに見てきたというのに。

 そうとしか、言い表せない。

「……ほんとに、その通りです」

 俯けた顔を起こすことなく、少女の声とは思えないほどに沈んだ調子で。その表情と歪んだ風景との対比は、まるで同一に溶け込んでいきそうなほどに危ういコントラスト。

「徹底的すぎる」

「……ほんとに」

 遠目にはシルエットで何となく理解できたそれは、しかし距離を近付ければ近付けるほどに現実味を無くしていった。夢が居てくれなかったら俺には入り口の場所を見つけることさえ叶わなかっただろう。実際に入り口を通ってきた今でさえ、あの場所が果たして本当に入り口だったのか、果たして確証が持てずにいるのだ。

 加えてその先に在るべきエントランスは、完全に、徹頭徹尾、ほんの僅かの慈悲もなく、消滅していた。と来れば、客席――正確には、客席だと思われる場所――はもはや言外だろう。

 見るに耐えかねて、一時の救いを求めて天井を仰ぐ。

 黒く焼けた空だけがそこに在った。

「わたしは、生まれた時からずっと、音楽と一緒に生きてきました」

 訥々と、もう永遠に響かないホールの中で。

「自分で言うのも何ですけど、将来は音楽で生きていけるかもしれない、ぐらいの展望はあったんです。……こんなこと言うの、空人さんにだけですよ?」

「ああ、大丈夫だよ」

 言われるまでもなく、俺は夢の音楽を唯一無二のものと認めている。そのきっかけがどうであれ、あれほどに激しい、悲しい、優しい、寂しい音楽を俺は今までに聴いたことがないし、これからも二度とないだろうから。

「今から十年前、初めて賞を貰った場所なんです」

 暗く沈んだ眼差しの奥に、決して消えない一条の光を垣間見る。

「それからも何度も、何度も何度も、わたしはこの場所で鍵盤を弾きました。結果に恵まれた時もあれば、思うように力を振るうことの出来ない時もありました。嬉しい時もあれば、悔しい時もありました。全部が全部良い思い出とは限りません。忘れてしまいたい失敗の過去も山ほどあります。あの日あの時どうしてあんな事をしてしまったんだろうと、今でも後悔に押し潰される夢を見たりします。――だけど」

 だけど。

「その全てが、わたし自身です」

 真っ直ぐすぎるほど、真っ直ぐに。

「だから、この場所は、わたし自身です。わたしの全てです。ここには、わたしがいます。春澤夢が、ここにいます」

 ゆっくりと、瓦礫を一歩ずつ踏みしめながら、夢は真っ直ぐに歩き出す。何も言わず、何も言えず、何も言う必要なんてなく、俺は夢の小さな背中に続く。

「この場所がこんな風になってしまったのは、やっぱりすごく悲しいことです。どう考えてもプラスになんて持っていけません。もし、この場所を壊した人たちがわたしの前に現れたのなら、きっと一生、わたしは彼らのことを許しません。仕方なかった、なんて言葉じゃ片付けません。恨みます。正真正銘どうしようもなく絶対に恨みます」

 気持ちは痛いほど解るよ――なんて安い共感の言葉を口にすることに意味はない。ただ、思うことだけは忘れずにいようと決めた。この、痛みを。

「……それでも、彼らはあえて、他の場所よりもこの場所を壊すことを選んだ人たちです。この場所を知っている人たちです。なら、過去に一度はこの場所を愛した人たちです。もしかしたら、今でもこの場所を愛している人たちなんです」

 夢が、壇上を踏みしめた。同時に、俺は『それ』の存在に気付く。

「こっちに来てください。見てください、空人さん」

 一歩一歩、伽藍の渦を掻き分けながら。

 眼下に映る、少女と黒色。

 これほどの徹底的な破壊の中で。

「……ほら」

 目も当てられないほどに薄汚れた、欠損した、形を失った、グランドピアノ。

 それでも、これだけは間違いなく、グランドピアノ。

「生きてるんです」

 白黒は、今も生きることを続けていた。

「音はもう、どの鍵盤を叩いても鳴ってくれません。手入れもされずに雨ざらしで放置され続けたんですから……ここまで来ると調律も無理だと思います。もう、この子は存在する意味をとうに失ってるんです。……空人さん、でも」

「……そうだね」

 意味はなくても、概念を失ってしまっても、それでもこのピアノは、生きている。生きていることを否定することは誰にもできない。そう、誰にだって――誰にだって。

「わたしは――わたしは、まだ、存在しているんでしょうか。この場所に生きたわたしは、今もまだ、生きているんでしょうか」

 いつの間にか、夢の双眸からは薄い雫が伝い始めていた。あの時の涙とは少し違う。孤独を恐れるがための慟哭ではなく、齢十七にして生涯を問うことを余儀なくされた少女の、それは一切の虚飾に縛られない等身大の涙。そこにそれ以上の意味や価値を見出すことは出来ないし、それ以下など決して有り得ない。

 俺の目の前にいる人間は、間違いなく春澤夢だ。

「わたしは、わたしで、居たいです」

 願って。

 声にして。

 求めて。

 差し伸ばして。

 少女は、感情を雫に変える。

「空人さん」

 ごく自然に、夢の体を抱きしめた。

「空人、さん」

 今の彼女をこれ以上見てられなかったとか、さっきの恩返しをしなきゃとか、そういった気持ちが全く無かったかと聞かれたら正直頷けはしないけれど。

「空人……さん」

 だけど、果たして行動に必ずしも理由は必要だろうか。

 ただ単に、俺がそうしたかったからそうしただけ。

 そういう話も、たまには通る。

「夢ちゃんは、夢ちゃんだよ」

「……ありがとう、ございます」

「ほんとだって」

「……はい」

 掠れた声が、耳に痛い。

 他人と触れ合うことは、痛い。

 だけど、俺はいつからか、その時から。

 その痛みと向き合うことを、すでに選び取っているから。

「俺しか居ないかもしれないけど――俺の前でぐらいは、我慢なんてしなくていいよ」

「……は、い……」

 ほんの数十時間前。

 初めて出会った、あの日のように。

 ほとんど聞き取れない、小さな小さな声で。


 ごめんなさい、

 ありがとうございます、


 まるで、幼い子供のように。

 きっと、幼い子供のように。


「やっぱり……空人さんのこと、すき、です」


 夢は、隠すことなく滂沱と涙を流した。



  *



 記憶。

 追憶。


 夢に見た日。

 夢に見る日。


 忘却の彼方。

 彼方の永劫。

 永劫の世界。


 世界のはじまり。


 今昔。


 二宮空人。

 犯した罪。

 懺悔。


 妹。

 愛した人。

 愛する人。


 父親。

 貴方だ。

 そう思っている。


 友人。

 あの日、確かに。

 この日、果たして。


 道がある。


 一人では、立つことすらできなかった。

 二人なら、前を向けた。

 三人だから、進むことができた。

 四人目はまあ、今では愛嬌。


 ずっと。

 そうして、歩んできた。


 信じる必要はない。

 信じるまでもない。


 愛しい。

 余りにも、愛しくて。

 涙が出るほど、愛しいんだ。



 夕陽はすでに地平線を飛び越え、闇夜は刻々とその姿を露見させている最中。今更しょうもないカミングアウトにそれほど意味があるとは思えないがそれでも一応告白しておくと、俺は夜というものをあまり好まない。むしろ嫌っている。ただでさえ希薄な色々なもの、すべてのものが、余計に一層希薄になってしまったように感じられるからだ。一人で居ればそれは尚更、ややもすればそこには恐怖の念情さえ感じ得る。

 そんな、夜半。

 夢と別れてから数時間が経った今、前述の通りに辺りは大分暗くなってきている。そんな中俺はというと、実は未だに瓦礫の町をふらふらと彷徨っていたりした。

 夢はもう家に帰っただろうか。きっと家に帰っただろう。もしかしたらまだ泣いているのかもしれない。きっと泣いているだろう。あの居間で、あまりにも風通しの良すぎるあの部屋で、たった一人膝を抱えているのかもしれない。もしくはいつか見たような絶望の慟哭を吐き出しているのかもしれない。思う。思う思う思う。際限なく思う。だけど、それだけ。側にいてやれないことを選んだ俺に、その光景を思い描く以上のことは許されないしそもそも出来やしない。

 波津久の言葉、――言葉を忘れたわけじゃないし、夢に対して抱いている感情というものも少なからず存在しているということは余りにも今更で今更だ。それでも俺は今こうして、一人で町を歩いている。それは溜息が出るほどに俺らしく、それはそれは矛盾だらけだと誰かさんは当然のように思うだろう。当然のように。当事者の俺だって思うぐらいだ。だが今回ばかりは言わせてもらおう。それは、誰かさんの勘違いだ。

 矛盾なんて、どこにもない。

 然るべくして物事は然る。

「こんばんはっす」

 長くて短い孤独の果てに、結局その場所に辿り着く。俺ごときの行動範囲なんて高が知れているわけで、ここにこうして俺が居てこの人が居ることはきっと恐らく自明の理。

「夜分遅くにすいません、親父さん」

 路地裏。

 槇原酒店。

 今日も貴方は、立っている。

 憎らしいほどに、鋼鉄の不変を携えて。

「空人か」

 俺以外に誰が居るっていうんですか。

「俺以外に誰が居るっていうんですか」

 思わず口からこぼれ出る。

「……」

 外見だけはどうにか取り繕ってみたけど、内心はそりゃもうバクバクだった。

「それもそうだな」

 が、有難いことに同意の言葉を頂けた。目先の安らぎを得て一安心。

「ただ、お前は多すぎる」

 直後。

「ここに来たお前がどの二宮空人なのか、その判断はとても難しい」

 一瞬、言葉を失った。

 ……いや、つまらない虚勢はやめよう。

 俺が俺である限り、俺はその言葉に対して答えるべき言葉を永遠に持ち得ないのだから。

「自覚があるなら大丈夫だろう。お前はお前が思っているほどに終わってはいない。安心しろ、俺が保障する」

 保障されてしまったぞ。

 ……そりゃ相手が相手だけに、僅かと言わず盛大に信憑性溢れる言葉であることに間違いはないのだろうが、今の俺に言葉を言葉通りに受け入れるだけのキャパシティがあるかどうかがそもそも果たして疑わしい。

「何か用事があるんだろう。それとも単なる世間話に花を咲かせに来たとでも?」

 今日もまた、思わず笑ってしまうほどに変わらない、唐突に打ち鳴らされるゴングの音。

「そんなの……そんなの、言うまでもなく貴方は知っているんじゃないですか」

「お前の口からそれを聞くことに意味がある。頼ることと甘えることは違う、空人」

 槇原夜()(しょう)

 それが男の名。

 波津久翔羽はともかくとしても、いやはや何とも仰々しい名前――なんて感想、一度でもこの人の目の前に立ったことがある者であれば絶対に言えなくなる。絶対に。

 この人は、そんな人。

「……俺は、餓鬼です」

「知っている」

「俺はきっと、餓鬼のまま死んでいくんでしょう」

「そうだろうな」

「そんな俺を愛してくれる人は、果たして餓鬼でしょうか」

「あいつのことを言っているのか」

 否。

「名前は春澤夢、見た目はどう見ても中学生、ちょっと疑わしいけど実年齢は十七歳。両親とは二日前に死別、特技はピアノ、かなりの腕前。優しい子です。弱い子です。でも、きっと俺よりは強い」

 知り得る知識を網羅してみた。

 そしたら、たったの百字足らずで表せた。

「なるほど」

 小さく頷きながら、親父さんは相変わらずの無表情。

 つられて俺も、無表情。

「一度、会ってみたいものだ」

「……そら、返答に困るセリフですね。まるで親父に彼女を紹介する息子の心境だ」

「俺はお前の父親じゃない」

「……知ってますよ」

 知ってるとも。

「俺達は、決定的に他人です」

「正しいな」

「じゃあ、――じゃあ、どうして親父さんは、他人の俺に対してこんなにも親父さんで居てくれるんですか?」

 ほんの少し言葉を違えれば、見る間もなく全てが破綻しかねない、それは余りにも正鵠を射すぎていて、それが故に恐ろしく危険な言葉だ。

 だけど、俺は知っている。

 俺達は。

 二宮空人と槇原夜鐘は。

「同じだろう。俺も、お前も」

 破綻なんか、決してしない。

 だって、それは俺達の起源、そのものだから。

「……そうなんですね。きっと、そうなんでしょう」

「他人の言葉を受け入れることが出来るお前は、強い」

 不意に、前後の繋がらない言葉が紡がれる。

「弱さと強さは正しく表裏一体だ。その点において、お前は俺よりもずっと強い。自覚する必要はない。ただ、聞いておけ」

「……そんな、こと」

「聞いておけと言ったんだ。受け入れろとは言っていない」

 有無を言わせぬ――そう、文字通り、有無の概念すらもない、それが親父さんの言葉。どんな激情よりも堅固で決して崩れることがない、それが、無感情というものだ。

 無感情。

 感情が無いこと。

 ……今更だ。

「……そんな風に生きて、辛くないんですか」

「お前と俺の価値観は違うからな」

 唐突ではあるが、今更な話をしよう。

 結論から言うと、この異様なまでに感情を表に出さない男には――そもそも、表に出すべき感情という概念が存在しない。

 意味はそのまま、言葉の通り。

 先天的な心の疾患。

 感情を持てないということ。

 永劫消えぬ欠陥の烙印は、男の頑健な身体に深く太く強く、どうしようもなく絶望的に根を巡らせている。

「……すいません。今から、すげえ馬鹿みたいな質問をさせてください。それと、できれば許してください」

 話の腰が折れっぱなしなのは、俺達ふたりの間じゃよくあること。

 そういうわけで。

「言ってみろ」

 言ってみます。

「親父さんは――あんたは、俺のことを恨んでるか?」

「愚問だな。言うまでもなくお前はそれを知っている」

「親父さんの口からそれを聞くことに意味があるんです」

 我ながらいい切り返しができたぜ、などと自己陶酔をする暇なんてまったくなく、

「恨んでなどいない」

 親父さんは、はっきりと、きっぱりと、言い放った。

「……ええ、知っています」

「正しく言えば、俺にお前を恨むことは出来ない」

「そしてそれは、俺だけに限った問題ではなく――」

「俺に、誰かを恨むことは出来ない」

 ありがとうございます。

 聞きたい言葉、完膚なきまでに聞けました。

「恨めないということは妬めないということ。妬めないということは褒められないということ。褒められないということは慈しめないということ。慈しめないということは愛せないということ。俺には決して解らんが、お前ならきっと解るだろう、空人」

「……はい、解ります。解りすぎるぐらい、解ります」

「だからお前は俺より強いんだ。少しは理解出来たか、餓鬼」

「……そう、ですね」

 産まれた瞬間から今まさにこの瞬間まで、ほんの一秒の例外もなく。

 槇原夜鐘は、感情というものの一切を知らずに生きてきたと言う。

「俺はお前を恨まないし、俺はお前を恨めない。それが事実であり真実だ。それ以外に答えは存在しない」

 だからこそ、俺にとっての親父さんという存在は絶対なのだ。果たして一体この世の中の何処に、永遠の不変などという馬鹿げたファクターが存在しようか。誰よりも何よりも、そもそも比較にならないほどにイリーガル。

 ……でも、それでも!

「親父さんは、今日もずっとこの場所でそうして立っていたんですか」

「そうだな」

「親父さんは、いつだってずっとこの場所でそうして立っていたんです」

「そうだ」

「……一度だって自由が欲しいとは思わなかったのか、って聞いてんだろうが!」

 果たして誰が信じてくれるだろう。

 きっと、誰も信じてくれないだろう。

 親父さんの疾患、欠落した部分には。

 先天的なものに加えてもう一つ、後天的なものがあるということを。

 一体誰が信じてくれるというのか。

 だって――、


 だって、それを口にすることを避けてきたのは、間違いなく俺なのだから!


「思わなかったな」

「ふ……ふざけんな! そんな、そんな筈――ないだろうが!」

 俺の目に映った光景を、そのまま包み隠さず描写しよう。

 親父さんの体は、そのどれもが不恰好な作り物だらけだった。

 両足はどちらも義足で、特に右足のそれは膝より上の箇所に結合していて。

 筋骨隆々とした身体、その言葉に嘘はない。嘘はないが、男の生きた全盛期のそれと比べれば、その筋肉は見る間もなく明らかに削げ落ちている。

 そして何より、その揺るぎ無い漆黒の瞳。一目にして瞭然。

 眼帯に覆い隠された、その裏側。

 片目が、あるべき場所に無い。

 そこにあるのはただ、言葉通りに空虚な――空間、だけだ。


「お前自身、誰よりもそれを良く知っているんだろう? 俺は誰かに対して嘘を吐くことも出来ない」

「っ……!」

 こうして目に見える部分に加えて、親父さんは体の内部にも多々の不自由を患っている。

 例えば五体満足な人間であれば誰しもが必ず二つという絶対数を許されている器官、肺。

 親父さんの場合、その個数は一個にも満たず、三分の二。

 片方は完全に摘出され、もう片方も半分近くが失われている状態。その影響で、親父さんの身体は僅かな運動でさえその機能を停止してしまうほどに脆弱なものと取って代わってしまっている。

 また、胸の中心で拍動を打っているその心臓――それは今や、彼自身が生まれ持ったそれとは完全に入れ替わっている。

 移植によって植え付けられた新たな生命器官、それでも成功と言わざるを得ない凄惨な手術ではあったが、その馴染まぬ心臓は常人の半分以下の機能をしか有しておらず――前述の肺器官のそれと加えて、親父さんの命が持つ力は余りにも弱く、脆い。

「知っているだけでは足りない。理解しろ、空人。俺は、お前を恨んではいない」

「何で……何で何で何で! 俺は、俺で、俺なのに――」

 それでも、碧眼の水晶体に映り込んだ肖像画の中には、正に正しく、俺だけが居た。

 彼の身体を、彼の人生を、彼の存在を、

 こんな風に変えてしまった諸悪の根源、二宮空人だけが居た。

「ああ、お前はお前だ」

 そう、俺。

 俺だ。

 親父さんをこんな風にしてしまったのは、俺だ。間接的とか直接的とか、そんなレベルではなく、俺だ。それを行ったのは、俺だ。何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も、親父さんを突き刺したのは、俺だ。

 言い訳も出来ないほど、言い訳をする必要もないほど、突き刺した。

 突き刺し、それは、紛いもなく、

 殺す、

 為に。

「俺は……あんたのことを……!」

「殺そうとしたな」

「っ……!」

「未遂で済んだことだろう。終わっていなければどんなものでも例外無しに修復は可能だ。事実、俺はこうして何不自由なく生きている」

「そんな体で……何不自由なく生きている、だって?」

「さっきも言っただろう、お前と俺の価値観は違う」

 そう……親父さんは、生き延びた。

 常人ならざる屈強な身体と生命力を持っていた親父さんは、生き延びた。

 常人ならざる屈強な身体と生命力を引き換えに、親父さんは生き延びてしまった。

 だけど、それでも、生き延びてくれた。

 最悪だらけの俺の人生の中でも、それは最大級に特記すべき奇跡である。

「――それなのに、貴方は、俺を恨まないと言うんですか……?」

「何度も言っている。しつこい奴だな」

 なのに。

 そんなにも、あっさりと。

「犯してしまった過去が耐え難い苦痛となるのなら、お前はその痛みを一生背負って生きていけ。その程度の痛みは甘んじて受けろ。俺はもっと痛かった。想像では終わらない現実を体験した。お前はその痛みを知らない分、幾らか幸せな側だろう。過失に対して言及すべき責任があるとすれば、お前如きに負える責任とやらはその程度が関の山だ。思い違うな。思い忘れるな。それを誓えるのなら、言ってやる。どうだ、誓えるか、空人」 

「……なにを、言ってくれるっていうんですか」

「お前が誓ってからの話だ」

 懺悔は、そして贖罪は、必ずしも当人の望んだそれとは限らない。罪を贖えないということは、ある種どんな理不尽よりも重く辛い。

 だけれども、貴方がそう望んでくれるなら。

 例え、どんなに情けない俺に対してでも、貴方がそう言ってくれたのだから。

「俺の生涯に賭けて……誓います」

 どれほどちっぽけな、雑草のような存在でも。

 雑草は雑草なりの、ちっぽけな矜持の根を張って。

「それでいい、空人」

 もう満足だとでも言いたげに、親父さんはゆっくりと踵を返す。向かう先は店の奥、俺には決して知ることの叶わない淀んだ深淵。彼がその場所に向かうこと、それは完膚なきまでに会話が終焉を迎えたことを意味している。俺にはもう何も言うことはできず、親父さんもまた何も言うことはない。今まではずっと、そうだった。

 親父さんが、振り返った。

 たった一度、だけど確かに一度、親父さんは俺の居場所へと向き直った。

「どうしても駄目だと思った時、どうしても無理だと悟った時、どうしても耐えられないと絶望した時、その時は迷うことなく俺の元へ駆け付けろ。そうしたら、お前が俺に対してやったように、俺が」


 親父さんが、俺のことを、見ている。


「俺が、お前を殺してやる」



  *



 薄紅色の吹雪は、日ごとにその勢いと物量を失ってゆく。

 華々しくも艶やかなその光景は、樹の生涯の中でほんの僅かに与えられた奇跡の時間。

 余りにも短すぎるその時間の後、そこに残るのは寂寥感だけと誰もが知っていて。

 だけど、そんな下々の感慨など気にも触れず、樹は一年に一度、必ず奇跡を繰り返す。

 それはまるで、滑稽と知っていてさえなお繰り返す人間の歴史のように。

 そんな必然を超えた意思は、時にこう呼ばれる。

 輪廻、と。

 巡り巡る連鎖の連鎖は、決壊という概念とは別次元の存在として繋がり続ける。

 連鎖は連鎖し、連鎖する。

 その連鎖に従って、俺は、眼前の光景をこう表現しよう。

 輪廻の花。

 舞い乱れ、舞い散り、舞い踊り、生を謳歌し。

 やがて散り果て、緑を萌やし、緑さえも失い、死を迎える。

 これを輪廻と呼ばずして、果たしてどう呼べと言うのか。

 正に正しく、輪廻の花。

 一日の締め括りに、俺は輪廻と会話をする。

「気分はどうだい、お姫様」

「ん、悪くないよ。王子様」

 奇跡も、ここまで続けば何とやらだ。

 彼女は律儀に、俺に応えてくれる。

「……なんだかなぁ。プリンセスはともかく、プリンスってのはどうも褒め言葉な気がしない」

「あ、私も言ってて思った」

 ひらひら、はらはら、今日も桜木は己を散らす。

 その薄桃色の命を、その余りにも僅かすぎる時間を、ひらひら、はらはら、昨日も今日も変わらずに、ひらひら、はらはら。

 今宵も素敵に、薄宵桜。

「空人、聞いてもいいかなぁ」

「事による」

「聞いてみなきゃわかんないよ、そんなこと」

「仰る通り。言ってみなさい」

「どうして、そんなに真っ赤な目をしてるの?」

「……アウト!」

「そんなー!」

 言えるかっつーの。

「じゃあじゃあ、ヒントだけでも」

「その手には乗りません」

「なんだよ、空人のけちー! 貧乏性!」

「それは何か違う……いや、否定はできねーですけど」

 真性ホームレスなのだ。

「ふーん。ま、いーけどね。だいたい予想つくし」

「ぎくり」

「うわ、擬音を鍵括弧に入れてる人、現実世界ではじめて見たよ……」

 もう一人います。

 むしろそっちが先。

「……ま、それはともかくとしてだ」

「誤魔化したな」

「何でもかんでもいちいち突っ込むんじゃありません。困るんだよ、本気で嬉しいから」

「難しいねぇ……まだまだ多感なお年頃なんだ、空人は」

「おまえがゆーな」

「あはは」

 幸せだ。

 幸せにも程がある。

 幸せすぎて死にたくなる。

「……空人、大丈夫?」

 どんなにふざけた話をしていても、俺の僅かな顔色の変化のたったひとつも見逃さない、そんな奴が過去にいた。

 思い出す。

 思い描く。

 幸せのキャンバスを、染めていく。

「大丈夫だよ。生きるって言っただろ」

 言葉のアヤだ。

 そんなこと、もう二度と思わない。

「なら、いいけど。だけど無理しちゃ駄目だよ。何かあったら相談してよ」

「……おまえに?」

「なんだよなんだよ、失礼な。私、こんなんだけど、いつもいっつも空人のことばっかり考えてるんだよ」

 真剣な語り口が、ひしひしと伝わってくる。

 そう言えばあいつも親父さんと一緒で、俺に嘘を吐いたことは一度も無かった。

 ……俺ばっかりだ。

「……悪かった、脇役」

「なっ……言ってはいけない単語を! それだけは口にしてはならない禁句を! あー、空人! 今回ばっかりは怒るよ! ってゆーか泣くよ! うわぁーん!」

 うるさいなぁ……。

 ……いや、さすがに酷いね、それは。

「ずっと脇役にしてて、ごめんな」

「ぐす……な、なんだよぉ……ひっく」

 ……マジ泣きだった!

「はははははははは!」

 腹を抱えて笑ってやる。

 思えば、それはすごく久しぶりな、俺自身の、自然な笑顔だった。

 憮然とした表情ながらも、「……あはは」と俺に合わせて笑ってくれる彼女の存在が、俺の女神がそこに居てくれることが、今、嬉しくて仕方ない。

「やっぱり最高だよ、おまえ」

「ん……ずずっ、ありがと」

 女神が鼻すするな。

「そんなおまえに、招待状だ」

「……招待状?」

「まあ、言い換えれば個人的な頼みなわけだが」

 早すぎたのか、遅すぎたのか、それは誰にもわからない。

 それを承知で、俺は言う。

「主役にならないか」

 決定的に、名言っぽく、俺は言う。

「いや」

 びしり。

「早いっつーの! もっと悩めよ! どいつもこいつも!」

 半狂乱。

「あはは、ごめんごめん。――でも、この物語の主役は空人だから。空人の役を取っちゃうわけにはいかないの。だから」

 ああ。

「ヒロインになら、なってあげるよ」

 そういう、意味。

「大歓迎ですが……それではヒロインが二人になっちまいます」

「望むところ。私の空人、取れるものなら取ってみなさいってね」

 女は強い。

 心底、そう思った。

「はーあー、私、ようやく舞台に立てるんだね。この日をどれだけ待ち望んだことか」

「心中お察しします」

「よくゆーよ」

「いや、マジに悪かった」

「いーけど。……久しぶりのデート、楽しみにしてるからね」

「任せとけ」

 あはは、ともう一度微笑んで。

 声は、ぷっつりと途絶えた。

「おやすみ」

 もちろん、返事など返ってくるはずもない。

 それでも俺は呟いた。

 いい夢見ろよ。

 頼むから。

「俺も、もう寝るな」

 長い一日に別れを告げて。

 最後に一言、こう添えて。


「愛してるぜ、桜」


 桜木の下、寄り掛かるように。

 安らかに眠る、それと同じ名を持つ俺の妹。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ