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Monday:空夢(からゆめ)

 晴天快晴と言うには少しばかりの誤謬があるが、それでも今日は好天に恵まれた、とても良い朝だった。俺は軽く咽を鳴らしながら、長いこと寝食を共にしている大地のベッドから体を起こし、凝り固まった体をゆっくりとほぐしていく。

 心地よい風は朝一でぼやけている脳に優しく、朗らかにさえずる小鳥たちの歌声は耳に清々しい。いやまあ、現実には何羽ともわからん野ガラスの群れに威嚇されてるだけなのだが、ものは何事も考えようだ。どんな物事にも二律背反という概念が存在する。例えば形骸的に、『世界で一番弱い人間』と『世界で一番強い人間』を比較してみよう。後者が前者より強いことは火を見るより先に明らかであり、ならば前者が後者より弱いことは水を聞くより先に明らかだ。ここで後者は前者に対して『強さ』というファクターで絶対のアドバンテージを持っている。ということは、それとまったく同様に、前者は後者に対して『弱さ』というファクターで絶対のアドバンテージを持っているということでもある。ここでこのふたつのファクターを比較したとき、その絶対値は須らく等号によって結ばれる。定義として違ってくるのは総量ではなく矢印、ベクトルだ。そのふたつのベクトルには方向の違いはあれど、前述の通り大きさは寸分違わず同じ。比べることなんて出来ないのだ。よく言うあれだ、「強けりゃいいって問題じゃない」っていうあれ。もちろん弱けりゃいいって問題ではないこともまた当然そういうわけで「クァー!」「あぎゃああぁぁー!」

 朝一で哲学する俺を尻目に、全力でその鋭利なクチバシを見舞ってくれるカラスの大群。うるさいだまれ、だとか、いいから消えろ、だとか、そんな感じのぞんざい加減が痛覚と共にありありと伝わってくる。……痛、痛っ! 小指はやめろ! やめてー!

 必死に両手足を振って、どうにか群がるカラス共を追い払う。我ながら実に必死。鬼気迫る形相で怨嗟を込めた視線をぶつけてやった瞬間、バッサバッサと一目散に逃げ去っていくカラス共。カラスという鳥は実に賢い。引くべき時と攻めるべき時を瞬時に判断できるその野生の勘は特筆すべきものがあり、我々人間でさえ見習うべきところがあると思う。……だからと言って俺がこいつらに敬意を送る理由なんかには微塵もならず、俺はひとり、行き宛のない思いを蓄積させるのみである。

 せっかくの良い天気なのだ。こんな気分を抱えてたって仕方ない。

 ひとまず、深呼吸をしよう。



 栄華を極めたあの頃の姿はどこへやら、すっかりスラム街と化した旧国の首都。

 ガレキに埋もれた町並みをぐるりと見渡せば、そこかしこに浮浪児や放浪者の煤けた背中を見受けることができる。彼らは果たして生きているのか死んでいるのか、果たしてそれさえも不明。こんな異常な光景が今ではすっかり日常だ。疑うべくもない事実として。

 指折り数えることも最近はしなくなってしまったけれど、そういえばもう、残りはほんの一週間なんだよなぁ。不意に、そんなことを考えた。

 今日が月曜だから、そう、次の日曜。

 空から大きなお星様が堕ちてきて、そうして俺たちはこの大地ごと死んでしまうんだそうな。

 政府の公式見解なんていう格式ばったお堅いご意向によると、この星を含む銀河の中心、摂氏何億度ともわからない巨大な恒星が、あと一週間後には衝突してしまうらしい。自分の目でそれを確認したわけじゃないし、確認できた頃にはとっくに俺は死んでるだろうから、信憑性なんてものはそもそも存在しない不確定要素ではあるのだけれど。

 なんでも、原因は人間の行き過ぎた宇宙への干渉にあるらしい。この星の生態系が人の手で壊されていったように、宇宙もまた同じ末路に辿り着いたということだ。数億年待てば自然に生命が誕生したはずの星に無理やり草木を植えつけて、プランクトンをバラ撒いて、人口惑星をくっつけて。そういうことを何十何百、下手すりゃ何千何万とやってきた。もっとも俺も当事者の側だから、それらの事々を根底から批判してるわけじゃない。いや、批判なんてできるはずがない。俺たち人間はみんな、多かれ少なかれ確かに宇宙から恩恵を受けているんだから。

 とにもかくにも、この星は一週間後には跡形もなく消滅する。全人類を道連れにして。

 世界滅亡なんていう冗談みたいなニュースが公に知らされることになったのが、今からちょうど一年くらい前。この事実を公表するかしないかという点においては、国家間レベルでひとつふたつじゃ済まない悶着があったそうだ。公表したところで国民の混乱を招くだけだと息巻く国もあれば、文字通り生死に関わるほどの重大な事案だからこそ国民から真実を知る権利を奪うわけにはいかないと主張する国もあった、つまりそういうこと。

 現状を見ればわかるとおり、結局事実は全世界中に公表された。

 懸念されていた国民の混乱は、その懸念通り、これでもかというほどに招き尽くした。

 混乱なんてものじゃない、それは文字通り崩壊だった。あと一年で今まで積み上げてきたものすべてが無駄になるんだって知らされて、平静を保ってられる人間なんているはずがない。特に金持ち連中、資産家の壊れっぷりは酷かった。金にモノを言わせて何とか自分だけは助かろうと、あの手この手を八方尽くし。

 宇宙のどこか、別の星に逃げようとした奴もいた。これだけ宇宙開発を進めたんだ、住める星のひとつやふたつぐらいあってもおかしくないと思って、一も二もなくスペースシャトルを走らせたんだろう。

 結論を言うと、無駄だった。

 この星と同じように住める星なんて、結局はひとつとして完成しなかった。星の終焉と引き換えに人類が得たものは、結局なんにも無かったんだ。

 それでも唯一の救いというか、ひとつ隣の惑星に数百人規模で仮住できる小さなコロニーがあった。言うまでもない、金持ち連中はこぞってそのコロニーへと居を移した。何万人も。完全に定員オーバーで。

 人間という生き物は本当に醜いもので、コロニーにまだ治安が行き届いてないことをいいことにして、連中は暴力ですべてを解決しようとした。その結果、向こうに移っていった連中はひとり残らず死亡、人類唯一の希望であるコロニーも大破、と。

 で、それが引き金になって、この星に残された人間たちも次々と殺し合いを始めた。

 明確な理由はたぶん、なかった。だって、みんな壊れてたんだから。

 みんな壊れて、みんな狂って、みんな死んだ。

 馬鹿みたいだ。でも、そういう話が本当にあったんだ、今まで。

「あなた方はどう思われます?」

 道をすれ違う一組の夫婦に問う。

「……」

「……」

 夫妻は怪訝そうに顔を見合わせて、なにやら返答に窮している様子。そりゃそうだ、見も知らりもしない通りすがりの男にこんなことを聞かれて、いきなり返事なんてできるはずがない。知っていて聞いた俺が悪いのだ。

「あ、いや、別にいいんですよ。意味があって聞いたわけじゃないんで。なんていうかほら、挨拶みたいなもんです。本題はもっと別にあります」

 俺の表情から何かを察したのか、夫のほうが一足歩み寄ってくる。絶望に満ちた顔に一筋の希望の光を窺わせながら。

「……貴方、ひょっとして『安楽稼業』の方ですか?」

「まあ、そういうことです。どうもはじめまして、二宮って言います」

 一応、それっぽく頭を下げておく。

「おお、やはり……」

 その言葉を聞いて、ふたりの硬い表情がゆっくりと弛緩していく。俺の見立てに間違いは無かったようだ。望むものが望まれる、それは何よりも素晴らしい善循環。人類は兼ねてより需要と供給のふたつのバランスを保ちながら、ここまでの繁栄を示してきたのだ。……今はもう、そんな大義でのバランスには何の意味もないけれど。

「……ねえ、……あなた」

「……ああ」

 このふたりの様子を見る限りわざわざ聞くこともないと思うのだが、それでも儀式は儀式。そこに意味や見返りなんて求めちゃいけない。為すべきことを為す、それだけだ。

「仲睦まじいおふたりさん、ひとつだけ質問があります」

「……はい」

 それじゃ、始めよう。

「生きたいですか、死にたいですか」

 命を奪うための、儀式を。



  *



「こんちは、親父さん」

「……空人(そらと)か」

 そこは閑散に閑散を重ねたような、人の気配のひとつさえも見受けられない超絶街外れ。ホコリをかぶったみすぼらしい家屋。気持ち程度の小さな看板には、槇原酒店という半分消えかかった文字。

 それでも店内の様子は外装からは想像もつかないほど整然としたままで、そんな中において、ただひとり膨大な存在感を放つ壮年の男性。

「お元気してましたか」

「どうだかな」

 彼は今日も変わらず、仏頂面で無抑揚にそう語る。

「俺はずっと心配で心配で」

「気持ちは受け取っておこう」

 事実一日ぶりの対面なのだが、まあ、俺と親父さんの会話なんていつもこんなものだ。意味はあるようでないようで、実際、よくわからない。もっとも親父さんに限っては意味のないことをわざわざ口に出すような人ではないので、そこら辺を踏まえるとさらによくわからない。どうにも、一言には表しがたい関係なのだ。

「今日の売り上げ、どんな感じです」

「いつもと何も変わらんさ」

「ってことは、ゼロ、と」

「言い方ひとつだな」

 全くの無表情で、淡々と言葉を紡ぐ親父さん。それが不気味に見えるか面白く見えるか、かなり人を選ぶところだと俺は思っている。まあ俺ぐらい長い付き合いともなればここは笑うべきところであると胸を張って言えるんだけど……親父さんがそんなだからお客が来ないんですよ、なんて冗談はさすがに言えない。

「失礼なことを考える奴だな、お前は」

「すすすすいませんっ!」

 心を読まれていた!

 何でよ!

「その件は後々に置いておくとしてだ」

「できれば捨て置いてください」

「今日は何の用事だ、空人」

「……ああ、そうですね。今日はちょっと、入り用のものを買い付けに。親父さん、在庫のほうは大丈夫ですか」

「問題ないが、空人、お前はうちが何の店か知っているか」

「知ってますよ。愛と夢と希望の専門店です」

「…………」

「最近は新商品で正義も売り出したんですよね」

「………………」

「ゆくゆくはワールドデビューを目指して、今日も我らが槇原酒店は邁進してゆくのです」

「……………………」

「あの。その、なんて言うか、すいません」

 耐えられず、反射的に。

 この無表情で黙られると精神的に色々きつい。

「解っているなら問題はない。少し待っていろ」

 親父さんは素っ気無くそう言い残すと、くるりと踵を返し、レジの裏側、薄布一枚に隔たれた店の奥へと姿を消した。

「……」

 言われたとおり、少し待つことにする。

 元々静かすぎる店内から更に親父さんが消えたことで、ほとんど完全と言っていいほどの静寂が俺の周囲を包み込む。かつり、かつり、そんな中で聞こえてくる唯一の音。親父さんのゆっくりとした足音。無音の中にたったひとつ放り込まれたそれは、だけど決して静謐を破ることはなく、それどころかむしろ、どこか教会にも似た神聖なイメージを想起させた。

 俺はそんな雰囲気を前に為す術もなく萎縮してしまい、すっかり身動きを奪われたまま、じっと親父さんの帰還を待つのみであった。我ながらほんと、小せぇなあ……。

 ……そうして、数時間とも思しき数分が経過して。

「待たせたな」

 音もなく現れて――というのは人間という生き物の構造上どうしても矛盾の残る表現ではあるが、少なくとも俺はそう直感した。とは言え、それが親父さんの存在感が希薄であることを意味するものでは決してない。それどころか彼は、圧倒的に重厚な存在力をもってその場に顕在している。一体どんな生き方をすればこんな人間が仕上がってしまうのか、俺みたいな若造には遠く及びもつかない。親父さんは自分の過去を滅多に語ろうとしないのでそれは尚更だ。

「入り用のものとやら、これで足りるか」

 目の前に広げられた銃弾やら睡眠薬やら、実に即物的かつ物騒なその面々。親父さんも言っていたけど念のため、ここは何の変哲もない一介の酒屋だ。その一介の酒屋とやらにしては随分と先進的な顔ぶれが面を揃えている、どうにも噛み合わない一枚絵。

「十分っす、さすが親父さん。時々俺は思うんですよ。俺の考えてることって、親父さんに対しては全部お見通しなんじゃないかって。はは、超能力者じゃないってのに」

「……」

「いやそこで黙られても!」

「今日は何人殺した」

「……」

「黙るな、空人」

 核心のみを的確に突き刺す親父さんの言葉。もう慣れていたつもりでも、こうして不意を突かれると心臓が痛む。何を思い煩うことがあるのか。親父さんは加担者だ。現に今だって行為のための取引を行っている最中だ。行為を言及されたわけではない。事実の確認だ。それだけの話。

「……ここに来るまでに、二人。はは、ほんとお見通しなんすね」

「お前が単純なだけだ。もう少しポーカーフェイスを学んでみろ。変えたいと思うならな」

「……いや、もう。あんたって人は」

 言葉を無くす。

 そんなもん最初から無いけれど。

「決まりだからな。払うものは払え」

 そんな俺の心情を察してくれたのかそうでないのか、どちらにしろ親父さんのその一言で俺は重苦しい空気から解放される。上着の内ポケットから無造作に数枚の紙切れを探り出し、確認することもなくそれを差し出した。

「足ります?」

「ああ」

 親父さんもまた、それを確認することはない。無意味な儀式。儀式に意味を見出そうとする行為ほど愚鈍なことはない。だから、俺たちはこれでいい。俺たちはこれで構わない。

 ほんの数秒だけ視線を交錯させて、それを先に逸らすのはいつも俺で、

「……じゃ、ありがとうございました。仕事、行ってきます」

「……」

 行ってこい、なんて言葉を期待したわけじゃなくて。

 そんなこと、何をどう間違ったって口にしてくれるはずがなくて。

 ……そんなの、知ってるよ。

「また明日、親父さん」

「ああ」

 短い会話はこうして終わりを告げて。

 俺たちは今日も、道を異にする。



  *



 昼過ぎに親父さんの店を出た俺は、それから日が落ちるまでせっせと勤労に汗を流した。

 安楽稼業。いつの間にか、人からはそう呼ばれるようになっていた。

 睡眠薬、銃弾、それだけだ。痛みも恐怖もなく殺してやれる。得られるものは少しの感謝と自己満足だけ。ごくまれに殺した人の金品を拝借することもあるけれど、それは滅多にやらない。だいたい、カネなんて親父さんのとこぐらいでしか使う機会ないし。

 だけど、それでも、俺はこれを仕事と呼ぶ。これをやめたら俺の生きている意味なんて無くなってしまうのだから――ひいては生きていくことが出来なくなってしまうのだから、それは仕事と呼んで然るべきものだ。俺はそう思っている。

 朝起きて日が落ちるまで、ほとんどずっと毎日毎日、俺は二十四時間のうち大半を仕事に費やしている。

 もし、仮に。普通の感性をもった人間が目の前にいたとしたら、そいつは俺のことをどう思うだろう。狂っていると思うだろうか。思うでしょう。人を殺すのが唯一の生きがいだなんて、ちょっと前の世の中だったら完璧にレールアウト。まあそれは今でも一緒だけど、違うのは法に束縛されることがなくなった、という部分だけ。


 先の一件、世界滅亡が公に露見されてからすぐ、ほんの僅かな間だけだったが、語るにも聞くにも耐え難いほどに、それは酷い暴動が起こった。政府が崩壊して、政府傘下のさまざまな機関も崩壊して、これ以上壊すものがなくなって、それでおしまい。暴動が起こせるだけまだマシだった。感情のやり場があったから。

 でも、それが終わってからはもう、やることはすっかりなくなってしまった。感情をぶつけられるところは全部、大から小の隅から端まで見境なく潰し終えてしまったのだ。あとは例のコロニー事変があって、残った僅かな命の奪い合いをして、おしまいを迎えてからも尚、同じことを繰り返す。人間という生き物は全生態系の中でも特別に頭の悪い集団だと思う。

 だから形は何であれ、俺のように生きがいを見つけることができた人間は本当に幸運だ。生きがいが無くなった人間はみんな、端から生きることを諦めていくんだから。そしてそれ故に俺の仕事が仕事として成り立っている、という結論に行き当たるというわけだ。

 ちょっと昔を思い出してみる。今とまったく変わらない、どうしようもないほどバカだった頃の自分を。

 ――………………。

 ――…………。

 ――……。

 やめた。

 生涯忘れることはないだろうけど、思い出さずに済むならそのほうがいい。だけど、絶対に覚えていよう。そうじゃなきゃ今まで迷惑をかけてきた人への申し訳が立たない――そんな便利な免罪符。

 茜空が宵闇に溶けていく。もうじき、夜になる。

 次で今日の仕事は終わりにしようかな。それが終われば、また明日。こうして一週間なんてのはあっと言う間に過ぎていくんだろうな。

「どこかに死にたそうな人はいないかな、と」

 とっとことっとこ、意識的に軽い足取りを作って道をゆく。誰かを殺すために道をゆく。我ながら実に終わってる。なんて脆弱なんだろう。

 親父さんみたいに強くありたいと願ったこともある。でも、無理だった。そもそも、目標にできるような人じゃなかった。

 親父さんはあまりにも強すぎる。俺みたいに明確な生きがいがあるわけじゃないのに、こんな状況でもしっかりと自分を保っていられるんだ。想像がつかない。どんな精神してるんだよ。無理だ。あの人を目指すなんて、俺みたいなのには到底できやしない。

 少しだけ考える。俺みたいな人間でも、もう一度スタートラインに立つことができるんだろうかと。我ながらバカかとは思う。もし変われたとしても、所詮は一週間という短すぎる余命。変われるはずがないんだ。だから俺は変わろうなんて微塵も思わないまま、これからもずっと誰かの命を奪って自我を繋ぎとめていく。俺という人間は最低のエゴイストに違いはないのだろう。

「でも、仕方ないんだよ」

 仕方ない。自分でもわかってるんだ。どうしようもない。だから俺は変われない。だから俺は変わらない。奇跡なんて起きるはずがない。俺にできることなんてない。

 と、ひとしきり感情を吐き出してみて、あらためて自分という人間の小ささを知る。どうしてこんな大人になっちまったんだか。不貞の息子の更正を信じて死んでいった親父とお袋も草葉の陰で泣いているに違いない。

 思考の渦を振り切って、俺は再び歩みを進めた。



 そうして無意識に歩いているうち、不意にほのかな外灯に照らし出された小さな公園が目に飛び込んできた。

 それは小さな小さな公園だった。砂場にブランコに滑り台、それに気持ち程度のベンチが備え付けられただけの単純な構造。

 それなのに、俺はそのちっぽけな空間から目を離すことができなかった。完全に意識を奪われていた。どうしてだろう。この感情は、なんだろう。

 まるで神託を受けたかのような錯覚を覚え、俺はふらふらと吸い込まれるように公園に足を踏み入れる。思えば、公園なんていうラブアンドピースな場所に足を運ぶことなんて何年ぶりのことだろうか。ずっとずっと昔、俺がまだ無邪気なガキでいられたころ――ああ、きっとそれ以来だ。長いこと縁のない人生を送ってきたんだな。この感情はきっと、そんな忘れ去ったはずの幼少時代のフラッシュバックか何かなんだろう。よくわからんけど、嫌な気分じゃないのだけは確かだった。

 黄銅色の風が荒んだ空を舞い、コールタールと化した闇夜は例外なしに大地を染め上げる。この公園も一緒。聖域なんてもう、どこにもありはしないんだ。

 暦の上での話なら、今は春という季節まっさかりに該当する。だけど公園の花壇には薄茶色の乾ききった土がごろごろと転がっているだけ。そこにはもう、色なんて存在しない。無常としか呼べない四季が痛々しくも確かに流転していく。

 そんな景色を眼下に据えて、俺はその身をちっぽけな公園の中に投げ入れた。

 思ったとおり、そこには、なにもなかった。

 荒れ果てた砂場が痛々しかった。

 倒壊したブランコが痛々しかった。

 ぺしゃんこになった滑り台が痛々しかった。


 悲壮な面持ちでベンチに座り込む少女の存在が、痛々しかった。


 何やってんだろ、この子。

「ぁ……ぇ……?」

 招かれざる客の来訪に気付いた少女は、あろうことか涙でくしゃくしゃになった顔を俺の眼球めがけてまっすぐに向けてきた。その表情があまりにも壊れた人間のソレだったもんだから、俺の表情筋は少なからず動揺の色を映し出してしまったらしい。

「ぅ……く……ぅっ……」

 少女は慌てて顔を伏せ、だけど涙だけは止まらないようで、切なげに声を押し殺して泣いていた。この腐った世の中になってからいろいろな涙を見てきたけれど、目の前のこれはその中でも最高クラスに危ない涙だ。一目で察する。肉親か、それと同じぐらいに親しかった誰かを失ったのか。憐憫こそあれ、安い同情の念など湧き上がりようもない。それぐらい、それは悲壮に満ちた涙。

「えっと、あのさ」

 そしてなぜか、彼女に向けて声をかけている俺がいた。思考よりも衝動が先に立っている。何を言うかも決めていないのに。言うべき言葉なんてあるはずないのに。

「その、ね」

 ええいままよ。乗りかかった船は最後まで、だ。

 俺は文字通り少女の目と鼻の先にまで歩み寄り、その目線と同じ高さにしゃがみこんで、

「泣くなよ」

 ぽん、と手のひらを頭に乗せてやった。

「ふっ……うぁぁ……」

 ゆっくりゆっくり、少女は上目遣いで顔を上げた。両目のふちに溢れる涙を溜め込んで、その感情はきっと爆発寸前。

 泣くなよって、アホか俺。

「本当に辛かったら泣いてもいいんじゃないかな」

 逆転の発想とやらで百八十度意見を転換してみる。

「うぅ、ふ……っ、あぅ、ひぐっ……」

 我輩は馬鹿である。

 ああ、これは爆発するなと思った矢先。

「う……うあ、うあぁぁぁぁぁぁ―――――――――――」

 爆発した。

 細い腕にぐっと力を込めて、必死に俺の首筋にしがみついて。何かに怯えているのか、それともそれは悲しみの境地なのか、少女の体は小刻みに震えていた。

 自分の胸のあたりに僅かな熱っぽさを感じた。熱っぽいんだけど、それはどうしてか氷のように冷たかった。俺の胸を伝って少女の悲しみが流れ込んでくるような錯覚。耳を覆いたくなるような悲壮の叫び。それほどに、その慟哭はあまりにも悲痛すぎた。

「あぁ――うああああああ―――ああああああぁぁぁぁぁぁぁ――――――」

 どうして俺はここにいるんだろう。誰かを殺しにきたはずなのに、どうして見知らぬ誰かさんに胸なんか貸してやってるんだろう。

「――あ、あぁ――う、ぐっ、ひぐっ、う、うああああぁ……」

 ――まあ、いいか。

 自他共に認めるダメ人間の俺だけど、今この状況を放り投げていけるような図太いタマも持ち合わせちゃいない。だから、せめてこの子が泣きやむまではこの場所にいてやろうと思う。柄でもないけど。

 泣くことに疲れたら、少し眠るのもいいだろう。

 おやすみ、名も知らぬ女の子。



  *



 腕時計の短いほうの針がだいたい三周ぐらいしてからだろうか。

「え……ぇ、と、……っ……?」

「おはよーさん」

 俺の腕の中、ようやく眠り姫はお目覚めのご様子。

「よく眠れた?」

「え、えーと……そ、そのー……」

 寝ぼけまなこに少しずつ慌ての色が差し始める。あれだけ泣きはらしたのだ、目が充血して真っ赤だった。あと顔も。

「も、申し訳ないです」

「いや、別にいいけど」

 状況判断力は高いようだ。焦ってはいたが慌ててはいない。極めて自然な動作で、少女は俺とのあいだに僅かな、しかし確実な距離を作った。

 どれだけ親しい間柄でさえも人と人との間には絶対の距離が必要である、とは誰が言ったか、果たして。人は依存する生き物であるのにも関わらず、完全に相手を信用することができない生き物であって――とまあ、そんな狂言をぐちゃぐちゃと脳内でかき回してみるわけだ。この子に俺の持論が通用するかどうかなんて知らないけど。

「何と言ったらいいのか、その、うー、いや、とにかく、申し訳ないです」

「だから別にいいんだって」

「で、でもですねー……」

 堂々巡りになっちゃうから、そういう意味のない頑固はあんまりよくない。しかしまあ、礼節とやらを大切にするのは若者として非常に感心。もしも学校ってものが残ってたとしたら、この子はちょうど中学生ぐらいだろうか。高校生って言うにはちょっと無理があるかな。

「……あのー?」

 そうしてひとり妙な感慨に浸っている俺を見て、少女はとても怪訝そうな眼差しを向けてくる。少しトリップしてた。俺は慌てて真顔を作る。

「ま、まあほら、少しは元気になったみたいで何よりだよ。思いっきり泣いたあとって腹減るよね。なんか食う? 手持ちはクソ不味い携帯食料しかないけど」

「え、あ、その」

 少女の返答を待たず、上着のポケットから携帯食料の箱を取り出して、その中から棒状のひとつを手渡した。

「ほい、どうぞ」

「あ、は、はい。どもです、ありがたいです」

 よかった、受け取ってくれた。余計な善意だったかもしれないけど。

「……その、いただきます」

 携帯食料を手渡してすぐ、僅かではあるがそれに口をつけてくれた。中途半端な遠慮は逆に相手を不快にさせることも知っているようだ。重ねて感心。

 それにしても不思議だな、こんな不味いものでも、不思議と自分以外の人間が食べてるのを見ると美味そうに見えるんだから。そう思って何度騙されてきたことか。この粘土細工め。

 いやまあそれはさて置きともかく。こういう気の利く相手にはさっさと話を切り出してやらなきゃならない。この子のためにも、それに何より俺自身のためにも。

「食事中で悪いね、聞きたいことがあるんだけど」

「ふぁ、ふぁい?」

 そりゃ食事中ですので呂律も回らんでしょう。愉快な返事をありがとう。気にせず続ける。

「俺、今すぐ消えたほうがいいよね」

「……ふぇ?」

「だからさ、この場所からいなくなったほうがいいよねって。なし崩し的とは言ってもさ、俺は勝手に君の内側に踏み込んじゃったんだ。嫌だったろう? 悪かったね。犬に噛まれたとでも思って、ってのはきついだろうけど、まあ運が悪かったよね。ドンマイ」

 早口に言う。自分の居て良い場所とそうでない場所の区別、判断。この世界で生きていくには必要不可欠なものだ。

「まあ、そういうことだから。辛いだろうけど頑張って生きてね」

 心の中ではすっかり帰り支度をまとめていた俺。それに遅れること数秒、言いにくそうにおずおずと口を動かす少女。結果は聞かずとも然り。さて、さっさと帰るとしよう。

「ま、待ってください」

 ……あれ。

「あ……ごめんなさい。……でも、その、ひとりは、嫌です」

 口調こそは柔らかさを保ったままではあるが、その瞳に映し出された真実の彼女自身は隠しようもない。ついぞ先ほどまで悲哀の慟哭に囚われていた少女。今もまだ、その瞳は色を取り戻せてはいない。取り戻せる日など来るのだろうか。

「マジって書いて本気?」

「えっと、あくまでわたし自身の勝手な希望ですから、お兄さんが嫌ならそれはそれで一向に構わないんですけど……その。あと逆ですよ」

 その通り。カタカナに漢字でルビ振ってどうすんだ。

 ……そんなことより。果たして俺が何をした。俺がやったことと言えばせいぜい励ましの言葉をかけて頭を撫でて胸を貸して寝てる間の見張りをして食事を与えて――以下略。

 ……ほんとに俺は、救いのない馬鹿で。

 何をした、じゃない。

 何かしてるよ、とっくに。

 もし仮に俺が彼女のように失意の底に叩き落とされたとして、そこにタイミング良く、ここまで善意を寄せてくれる相手が現れたとして。そいつを頼らない理由が、果たしてあるだろうか。

 つまり、彼女もまた、そういうことなのだろう。

「もう少し、あとほんの少しでいいんです、わたし、すぐに立ち直りますから、ですから」

 聞くに堪えない。

「もういいよ、わかった。そこまで言われてじゃあまたねなんて言えないよ。君が満足いくまでここにいてあげるよ。俺なんかでいいならね」

 ほとんど諦め気味に言う。今回ばかりは全面的に俺に非がある。取るべき責任は問われなければならない。

 と、いうわけで。

 名も知らぬ少女の天涯孤独デビュー記念日。

 祝宴の参席者は俺だけ。

 絵にならないことこの上ない。

「そだ、君、名前は?」

「あ、申し遅れました。わたし、夢って言います。春澤夢。変な名前ですよね」

「……へぇ、夢、ね」

 いい名前じゃないか。いつも明日を夢見て生きてほしい、そんな感じの願いが込められた名前なんだろう。俺の勝手な想像で失礼だが。明日を夢見て。ちょっと昔の世の中なら、それは実に美しい響きだと誰もが口を揃えて言うだろう。じゃあ、今の世の中ならどうか。決まってる。

 なんて、残酷な名前なんだろう。

「いや、いい名前だと思うよ。少なくとも俺は」

 本音は胸に秘めるだけにしておこう。

「そう言ってもらえると嬉しいです。実はわたしも自分の名前、ちょっとだけ気に入ってるんです」

「へえ、珍しいね。自分の名前を気に入ってるっていう子、あんまり会ったことないんだよね」

「そうでしょうか。あ、その、よろしければ、お兄さんのお名前も聞かせてくれませんか」

「俺? 俺は空人。二宮空人」

「そらと、さん。へえ……とても素敵なお名前です」

「空みたいに広い心を持った人になりなさいって、そんな意味があるんだぞーってことをガキのころ親父に聞いたことがあるね。その希望に満ちた人格の完成品が今の俺なわけだけど、どうかな、夢ちゃんから見て、俺って広い心持ってるように見える?」

「見えますよ」

 即答だった。

 いや、そこで小首を傾げられても。

「空人さんは、わたしに手を差し伸べてくれました。わたし、そのお陰でとっても救われました。空人さんに声をかけてもらわなかったら、わたし、きっと自殺とかしちゃってたと思います。そんなどうしようもないわたしにわざわざ声をかけてくれたんです。心、とっても広いと思います」

 なんか今、さらっと重かった。聞き流すことにしよう。

「いや、その、そんな風に言われると調子狂うね。俺は自分のことすっげー心の狭い人間だと思ってるからさ、そういう感じに言われると自意識との齟齬があれこれで困っちゃうわけですよ。嬉しいけどね」

「面白いですね、空人さんって。何言ってるかわかんないです」

「辛辣っ!?」

「あはははー」

 笑ってくれた。年相応な、無邪気で可愛い笑顔だった。正直、俺にはわからない。なんで笑ってられるんだろう。家族を失くしたんだろう? 最初に見せた壊れた姿、あれが本当の君の姿なんだろう? 無理なんて、しなくてもいいのにな。いや、俺が無理をさせてるのか。やっぱ消えちゃえば良かったかな。

「笑顔になれるって、いいことですね」

「いやはや、まったくもってその通りだね」

 わかんねえなぁ。

 そうやって自分を保ってんのかね。



  *



 それから小一時間ほど公園で無為な時間を過ごしてから、俺たちはふたり並んで街灯のない夜道を歩いていた。行く先はほとんど真っ暗で何も見えなかったけれど、しばらく暗がりに耐えているうちにだんだん目も慣れてくるもので。今しがた、隣を歩く夢の表情をどうにか判別できるぐらいには瞳孔も開いていた。

「寒くない?」

「はい、大丈夫です」

 前述のとおり、暦の上では今は一応春だったりするけど、すっかり大気汚染が進行しきってしまったこの星においては季節感なんてもはや有って無いようなもの。夜は依然としてキンキンに冷え込むので、薄着の夢のことがちょっと心配になる。本人が大丈夫って言うんなら大丈夫だと思うけど。

「到着するまで、雑談でもしてようか」

「そーですね。えーと、それじゃ、空人さんって、身長どれくらいあります?」

「そうだなぁ、そんなに高いほうでもないけど、七十五とか、そんなもんじゃないかな。ここんとこ正確に測ってないから真偽は定かじゃないけど、まあそんなもんじゃないかと思うよ。夢ちゃんはだいぶ低いみたいだね。五十ある?」

「……けっこう気にしてるんですけど、ぜんぜん伸びないんですよ。毎日牛乳飲んでたんだけどなぁ」

 過去形なのは如何ともし難い。

「ま、そんなに気にすることもないと思うよ。まだまだ若いんだし、中学の終わり頃からが成長期って子もたくさんいるんだから」

「わたし、こう見えても十七なんですけど……」

「マジっすか!」

 両手をバンザイしてみたりしながら大仰に驚いてみせた。いや、実際驚いた。見えねえ。

「よく驚かれます」

「そりゃ驚かれるわな。お兄さんもびっくりだ」

「ちなみに、空人さんって、お幾つなんですか?」

「何歳ぐらいに見える?」

「二十八ぐらいに」

 ぐあ。割とショックだ。

「二十歳。ハタチだよ、俺。そんなに老けてるかなぁ、俺って」

「へえ……そうなんですか。わたし、てっきりずっとずっと年上の方なのかなぁって思ってて。老けてるってわけでもないんですけど、なんて言いますか、その、人生を知り尽くしてるって感じの顔をしてます。空人さん」

「なんだそら。人生なんて知らないよ。『無知を知ることが真なる知』だなんて昔の偉い哲学者さんが言ったらしいけど、俺のはそんな高尚なもんじゃない。狭い世界で生きてきたんだ」

「そーですかねー……空人さん自身がそう言うなら、きっとそうなんでしょうけど」

 益体のない会話が延々と続く。あまりの非現実っぷりに錯覚を起こしてしまいそうだ。俺は何をしてるんだろう、俺はどうしてここに居るんだろう、俺は誰と話してるんだろう、俺はどうしてこんなことを話してるんだろう、とか。その辺を疑い始めると実にキリがない。非生産的すぎるのでこのあたりで止めにしておく。

「と、わわ」

「うおう、あぶね」

 暗闇に足を取られたのか、不意に夢の体が前方へと揺らぐ。俺の反射神経も未だ耄碌(もうろく)はしていないようで、とっさの反応でどうにか骨と皮ばかりの夢の腕を握る。どうにか転倒の危機は防がれた。

「はー、ありがとうございます」

「どうしたしまして。気ぃつけてね」

「肝に銘じます」

 どうにも、現実を忘れて空気に飲み込まれそうになってしまう。いかんせん、この少女の被ったペルソナはあまりにも居心地が良すぎるのだ。君とは初めて会った気がしないんだ……使い古しのナンパの常套句っぽいなこれ。

 それはともかく、ペルソナ――仮面は言いすぎにしても、彼女が根本に抱えている気持ちを押し殺しているのは明確である。

 無理をさせているのは間違いない。もしくは逃避の類か。あんまり深くを突っ突かない程度に、彼女の現実を取り戻してやらなきゃならない。夢のためにも、俺自身のためにも。深みに入りすぎるのはよくない。

 たった、一週間なんだ。

「で、あとどれくらいで到着すんのかね」

「ん、もう、すぐそこですよ。ほら、あれです」

 ぴ、と細い人差し指が示す直線上、暗闇にぼんやりと浮かび上がる家屋のシルエット。近付くほどに明瞭さを増してゆく陰影、徐々に鳴りを潜めてゆくアンリアル。御伽の夢見はもう終わり。魔法はいつか解けるもの。

「ほー、いい家だね」

「ども」

 屋根は半分剥げている。塀はほとんど倒壊している。窓はどこだ。

 吹きさらしも同然となった眼前の家屋に対して俺が抱いた感想は、だけど、慰めとか世辞とかそういう類のものでは決してない。だって、家がまだ家の形を保っているって時点で結構レアなのだ。そこに人が住んでいるともなれば尚更。

 ここに夢は、少なくとも昨日までは家族みんなで暮らしていたらしい。見たとこ聞いたとこ、祖父母や兄弟もいないみたいだから、今日から完全に天涯孤独か。この時勢、そうした事例は別段取り立てて珍しがることじゃない。よくある話だ。俺の仕事みたいなのが成立しちゃうんだから。

「それじゃ確かに、ご自宅までお送りしましたよ。俺なんかのエスコートで恐縮だけど」

「そんなこと言わないでください。ありがとうございます。本当に、ありがとうございました」

 夢は律儀に頭を下げて、何度も何度も礼をよこした。悪い気なんてするはずがない。するはずないから、今のうちに終わりにしよう。

「それじゃ、俺の役目はここまでね。さよなら」

 焦ったりはしない。自然な動作で、自然な別れを演出する。もう二度と会うこともないだろうよと、すでに交錯を終えた視線で語る。

 すると。

「行かない、で」

 声色が変わった。

 というか、まんま震えてた。

「……何か?」

 仕方ない。振り向いた。

 少女は泣きそうな顔で、俺の瞳を正面から見据えている。

「嫌です、ひとりは嫌です……怖いです、行かないでください、ずっと一緒にいてください……」

「……それは約束が違うよ」

「でも、だけど、怖いんです……誰もいないの……お願い、空人さん、ここにいて、一緒にいて……」

 こうなることを危惧していたと言うのに、どうしてその通りになってしまうのか。今になって思えば、今になって思わなくても、悪いのは完全に俺なんだけど。

 ここまで相手をしておいてはいさようならなんてどこまで好都合。たった昨日の今日、どんな状況でそうなったのかはわからないけれど、実の両親との永訣を済ませたばかりの十七歳の少女が、あれしきの涙で立ち直れるはずがない。

 夢は最低ラインの自我を保つためにすら、どうにかして依存できる場所を手に入れる必要があった。無条件に自分の側にいてくれる、そんな存在を。そしてたった今、求められている存在それこそが、俺。

 わかるんだ。

 でもね。

「それは、ダメだって。俺も日々の暮らしで手一杯なんだ。俺には君の人生にまで介入する余裕もないし、覚悟もない。中途半端に踏み込んだら両方が壊れるだけだよ。そういう風に壊れてきた人間たちを、俺は今まで、何十何百と見てきたんだ。……ほんの僅かな時間を一緒に過ごしただけだけど、俺は別に君のことが嫌だってわけじゃないよ。この数時間だけで言わせてもらえば、好意だって持ってるぐらいだ。知り合ったからには、幸せになってもらいたいと思ってる」

「じゃあ――」

「だからこそ、君は一人で生きていくべきだ。俺も一人で生きていく。たまには会って今日みたいにお喋りしよう。そういう関係が一番だよ」

「……そんな、の」

「ごめんね。また、いつか」

 傷つけることは、傷つくことでもある。心を巡る疼痛は、だけど今この時だけは無視してしまえばいい。取り返しのつかない事態になるよりよっぽどマシだ。俺はあくまで能面を、ペルソナを被り、脆弱な自我を気持ちばかりのメッキでコーティングして、今度こそはっきりと踵を返す。重い足を無理矢理に前に押し出して。

「……空人さんの、せいですからね」

 なんか言ってる。でも足は止めない。

「あなたのことを、好きにならない理由はないんですから」

 なんか言ったぞ。でも足を止めるな。

「助けてくれてありがとうございました。本当に嬉しかったです。格好いい年上のお兄さんで、こんなに優しくて、わたし、ずっとどきどきしっぱなしです。ほんの少しの時間だったけれど、錯覚だなんて思いたくありません。今のわたしには、その気持ちの他には何もすがるものが残されてないんですから。……だから、好きです、空人さん。好き、です」

 とっくに足は止まっていた。

 参った。ここまで言われるとは、完全に予想外だった。自分に誰かから好いてもらえるだけの器量があるなんて思ってないし、震える声で愛の告白なんかをされてさえなお揺るがない心なんてものを持ってたらこんな回りくどい苦労はしない。

「空人、さん」

 視野には映らない背中から、少しずつ近付いてくる足音が聞こえる。やばいな、これ。

「……気持ちは嬉しいよ、だけど」

 止まらない。気付いたときには時遅く、目線を下げた先には、背中からふわりと回される両腕があった。理念の上では当然だと思うことでさえ、触れ合ってみて、初めてわかることもある。夢の体は小刻みに震えていた。ぶるぶる、ぶるぶると。緊張による震えとは違う。恐怖に怯えるそれだった。

 篭絡されてしまいそうになる。こんなにも強烈に、彼女の中の人間を見せられてしまったら。それを抜きにしても、夢には世辞ではない魅力がある。栄養失調で痩せ衰えた体躯は隠しようもないけれど、そんな極限下に置かれてさえも夢は綺麗だと思えた。あまりにも危うく、それゆえに美しい。

 半ば崩壊しかけた自我が、すんでのところで修復を始めることができたのは、反射的に脳裏に浮かび上がってきた『あいつ』の顔のおかげだった。まだ大丈夫。まだ耐えなきゃならん。

「俺、好きな子いるんだ。初恋の相手が忘れられなくてね」

 嘘じゃないよ。やんわりと、できるだけ優しく、腰に回された夢の両腕をほどいていく。抵抗はなかった。

「……空人、さん」

「なにかな」

「また、明日」

 迷った。選択肢はそれぞれ二つ。

 選択肢その一。振り向くか、振り向かないか。

 俺は後者を選び、今度こそ堅い意志で歩みを進めてゆく。

 選択肢その二。先刻の台詞を言い直すか否か。

 一瞬のあいだに目まぐるしく思考の渦を切り替えて、俺は。


「また明日ね、夢ちゃん」


 前者を、選んだのだった。



  *



 体の覚えているままに足を動かしているうち、いつもの寝床に辿り着く。

 時計を見れば夜中の一時。もうそんな時間だったのかと感じる自分と、まだそんな時間だったのかと感じる自分の両方がいた。無理もないやな、と苦笑する。

 意味もなくため息なんかついてみたりして、俺は大仰に漆黒の夜空を仰ぎ見た。

「……綺麗だよなぁ、おまえ」

 小さな広場。

 閑散とした空間の中、目の前には満開に花を咲かせた大きな桜木。

 大きな大きな、桜の樹。

 僅かな風がリズミカルに木立を揺らすのに合わせ、はらりはらりと桃色の涙をこぼしている。

 この辺り一帯で唯一、春という季節を感じさせてくれる場所。世界の終わりなど微塵も予感させぬほど、その桃色の美しさは常世離れしたものだった。そして、その儚い命は一瞬で散ってしまうと知っていたからこそ、その美しさは一層際立って見えた。

「ほんと、綺麗だ」

「私のこと? あは、褒めてくれて嬉しいな」

 うおー、喋った!

 マジかよ……って、マジで?

「喋れたのか、おまえ……」

「自分でも不思議なんだけどね。どうしてだろうね」

「……あんまり無理するんじゃねえぞ。おまえの体って、どんだけ脆いと思ってるんだ」

 俺はもう一度ため息をつき、どっかりとその場に腰を下ろした。

「この辺さ、カラスがわんさかやって来るだろ? そいつら、おまえのこと突っ突いたりしない?」

「しないしない。仲良しさんだもの」

 へぇ、仲良しさんなのか。そりゃすげえ。

「腹減ってないか? 喉渇いてないか?」

 物言わぬはずの桜に向かってぶつぶつと言葉を投げかけるアブナイおにーさん、イズ、ミー。ちょっと昔なら通報されてるぜ。

「うーん……今は、大丈夫」

「そっか、無理すんなよ」

「うん、ありがとう」

 その言葉を最後に、桜は喋ることをやめた。

 本来あるべき形に戻った。

「……」

 たった今起こっていたことは間違いなく奇跡なのだとわかっていても、やっぱり寂しい。

「じゃ、俺も寝るね。おやすみ」

 返事をしない桜に声をかけ、俺は地面に身体を横たえた。

 見上げた目線の先にあるはずの闇夜は、鮮やかな桃色のおかげですっかり覆い隠されている。おかげで少しばかり気持ちが落ち着いた。

 だから俺はいつもより穏やかな気分を胸に抱き、瞳を閉じることが出来る。

 仄かに揺らめく世界に告げる、言の葉を。 


 願わくば、今日より明日が少しでも。

 悲しくない日で、ありますように。

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