いたんだこころ ④
「これやるよ」
全身に付いた血を洗い流す最中、敷居一つだけを立ててキーツがペンダントを投げる。
「ん。なにこれ?」
不思議そうに床に落ちたそれを拾う。形は簡単なもの。よくある蝶の形をしたもの。
何故投げられたのかを考え、何かを示すことなのかと更に考える。
その空気を察したのかキーツは軽く笑いながら、言う。
「街を回ってたら見つけてなー。まー、いらないならいいけど。やるよ。お前もここに来て長いけどそういうのなかったしな」
物珍しげにペンダントを見て、興味深げにそれを触り、初めて誰かに物を貰ったことをどう思えばいいのか惑う。
「どした?」
「わかんない。何で?」
何故くれたのか。何故渡したのか。何故これなのか。何故今なのか。
疑問、ありとあらゆる問いを込めたそれに対してキーツは。
「知らねぇ。つーか聞かれても困るっつーの。人に何かをあげるのに理由なんかいらねーって。だからお前ももうちょい楽に生きろよー」
「……わかんない」
言われた言葉を理解しかけ、しかしルカは拒絶する。結局のところ、ルカはあの日、自分だけの世界に放りだされてそこから何かを作りだすことが出来ないでいた。
それは無くなった世界が大きすぎたためであり、今を守るためだ。
認めてしまえば楽なのだろう。楽であると同時に、ルカは今を喪うことになる。
「わかんないよ」
「ふーん。んならいいんじゃね」
問いかけも拒絶もキーツは受け流し正面から取り合わない。
いや、それこそがルカにとって救いだと知っているのだろうか。
もしもここでルカを受け止めればもうそこから動けなくなるだろう。痛みだけを繋がりとして生きているルカに他の繋がりがあると示したら、戦いを恐怖するだろう。
戦闘を行なえなくなった戦士に意味などはない。そしてそれを養うほどボードグルは甘くないのだ。
「んで、仕事上手く成功したけどどうだった?」
「……ん。沢山殺したよ。凄い痛かった」
身体についた水を拭いて、流れ落ちた水を一つに纏めて窓の外へと投げ捨てる。
やはり顔には小さな笑み。
「そいつは良かったなー。んじゃ、今日一日寝たら帰るぞー。報告だけは先に飛ばしておいたから、帰りは急がなくてもいいかなー」
「ん。それじゃあ眠るね。少し眠い」
「おう、おやすみなー」
敷居の向こう側でルカがベッドに転ぶ音がキーツの耳に入り、すぐに寝息が部屋に響く。
三日間寝ていなかったのか、それとも緊張の糸が切れたせいか。
敷居の向こう側を見ると何も掛けずに寝入るルカの姿がキーツの目に入る。
「やれやれ。まー、なんつーか。ルカも大変なことで」
溜息を吐きながら静かにシーツを掛けてキーツは警戒へと入った。
「とっとと内乱終わってくんねーかなぁ」
ぼそりと呟いた言葉に心は篭る。しかしやはり、そこには軽さしか感じないものだが。
内乱も終わりの兆しが見えていた。
長い目で見れば、やはり砦を攻め切れなかったことが内乱軍の敗因だろう。
いや、本来そこは敗因になりえない出来事だ。倍の人数で攻めて落とせない。その事実は反乱軍の士気を大いに下げた。
逆に、王国軍の士気は大いに上がった。ついでとばかりに砦に居た者たちは英雄と呼ばれるまでとなる。
その中で最も有名なのは墓碑職人リーゼ・アランダム。際立つ用兵ぶりと部隊員の士気を常に高く保った手腕。
また歳の若さが筆頭として挙げられた要因でもあったのだろう。
「でも墓碑職人さんも怖い噂あるよねー」
「ん。生贄にしたんだよね」
噂だ。部下や女性だけの部隊を作り、敵に与えた。その隙を突いての一勝。それが反撃の一手となった作戦、だという噂がある。
所詮は噂。他にも死兵を百人作り出し突撃させたやら、更に荒唐無稽なのは墓碑職人は異能者で人を石にする能力があるなんて馬鹿話まで存在する。
「怖いね。私はその人に指揮されたくないな」
「兵たちにとっちゃ、また別なんだろ」
所詮は中規模組織の一員。軍人として育てられた者たちがどういう存在に従うのかなんて気持ちは想像の埒外。
「その人も戦場に出るらしいし、趨勢は決しただろうなー。後はどう決着を付けるかだけど、内乱軍の将軍さんは鼻っ柱強いみたいだからねー。精々、決戦でもして華々しく散るとかアホらしいこと考えてるんじゃないかなー」
「面倒な人だね」
すでに内乱軍からは離脱者も出ているし脱走兵も出ている。内応を約束した者も幾人か居るだろう。
つまり手遅れなのだ。内乱軍は。
「……ねぇキート。賭けごと負けそう?」
ルカは無表情で問いかける。気づいているのだ。この先にあるものを。いや、ルカでさえ気づいているというべきか。
「んー。大敗北だぁな。ただ親分らに言っても無駄だろうしさぁ。どうしようか」
待っているのは勝利の先にあるものだ。
ここまでの流れを見れば国王が仕掛けた全てはあまりにも周到。賭けの要素は僅かながらあるものの、おそらくは分の良い賭けだったのだろう。
そして。勝った国王が後々の不穏分子となる彼らを生かすだろうかという疑問。
即座に否定される。そんなものを放置するぐらいならば邪魔な全てを切り捨てる方を選ぶだろう。
人数は問題ではない。上に居る人間を狩ればいいだけだ。
「まー。でも……他に行く場所ないしなー。お前はどうする?」
「わかんない。でも」
でも、と言葉を続けようとしてその答えは見つけられず、静かに困ったような顔をした。
「ま、逃げておけよ。お前は他に生きる場所がないわけじゃない」
言葉に僅かに迷い、ルカは頷く。
ルカは選べない。壊れたままの自分を取るのか、それとも築き上げたキーツと共に居るのか。
選べないまま、言われるがままに、逃げる。
「ばいばい。キーツ」
「……名前覚えてんじゃんよー。あばよ、アイルカウ」
そうしてルカは逃げ出し。
七日後、ルカが慣れ親しんだ屋敷は燃え尽きた。
何故戻ってきたのかをルカはわからない。常識的に考えればすぐにこの街から離れるべきだ。
だから、わからない。混乱した頭で燃え尽きた屋敷の上に立つ。
炭となった場所はきっとルカの部屋だった場所だ。何かが落ちている場所はキーツが住んでいた場所だ。奥にある、燃え尽きた斧がある場所はボードグルの部屋だった場所だろう。
首元にかけているペンダントを弄りながらその場所に立ち、骨となった、かつて同じ集団に居た彼らの遺骨を一箇所に集める。
感傷ですらない行いだ。ただなんとなく、この中にキーツが居るかもしれないと思ったからやったに過ぎない。
もはや、彼とは二度と会えないのだから。
「……あれ」
自覚する。引き止めていたキーツと二度と会えないと。
自覚する。もう彼と会話を交わす事が二度ないのだと。
自覚した。彼が何かを渡す事すらもなくなったのだと。
自覚した瞬間に、涙が溢れ出た。
「なんで、あれ」
困惑しながら涙を拭う。幾らでも溢れ出るその涙は留まることを知らず零れ落ちる。
「あ。痛くなれば、私、笑えるよ」
何かに言い訳をするように呟いて、ふらふらとした足取りで斧の残骸に近寄り、無理やりその刃で傷を作り。
「ぃ、ぁ……っ」
僅かの血が出ただけで、痛みを痛みとしてしか感じられない。
「なんで?」
焦燥感に従いながらもう一度腕を切る。今度は半分まで切る。
しかしそれでも、痛いだけ。ただただ痛くて、笑顔も何も作れずに、泣いた。
断続的に熱を帯びる、今までに無い感覚にルカは今更ながらの恐れをもって斧を手放した。それは怯えだ。狂戦士のように戦っていたルカが初めて味わう、痛みへの恐怖だ。
ルカの世界は痛みにより繋がっていた。父親から受ける痛み。それのみがルカの全てで、世界だった。痛みに依存し、痛みがあるから世界と繋がっていると妄信して。
だから痛みはルカという存在を肯定する要素だった。壊れかけた心を守るために本能が選んだ最適解だった。
最早それも、意味はない。
アイルカウ・ルゾスティックという子供は、最早痛みに負けるただの子供だ。
キーツという、世界と自分を繋げた存在を喪い。悼む心を抑えきれない、そんな子供にしか過ぎない。
「どうしよう」
呆然と、泣きながらルカはその場にへたりこむ。もう戦闘なんて行なえない、痛みを恐れる狂戦士。
哀れな子供。そして世界は、多くを奪ったルカに対して優しくはない。
「なんか居るな」
後ろから槍で突き刺される。振り向くことも出来ず、ただ声だけを聞く。
「どうせ反乱軍の生き残りだろぉ? 女だったら輪姦して、男だったら遊んで殺そうぜ」
「でもガキだぜ? ……お、結構顔はいいじゃん」
引き抜かれる槍の痛みに声を上げる。助けてくれる者は誰も居ない。
「どっちだろうな。確かめてみようぜ」
うつ伏せの状態から蹴られ、身体が半回転する。ルカの目に入ってきたのは王国軍の兵士たち。
嘲笑するように、これから玩具で遊ぶような子供の目で、そしてこれから快楽を得ようとする大人の目がルカを射すくめる。
「ははは、泣いてるぜこいつ。泣き顔っていいよなぁ、そそる」
「お前それ絶対趣味ヤベェって。娼館とかで出禁くらうぜぇ?」
もう少し刺してみようぜと言った男は剣を引き抜き、ルカの腕を刺し貫く。
「ぅ、ぁ、あぁあああ」
声が漏れた。今まで上げたことのない声が激痛によりあふれ出す。
灼熱の痛みだ。血が外へ逃げる冷たい痛みだ。逃げることは許されない。これはルカが今まで命を奪ってきたものが味わってきた痛みだ。
「キーツ、助けて、キーツ」
最も会いたい者の顔がルカの頭に浮かびあがる。けれど、最早居ない。
そんな人物は此処に現れるわけがない。泣きながら小さな声で助けるルカの姿に男たちの嗜虐心が加速していく。
「なんかコイツ名前呼んでるぜ、助けてーだってよ!」
「あはははは。くっそ笑えるんだけど。そんな奴いませんよー。何? 俺がキーツって奴になってやろうか? あっはははは!」
獣ですらここまで醜悪ではない。兵士たちは声を上げるルカの姿が余程面白いのか何度も剣で突き刺す。
腕を。足を。腹を。何度か刺した後。
変化が生じた。
「……なんだこいつ」
「壊れたんじゃね。ったくよ、やりすぎなんだっつーの。反応ねーんじゃ面白くねーじゃん」
「痛いのに笑うって気持ち悪ぃなぁ」
泣きながら、涙の跡を残しながら、ルカは笑う。
確かに兵の言葉は正しい。正鵠を射ている言葉だ。
何せ、先ほどまでのルカは、初めて人並の感覚を手に入れてたのだから。
「どうする? 殺すか?」
「その前に少し楽しませろよ。最近ご無沙汰でさぁ。金払うのも面倒くせぇし、ガキだけどどっちかの穴は使えんだろ」
笑い合う男たち。だから、ルカは理解した。
この世に最早、繋がりは一つもないのだと。外に希望はなく、内には絶望しかない。
だから再度の理解は、狂戦士として壊れたルカを再度壊した。
父親と痛みで繋がっていた世界は父親に捨てられたことで壊れ。キーツが引きとめたルカの世界はキーツを喪ったことで再度壊れ。
正常へと壊されたルカの世界は悪意によって粉砕された。
「あは、あはははは、アハハハハハハ! お兄さんたち、痛いの好きなんだ!」
壊れた世界の中心でルカは結論を出す。
悪意に対して善意を返すのだと。いや、それはルカにとって悪意ではない。
ルカにとっての快楽だ。父親が齎した絆ではなく、己が快楽をする痛み。
相手がルカに痛みを与えるならば、ルカへの快楽を与えるならば、同じ快楽を返す。
狂った論理だ。始まりから歪な話だ。
けれどもはや、ソレは固定された。
「あ?」
痛みを悦として感じるルカは足を動かし兵士の態勢を崩し、油断していた兵士に覆いかぶさって首の骨を折る。そのままふらりと動けばもう一人居た兵士の首が捻じ切られる。
最後に、何が起こったのかを理解していない兵はやっと術式を展開しようとして、やはり首を捻じ切られた。
「痛いのって楽しいね、嬉しいね。だから私に痛くしてくれたんだよね。あれ、死んじゃってるの? アハハハハハ! 御免ね、死んだら痛くなれないのにね!」
ぼろぼろの状態で、全身が傷に塗れた状態で。ルカは笑った。
笑って笑って笑いつかれるほど笑った後で、振り向いた。
「お兄さんも私を痛くしてくれる人? 痛いのが好きな人?」
門に背を預けて煙草を吸っている斑模様をした髪の男。瞳には絶望を識る者だけが持つ暗い色。
同属だとルカはなんとなく思った。最悪を知っている人の目だとルカは思った。
だから、気持ち良いことをしてあげようと問いかける。
「……いや。痛いのは嫌いだな。まっ、助ける手間が省けてよかったぜ」
「誰を助けるの?」
首を傾げて問い、今殺した兵士たちを見下ろして手を打つ。
「この人たち?」
「下衆共に遊ばれそうになってたお前、のつもりだったんだがなぁ。あー。お前、行くところあるか?」
「ないよ!」
元気よく答えて、足元がふらついてバランスを保てなくなったルカが転ぶ。
不死血族と呼ばれるルカでも流石に血を流しすぎた。傷はすでに塞がりつつあるにしても、この状態でまた兵士に襲われれば抵抗する事も出来ないだろう。
だからというわけでもないが。
「んじゃ俺の部隊に来いよ。お前みてぇのが居るから一人二人増えても平気だろ」
欠伸をしながらルカを担ぎ上げたニアスに頷く。
どこかキーツを思い出させる軽薄な笑みがその決定を下させたのかもしれないし、同属の匂いを嗅ぎ取ったからかもしれない。
理由などどうでもいいことだが。
「俺の名前はハルゲンニアス・ワークだ。てめぇは?」
問いに一瞬だけ考え、笑顔でルカは答える。
「私の名前はアイルカウ! それだけ!」
耳元で元気よくルカは喚いた。
アイルカウ・ルゾスティックはもう居ない。そんな族名を持った子供はすでにとことんまで壊れて無くなった。
だからここに居るのはただのアイルカウ。痛みを喜びとする異常な子供。
「ゲンちゃん宜しくね!」
「ゲンちゃんって……ニアスンよりかはマシだがよぉ。まっ、宜しくな」
「ルカって呼んでよー」
アイルカウは一人の家族と二つの家と三つの自分を失い。
最後に新しい自分を手に入れた。
ルカの過去終了。
二章のルカは過去と現在が交じり合ったハイブリット版です。




