鮮やかなこの世界 ②
イニーが生きるのは惰性だ。
積極的に死ぬ気はないが、消極的に死を受け入れている。
蹴られ、殴られ。時には踏まれるが、逃げ出さない。消極的な自殺と形容してもなんら違和感のない光景だろう。
「イニーさんは何で、その……。逃げたりしないんですか?」
夜中に会うのが日課になっていたニエが問いかけるのも当然と言える。
今でこそ術式による治癒があるため眼に見える傷跡は深くはないが、一時はそれこそ死んでしまうのではとニエが泣き出すほどに酷かった。
「逃避に意味はありません。そして、一度逃げればそれが僕の枷となりそうです」
それはふと出た言葉だ。本心であるかも怪しいようなもの。
だが自ら言ってからイニーは納得する。それこそが答えなのだと。無論、やはりそれも意味があるわけではないのだが。
「ああ。そうですね。無計画の逃避は、意味がないのでしょう。だから行なわない。計画的な逃亡ならば悪くはないでしょうけれど。ただ、行く宛てもありません」
あるのならばこの村には引き取られなかっただろう。売られなかっただけで御の字か、それとも売られた方がまだマシな待遇だったか。
「あ、なら同じだね。……ね、ねぇ。いつか、一緒にどこか、行かない?」
「そうですね。もう少し歳を重ねるまで互いに無事ならそれも悪くない選択なのかもしれませんね」
「う、うん。約束だよ!」
告白に成功した子供のような顔で、いやその通りなのだろう。少女は嬉しそうに尻尾を揺らし、耳をピンと立てる。。
それに対してもやはりイニーは無表情。術式についての本を読み解き、理解しながらの返答だ。本気なのか寝物語でも語っているのか。
「どうやら僕の適正は物質生成、土術、身体系術式みたいですね。変化なのか強化なのかまではわかりませんけれど」
言いながら土を掘り、僅かな塊を手の平に乗せてイニーは術式を展開する。
作られるのは土の針。触れれば砕ける程度の柔なものだ。
「術式が切れれば、ただの土になります。けれど物質生成ならば土には戻らずこの形を維持する。便利なものです」
「私にはよくわからないけど、どう違うの?」
出会ってから一年が経つというのに、ニエは術式について理解を深めていない。
子供だからというよりは才能がないのだろう。
首を傾げるニエに、イニーは思考する。違い簡潔に表すにはどうするべきか。
「そうですね。操作系の術式は、火や水など形のない物にも適応されます。術式の組み方によっては、実際に形があるものはその形を維持するでしょうが」
「……? ごめんなさい。えっと、よくわからないかな……」
「ふむ。自然系は自然を操る術式です。ですが操り方にも二通りあります。土ならばこのように『一時的』に形を整えます。攻撃用の術式で使われる方法ですね」
「それは、その、すぐに消えちゃうの?」
「はい。ですが土術や水術は例外です。水を集めるぐらいならばともあれ、壁となると術式を学ぶ必要があるようですが」
教師のように朗々と淀みなく語る姿はいっぱしの術士のようだ。
事実そうなのだろう。数ヶ月の間術式を学ぶ事はイニーの才能を開花させることに繋がっていた。
「なら、えっと。土とか水とかは、えっと。使っても消えないの?」
「なくなるらしいですよ。土を集めれば、他の部分の土が。水を集めれば他の部分の水が。炎などと同じく量があるらしいというのは書いてありました。そして物質生成系は、元からある物、土や鉄などを好きな形に弄る術式ですね。……詳しいことは貴女の主人にでも聞くと良いでしょう」
彼女の主人、奴隷を買った男は術学者。だからこそ貴重な術式の学術書が存在する。
もしも書かれた文字が王国語でないならばイニーには読めなかっただろう。
「貴女も猫なのですから術式の才能はあるように思いますがね」
「う、ううん。全然無理だよ。お料理とかで使えるけど……」
「十分だと思いますがね。争うことと戦うことだけが全てではないようです。生きる事が出来る程度の力があれば良いだけなのですから」
「う、うん。そうだよね。うん!」
イニーに肯定されるたびに尻尾が弾むように揺れる。
無関心そのものだと言うのに彼女は気にもせずに顔を赤くする。
「では戻ります」
「あ、うん! またね、イニー。ちゃんとどこかに行こうね!」
そう言って手を振るのを背にしてイニーは寝床にしている小屋へと戻る。
変わり映えのない日々が続くのをイニーは知っている。
この先、ニエがどのような目に合うかも薄々ながら知っている。
ただ雑用を行なわせるだけならば少女ではなく少年の方が都合のいい事も。奴隷を買うぐらいならば、村の少年を雇ったほうが良い事も。
「しかし、夢ぐらいは見ても良いのでしょうね。どうせ、この世は無価値なのです。それを知る前に価値があると信じるぐらいは許される行いなのでしょう」
底冷えする声はこの世の真理を謳うように淡々と連なる。
彼女の運命は想像に難くはないのだ。精々、死ななければ儲けもの。どこかを失うぐらいならば当然。
小さな村で研究をしている術学者だ。王都で働いていないのならば何かしらの問題がある者に限られる。そして、そうなれば。
「この戦乱、王国が潰れる事はないはずですが。だとしても、何処に行くというのでしょうか。この世に安らげる場所など、あるはずがないのに」
僅かに見せた表情は哀惜の念が篭っている。この世に対する全てが無価値である事を憂いているのか。それとも、また別のことがあるのか。
「ん?」
小屋へ戻ると、人影が一つ。
形からしてそれは叔父のものだ。月明かりに照らされる叔父はまるで悪鬼の如き形相。
「テメェ。何してんだ!?」
今日は格別に、ご機嫌なようだとイニーが理解したのは何か巨大な棒で殴れた後。
吹き飛び、一瞬視界が暗くなる。
「こんな! 時間に! 外! 出やがってよ! テメェは! 俺をどれだけ苛つかせりゃ気がすむんだ!」
棍棒を振りかぶり、殴る。殴り。殴った。
地面に叩きつけるように。岩を砕くように。酔っているのだろう、呂律も怪しく顔も赤い。
普通の子供ならば三度は死んでいるような殴打。それを受けて、イニーは立ち上がる。
身体系術式を学んで居なかったのならば最初の一撃で死んでいただろう衝撃。
まだ術式の構成が甘かったのだろう。頭は割れて、肺も破裂し、骨も何本が折れている。
「何まだ立ってやがんだぁ!」
泡を吹き出しながら叔父は叫び、再度棍棒を振り上げる。
イニーに恐怖はない。この世は無価値だと知っている。
それでも。わざわざ自ら死ぬ気はない。
「っと」
避ける。避けられる。無様で、嘲笑が漏れるような避け方だが。
それでも、避ける事が出来た。
「避けるんじゃねぇクソガキがぁ!」
更に叔父の目は血走り、もはや狂気に侵されているかのよう。酒を狂気の源とするならばその通りだが。
避けて、よろよろした足取りでイニーは小屋へと向かう。何か秘策があるわけではない。
ただ、天才といえどまだ子供。本能が向かわせるのは唯一休むことが出来る場所。
そこが例え逃げ場のない場所だとしても向かう場所など其処しかなかった。
「クソが、手間かけさせんな、誰が育てたと思ってんだ、おい!」
叔父が棒を投げ捨て小さな背中に向かい拳を振り下ろせば、イニーの身体が地面を抱擁する。そしてそのまま上に乗り。
「死ね! 死ね! テメェが居るから、俺らが、不幸なんだ、このクソガキが!」
首を絞める。
力を込めて、己の鬱憤を晴らすために。先のことなど何一つ考えていない姿。
それにイニーは、笑う。
「なんだ」
首に力と体重が乗って苦しみは当然ある。
しかし。それでも。まるでそれが当然であるかのように腕が動き。
「簡単な事なのですね、世界は」
笑みは、嘲りだ。
「先のことを考える意味はないのですね。なんだ、今まで未来を考えていたのがバカらしい。世界はそこまで愚かだったという事なのですか」
楽しそうに。心の底から愉快だと賛辞するようにイニーは笑いながら、叔父の眼球を引きずり出す。
「ァ、な、な」
突然の痛みに、それも今で殴られるだけの生物だと考えていた存在に眼球を抉られ叔父は混乱しイニーから逃げるように離れた。
その隙を見逃すほどイニーは愚かではなく、情もない。
左手で抜き取った白い糸のような神経が垂れ下がる目玉を投げ捨て、涙のように血が流れる叔父に向かい、土で作った鈍器を使って脚を払い、倒れた所で喉に鈍器をたたきつけることで声を潰す。
「無価値です。この世は灰色だ、何も面白みがない。だから、僕は己を守るために意味のない殺人を行ないましょう」
宣言は誰に向けたものか。己か、世界か。
それとも、すでに死んだ両親か。
小屋を形作る木片を使い四つの杭が作られ、次いでその杭を叔父へと打ち込む。声の出せない叔父を相手に万全を期すために。
四肢を地面に縫いつけ、更になんとなくもう片方の瞳も小さな指を押し込み、丁寧に抜き取る。白い糸がやはり伸び、ブチリ、ブチリと聞こえてくるような錯覚に陥りながら完璧に取って手の平に乗せるも。
「案外、丸くないのですね。触り心地は悪くありませんが……。月と同じぐらいに丸いと思ったのに期待外れです」
溜息と共にその瞳を握りつぶす。
「さて。とりあえず、叔父さんを殺して……いや、でも。そういえば」
苦痛と恐怖でもがき必死で杭を抜こうとする叔父を横目で見ながら、イニーは一つのことを思いつく。
「そういえば。あの子の瞳は月と似ていましたね」
暗い緋色の瞳を持つ少女、ニエを思い浮かべながらイニーは呟く。どうせ一人殺そうとしているのだ。ならば、興味の向くまま行動してみてもいいだろう。そんな結論に達したイニーは駆ける。
「興味、関心。成程、あの子も、……名前は、何でしたか。ともあれあの子も僕と話している時はこういう気持ちだったのでしょうか」
踊るような足取りでイニーは駆ける。先ほど別れてからさほどの時間は経過していない。
遊ぶような足取りでイニーは走った。月明かりに照らされる背を補足して更に加速する。
夢見る乙女のようにイニーは奔った。手に持つのは一つの短剣伸ばす手は強化された腕。
「こんばんは、今日は月が綺麗な良い夜です」
彼女の前に出ると同時に首を掴む。足が僅かに宙に浮き、もがくがその手が離されることはない。
血だらけの姿は生理的な嫌悪感をこみ上げさせるだろうが、何よりも恐ろしいのはイニーが浮かべる笑み。
「い、に?」
「ああ。すみません。聞こえません。では、とりあえずその眼を見てみましょう」
優しげとも言える声色で。割れ物を扱うように丁寧に。
イニーはゆっくりと静かにニエの瞳に指を近づけて。
静かに引き抜く。
「――――!」
声を上げようとニエは暴れる。足がイニーの顔に当たり、彼女の腕はイニーの腕に爪を立てる。
それでもイニーは揺るがない。
しかし、表情は一変していた。
「なんだ。詰まらない」
瞳を天にかざすが、所詮は人体の一部。空に浮かぶ月に色が似ていようと、美しさは大いに劣る。
「勝手な話ですみません。それでは、どうも」
興味の失せた無表情で涙ぐむニエの首を、一息に断ち切る。
血の雨が降り注ぎ、イニーの身体を赤く染めていく。
暴れていた身体から力が消えうせ重みが増す。
切断された頭は地面に落ちていき、一度跳ねてから転がり偶然にもイニーへと顔を向けて止まった。落ちた首に眼を向ければ。
「あ……」
あったものが失われた眼窩からは涙のような血が流れ、残った瞳は疑問と悲しみを訴えるように歪められていた。
口元は僅かに開かれ、イニーの名前を呼んだような痕跡が見られる。
けれど。ソレはもう死んでいた。
命を失い、何も語れず、ただ生きていた残滓でしかない。
「あ……」
最早その少女は何も語ることはない。今までイニーに対して向けていた笑顔は最早二度と浮かべられることはなく、声も視線も何もかもが元に戻ることはない。
つまり、彼女の重ねてきた人生が途切れた。辛さも苦しみも、喜びも楽しさも。
何もかもがここで終わった。
「あ」
イニーは自覚する。人の死というのはどういうものなのかを。
イニーは自覚する。自らが失った物の尊さと重さを。
イニーは自覚して。だからこそ。
「あは、あははははははははは! ――素晴らしい!」
狂喜する。
無価値な世界が一気に色づく。鮮烈な血の赤で視界が染まる。
「人の命を、奪う。なんて、面白い!」
先ほどまで彼女は生きていた。未来を見ていた。夢を語っていた。
それがイニーの小さな手によって永遠に断たれた。
「ああ、楽しい! なんて美しい!」
狂笑を上げながらイニーは笑う。
痛みと混乱の中で静止したニエの頭を持ち上げて、額に小さく口付ける。
「ありがとうございます、名前も知らない貴女。貴女のおかげで僕は世界の美しさを知りました。価値はなくとも美しい、それは僕にとって救いです」
緩くその頭を抱きしめ、次の瞬間にはソレをあっさりと捨て去りイニーは更に笑う。
「さぁ、次の人はどんな風に死ぬのでしょう。ああ、そういえば叔父がまだ生きていました。あの人はどんな風に無価値に死ぬのでしょう。彼の積み上げてきた人生が消える瞬間はどのようなものなのでしょう」
笑みと共にイニーは疾走する。
胸の内に湧いた高揚感に先導されるがままに。理性の中に生まれた狂気に脳髄を侵されるままに。
「月は唯一だからこそ美しく、人の死に様は、積み重ねてきた唯一故に美しい!」
咆哮するように笑い、イニーは術力の続く限りに短剣を生成し、駆ける。
イニーは笑う。人を殺す感触に。
イニーは叫ぶ。互いに殺される側だと主張するように。
イニーは殺す。意味も価値も等しく無とするために。
そして――空が白み始める頃には村で動くのはイニーしか居なかった。
大陸暦―――年
【機密文書】
中隊を率いてかの村に立ち寄り、死体を発見する。殺傷方法は多種多様。複数人の犯行であると見られる。
手際の悪さから盗賊団と断定。これより追跡と掃討に移行する。
追記
隊長は殺された。続きは副隊長である私が記す。
追跡の結果、東部へと足跡が残っていたために行動。途中三つの村が同じように壊滅しているのを発見する。
獣ではと言う声が上がるも殺傷方法には人の悪意が見られたため、追撃を再開。
少年を見つけ保護しようとした所、犯人は少年であった。
死者三十七名。重傷者四十名。軽傷者二十名の被害を出し捕縛に成功する。
殺人血族の疑いがあるため捕縛い留める事を記す。
【機密事項】
捕縛したイニー・ツヴァイは殺人血族の可能性が少なからず存在するため死刑は不可能と判断。
戦光陛下の命により肉体を束縛し時空間系術式を刻んだ棺に封印する事とする。
追記
炎王の命令によりイニー・ツヴァイを開放。ハルゲンニアス・ワークの指揮下に組み入れる事とする。
なお、殺人血族ではないと証明されている。
 




