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大陸記~王国騒乱~  作者: 龍太
間章 追憶の日々
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鮮やかなこの世界 ①

 ルカの寝息を聞きながら杯をくるりと回しながらイニーは皆を観察する。

 皆はそれなりに酔ってはいるようだ。しかし、リーゼ以外は相変わらず殺すのに一手間加えなければならない。


「あー、こりゃ俺もしかして床か?」

「あそこに投げたお前が悪いだろ。なんなら診察室で寝ればいいんじゃないか?」

「今日は患者が居ないから構わないわよ。ただ襲わないでね」


 話す三人はいつも通り。そして研究者二人もいつも通り。

 ヒロムテルンもまた静かに酒を呑んでいるばかり。特務に似つかわしくはない、酒のにおいしかしない時間。


「……この杯、高いのではないですか?」


 おそらくは帝国製。滅多に見られない、透ける硝子の杯。赤い果実酒が揺らめきながら輝く光景は一種幻想的だ。

 窓から透かして月を映せば月すらも呑めそうになる錯覚を与えてくれるだろう。


「ん? ああ。それなりにな。壊さないでくれよ」


 リーゼが溜息を吐いた。壊されると痛いが、壊されても問題のない値段という事なのだろう。

 無論、人以外を殺す趣味のないイニーは軽く頷くだけだ。

 良い夢でも見ているのか小さな笑い声を挙げるルカの声を聞きながら、窓の外にある月を眺めて杯を傾ける。


「……ああ」


 誰にも聞こえないように小さな呟き。

 何が引っかかっていたのかを思い出した吐息。

 一人納得しながらイニーは酒を飲干し、もう一度硝子の杯に注ぎいれる。誰彼構わず殺そうとしないのは、やはり機嫌の悪さだろう。

 しかしそれ以上に、イニーにも過去に浸る時がある。酒を呑みながら、月を眺めた日などは特に。


「だから、陣は自然に汎用性に特化した方が」

「どうせ扱う者は少ない。ならば突き詰めた性能で良いではないか」


 研究者二人の雑音も右から左へと流れていく。

 酒の赤さ、灰と赤二つの月の輝に天に広がる夜の深さ。

 四つの色が底に沈んでいた記憶を泡のように浮かび上がらせる。

 それは初めて人を殺した日の記憶。

 それは世界を美しいと感じた日の記憶。






 彼は笑わない子供だった。両親が戦争で亡くなり、彼を奴隷のように扱い育てる叔父や叔母からの悪意も原因の一つだったのだろう。

 養っているのだから働けと強要するその叔父に対し、イニーは何一つとして文句を言ったことはない。

 気味が悪いほどに従順だったことも拍車をかけていたのだろう。

 掃除をやれと言われれば器用にこなし。料理を作れと言われればやけに鮮やかに包丁を扱う。

 同年代の子供が遊んでいるのを横目にしながらイニーは淡々と黙々と作業をこなす。


 だから彼に与えられたのは叔父と叔母の暴力だ。得たいのしれない存在を殺すように、しかし同じ人の形をしたモノを殺す事を恐れるように。

 毎日毎日、僅かばかりの暴力を与えていた。

 それを甘受する彼は決して愚鈍だったわけではない。逆に、この村に生きる誰よりも聡かった。

 だから理解していたのだろう。自分に未来はなく、そう遠くない内に叔父と叔母の理由のない勘気に触れて殺されるのだと。


「だ、誰?」


 空には雲がかかり月明かりが乏しい。目を凝らさなければすぐ近くによらなければ人の姿も見えない日だった。

 いつもようにイニーが腫れた顔を冷やすために井戸の水を汲んでいると、後ろからか細い声が一つ。


「……イニー」


 震える子供の声だと理解しても何か情動が湧くわけではない。明晰すぎる頭脳は十を僅かに過ぎたばかりの子供にそうとしれず絶望を与えているのだ。

 故に。その子供の声に滲む恐怖を知って、無視をする。


「あ、あの……。私は、ニエで、その、昨日、この村に売られたばかりで」


 びくびくと震える声の主を照らすように僅かばかりの月明かりが差す。

 居たのは猫族の少女だ。灰色の毛並みに濁ったような緋色の瞳。怯える表情だが、猫族ゆえか確かにイニーの姿を直視している。

 月明かりは瞬きする程度の時間で翳り、再度暗闇が村を覆う。


「そうですか。水はここです。お好きにどうぞ」


 冷やすために使っていた桶を置くために顔を向ければ、小さく短い悲鳴。


「ど、どうしたんですかその、顔」

「別に。いつも通りです」


 バッサリと追求を切り捨てる。自分に構うなと言っている優しさのようであり、他人を徹底的に拒絶する冷たさのようでもある。


「あ、は、はい。その、ごめんなさい」


 声に対する返事すらも億劫だというようにイニーは井戸に腰を落とし、空を眺める。

 自由に使える時間は今だけ。しかし、だからと言ってやることなどあるわけがない。

 合理的に考えれば眠るのが最善なのだとイニーの理性は知っている。けれど、それでもここに座るのは。


「何を見ているん、ですか?」


 無音の闇に耐えかねた少女がやはり怯えながら問いかける。

 しばらくの沈黙。しかしそれでも少女が目を離さないことに根負けしたのかイニーは溜息を吐いて空を指差す。

 空に浮かぶ月は、雲の切れ間から見える程度。


「月が好きなん、ですか?」


 返事があったことに安堵の息を漏らしながらイニーの隣に座り、続けて問いかける。

 僅かな間が空くも再度の返答はあった。


「嫌いではありません」


 乾燥した平坦な声からはその真意を読み取ることは出来ない。いや、少女ニエではなくもう少し人生を経験した者ならば僅かな愛惜を感じ取ることが出来たかもしれない。

 しかし。百人程度が住む村だろうと、イニーの隣に今居るのはニエだけであり。


「そうなんです、か。えっと。あ、私は、売られてきたばかりで。その、友達も居なくて。あ、あっちの、端の大きい屋敷で」

「そうですか」

「あ、は、はい。そ、それで。あの。イニー、さんは何でこんな時間に、あ、私は、さっきお掃除について教えられて。起きるまで、自由時間だって言うことで」


 何の感情も浮かべずに相槌を打つイニーにニエは一人で捲くし立てるように喋り続ける。

 人買いから知らぬ他人に売られ、辿り着いたのは自分を知る者が居ない場所。

 そこで彼女が主人以外に唯一縋れたのがイニーだった。


「それで私は、お母さんもお父さんも死んじゃって。ご飯をくれるって人に付いていったら、殴られて。あの屋敷の人に、買われて。どうしてこんなことになったのかな……」


 彼女の戦乱時代では珍しくもない話であり同情するにも値しない。精々娼婦として生きる道へ進まずに済んだのは幸運だという感想を持つぐらいだろう。


「運が悪かった。それだけです。僕の両親も死にましたよ」


 何かを言おうとしたニエは、続いたイニーの言葉に何も言えずに押し黙る。

 笑えないぐらいに腫れている顔を見れば今の彼もまた生活が良いものではないと理解したのだろう。

 だから、ニエは静かに声を押し殺して泣き。イニーはその隣で静かに月を眺めていた。






 笑わず、泣かず、冷めた目で見続ける子供。自分とは異質だと否応なく気づかされる視線。

 それを前にして、ただの人間が冷静でいられるわけがない。


「なんだその目は!」


 イニーの身体が吹き飛び、二度地面を跳ねた。

 いつもの光景をイニーの叔母は舌打ちを漏らしながら眺め、従兄弟である少年は笑いながら手を打つ。


「アァ? んだぁテメェ! 誰が飯を食わせてやってっと思ってんだ!」


 倒れ咳き込む彼に叔父は手加減の一切をせずに蹴りを幾度も叩き込み、息が荒くなるまで蹴り続け、終わる。

 原因は恐らくイニーにあるが、理由などは何処にもない。いや、何でもいいと言った方が精確なのだろう。


「……すみませんでした」

「チッ。ちゃぁんと掃除しとけよノロマが」


 夜の闇へとイニーは放り投げられる。

 僅かに血を吐きながら、冷めた目で、この世の全てに価値を認めていない顔で立ち上がりいつも通りに掃除を開始する。

 死ぬのはそう遠くはないだろうと、イニーは直感で悟っていた。


「それはそれで楽な事なのでしょうね」


 抵抗する意味はない。そうした所でこの先に何か楽しみが待っているわけではない。

 平坦な感情は情動を封殺していく。そんな彼だから、全てを平等に見ていると言ってもいい。

 淡々と、何の感慨も浮かべずに言われた場所を掃除し終わる。だが幾ら胃が空腹を訴えようと食料は与えられない。


「……鳥でも取りますか」


 そこらに居る鳥。夜だが、今夜は月が照らしているため姿は目視できる。だが下手に近づけば空へと逃げていくだろう。

 手に持っていた棒を投擲して命を奪う。周りに誰か、兵士の一人でも居れば才能に瞠目したはずだ。

 術式を使わずに、いや使えないため原始的な方法で火を起こし、石を使って腹を開き身の少ない鳥肉を腹に入れる。


 よくある夜食だ。そしてやはりいつも通りに井戸へと向かう。

 顔の腫れも腹部の痛みも強くなっているのは、折れているからか。それともヒビでも灰っているのか。


「……あ、だ、大丈夫?」


 井戸の水で身体を冷やすが痛みが治まる気配は見えず、黙々と冷やしていたイニーへとニエが心配そうに駆け寄ってくる。

 始めて出会った日からおよそ二月が経過している。それでも彼女は心配した。

 毎日のように殴られている彼がいつか死んでしまうのではないかと。


「どうも。今日は月が見えて悪くないですね」


 淡々と、いつものように。傷のことなど気にしていない彼をニエがどう思うのか。

 少なからず恐怖はあるだろう。それでも、だとしても。

 縋れる唯一の存在なのだ、彼女にとっては。


「あ、あの。術式を、学んできたから。教えるから、傷を治さないと」


 手を取り、握り締めながらニエが涙を浮かべて訴えかける。

 まだ子供と呼べる年齢で、正式な術式を覚える。しかも買われた子供がだ。それがどういう意味を持ちどれ程の苦労なのかをわからないイニーではない。


「……何故ですか?」

「あ、その、ご主人様が、術式の学者さんだから。教えてもらえたの。傷を治す、術式。あと、他にも本を貸してくれて」

「ふむ。……少し見せて貰って良いですか?」


 問いかけたものとは違う意味の答えが返ってきたが、それでも良しとしてイニーは実演をするニエの様子を眺める。

 自ら手の平を傷つけて、目を瞑って数秒。何か光が発せられるようなこともなく当然のように傷が塞がっていく。


「なるほど。……ああ。概ねわかりました。こうですか」


 本質まで理解できるわけがない。一目見るだけでわかるというのならば、それは天才以上におぞましい何かだ。

 けれど、術式。それは明確な意志を持って展開されるもの。


「イニーさん凄い」


 驚きで目を丸くするニエを見ることなくイニーは初めて展開した術式の調子を確かめるように身体を動かす。

 先ほどまでのような痣や腫れはすでにない。僅かな鈍痛ぐらいはあるだろうが、それでも死にそうな怪我に比べれば大分マシだろう。


「……ありがとうございました。これでどうやら、まだしばらく死なずに済むようです」


 身体系術式を理解したとは言い難いまでも。傷が治せるようになった事はそれだけで死亡する確率を下げる事が出来る。

 しかし。本来は不可能だ。術式を一度見ただけで精確に展開するなどと言うことが誰でも出来るのならばこの世はすでに滅んでいる。


「う、うん。えへへ。わ、私は役に立てた?」


 じっと見つめるニエの顔には期待があった。照れるように動く尻尾と耳もまた、何を期待しているのかを如実に表していた。

 イニーと言えども、例え全てを無価値と言う少年でもそれを無視するのは僅かばかり後味の悪さがあるだろうというほどには。


「……ええ。本当に」


 言いながら面倒そうに頭を撫でれば、可憐な華が咲く。

 顔を赤くしながら嬉しそうな声を漏らす彼女に溜息を吐いたイニーはそのまま術式の本を読み始める。

 生きる意味がなかろうと、それでも生きていくために術式について理解を深めていく。


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