Tuesday:夢追(ゆめおい)
夢を見た。
大好きだった女の子の夢を見た。
――ダメだってばぁ、空人。もう、いっつも言ってるのに
ちょっと昔の俺。いろいろと――そう、色々だ。荒れていた。意味も無く。若さ故? 違う。弱さ故、だ。
弱い俺はひたすらに逃避を望んだ。駄目な方へ、愚鈍な方へと堕ちてゆく俺のことを、それでもあいつはいつだって優しく叱咤してくれた。
産まれたときからずっと一緒に生きてきた片割れ。同じ時間を過ごしてきたはずなのに、どうして俺とあいつとではあんなにも違っていたんだろう。
「お前に俺の何がわかるんだよ」
と、あまりにもあまりな台詞を吐いた過去の俺にさえ、
「んー、全部?」
と、そんなことをあっさりと言ってしまうようなヤツだった。怒る気も消え失せる、とはまさにこういう時に使う言葉なのだろう。呆気に取られて、だけどいつの間にか癒されて、そしていつの間にか俺はそこに居た。
言ってみれば、俺たちはふたりともバカだったのかもしれない。俺は歪んだバカで、あいつはどこまでも真っ直ぐなバカだったけど。
ずっと、ずっと一緒だった。思春期の壁とか、そういう類のものすらなかった。いや、俺にはあったんだけど……なんで女のあいつには無かったんだろう。そういった幼き日の思い出すら飛び越えて、高校生になっても一緒にお風呂は絶対なにかが間違ってると思う。俺は拒絶しましたよ。でもね、向こうが無理矢理ね。一応ね、言い訳ね。
……それはともかくだ。
俺は、あいつのことが本当に大好きだった。それは家族に対する情愛でもあったけど、女性に対する愛情でもあったのだと断言できる。錯覚なんかじゃ決してない。
無垢な微笑みが好きだった。澄んだ声で名前を呼ばれるのが好きだった。柔らかい指で髪に触れてもらうのが好きだった。馬鹿みたいな会話がひどく不安定に成立するのが可笑しかった。たまにキスしてくれた。いつだったか、風呂場でそれ以上を求めたこともあった。あいつは「あは、空人のえっちー」とか言いながら、だけど目を背けることなく、最後にはやっぱり微笑みながら俺の薄汚い願望に答えてくれた。あいつが本気だったかどうかは俺の推し量るところじゃないけれど、俺は間違いなく本気だった。禁忌だなんて思わなかった。好きなものを好きと言って何が悪い。
そして、
でも、
だけど、
それらは全部あくまでも過去であり現在になることは有り得なくましてや未来なんて夢のまた夢の夢物語。世界は残酷で冷徹でそれ故に優しくて、俺みたいな馬鹿が夢に囚われないように上手く廻り廻ってくれているのだ。
だってさ、ほら。
もう二度と、あいつが俺に微笑んでくれることは無いのだから。
*
それはそんな、最高に弾んだ気分で。
それはそんな、最低の吐き気に満ちた夢だった。
寝覚めの悪さを何とかして振り消そうと、俺は意識して視線を空に向けた。そこには今日もまた、燦々と温もりを降らせるまん丸の眩しい奴が陣取っている。
あの星は昨日も今日もいつだって変わらず東から昇って西へと沈んでいくわけで、こんなにも壊れきってしまった世界でさえも、まだ信じることのできるルールは残っているのだ。俺たち人間の感慨なんてお構い無しに、時間は今日も明日も無表情に過ぎ去っていく。そこに理由とか理屈なんてものは存在しない。全てが理不尽で、理不尽こそが基準で、基準こそが世界の在り様。
例えば、俺たちは、あの星から光を享受して生きている。
そして、俺たちは、あの星によって光を奪われて死ぬのだ。
欺瞞に満ちた喜劇。役者も観客も脚本家も監督も舞台でさえも何もかもが道化にしか過ぎない、あまりにも不気味なピエロの群集。その構成要素は世界そのもの。人殺しの俺だって愛しいあいつだって今は亡き仲良し夫婦だって尊敬するあの男だって脆弱面皮のペルソナ女子高生だって一切の例外無しに。
能面に嘘の微笑みを張り付かせ、そのまま俺は世界へと笑顔を向けた。もちろん返事なんてあるはずがない。知ってるよ。だからこそ俺は笑ってるんだ。なんて無意味。このままじゃ壊れてしまいそうで、だけどそれは壊れてしまわない為の行動。世界は矛盾で構成されている。そんなありふれた風刺もあながち間違ってはいないのかもしれない。
と。
そんなところで、益体のない思考をシャットアウトする。
本当に壊れてしまったら、そう、笑えない冗談ほど存在価値なんて無いものは他に無い。
軽いあくびを一つつき、いつものように体を伸ばす。僅かな気だるさは気合いで吹き飛ばしてしまえ。五体満足の健康体なのが胸を張って誇れる唯一の取り得なんだ。
そして細目をゆっくりと抉じ開けて、本日も世界にこんにちは。日よ光よ私を照らすがいい。人間とはそんな尊大な生き物でありまして。
「……で、またおまえらかい」
今日も今日とてカラスの群れに取り囲まれている俺だった。なんか昨日より数増えてないか?
――クァークァークァークァークァークァークァークァークァー……
厭わしい鳴き声が幾重にも重なって、まるで催眠術か何かのごとく脳味噌が揺さぶられている感覚。あーくそうっせーな畜生!
このままマトモに相手なんかしてたら間違いなくデジャヴによる憂き目を見ることになると俺は確信する。行動は常に迅速に。
「退散っ!」
出来得る限りの爽やかスマイルを置き土産に、すたこらさっさとその場を後にした。持久力はともかくとして、瞬発力ならそこそこ自負するぐらいのものはある。こんな鳥獣畜生共に追いつかれるような人間様じゃないってことだ。
そんなこんなであらかた距離を稼ぎ終え、これならもう大丈夫だろうといった地点でようやく背後を振り向いてみる。視線の先を窺うところ、件の忌々しい集団に追跡の様子は見られない様子。図らずして安堵の息が漏れる。
「……あ」
そういえば、桜は大丈夫だろうか。昨日の夜は『仲良しさんだもの』とかいう空耳が聞こえたような気がしたが、実際のところは果たしてどうなんだろうか。あれだけ無駄に数を揃えた連中だ、たとえその言葉が真実であるとしても決して安心に及ぶものではない。俺は不安な心もちを隠せないまま、ほんの少しだけ来た道を遡ってみる。
「うわ、マジだ……」
遠目に覗き込んだ桜木の枝々には、野良死神の群れが不気味なほど大人しく足を落ちつけている様子が見てとれた。俺にやったようにクチバシを向ける不貞の輩は一羽としていなかったし、それどころか体をすりよせている奴なんかもちらほら。俺にはよくわからんが、それはなんだかそう、実に楽しそうな光景が広がっていた。
……まあ、良いことだ。杞憂は杞憂のまま終わってくれたということで。
くるりと方向転換、意識をさっさと切り替えて、まだ何とか生きている腕時計の針に目をやった。ちょうど十時。いつもより少し寝すぎたらしい。喝。何をやっている俺。そんなに夢が心地良かったか。そんなに夢に浸っていたかったか。まったく、可哀想に。俺は本気で俺の精神を案じた。
ここでちょっとした閑話。この世で誰よりも自分のことを大事に考えてくれる人は果たして誰か、と問われたとしよう。さて、答えはどうか。制限時間は三秒ね。三、二、一、はい終わり。
まあ、簡単すぎて欠伸が出るような問題だ。言うまでもないけれど、一応問題という性質上、答え合わせもやっておこう。
解:自分
実に当然だ。自分以上に自身を大事に考えてくれる人なんて居るはずがない。もし仮に居たとしてもだ、彼もしくは彼女は『自分以上に他人を大事に考えることの出来る自分』を何よりも念頭に置いて生きているということであり、それは即ち『自分』こそが世界の中心であると無意識的に意識しているということと同義である。神の視点で物語るならともかく、人の視点での物語は一人称抜きには語れない。慈愛は自愛と紙一重ってことだね。
で、そんなわけで。
俺は可哀想な俺のことを、他の誰よりも大事な俺のことを、ゆっくりやんわりと諭していくのでした。
夢はもう終わったんだ。これからはまた、現実と向き合わなければならない時間がやってくる。潰れず生きていけるように、最後まで自分で居られるように。
ささやかな抵抗、ともすれば反抗。運命という大義の元では、人間ひとりの意志など雀の涙ほどに無質量。寂寥、寂莫。あと六日間、俺はそんなあれこれいろいろに耐えて生きていかなきゃならない。どうしてそこまでして生きていかなきゃいけないのか、なんてことも考えたことはあるけれど、結局のところそれは議論に上がるまでもなく人間に与えられた命題そのものであるので、考えるだけ仕方が無いというものだ。
思考と歩みを深めてゆくうち、町の喧騒は徐々に見慣れた無機へと色を変えていく。家屋と認識することさえ困難に倒錯してしまったそれ、ところ構わず転がり伏している家畜の死骸、あれよと果てには腐りきった肉の付着した人骨。限り無く、まさしく無限に俺の眼下へと広がっていく景色。
この世は地獄だと誰かが言った。
まったくもって同感だ。
「腹減ったな」
だけど俺に限って言わせてもらえば、そんな感慨にはとっくの昔に飽きている。そんなもの考えるだけ精神力を磨耗させるのみだと知っている。人間誰しも自分から進んで疲れることなんてしない。そこに意味のひとつも見出すことができないと言うのなら尚更だ。
自身の言葉に従って、カバンを開けて中身を漁ってみる。が、食料とおぼしきものはあらかた食べ尽くしてしまったようでそこには携帯食料のひとつすら見受けることは出来なかった。仕方がないので親父さんに食料を分けてもらいに行くことにする。当面の目的地が決定。
てくてくてく、そんな愉快なオノマトペが聞こえてくる。ともすれば痛快。勘違いをしているのは誰だろう。
壊れた景色の中を、壊れた俺が歩いてゆく。そのことがなんだかひどく滑稽に思えた。僅かな声と乾いた笑みが漏れた。
残された時間はあと六日。俺はいったい何をしている? そんなの決まってる? わからない。でも、何もかもがわからないからこそ、だからこそ人には存在する意義があると思うのだ。
無意味だなんて思いたくない。自分が生きているという大前提ぐらい、まっすぐ信じて生きていたいから。
――じゃあ、生きている意味を見失ったとき、俺という人間は果たしてどんな末路を迎えるのだろうか。今以上に壊れちまうなんて心の底から御免だけど、きっと、そうなってしまうのだろう。俺が愛したあいつみたいに。
笑えるね。
笑えねえよ。
優しい思い出を胸に乗せ、愚かな思い出は棚に上げ、そうして俺は今日という日を続けていく。
この男は愚図だと誰かが言った。
まったくもって同感だ。
*
「こんちは、親父さん」
いつもと同じ挨拶をして、煤けた酒店の中へと俺は我が身を投じた。
半倒壊の外装からは及びもつかないほど整然と並べ揃えられた店内の様相。毎日毎日、微塵たりとも手を抜かずに掃除と整頓を続けている結果である。いつ見ても感心するね。ちょっとした畏怖の念なんかも覚えたり。
レジ向かいの小さなスペースに、やっぱり今日も荘厳な面持ちの親父さんが立っていた。
「何の用だ」
その言葉はいつも短く重い。四季を失った巨山、目の前の男を形容するならそんな言葉がぴったり嵌ってくれるだろう。
「あー、食料の貯蓄が尽きちゃってですね。余分があればでいいんですけど、分けてくれたりしないかな、と」
「……うちは酒屋だ。正規の商品もたまには買っていけ」
返事を待たず、親父さんはレジ奥のカーテンをくぐって店の裏側へと消えていく。緩慢なテンポの足音は、やがて無音の闇へと溶け込んでいった。
一人きりになった俺は親父さんの言葉に従い、店内を軽く徘徊して、わざと迷うようなフリをしながら、結局は最初から決めてあった銘柄に手をかけた。それをそのままレジの上に置き、じっと待つこときっかり一分。闇は徐々に音色を取り戻し、周囲全ての空間を従えて、四季を失った巨山は姿を現した。
「待たせたな」
親父さんの巨大な腕いっぱいに抱かれた缶詰惣菜パン清涼飲料水ブロック携帯保存食その他etc。見慣れた光景に今はもう驚かないけど、無表情な親父さんとその腕に抱かれた大量のそれとの対比を見ていたら、やっぱり少し笑えた。
「幾ら出せばいいですか」
ん、と抑揚のない声と共に差し出された電卓に映し出された数字、果たしてそれが高いのか安いのかなんて俺の理解に及ぶところではない。まともな金銭感覚なんてとうの昔に失った。俺はポケットから無作為に紙幣を数枚抜き取って、そのまま親父さんに手渡した。何枚かの硬貨を釣りとして貰った。
「ありがとうございます。これで当面はやっていけそうですよ」
ところでこの大量の食料はどういうルートで仕込んだんですか、なんて今更なことは聞かないでおく。意味も無いし。
「お前はそれほど食う方でも無いだろう。あと六日ならこれで十分なはずだ」
「そんなトコまで気遣ってくれますか」
それは残酷な優しさだ。
この男は俺に逃げるなと言う。忘れるなと言う。誤魔化すなと言う。向かい合えと言う。
「今日は何人だ」
この、人は。
「……三人、です」
ここに来るまでに話しかけた人の数。
それはつまり、
「あの、親父さん」
「何だ」
「……また、来ます」
親父さんの目を見て話すことができない。気付けばもう、いつの間にか踵を返して店の出口へと向かっている俺がいた。
それは自分を繋ぎ止める唯一の術。相手だって望んでいること。親父さんだって決して口に出して俺を止めようなんてことはしない。それどころか物資面では力になってさえくれている。だから間違っているとは思わない。だけど、だからと言って、正しいことであるとでも?
装ってるだけだ。知ってるんだよ、それぐらい。
「生きろよ、空人」
あくまでも平坦な声で、親父さんは俺の背中にそんな言葉を放つ。
「親父さんこそ」
俺は精一杯の強がりで振り返り、今度は真っ直ぐに親父さんの目を見て告げた。と思う。
渡された紙袋いっぱいに詰め込まれた食料の山はまるで自身の余命を直喩しているようで、この山がいつかゼロになったとき本当に俺は消えて無くなるんだろうと、そんな陰湿な感情が止め処もなく湧き上がってきた。考えたってどうにもならないことがある、ということを何度も考えた。そんなもの、考えたってどうにもならないんだ。時間の無駄なんだ。そう、今この時間も無駄。脳内に浮かんだここまでの数十数文字すべてが無駄。だからさっさと思考を停止させろ。無理矢理に言い聞かせた。
入り口兼用の出口。引き戸を引いて外へ出る。重々しい空気は一気に弾け飛んで、そんなの錯覚にしか過ぎなくて、やっぱり空気は重々しいままだった。親父さんのプレッシャーから解放されて軽くなったはずの心は、だけどいつまでも晴れることはない。
服の裾についた一抹の返り血が、俺を苛む魔女の呪いに見えた。
許してください。許してもらえるなんて思ってません。誰が許してくれますか?
*
朝からひどくナーバスな現実を打ち付けられたせいか、俺は無意識のうちに足元に目線を落としながら歩いていた。ゴミの散乱っぷりは言うまでもがな、虫とも動物とも人ともつかない腐肉の欠片がそこかしこに散っている。古いものには蛆が湧き、蝿がたかっていた。さっきまでは何とも思わなかったはずの光景が、今ではなぜだか無性に気分を苛立たせた。
「誰かの幸せが俺の幸せ、ね」
最初は気の無い嘘だった。あいつの生き方にほだされて、ほんの一瞬の気の迷いから言ってしまった戯言だった。
だけど、人の言葉には魔力が宿る。嘘も言い続けていればいつか本当になる。だから今はもう嘘じゃない。誰かの笑顔が見れるなら、俺は自己犠牲の天秤なんてどうだっていいんだ。きっと、たぶん。
俺がマトモになって、世界もマトモだったほんの僅かな間、それはきっと完全に歯車が噛み合ってくれていた奇跡の時間だったのだろうと思う。
――今の空人、すごくいいと思うよ。うん、かっこいい。
そう言ってもらえて嬉しかった。人は変われる生き物なんだと実感した。
「……今の俺は、どうだろうな」
きっと、同じ言葉は返ってこないだろう。変わりたくても変われない。人は自分一人の力では変われない。そこに誰かがいて、初めて変わることができる。愛する誰かなら尚更だ。
救いは、無いのだろうか。
何もかも、誰も彼もが虚無のままに消え落ちてしまうのだろうか。
「助けてくれよ」
誰かに叫ぶ。
「希望が欲しいんだ」
世界は答えない。
「なあ、側にいてくれよ」
もう終わった話。
「……」
すっと思考が抜けていく。このままでは壊れてしまうと、体中の神経が拒絶反応を起こしている。空っぽの役者が空っぽの舞台に立たされて、果たしてどんな劇を演じろと言うのか。思考が出来ない。目の前が真っ白になってきた。
そんな時、ふと視野の端に映る微かな人影。目を凝らす。まだ若い男性。背を丸め、虚ろな眼差しで街路を徘徊している。彼の表情にはすっかり絶望が貼り付いていて、奥底からの安楽を求めていることが容易に伝わってきた。こういう時に限ってだけ、神様ってやつは寛容だ。
飛びかけた意識を繋ぎ止め、為すべきことを為すために歩みを寄せていく。
一歩、また一歩と距離を縮めていく。
手を伸ばす。
触れる。
接続する。
「生きたいですか、死にたいですか」
間近で確認、やはり若い。まだ三十台も半ばという年齢だろう。唐突に声をかけられて狼狽の感を見せてはいたものの、俺が誰であるか、――彼らの言うところの安楽家業であることを察すると、彼はすぐに警戒の面持ちを解いてくれた。
「俺はあなたの望みを叶えてやれます」
死にたい、だけど怖くてどうしても出来ないと、男は言った。
「痛みも怖さもなく済みます。一瞬で楽になれますよ」
ほころぶような笑顔が返ってくる。
ああ――この笑顔の為に俺は生きている。
契約が、成立した瞬間だった。
男の腕すじに注射針を沿わせる。経口ではなく、体内に直接注入するタイプの即効性に優れた睡眠薬だ。数十秒と待たず、男は安らかな寝顔を見せた。
周囲がやけに静かだった。いつものことだ。
足元で静かな寝息をたてる男にもう一度目をやった。彼には妻子が居るかもしれない。いや、居たのかもしれない。この世に彼が産み落とされてから今この瞬間まで、彼が背負った人生という名のストーリーは、きっと俺なんかには永劫解することは出来ない高尚たるものなのだろう。尤も、それを知ろうとすること、その権利さえも在りはしないのだけれど。
彼が一生をかけて積み上げてきたそれを、赤の他人に過ぎない、パズルの一ピースにさえなれない俺が、たったの一瞬で全てを倒壊させようとしている。彼はその理不尽を自ら望み、俺は彼の狂気を甘んじて受け入れる。利害の一致と言えば少しは聞こえも整うだろうか。
「来世ではどうか、幸せに」
柄にも無く、そんな夢物語を口にして。
鞄から拳銃を取り出して、男の額に向けて静かに距離を寄せた。
幾度と無く繰り返してきたこと。もう慣れてしまった。この行為に対して何の感慨も浮かぶことはない。
無感情に。
無感動に。
冷たくもなく。
暖かくもなく。
ある意味ひどく人間らしく。
ある意味それは魔物のようで。
音が途絶えた。
色が途絶えている。
命が途絶えようとしている。
さようなら。
小さくそう呟いて、俺は。
男の顔はほんの数秒前の寝顔とまったく代わり映えのしないものだった。額の血を拭って傷跡を隠せば、眠っているそれと見分けさえつかないことだろう。
仕事が、成功した証だった。
「……」
瞼を閉じて、僅かな黙祷を捧げている間のこと。
「今日も精が出ますねぇ。良いことです、実に良いことだ」
不意に背中から聞こえてきた声。
飛びのくように振り向いた。
「そんなに驚かなくてもいいじゃないですか。僕と君との仲でしょう? ふふ、ごきげんよう――二宮君」
そこに居たのは、まさに心の底から会いたくなかった人間だった。
百八十センチを超える長身には似つかわしくない、あまりにも痩せ細った体。狂気じみた両眼は濁った朱色に染まり、口元からは歪んだ笑みが消えることがない。伸びきった前髪の隙間から覗くそんな表情が、ひどく自然に『終わった人間』という言葉を想起させる。
「……波津久」
婉曲の表情を差し向けて。
かつての友人が、そこに居た。
*
それは、今は遠い日の昔話。
俺がまだ学生だった頃。親父さんと出会い、ヤンチャじゃ済まない馬鹿をやって、本気の本気で生まれ変わろうと決意した頃の話。
それまで俺はいわゆる不良と呼ばれていた身で、世間一般で定義する不良の類にそぐわず、付き合う友人たちも皆そんな連中ばかりだった。
そいつらと付き合うことを止めてから、俺は当然のように孤独な身上となる。家に帰ればあいつが居てくれたのが救いとは言え、それ以外の場所ではずっと独り。マトモな友人連中なんて今まで作ろうとさえしなかったし、今更になって俺と交友関係を持とうとする頭のめでたいヤツなんているわけもなかったし。あまりにも当然すぎた。
それでも、あいつだけはしぶとく俺を見捨てずにいてくれた。『私が一緒にいたいだけなんだから』だなんて、そんなことまで言わせたりして。
その優しさが嬉しくて、あったかくて、だからこそ俺はあいつを拒んだ。一緒になんて居られなかった。俺と一緒にいるだけで悪い噂は流れていく。
それはただの不良とその取り巻きを蔑むような、そんな生易しいものじゃなかった。俺が犯した罪を思えばそれもまた得てして当然のこと。俺は本来であれば学校なんていう綺麗な場所には居られない身だったのだ。
そんな泥水のような空気の中で、それでも俺は真っ当に生きていこうと努力した。過去の罪を消し去ることは出来ないけれど、流れていく今を懸命に生きていくことで、少なくとも未来にだけは僅かな可能性が宿ってくれるだろうと信じていた。
だからこそ、きっと奇跡が起きてくれたのだろう。
「君、ずいぶん変わりましたね」
実の両親にさえ見放された俺。親父さんとあいつ以外の人間から声をかけられたのは、果たしてどれくらいぶりの事だっただろうか。
ほんの数十センチ先で俺と向かい合う男は、あくまでも俺と同じ目線に立って、あくまでも俺と対等な立場で、そんな言葉を放り投げていた。
「……お前、誰だっけ」
だが、如何せん見覚えがない。
「はは、君らしい。まあ今まで話したこともありませんでしたしね、仕方ないでしょう。僕は波津久翔羽という者です。一応、生徒会長なんぞをやってる身ですが、ふふ、ご存知ありません?」
果たしていつの時代の猛将ですかと問いたくなるような大層な名を持つ男。クラス連中に無関心だった当時の俺も、それほど仰々しい名前であればどこかで聞いたことがあるような気がした、かもしれなかった。
……いや、やっぱり覚えてなかった。誰だよこいつ。
「で……その生徒会長さんが俺に何か用? っていうか一度も話したことないのに『君らしい』とか言われてもさ。どういうこと? もしやお前さん、俺のストーカーだったりするのかね」
「ははは、それは失礼。僕は人間観察が趣味でしてね、学校中の生徒の素行や言動、そしてそこから推測される性格はほとんど全部把握しているんですよ」
変態だ!
「でね、だからこそ言えるのですが、ここ最近の君はまるで別人になってしまったように感じられるんです。言動、行動パターン、表情、その他にも色々。人間観察マニアの僕としてはみすみす見逃せるような状況じゃないんですよ、今の君は」
「あー、そりゃどうも」
適当に相槌を打っておいた。よくわからん相手に対してはひとまず無難に出ておくに限る。
「で、結局俺に何がしたいの? 友達にでもなってくれるわけ?」
「話が早くて助かります。そういうことです」
変人の思考は俺みたいな凡夫には到底及びのつかない大空を漂っているらしい。俺は文字通り我が耳を疑った。
「君という人間は実に興味深い。人は無限に変われる可能性があるのだと知りました。それほどに君の変貌っぷりは僕の常識の右斜め後ろを闊歩しているんです。人間の神秘とでも言うんでしょうかね、とにかく僕は君について知りたい。そのために友達になりたい。どうでしょう、二宮君?」
知的な笑みをほころばせ、波津久は言った。自身の欲望を微塵たりと隠そうともせず、その上で俺に近付きたいと抜かす目の前の男が、俺には何だか不思議なイキモノに見えて仕方が無かった。なんなんだこの男は。なにがしたいんだこの男は。
「おまえさ、世間体とか気にしないの? 俺と一緒にいるってさ、そういうことだよ?」
ワケが解らないながらも否定ではなく質問にしたあたり、根っこの部分では俺もまんざらではなかったのかもしれないけれど。
「まあ、確かにそうかもしれないですね。あくまでも客観的な話をすれば、僕は推薦で中央の一流大学に進むことが決まっている優等生で、かたや君は素行に問題を抱える上に色々と訳アリの落ちこぼれですから。――ですが、そんな肩書き如きに一体何の意味があります? 物事の本質は過去ではなく現在のみに宿ります。少なくとも、今の君と僕は時を同じくするに十分に足る相手同士だと思いますよ。昔の君であればこんな会話も成立しなかったでしょうし」
だから何を言ってるんだろうね、こいつは。
とりあえず思いっきりバカにされてるんだろうってことは解るけどさ。
「よくわからんけど、好きにしたらいいんじゃないか? 俺は望まずしてロンリーガイだからね、たまには人の温もりが恋しくもなるわけだ」
ただ、相変わらず少しもオブラートに包まない目の前の男の物言いは、俺みたいな人間にとっては逆に心地良くさえあった。
それに、何より。
そいつの笑顔には邪気がなかった。
「交渉成立ですね。では、残り僅かな学園生活ではありますが、友人という新たな関係の下、共に日々を楽しんでいきましょう」
馬鹿みたいなやり取りを通じて、俺たちは友達になった。
なんというか、俺たちは実に友達らしい友達ライフを送っていた。
弁当を食べるときは教室の後ろのほうを定位置として、二人でくだらない雑談なんかをしながら食べた。
放課後には夕暮れ色の教室でほんの少し談笑してから、道が分かれる場所まで一緒に並んで帰った。
休日には近所の海まで自転車を漕ぎ出して、夕日の沈む海岸で二人意味もなく走ったりなんかした。
アホか、と思う。
だけど俺はその時、確かに笑っていることができたんだ。本当に、自分でもよくわからなかったけど、笑ってられたってことはきっと、あいつと過ごす時間を楽しむことが出来ていたんだとも思う。
性格や趣味嗜好なんかは真逆と言ってもいいほどに違う俺たちは、だけど妙なところで波長が合ったりした。波津久もきっと友達がいない類の人種だったんだろう。だって変態だし。
「僕は変態じゃありません変人です間違わないで下さい僕を愚弄しているのですかそうなのですかいくら君でも許しませんよさっさと訂正しないと僕ちょっとそれはもう大変なことになりますよさあ言ってください僕は変態ではなく変人だとそして誓いなさいもう二度と(紙面の都合につき中略)」
そんな風にキレられたこともあったっけか。どうしてこんなヤツが生徒会長になれたんだろうかといつも疑問に感じていたのだが……聞いたところによると、その年の会長立候補者は波津久ひとりだけで、最終的に信任投票という形になったそうで。大半の生徒側としては投票のやり直しという面倒な事態に巻き込まれるのは御免なわけで、そんなやる気のない過半数票によって波津久は見事当選を決めたんだそうだ。いや実に馬鹿らしい。
でも、まあ。
そんな日々も、今にして思えば大切な宝物。
一生大事にすべき、思い出だ。
思い出なんてものは結局、どこまでも思い出でしか無かったのだから。
*
「いつ見ても君は見事な手際で人を殺しますね。僕も見習わねばと常々思うところです」
何が楽しいのか、波津久の口元には愉悦に歪んだ薄い笑みが浮く。いつか見た知的なそれは欠片も見受けられず、その代わりとして其処に在るモノは無機感に満ちた薄気味の悪さだけ。
「……うっせえよ」
見られた。
この男に、殺すところを、見られた。
「しかし、苦痛を与えないようにして行うという君の理念だけは理解できませんね。何の反応もない殺人に意味を見出すことなど出来るのですか? 耳を割くような絶叫、胸を奮わせるような慟哭、恐怖に歪んだ最期の表情、それらにこそ殺人の意味、そして定義は宿るのだと思いますけどね。あくまでも私見ですが」
「うっせえって」
狂っている。
だけど、ある意味――ひどく純粋無垢に狂ってしまったとも言える。
凡人には及びも付かない変人は、その本質として誰よりも弱い自我をオブラートの内側に隠し持っていたことを、いつの日からか俺は知っていた。
薄皮一枚に包まれただけの自我は見る間もなく崩れ落ち、そうして波津久は、
「さてまあ、尤も。君の標的と僕の標的は絶対に被りませんからね。君がどこで何をしようが僕の獲物が減るわけじゃない。だから実際はどうでもいいんですよ。どうでも。ね。ところで二宮君、君は今日、ソレで何人目です? 僕はついぞ今しがた八人目を掃除してきたところです。最近は獲物の数も減ってきてるんですけどね、今日はいい感じですよ。とっても」
こんな風になった。
人間観察が趣味だった男はすっかり人間に興味を失って、人間を雑草と同じにしか見ることのできない殺人鬼になった。
「黙れってば。相も変わらずあぶねー奴だな、てめえはよ」
かつての友に向け、俺は両眼に殺気を込めて言い放つ。
「はは、相変わらず君はいい目をしている。僕と同じ目を、ね」
語調は変わらず平坦なまま、その瞳にだけ宿る深淵の色。交錯した視線は空気中で弾け飛び、熱砂のごとく四散する。くすり、と波津久は笑った。
「殺してやろうか?」
「出来もしないことを言わないでください。不可能命題を自分から引き合いに出すなど愚の骨頂にも程があると言うものです。君が? 僕を? 殺す? はは、あははっ、あはははははっ! 何を言っているのですか君は。さてまあ、尤も。僕が! 君を! 殺す! のであれば話は全く別の方面へ向かっていくのでしょうけども。あは」
それは、それは、それは、それは――それは、酷く醜く恐ろしく爛れた純粋な、狂気。
だけれども。
たった今、俺がこの男に言われたことは。
あまりにも、いちいち本当のことだった。
「……波津久」
何ひとつとして言い返すことが出来ないのが無性に歯痒い。俺は殺人に快楽を求めているのでは決してなく、誰かに幸せになってもらいたいという歴然とした目的があって、その延長線上として人を殺すのだから。
――ああ、言い訳さ。
「根本の在り方そのものが既に臆病者のソレなんですよ、君は。きっと君自身、誰よりもそのことを痛感してるんでしょうけど」
片や。
波津久は純粋に殺人に対して快楽を求め、僅かでも生に希望を持とうとしている人を好んで狙い、殺す。快楽殺人者。愉快犯。完全に相反する思考を持った俺たち。決して相容れない存在同士。真逆の壊れ方をした、絵に描いたような二律背反。
……でも。
認めたくはない。理性でも本能でも認めてはいない。だが、どうしようもなく浮かび上がる言葉がある。
果たして、俺たちは「何も違いませんよ、僕達は」
「――っ!」
心を読まれるなんてことが現実にあるはずがない。
それでも波津久は、まるで俺の心を読み取ったかのように、そう言い切った。
「何も驚くことなどないでしょう。工程に差異はあれど、僕たちの行っていることに本質的な差異があるとでも? 君は何か勘違いをしているようだ。だから、そんな君の為に、そんな僕の友人の為に、教えてあげましょう。
僕達は同じ人種です。僕達は同じ殺人鬼です。――認めなさい」
ここまでずっと平坦だった声色が、ほんの僅かだけ変化を見せた。あまりにも僅かな変化は、それなのに漏らすことなく聞き取ることができてしまった。
「……黙れっつってんだよ!」
叫ぶ。
逃げるように、叫ぶ。
「あはははははははははははは! 怒っちゃいました? すいませんね、いちいち勘に触るような喋り方しか出来なくて! でも、これが僕っていう人間なんですよね! 君も知っているでしょう? あんなに仲良しだったのですから、ね」
駄目だ、こいつ。
「……じゃあな、波津久」
踵を返した。もう二度と振り返る気はない。
最後にそいつの名前を呼んだのは、俺の心の中にもまだ何か追いすがるものがあったからなのかもしれない。どんなに粉々に砕け散ってしまっても、あの日々は結局、俺の過ごしてきた人生の中でもっとも楽しい瞬間だったに違いないのだから。
「またお会いしましょう、二宮君」
足音は聞こえない。追ってくる気配も無ければ、その場を立ち去る気配も無い。きっと口元に笑みを貼り付かせたまま、ただ俺の背中を眺めるだけ。
何も考えないようにして、その場を後にした。
何も考えないようにして、一心不乱に足を振った。
何も考えないようにして、こんなことを考えてしまった。
俺たちはどこまでも真逆で、その実、波津久の言うように同じ人種なのだとしたら。
今の俺たちは、あの頃の俺たちと、いったい何が違うと言うのだろう?
どうして今の俺たちは、あの頃のように笑い合うことができないのだろう?
期待なんかしてねえよ。
それでもさ。
なあ、誰か、教えてくれよ。
*
今日は厄日だ。
親父さんには朝っぱらからプレッシャーかけられるし、会いたくねえ奴には最悪の場面で出くわしちまうし、まったく、運命の神様とやらもいちいち余計な演出をしてくれる。
すっかり歩き慣れてしまった瓦礫と腐肉の袋小路。これは壊れています、と能動的に意識しなければ、この光景が太古より続いてきた普遍のモノに見えてきてしまいそうだ。それは言外するに余りあって恐ろしい。人はそれを自覚してしまったとき、体の内側からじわじわと膨張していくような、意識が徐々に蠢蟲に食い荒らされていくような、そんな言い知れぬ恐怖を覚えてゆくのだ。勿論、俺なんかが例外になれる筈もなく。
――だけれども。まだ、まだ理性で抑えることができる。だって俺にはまだ、やれるべきことが残っているのだから。出来ることがひとつでもある限りは、その行為に没頭すればいいのだから。そうすれば、ほんの一時の間だけは全てを忘れることができるだろう。そして、ほんの一時も積み重なれば長い時間となっていくだろう。そんな風に自分を誤魔化し続けながら、俺は残り六日という時を過ごしていくのだろう。
人間は欲求に従いながらのみ人間として生き続けていくことができるイキモノだ。もし仮に欲求に従うことが出来なかったとしても、いつかは願いが届いてくれるだろうという夢を見ることのできる都合のいいイキモノだ。
だけど、根っこにある欲求そのものが失われてしまったらもう、彼あるいは彼女がイキモノとして続いていくことは不可能になる。それが俺の見てきた人間という群集。人間として生きていくこともできず、人間になれる夢を見ることもできず。体はまだ生きているのに、それはもう死んでいるのと全く一緒。だから彼らは死にたいと願う。それは半死人となった彼らに残された最期の欲求。そして、そんな人達がいるからこそ、俺は欲求に従うことができるというわけだ。
それは、何て、酷い、腐敗した、奇矯で、馬鹿馬鹿しくて、醜くて、だけれども、だからこそ、余りにも人間らしい、ギブ・アンド・テイク。
でも。でも、だ。そんな下らないモノにだって少しばかりの価値はある。事実、俺たちは縋っている。毛糸よりも細い、その命綱に。
……俺は、歩く。意識を振り切って。目的地なんて知らない。ただ、歩いた。
その道中、体の中で地鳴りを起こすかのように盛大な腹の虫が鳴った。時刻は十三時三十分。親父さんに飯を分けてもらってから、そういえば結局なにも口にしていなかったことに今更ながら気がついた。哲学も程々にしておかないといかんなぁ。どうにも優先順位が狂っちまう。
はてさてそれじゃあ遅めのランチとでも洒落込もうかと足を止めた、それはその矢先。
「……う、」
急激な吐き気。
認識するのが精一杯で、抑え込む暇はなく、崩れ落ちる体を庇うことも出来ず、俺は大量の胃液を乾いた地面にぶちまけた。
「か……っはっ、はぁっ、はぁっ……!」
なんだ。
なんだなんだ。
なんだなんだなんなんだ。
脳髄が軋む。
超絶に絶頂に最悪に至上に限界に究極に気分が悪い。
「う……あ、はぁっ、か……が、はっ……!」
第二波到来。またしても抗う行為さえ許されずに、俺はなんだかよくわからないモノに蹂躙されていく。今度はもう胃液も流れない。その代わりに血液が、内臓が、魂が、流れていくような――錯覚。まるで、そんな、錯覚。
……こんな形で再認識したくなんて無かった。解ってることをいちいち指摘されるのは何とも腹が立つ。相手が誰よりも正直な『自分』なだけに、尚更だ。
簡単な話だった。
まさにこれこそが、俺の弱さであるというお話。
親父さんに世界の核心を穿たれて、波津久に存在意義を揺さぶられて、それだけのことで俺はこうも容易く決壊する人間であるということだ。我ながら実に笑えない。情けない。
一刻も早く『何か』をしなければ、本格的に二宮空人は崩れ落ちてしまうだろう。考えるより先の行動が欲されている。
「呼吸をしろ」
呼吸をした。
「目を開けろ」
目を開けた。
「立ち上がれ」
立ち上がった。
「……歩け。どこだっていい、歩くんだよ」
そういうわけで、俺は当てもなく歩くことを再開した。
空が、黒く焼けていた。
朝の日差しはすっかり姿を隠してしまい、今は灰煙とも暗雲ともつかない鼠色が空一面を覆い隠している。これじゃ晴れる気持ちも晴れやしない。まさにお先真っ暗。笑えない冗句だけは次々と思いつく俺だった。
そんな無駄な思考と行為を繰り返しながら、俺はあれからずっと無意識に足を動かしていた。本当に無意識だった。じゃあどうして俺は今こんなことを考えていられるのかなんて聞かれたって俺にも解らないんだから答え様がない。ただ、無意識ということを意識していただけだ。
頭が場所を求めているのではなく、体が場所を求めている。思考としての存在の俺には、果たして俺がこれから何をしようとしているのかという事の一切が不明なまま。一体俺の体はどこに俺を連れて行くつもりなのか、なんてことを考える。今度は笑えた。
意識と無意識は歩を進めるごとに分離していき、とある点を境界にして再び結合を始めていく。同じ点から逆方向に放たれた曲線が、いつか半円となって再び出会い、最後には真円を結ぶように。そうして道を違えた俺の中身が完全に一体となるまで、目算おおよそ一時間ほどの時間を要した。もっとも、どこまで正確かは正気の限りでも狂気の限りでもないけれど。
とにかく、そんなこんなで、俺はようやく主観としての世界に戻ってくることが出来た。
辺りの様子を飲み込むのには数秒とかからなかった。自分がこの場所に立っているということが信じられないと思うのと同時に、俺はきっとこの場所に連れて来られるんだろうという予感みたいなものも間違いなく在ったから。
「……また明日って言ったの、本当にそうなっちまったな」
不意に、静かな旋律が耳に転がってくるのを感じた。荘厳なピアノの音。音の源は目の前に見える家の中。だとしたら、それはあの子が奏でる音色なのだろうか。
「ピアノなんて弾くんだ、君は」
不思議な感覚だ。
不思議も不思議、摩訶不思議。
しかしそれでもだけれども、俺は歩みを止めることなく。
約束したんだから、会いにいかなきゃいけないし。
そんな偽善と建前を心に抱いて。
*
半倒壊の塀に囲まれたその家の敷居をまたいでみると、門扉を見据えて両側に細い横道が抜けていることが窺えた。外からは見えなかったが、この小道を回りこんでいけば裏庭あたりに出ることが出来そうだ。正面切ってお邪魔するのも正直どうかと思ったので、不法侵入者は不法侵入者らしくイリーガルなルートから潜入を試みることにした。法なんてもう無いけどね。
踏みしめる土はどれも丸裸で、そこには春めく新緑はおろか、雑花雑草の一本さえも見受けることはできなかった。土壌の汚染が広域化していった結果の副産物。パサパサに乾ききった土は無機感に満ちていて、それは言い得て砕いた人骨のようだ、なんて不気味な連想が浮いてくる。
さっきから聞こえ続けている音色は、歩みを寄せるごとにだんだんと耳に近いものへと色を濃くしていく。綺麗な音色だった。音楽の知識なんて皆無に等しい俺だけれど、そんな素人見解なりにもそれは明らかに卓抜と思える演奏だった。そこには魅力があって、笑顔があって、希望があって。その旋律の向こうには、今やまさに輝きに満ちた世界が胸を広げているのだろう。
そんな見当違いの感想は、ほんの一瞬で霧散した。
開けた視界の向こうには小さな庭の軒先。窓はない。粉々に砕け散ったガラスが四辺に散っている。その向こうには古ぼけたピアノと痩せこけた少女の影。俺と彼女を隔てるもの、それは今こうして、すっかり取り去られている。はずなのだ。
なのに、理屈云々を完全に無視して、感覚が、本能が叫んでいる。ここは俺なんかが居ていい場所じゃない。消えろ。消えろ消えろ。消えろ消えろ消えろ早く今すぐ即座に瞬時に。
彼女。
春澤夢。
その姿を瞳に映した瞬間。
俺は持てる全ての言葉を失ってしまった。
ついさっきまで浮かんでいた安い気持ちは跡形もなく消え去って、今はもう眼前の光景に神経の全てを陵辱されてしまっていた。こんなの、俺は、知らない。
静かに激しく穏やかに暴発して流れ込む音の奔流。魅力だなんて、笑顔だなんて、希望だなんて、どうして俺はそんな薄ら寒いファクターを思い描いてしまったのか。楽観も甚だしい。そんな筈が無かったのだ。彼女の被った仮面の存在を知っていながら、それでも自覚していなかったのだ。
それだけで全てを理解する。
俺は、馬鹿だった。
それ以上でも、それ以下でもなかったんだ。
冗談抜きで心臓が止まりそうだ。
何でだろう。
どうして、どうして、こんなにも優しい演奏なのに、こんなにも穏やかな音色なのに、こんなにも暖かな空間なのに――
そこにあったものは旋律ではなく、戦慄の間違いだった。
夢は、昨日とまったく同じ表情で、慟哭の悲鳴を上げていた。
「っ――……!」
唇を噛み締めて、猛烈な勢いで引き裂かれそうになる意識をどうにか繋ぎ止める。
酷い。あまりにも、酷い。
決して見てはいけないモノが世の中には在る。
有り得ない世界。感情と表現が恐ろしいまでにズレている。どこまでも優しい音色に乗せて響く絶無の慟哭。気が狂いそうだ、なんて生易しいモノじゃない。気が狂う。百パーセント、間違いなく。
夢の表情は幽鬼のように虚ろで、流れ落ちる涙は比喩ですらなく滝のようで、それなのに鍵盤を叩く指は決して止まろうとせず、恐ろしいまでに場違いな音色を奏でる。異常すぎる。何なんだ。一体何をしているんだあの女は。わからない。気分が悪い。吐きそうだ。脳髄が溶けていく。常軌を無視した光景。逃げ出してしまいたかった。否、一刻も早く逃げ出すべきだった。俺はもう、動けない。一時も目を離すことが出来ずにいる。耳を塞ぐことも出来ずにいる。想像を遥かに絶していた夢の中身は、完全に俺の中身を奪ってしまった。捕食されたと形容しても差し支えない程に。音の波が、怒涛となって、俺の常軌を、溶かしてゆく。
感覚の麻痺を覚えた。もう何も考える必要はない。この音の波に全てを任せていたいとさえ思い始めた。その瞬間、脳天を割り裂かんばかりの激痛が訪れる。断末魔にも似た絶叫は、きっと、恐らく、俺のもの。
唐突に意識が白んだ。記憶の前後に霞がかかった。世界の接合が溶解していく。
俺はもう数秒と待たず気を失うだろう。果たして再び『俺』として目を覚ますことが出来るかどうか、はてさて疑わしいものだ。それぐらい取り返しのつかない場所へと足を運んでしまったんだ、自業自得と思って諦めるしかないね。さよなら、俺。さよなら、世界。
大地に倒れ伏す最期の一瞬、偶然に夢と視線が合った。
夢の表情が大きく揺れた。
*
気を失うことと眠ること、それは似ていて非なるもの。何が違うだろうか。
ちなみに俺はこう答える。前者は『夢を見ない』。もっと細かく言えば『夢という概念が存在しない』。脳に余裕が無いからだ。余裕がなければ無意識中の意識、即ち夢も産まれ出ずることはまず有り得ない。そう、前者と後者はまったくの別物なのだ。
さて、そんな大前提を前置いた後で。
それじゃあ、今まさに俺が見てるこの薄ぼんやりとした光景は、一体どう説明がつくのだろう。
決壊した表情はどこへ行ったんだ。絶望に満ちていた涙はどこへ消えたんだ。
どうして、そんなに必死に俺の名を呼ぶんだ。
……どうして。どうして?
まさか、この子は俺を心配してくれているのか。そんな理由で、それだけの理由で、この子は生きることに理由を見出せるのか。
それは弱さか、それとも強さか。他人への依存と割り切っていいのか。わからない。わかんねえよ。世の中わかんねえことだらけだ。
子供の頃に抱いた夢物語。大人になれば世界の真理が見えてくる、なんてのはまさに夢物語にしか過ぎなかった。幾つになっても世界はいつまでもどこまでも不明瞭だった。こんな風に壊れてしまってさえ、ブラックボックスは決して暴けない。
こわれたせかいにいきるぼく。
そんなの、まるで三流小説のタイトルじゃないか。
否、現実こそが三流小説なのだ。リアリズムの中にドラマティックなんて概念は存在しない。フィクションであるからこそのドラマティックなのだ。日々は須らく空虚に過ぎていくもので、そこに読者の期待を裏切るような壮大な伏線なんてものが有り得ることはまず有り得ない。それが現実というものだ。叙述トリックなんかはその極みだろう。あんなもの、ちょいと視点をずらすだけで実に阿呆らしい喜劇に変わる。笑えるのならそれもまたアリか、という気もするけれど。
まあ、顛末。
世界はそんな風に出来ているということ。
そして。
それに気付いた子供は、ようやく大人の階段を上り始めることができるということ。
それに気付いてしまった子供は、往々にして子供のステージを降りることを余儀なくされるということ。
どっちが善でどっちが悪か、その問いに答えられる人間は存外にして少ないと思うのだが果たしてどうか。少なくとも俺には答えられない。
世界は横暴だ。
「――さん、空人さんっ!」
聞き覚えのあるクリアな声。先程から延々と俺の名を呼んでいる。その声の主が誰であるかなんて今更考えるまでもない。
鉛のように重い瞼は、だけど自分の意思でどうにか抉じ開けることが出来る程度には復調してくれていた。いつまでも無駄な心配をかけさせておくのは心証に悪い。ぐわんぐわんと揺れる脳味噌を落ち着かせ、出来得る限り静かに空気を吸い込んで、俺はゆっくりと、
「うぃす、夢ちゃん」
交錯させた。
おはようございます。
「ぁ――は……はぁっ、そ、空人さぁん……」
地面に寝転んだままの俺と、地面に手をついたままの夢。近くて遠い距離がある。でも、記憶のシャッターの向こう側にある光景に比べれば、それは涙が出そうなほどに近かった。交じり合う視線が逸れることはない。
「よかったぁ……どうなることかと、心配、したんですよぉ……」
すっかり力の抜けきってしまった体を支える素振りも見せず、自然すぎるほど自然に、夢は自身の体を横たわる俺の胸に預けてきた。今回ばかりはさすがに拒絶しようなんて考えは浮いてこない。大人しくそれを受け止めた。
薄い服越しに感じる人肌は、それでも暖かく柔らかい。昨日はそのことを自覚する余裕すら無かったのだろう。下手したら今だってそう。俺はいつでもいっぱいいっぱいだから。精一杯に生きてるんです。いつだって超必死。
「……ごめんね、昔っから貧血起こしやすい体質でさ。もう平気、余計な心配かけさせて悪かった。それと、ありがとう」
前半部分は嘘八百。健康だけが取り柄な俺。後半はまあ、本心と言えば本心だけれども。
そんな言葉を受けて、夢は何も言わずに俺の胸に顔を埋めていた。だから顔は見えないけれど、泣いてんのかな。そうだとしたら、やっぱり、辛い。人が壊れる瞬間なんて見てて気持ちいいはずがない。ましてや、壊れている最中なんて。
そうだ、思い出す。俺は助かったのだ。絶対に壊れて、消えて、無くなってしまうと思われた自我が、だけどこうして今、俺の中にちゃんとある。絶望からの生還。それはとても喜ばしいことだ。
だけど。
何だと言うのだ、この、金ヤスリで削られるような胸の引っかかりは。
「……あの、空人、さん」
声がした。涙声ではなかったので、少しだけ気が楽になった。
「ん」
安堵の返事を返す。穏やかな空気。心地良い。なんて、居心地のいい空気。
「いつから、ここに居たんですか」
そう錯覚していたのは、俺だけだった。
背筋がひどく薄ら寒い。あまりにも色を失った少女の声に、俺は驚愕して、いや違う、呆然と、いやこれも違う、停止して――そうだ、これだ――停止して、いた。
がくがくがく。そんな風に震えているのは顎でも腕でも体でもない。どくんどくんどくんどくん。そう、震えているのは俺の臓。俺という命を司る生命器官そのものが、未知なる感覚に一身を震わせていた。
何だって言うんだ。俺は一体何に畏怖していると言うんだ。たった今目の前でうずくまっている彼女はそれは小さくそれは力も無いそれは女子供でしか過ぎないというのにそれなのに、
「いつから、ここに居たんですか?」
二度目の言葉。抑揚はまったく同じ。あまりにも同じ。それだけで俺は理解する。ここに在る異常なまでの不自然を。
「答えてくださいよ」
「ぁ――」
夢は未だに俺の胸に顔を埋めたままなので、彼女が今どんな表情をしているのかを窺い知ることは出来ない。それは果たして恐怖するべきか、それとも安堵するべきなのか。思考が捻じ曲がる。頭の中が真っ白だ。まるで言葉を忘れてしまったかのよう。
「……答えてくれないんですか、空人さん?」
凍て付いた声が俺の心臓を串刺しにする。
夢が、ゆっくりと、顔を、上げる。
その先にある壊れた無表情を想起して、俺はようやく終焉末期を理解する。何が終わってしまう? 愚問。何かが終わってしまうに決まっている。
時間が止まる。形容詞的なそれじゃない。本当に時が止まった。ほんの一瞬、だけど確かに一瞬。光の速さで巡る世界が僅かに見せた常軌の解れ。そんな僅かな解れでも、俺のような脆弱な人間にとっては十分すぎるほどに大きな衝動。
「空人さん」
再度、夢が俺の名を呼ぶ。
覚悟を決めて、少女の顔に目をやった。
夢は、今にも泣き出してしまいそうな表情で、それでも必死に涙を堪えていた。
壊れていたのは俺の方だった。
「……ごめん。本当にごめん、夢ちゃん」
「え……え? ど、どうしたんですか、空人さん」
その幼い表情に浮かぶのは、紛うことなき無垢の色。過去にも未来にも今ほど自分を殺してしまいたいと思った瞬間は無かったし無いだろう。俺という人間は、本当に、本当に本当に、本当に本当に本当に。
「……勝手に勘違いしてさ。ごめん。マジでごめん。あー……どうしてこんなにアホかな、自分……」
いっそ殴ってくれたらいいのに。俺の尊敬するあの人みたいに。
自己嫌悪の渦が幾重にも折り重なっていく。
なあ、夢ちゃんよ。
俺、こんなんだぜ?
「よく、わからないですけど……でも、空人さんが気に病むようなことなんて、少なくともわたしに対しては無いと思いますよ。もし仮に万が一に有ったとしても、そのことで空人さんを恨むようなことは絶対にしません、わたし。だから、その……顔、見せてください」
……おいおい。
確信がさらにワンランク上がり、それは決定事項となった。
春澤夢は、本気だった。
この少女は、本気の本気で俺を想ってくれているらしい。
今更と言えば、今更だけど。
「空人さん? ……あの、もしかして、まだどこか具合が悪いんじゃ――」
「……いや、違うよ」
痛い。嬉しい。受け入れられない。受け入れてみたい。本音はいつも同じ直線上を走るとは限らない。むしろその逆、本音と本音同士が真っ向からぶつかることだってよくある事だ。今の俺はまさにそれだろう。いろんな気持ちがぶつかり合って、だけどちっとも消えていかない。さっきとは違った意味で壊れてしまいそうだった。
「……ごめんね」
これを最後の謝罪にしようと心に決めて、俺はもう一度だけその言葉を吐いた。そんな情けない眼前の男を糾弾することもなく、それ以上何かを口にすることすらなく、夢は涙を浮かべた笑顔だけを作り、俺の瞳を真っ直ぐに見据えてくるのだった。
何なんだ、この子は。
何でなんだ、この女は。
何だったんだ、この人は。
そして、俺は。
――――――――――――。
――――――――――。
――――――――。
――――――。
――――。
――空白、充填完了。
難しい問題なんかじゃなかった。
少し冷静になって、そしてようやく思う。
決意をしよう。
この少女と、真っ直ぐに向き合う決意を。
「えっと、勝手に話切って勝手に話戻すのも馬鹿みたいな話だけどさ。……見てたよ。見たよ、君の、中身」
敢えて、そんな言葉を選んだ。
「……やっぱり、見ちゃってたんですか。ごめんなさい、見苦しいところを見せちゃって……その、わたし」
「謝るなよ。勝手にここに入って、勝手にそれを見て。全部、俺が勝手にやったことなんだ。謝らなきゃいけないのは俺以外に有り得ない。ごめん。反省してる。許してくれなくても構わない、なんて言ったら嘘になっちゃうね。……許してほしい、夢ちゃん」
「そんな、許すとか許さないだなんて、わたし、そんな風に言われたら困っちゃいますよ。空人さんがそんな風に申し訳なさそうにすること、ないのに」
少女の優しさにかこつけて。どこまでも俺は勝手な男らしい。
「でも、空人さんの本気の顔が見れたのは素直に嬉しいです。ようやく正面から向き合ってくれたような、そんな気がします。あはは、勝手に勘違いしちゃってますね」
……勘違いだなんてとんでもない。いい洞察力してるよ、夢ちゃん。
「空人さんは知ってますか? 嘘の笑顔より、本当の泣き顔のほうが嬉しいんですよ。好きな人が相手だと」
真っ直ぐだなぁ。
「……はは、参った」
直情と仮面の二律背反。そんな矛盾を抱え込んだ少女。
そこには何ら問題なんてない。世の中は須らく矛盾で構成されている。不思議なことなんて何もない。春澤夢という人間の本質が、ほんの少しだけ見えてきた。
だから、と言うつもりはないけれど。
俺も、ほんの少しだけ真っ直ぐになってみよう。
「回りくどいのは嫌だから結論から言わせてもらうけど、今の段階で君を女性として好きになることはできないよ。でも、純粋に人間としてなら、君のことを、夢ちゃんのことを好きになれると思った。だから――だから、昨日言ったこと、訂正させて欲しい」
それは、ひどく自分勝手な。
それが、想いに対する冒涜だとしても。
それを、理解した上で。
「友達から、始めようか」
覚悟は、ある。
「いいかな?」
言の葉ひとひら。
逡巡は一瞬。
決断も一瞬。
「……はいっ!」
涙はひとしずく。
朝露に濡れた向日葵の笑顔。
この世で最も現実から遠く、同時に一分すらの嘘偽りなき輝き。
お前は馬鹿だろうと罵倒してくれて構わない。
とっくに知ってるからね、そんなこと。
さあ。
人間ごっこを、始めようぜ。
*
「さっきのあの曲、わたしのお母さんが作ってくれた曲なんです」
幾ばくかの空白のあと、春澤夢はそんな言葉を口にした。
「音楽一家だったんですよ、うち」
「へえ……一家ってことは、お父さんもか」
「はい。お父さんはピアノの調律家で、お母さんは高校で音楽の教師をやってました。わたしも小学校に上がる前からずっとピアノをやってて、あはは、お母さんに比べれば、わたしの方はてんで下手っぴだったんですけどね」
それが謙遜なのか真実なのかは音楽を相対的に観察することが出来ない俺の知るところではないが、あくまでも俺個人の感情で言うのならば、夢の演奏技術は全くもって世辞抜きに素晴らしいものであったと思う。尤も、技術以前の部分で吹っ飛ばされてしまった俺がそれを言うのかという話ではあるけれど。
「実際にあの曲を弾いてみたのって、今のが初めてだったんです。それでちょっと、気持ちが抑えられなくなっちゃって……思いっきり泣いちゃいました。ごめんなさい、引いちゃいましたよね」
「正直なところ、ちょっと」
「あは……すいませんでした」
実は臨死体験しちゃいました、なんてことは別に言わなくてもいい。あれは俺の問題だ。俺より外に持ち出していい話じゃない。
「でも、実際に弾いてみたのが初めてってどういうこと? なにか、今までピアノに触れられなかった事情でもあったのかな」
そこまで言って、むしろどうして今この場所には無事な状態のピアノがあるのだろうかという疑問に差し当たった。摩訶不思議。どうしてですか、教えて夢ちゃん。
「あ、なんていうか、その……そうですね、理由は二つあるんですけど、この曲の楽譜を貰ったのが昨日で、このピアノが音を鳴らすようになってくれたのが昨日だから、です」
「なるほどね、と相槌を打つには少しばかり難解だ」
「自分でもそう思いました。えっと、……ん、これを見てもらえますか」
夢は服の内ポケットを軽くまさぐって、そして一枚の紙切れを取り出した。無言でそれを差し出す夢に対し、俺は軽い拍子でその紙切れを受け取ってしまったのだが、そのことをきっと、俺は短からず後悔することになるだろうと思う。少なくとも向こう五日間ぐらいは。
綺麗に折りたたまれた紙切れを開いてゆく。
そこに書かれていた文章は、
お誕生日おめでとう。
ごめんね。
「……なるほど、ね……」
一瞬で全てを理解する。理解してしまった、とも言える。現実というものはあまりにも残酷で、あまりにも痛い。
「辛かったら、これ以上の話はいいよ」
「……いえ、わたしが話したいんです。そうすることで、わたしの中の温もりが確かなものになってくれるような気がするんです。錯覚かもしれません。いいえ、錯覚です。でも、だけど、それでも、わたしは構いません」
「そっか。なら、いいんだ」
「空人さんにそう言ってもらえると嬉しいです。……お話、続けますね」
俺は黙ったまま首肯した。
刻、刻。
それからの話は誰もが想像できる範囲の内容だったので、ここでは満を持して省かせてもらうことにする。
それにしてもどうしてわざわざ誕生日に、なんて倫理的な思考も浮かんできたが、彼女の両親にしてみればきっと、だからこその永訣だったのだろう。エゴイストは誰だったのか、リアリストは誰だったのか、加害者は誰だったのか、被害者は誰だったのか、それとも全て夢だったのか、そんなものは全て客観でしか有り得ない。倫理とか常識なんていう大衆論が、たったひとつの個に対して通用する筈が無いことを俺はよく知っている。
それでも俺は、だからこそ思う。
春澤夢の心を、想う。
そんなの、あまりにも酷すぎやしないかと。
刻、刻。
「お話、ちゃんと聞いてくれてありがとうございました。ほんの少しだけすっきりしました。……うん、空人さんに話して良かったです」
「……」
しばし、俺は口を閉ざす他の選択肢を失っていた。きっと夢のほうも、俺に何かを言ってもらうことを期待してこんな話をしたわけじゃないだろう。だからこれは間違いなく正しい判断だ。
「お母さんはこの曲を、そしてお父さんは再び音を奏でるピアノを、それぞれわたしに遺してくれました。嬉しかったです。本当に嬉しいんです。……でも」
涙も流さず、夢は言う。
「……でも、」
だけど、そこから先は言えない。
一線を越えた先にあるのは狂気とさえ形容できる慟哭の渦。
ペルソナを被ったままでいられる最後のデッドラインに、彼女は今、いるのだろう。
これ以上は俺なんかが出る幕じゃない。ここまで歩み寄ってくれている夢のため、これ以上歩み寄らせることはしちゃいけない。
俺は、自分に内在された、それは残り滓にも似た、それでも精一杯の優しさを込めたつもりで、閉ざした口をようやく開く。
「……いいんだよ、もう。一日に二度もあんな風に泣いてたら過労死しちまう」
冗談では、ない。
「でも――」
「大丈夫、今度は拒絶じゃないからさ。あんまり泣いてばっかりいるとほら、その……可愛い顔が台無しだぜ?」
三流ハリウッドスターの微笑み。
「……うぁ」
ちょっと引かれた。
わかってて言ったんだ、後悔はないとも。ああないとも!
「……あの、空人さん。本当にそう思ってます?」
「思ってるともさ」
慣れないことはするもんじゃないね。顔赤くなってないかなぁ。
「こんな……こんな痩せて骨と皮ばっかりになった子供でも、空人さんは可愛いだなんて言うんですか?」
「まあ確かに、ちょっと痩せてるとは思うけどね」
でも、このぐらいの言葉で元気になってもらえるならさ。
「でも俺、痩せ型の女の子のほうがタイプだし」
世界に対する風刺にしては、なかなかに素敵じゃないか。
「……ほぇ。空人さん、中途半端に優しいです」
「中途半端言うな。俺なりの精一杯だっつーのに」
「うそだぁ」
「本気と書いてマジ」
「今度は正解」
「同じ間違いは二度と犯さないよ。何にせよそれぐらい本気なんだって」
「あはは、なんだか面白いです」
「おう、面白ければ笑っときなよ。女の子は笑ってたほうが可愛いに決まってるんだ」
「ふふ、今日の空人さん、なんだかホストみたいですね」
「それは褒めてるの?」
「どっちでしょうね」
これもまた、なかなかに楽しい人間ごっこだ。こんな風にベタなのもたまには悪くはない。ましてや状況が状況だけに。
こうやって笑ってられること、そのことが既に何物にも勝る奇跡であるということ、そのことに俺は無意識的に気付き始めていた。
いつか忘れていた筈の『幸せ』の定義。
それは本来、誰かとこうして無邪気に笑い合える時間のことを言うのではなかったか。
「なあ、夢ちゃんよ」
「はい?」
思い出すのに時間はかからない。
「笑顔になれるって、いいことだよな」
「あ――」
夢もまた、その言葉の意味を即座に思い当てたようだ。彼女はしばし絶句し、思考し、だけどすぐに今までと変わらぬ笑顔を見せて、言葉を続けた。
「はい、とってもいいことです」
「そうだよな、いいことだ」
「健康的で素晴らしいです」
「人間、やっぱり笑顔が一番だよな」
「嫌な気分も忘れられます」
「そうそう、笑ってるうちは涙なんて在り得ないんだから」
「嬉し涙っていうのもありますよ。でも、そういう涙ならいつだって大歓迎です」
「そういう風に考えられるなら、きみはまだ大丈夫だ」
「……はいっ」
そんな風に話を帰結させてしまう俺は、きっと親父さんと同じことをやっているに違いない。現実から目を背けるなと、自分のことをすっかり棚に上げて口上しているのだ。
だからそう、それはきっと自戒のようなものなのだろう。夢に放ったその言葉は、その実誰よりも俺自身に響いている。
考えることが出来る内はまだ大丈夫。だから俺はまだ生きていける。目を背けるな、前を見ろ、後ろを見ても構わない、立ち止まることだけはするな、死ぬことを容認するな。
生きるんだよ。
「俺、今日のところはそろそろお暇しておくよ」
そして明日を続けていくために、今日もまた今日を終えるのだ。
「……空人さん、あの」
「夢ちゃん」
言わせない。君には傷を負わせすぎたから。
「また明日。元気でね」
だから、俺が言う。
贖罪のつもりなんてないけれど。
「……はい、また明日っ!」
また会える明日まで。
願わくば明日が来ることを。
少女の仮面が昨日よりもほんの少しだけ薄くなったような気がしたのは、俺の勘違いなんかじゃなかったと信じたい。
*
昨日も明日も、もちろん今日だって夜は訪れる。夜の訪れない日なんて存在しない。まあ、地方によっては局所的にそういう場所もあるみたいだけど。
家庭の明かりなんて言うまでもなく、生きている街灯もほとんど無い。そんなわけで、誰かさんが思っている以上にここで定義される『夜』ってのは遠く暗く深い。完全な深淵の前では色も形も匂いも思考も、全てが等しく黒に溶けていく。
「夜ってのは怖いなぁ、桜さんよ」
「ほんとほんと、無闇にまっくら。あはは、闇が無いのにまっくらだって。言葉遊びは人間に与えられた立派な文化だね」
で、また奇跡が起きていた。
喋れるはずのない桜と、まったくもって実入りのない会話を繰り広げていたりなんかした。
「飯でも食う?」
「食欲ないから遠慮しとく。気持ちだけありがとう」
そういう問題なのか、と一人ツッコミを入れてみる。意味なんてないさ。
俺は親父さんから受け取った食料の山(半分は別れ際に夢に渡してきたので山から塔ぐらいには減ったとは思う、夢は案の定遠慮しまくってたけど無理矢理に置いてきた)から無作為に固体をひっつかみ、何も見えないままそれを食すというある種闇鍋的なスリルと共に食事を始めた。
「梅おむすびだった」
「あはは、よかったね」
コンビニおむすび特有、パリパリ海苔のはぜる音が耳に心地良い。それだけのことで幸せを感じることができてしまう、そんな単純な自分が今だけは誇らしい。
「うまいなぁ」
「幸せそうだねぇ」
それは誰よりも何処よりも平和で平穏で穏当で曲解し倒壊し溶解し尽した異質な世界の中。
そして何より、決して起こるはずのない奇跡の中。
そんな中、俺たちは誰よりも当たり前な日常を生きていた。
「唐突だが、本日の報告をしようと思う」
「あ、聞きたい聞きたい」
「簡単な前述として、今日は実に最悪な一日だった」
まったく、本当に。
「親父さんがね。やっぱりあの人だけは出し抜けないよ。いや、元からそんなつもりなんて無いんだけどさ……今まで以上に、本気で俺のことを心配してくれてるんだ。嬉しいけど、やっぱり痛い」
「へぇ……槇原おじ様がねぇ」
「その耽美系呼称はやめろと常々」
「別にいいでしょー。おじさんってイメージしないし」
そうですかい。
「……ま、それは置いといて報告続行。親父さんに叩きのめされて傷心まっしぐらな俺のもとに現れたのは、今は昔の旧友だったわけです」
「え、翔羽くん?」
だれだっけそいつ、と思いかけて、そう言えばあの変態殺人鬼の下の名前はそんな感じだったなと思い直した。
アバウトな友情だったなぁ。
「そうそう、波津久ね。昔からアレな奴だったけど、今はもう色んな意味ですっかり終わっちまったよ、あいつも」
「……そっかぁ。残念だったね」
「そんな風に思えるおまえは凄いよ。俺なんてもう残念も何もない、ただひたすらにムカついてただけだったからね」
「あはは、空人らしーい」
笑われた。
でも、いい。こういう奴が一人ぐらい居たっていい。
大切なのはバランスだ。世界ってのはかくあるべきだ。
「ま、そんなこんなで幾波乱あってね、そのあと俺はほとんど無意識のうちに、とある場所に辿り着いてたのです」
「とある場所?」
「俺もよくわからないんだけどね。昨日、公園で女の子と知り合って。その子の家の前にいた」
「突飛な展開っす」
「それは心から同感っす。まあ、そこでも色々あったわけだ。諸所のあれこれは端折るけど、何よりも俺は、久々に人間ってものに触れたような気がしたよ」
脆さと。
恐怖と。
隔絶と。
勘違いと。
最低な自分と。
一途な想いと。
応えられない愛情と。
開いてくれた心と。
それすらも勘違いかもしれないけれど。
「総括、最悪な一日であったことに間違いはないけれど、だけどまあ、今にして思えばそう悪くもない一日だったと感じるわけだ」
そうだ、まだ捨てない。
俺はきっと、きっと必ず、最後まで。
「……ねえ、空人はまだ」
微かに揺れる言葉が、世界の本質を問う四文字を紡ぐ。
迷わねえよ。
「ああ、」
答えなんて、決まってるさ。
――生きるとも。