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大陸記~王国騒乱~  作者: 龍太
四章 最後の夜
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――話 復讐者

色々やっていたら遅くなりました。

 気がついた時、男は森の中に居た。手には一振りの剣。傍らには数日の食料を持って。

 いつの間にか纏っていた革鎧は上等なものだ。狂獣の毛皮から作られた最高級の革鎧。男の全財産の半分を持ってしてようやく手に入るような一品だ。

 更に剣もまた三格神具。これもまた全財産の半分でようやく買えるようなものだった。

 気がつけば、はそれだけではない。

 剣は血で汚れていた。身体からは臓物の臭いが漂っていた。息は荒く、目の前には、人族とそれ以外の種族が首を断たれて死んでいた。


「な」


 理由はわからないが何かに重なる。記憶のどこかに残る光景と同じような気がして、彼は胃の中にあったものを吐き出した。


「なんだ、これは」


 浮かび上がる断続的な記憶は、森の中に入った所で途切れている。

 それ以前、学術都市での生活は微かに思い出せるものの、他には何もわからない。どこか記憶が途切れているような気持ち悪さがあるのは確かだが、何の記憶が無いのかがわからない。

 断続的に再生される記憶は朝と夜を交互に繰り返す。森へ入り、村へと歩き。食料を獣の材料を引き換えにする。

 掠れる記憶が告げる真実は一つ。正気を保っていなかったという事だけだ。


「なんだ、これは」


 先ほどと同じ言葉を膝を付きながらもらし倒れる彼らを観察する。身なりは軍人のものとは思えない。ならば彼らの正体は盗賊。

 それとももしくは傭兵か。


「くそ。何を、今はいつだ」


 いつの間にか腕には筋肉が付いていた。引き締められた筋肉だ。肌も太陽の光を浴びていたのか浅黒いものへと変わっている。いや、それとも垢のためだろうか。

 長い時間が経っている、それはわかる。それだけしかわからない。


「此処は、どこだ?」


 森の中は危険だ。どこかの血族の集落がある可能性があり、狂獣が群れで住んでいる可能性がある。

 しかしきっと、ソレらは脅威ではないと本能が告げる。あるいは狂気が。


「ああ、そうだ」


 思い出すことが出来ない。記憶の断裂を無理に繋ごうとすればきっと何か良くないことが起きると無意識の内に考えたヲルトルは歩き出す。

 思い出せない記憶の中では進む方向に湖がある。身体の臭いはおそらく強烈なものだ。


 これから何をするのかを決めるためにも、今がいつなのかを知るのは重要だと考えて身体に染み付いた臭いを落とすことに決める。

 返り血のついた男を見て怯えない村人も居ない。気にできる程度には理性も戻ってきていた。


 目の前にある現実から逃げるように小さな湖で顔を見れば一気に老け込んでいた。実際に年数が過ぎているというよりは、疲労で一気に老け込んだという方が正しいか。


「酷い顔だ」


 苦笑気味に身体を洗い流し、最後に術式で身体に染み付いた臭いを紛らわせる。

 最初からこうしても良かったのだろう。だが、それでは味気ないからこうしたというべきか。

 ヲルトルはそうして森を抜ける。

 見たことのない景色に戸惑い、何もない道を歩く。記憶に頼らず勘で半日ほどを歩けばやはり村があった。

 そこに足を踏み入れれば。


「……あんた、どうしたんだい?」


 見覚えのない老婆が声をかける。

 心配というよりは困惑しているような声だ。だから、微かな喜びが胸に浮かび上がる。


「何が、ですか?」

「何がってそりゃアンタ。いつもは不気味に笑いながら此処に来るってのに。何で今日は仏頂面なんだい?」


 喜びが翳る。どんな評価だったのかはともあれ、妙な真似をしていないかは問題だろう。

 極端な話、生首を持っていたと言われてはどうしようもない。


「……色々ありまして。ところで、今は、大陸暦何年ですか?」

「大陸暦なぁ。王国暦ならわかんじゃが。おぉい、今大陸暦で何年じゃぁ?」

「あぁ? 今は三百二十五年だぜ婆ちゃん!」


 言葉にヲルトルは驚きを浮かべた。

 記憶に残る年数からおよそ二年が経過していたからだ。ならば、この状態も頷ける。

 だからといって理解できるわけではないが。


「そういう事じゃが。何かあるのかい?」

「……。ありがとう、ございました」


 二年も経っているならば、世の中は変化しているだろう。学術都市に居た数少ない友人や、誰かが心配しているような予感もあった。

 それが誰なのかは皆目検討もつかないが。


「ここは何処ですか?」


 重なる問いに老婆は首を傾げる。とは言え、答えないわけでもないのだが。


「そりゃ、此処は王国東部領に決まってるじゃろ。潮の匂いがわからんのかい?」

「婆ちゃん! ここは王国領近くだから匂いねーって!」


 漫才のようなものを繰り広げる老婆と息子に知らず笑みが漏れる。

 自身も――と同じような時間を過ごしたことがある。

 と無意識の内に考え、頭を抑える。誰かの記憶、誰かとの記憶。大切で愛おしく、掛替えのないものだった何か。

 思い出せない。それは大事なものだったはずだというのに、ヲルトルは思い出すことが出来ない。


「おぉ? 大丈夫かい?」

「……いえ、お気になさらず」


 混乱によろけそうになる身体の均衡を保ち、宿屋へと向かい歩く。

 金を払いベッドへとそのまま倒れるとすぐに瞼が閉じていく。身体の疲労。それはあるだろう。

 けれどきっと身体以上に心が磨耗したのだろう。気がついてから自身にとって予想しない出来事の連続だったのだから。


「起きたら、ああ、都市へ、向かわなければ」


 学術都市に向かわなければという理性の思考があり。向かってはいけないと叫ぶ本能の警鐘があり。

 ヲルトルは意識を落とす。




 手早く結論から言ってしまうのならば、ヲルトルが都市に戻る必要はなくなった。




 記憶が突然に戻ることなくはない。ただ理由が必要だ。

 男が眼を覚ましたのは気配を感じたからだ。

 獣の嘶きに怒号。王国は平和な国だ。しかしそれは、決して戦がないわけではなく。また盗賊が出ない理由にはならない。


「なんだ!」


 ヲルトルが跳ね起き無意識の内に剣を抜く。顔に掛かる液体が何かを判別するよりも前に更に身体は動く。

 思考の介在しないその動作は誰も察知できずに誰にも妨げられることなく振りぬかれる。


「いったい何が」


 部屋には死体が三つ。最後の一人は術式による迎撃を行ったものだ。

 音を出さない系統の術式であったために問題はないだろう。加えて、相手の服装を見るに敵は賊だ。術式の反応に気づく者が居るはずもなく。

 ヲルトルは静かに宿の外を伺う。おそらく、予測に過ぎないが敵の数は七人。声の質から判断する。


 よく見れば今は夜。ならば、闇夜に乗じて殺す事が出来るだろうと思い一歩、足を踏み出し。

 闇夜でも見えるよう強化された眼はソレを見る。

 中央に位置する男の隣に、首を切られた、老婆の姿が。

 其処でヲルトルの何かが割れた。記憶の膜とも言うべき障害が砕け散る。

 狂うような記憶の奔流は底から溢れかえり。


「……ああ、人とは、本当に辛い事ならば忘れてしまえる生き物だったのか」


 呆然とした声を上げながら、ヲルトルは動く。

 眼は何も読み取ることはなくとも身体はやはり動く。身体の動くままに任せれば盗賊程度は苦でもない。

 術式で対象の頭へと炎弾を炸裂させ流れるような動きで剣を振り抜く。まるで、現象なようだと自嘲し。


 最愛の女を殺したダラングの姿が脳裏に浮かぶ。

 研究せずにはいられないと豪語していた、ような記憶がある女。そのために同じ生物すらも検体として扱った女。

 まるで、その女と同じような存在ではないかという疑念が浮かびあがり。


「俺は、違う」


 否定した。自分はあんな女のように他人の人生を切り捨てる者ではないと。


「そうだ、俺は違う」


 身体は自動的に動く。しかし、殺しているのは害悪である盗賊だ。自ら進んで悪になった者を殺すのに躊躇いを持っては自分が死ぬ。

 だがしかし。そもそもの前提として誰かを殺す事が成り立っていることに本人は気づかない。過去にはそんな事を考えもしなかった事など。


 そして盗賊を瞬く間に殲滅した彼は息を吐き、唇を噛む。

 ダラングが憎いという気持ちはある。だがしかし、王国の法律でいうならば彼女は極刑となる。そうなれば自力で殺す事は出来ないだろう。

 唯一可能とする手段があるのならば、実力を付けて死刑の日に乗り込むか王国で上り詰め死刑執行を行う部署へ行くか。


「……いや、まずはあの女が殺されているかを調べるべきか」


 剣に付着した血を振り払い、老婆の死に僅かだけ黙祷し呼び止める村人に振り返る事なく歩き出す。

 その後のヲルトルは王都へと向かい、僅かばかり後ろ暗い仕事をしながら情報を集め。

 とある酒場にて、一つの情報を得る。


「大陸最強は誰だろうなぁ」

「最強は大帝国を滅ぼした竜人だろ。次点で監獄の番人じゃねぇのか?」


 酒場は喧騒に包まれていた。いつも通りくだらない話で盛り上がる酒場の片隅で、陰鬱な雰囲気をした青年が一人で酒を飲んでいる。

 王都に来てから一月。過去の死刑囚の名を探し当てるのは、中々に困難を極めた。


「いや、最速が次点に来るだろ。その後に番人と、六連合の立役者って言われてる死神じゃねぇか?」

「んじゃ後は復讐騎に聖皇に、炎鬼に帝国の竜が続くって所か」


 酒場で交わされる話題はいつもと同じものだ。大陸で誰が最強か。

 最も名が上がる人物はここ五十年の間で出る者たちに変わりはない。多少、それは前後しているのだが彼らにとっては酒の肴以上の意味はないだろう。


「まっ、フェイズの血族と不死身の十人が最強で揺るがねぇだろうなぁ。他はなんつーか華がねぇし」

「強さに華も何もあるかよ」


 そんな毒にも薬にもならない話題の通り過ぎ、影の薄い一人の男が陰鬱な男、ヲルトルの前へと座り羊皮紙を一枚机の上におく。

 その紙へと手を伸ばし、書かれている文字に目を通せば、彼の顔が怒りに染まる。


「許されるのか、こんなことが。いや、正気なのか、これは。女王陛下は、狂っているのではないのか」

「……私の掴んだ情報は正確だよ。それと、私は女王の崇拝者でもあるから言っておくが、その案は陛下の旧友が行ったものらしい」


 酒を注文する男を睨むが男に罪はない。罪があるとするのならば、女王か。それとも女王の旧友か。

 だが、理性は冷静に妥当だと言う事実を告げる。才能ある者を、秘密裏に生かし成果を挙げさせる。王国という国に最も適した行いだ。並の実力者ならばともかく、学術士という貴重な存在ならばなおの事。


「情報、礼を言う」

「馬鹿なことを考えるなよ? いつか機会を待てば殺す事は不可能じゃないだろうさ」


 死刑囚が生きていると漏れるのは外聞が悪い。

 とは言え、その程度で崩れるほど王国は脆くはない。それが何故なのかはヲルトルの専攻外のことだが。


「……そうする」


 立ち上がり、そのまま酒場を出る。最初はゆっくりと。そして、徐々に早足に。

 もしも彼と視線を合わせる者が居れば思わず退いただろう。それほどまでに、彼の顔は険しく瞳には憎しみが浮かんでいる。


「……俺は、きっとアイツを、殺せる、はずだ」


 表情とは反対に、その口調はとても弱弱しい。脳裏に描く惨劇の主。彼女を殺すには、未だ何かが足りないと気づいているためだ。

 殺意。それは十分にある。憎悪。それは、確実に存在する。実力。おそらく、手が届く程には。


「いや、どれも、足りない」


 殺意はある。憎悪もある。実力もある。しかし今のヲルトルは正気を失っていた間に培った物に頼っているばかりだ。

 ならば自律的に動ければ、というわけでもない。何もかもが足りないとヲルトルは考える。

 その問いを続けながらヲルトルは王都に背を向けて、一つの答えに行き着くまで幾多の戦いを経た。


 例えば。獣との戦い。例えば。盗賊団の壊滅。例えば、名を上げようとしていた一人の術士の殺害。それらを越えて、しかし何も得られず。


 二年が経つ頃にヲルトルは最初の運命である、狂獣と争う森へと足を踏み入れる。

 最初に感じたのはやけに音が少ないという事だ。獣のうなり声は聞こえず、鳥の羽ばたきすらも小さい。

 何かに怯えている、と言うよりも萎縮していた。王を前にする民の如く。

 森の獣は全て、この森に住む狂獣に命を捧げている。


「……狂獣の退治か。早まったか?」


 狂獣の退治は初めてではないとは言え。森の一帯を支配するような狂獣ならあ並の術士では為しえないものだ。

 この仕事を回した者が教えなかったという事はまだ判明して居ない事だったのか。それともヲルトルを不要として処理するためか。


「これで終わる程度ならば、俺の復讐も果たせまい」


 言葉は妙に軽い。復讐心が無くなったわけではない。しかし諦めが心の内に浮かぶのも過ぎ去った年月が余りにも長いからか。

 このままきっと何も為さず、惰性で生きて、惰性で死ぬのだろう。彼女の仇を討つ事もなく。


「そうなれば、アイツの元にいけるのだろうか」


 冥府の月で再会する事が出来るのだろうか。そう呟き、森の奥へと足を踏み入れる。

 歩くごとに敵意が膨らむような感覚。全身へと突き刺さる暴力の気配。

 三つの音が響き、森の奥から術式が放たれる。


「……三匹? いや、一匹で、三つ首か」


 剣を抜き、ヲルトルは術式を展開。

 激闘は一日の全てを費やすものだった。ヲルトルの片腕が食われ、腹部に大きな傷を残し残った腕も半分ほどが引きちぎられ。

 それでも生き残ったのは彼だ。

 執念もなく、惰性で生きていながらも。紙一重の幸運とでも評すべき何かはヲルトルを生き残らせる。


「何故、ここまで必死だったのか」


 剣を振るい鞘へと仕舞い込み肉体の欠損を無理に治していく。すでに無くなった部位があるが、そこは帰りにでも盗賊を殺せば治すことは不可能ではない。

 これもまた数年の間に覚えた事だ。自律的に殺す過程で必要に駆られて覚えた術式の一つ。


「何かを、守っていたのか?」


 呟きと共に死骸を踏み越えて先へ進めば、見えたのは小さな獣。

 首が三つなのは変わらないが、先ほど争った獣とは大きさが違う。生まれたばかりの子供のような狂獣が其処で眠っていた。

 何よりも先に心に落ちたのは納得だ。死力を振り絞るに足る理由なのも理解できる。

 子を守る親の愛。獣に心があるのかはわからない。しかしけれど、守ろうとしたことだけは確かのはずだ。


「愛。まさか獣に? ……命を賭すほどの? まさか」


 事実は何か、どこか心を揺さぶるものだった。

 獣を拾い育て、それを連れてヲルトルは更に一年を過ごす。陸の蹂躙と名づけた獣と共にそれなりに修羅場を潜り抜け。

 比例するように憎しみが磨り減り、殺意も曇り。

 仇を討つというそれだけのために生きる事に疲れた時に、二つ目の運命である狂鳥と争う事になる。


「陸の蹂躙」

「――」


 獣が吼える。今はまだ膝までしかない小さな獣。それが懸命に駆けながら鳥へと向かい術式を展開する。 

 空を飛ぶ狂鳥は番の二匹だった。つい先ほどその片方を退治し、今では一匹。

 残りの一匹は不利だとわかっているはずだ。それでも向かってくるのはやはり、憎しみからなのか。本能だけに従うのならばすでに逃走しているはずだと言うのに。


「お前らにも、感情はあるのだろうな」


 陸の蹂躙と一年過ごす内にヲルトルも幾つか狂獣についてを知ることが出来た。彼らには知性がある。本能以上に理性がある。

 だから、こうして連理の翼を折られた狂鳥は向かってくる。

 言うまでもなくその突貫は無意味だ。愛する片割れの仇を討ったとしてもそれは己を満足させる以上の意味を持たないだろう。


「意味がないと言うのに」


 虚無的に呟かれた言葉に反応するように狂鳥は鳴いた。すでに三度を食らっている精神系術式の鳴き声。

 それを獣に打ち消させ、ヲルトルは剣を振るう。翼をもがれた鳥はそのまま、容易く地に落ちる。


「何故お前は、そうまでした」


 恨みも、憎しみもいつかは消えうせると言うのにと。呟き、答えなど期待せずに。

 鳥がヲルトルを射抜くように見据える。瞳には、予想したような負の感情は見えず。


「――まさか」


 憎しみでなく。怒りではなく。それ以上の何かを持ってして勝てない戦いに挑んだのかと僅かに恐怖する。

 直視できない感情。今まで逃げてきた、何か。

 答えがきっと目の前にあると知り。

 それでも、一時的に保留とする。この場所は未だ油断ならない領域だ。この森の主である狂鳥を殺したことで一時的に森は王を決めるために争い、狂獣が外からやってくる可能性もある。


「やはり、居たか」


 なんとなくとでも言うべき直感の働きにより卵を一つ見つける。他の卵は割れているがその一つだけは今にも孵化しそうに見え、それを拾いヲルトルは森を出る。

 更にそこから、五年の月日が流れる。


 一人と一頭と一匹。

 狂獣を連れ歩く彼の噂はしかし、人の噂に上がることはない。狂鳥を討ち果たした時点で何かを掴みかけた。しかし、結局何も掴むことなど出来ていない。

 いや違うだろう。何かを掴みかけているのにそれを掴むことに怯えていると言った方が的を射ているだろうか。


「彼女が死んでから、何年が経つか」


 一人森の中、遠い目で空を眺める。隣に寄り添う『陸の蹂躙』と頭の上に眠っている『空の王者』は何も答えることなく静かにしている。

 殺意はとうの昔に薄れた。憎悪は未だあるが、すでに殺意の原料になることはない。

 行わなければと思うだけで実行に移そうと思えない。すでに、燃え尽きた残りかすのような者でしかなく。

 ぼんやりと過ごすだけの隠者。森に潜み狂獣の代わりに王者として君臨するだけの小さな男。ヲルトルは今、それだけの存在だ。


「喪失を忘れ、心が磨耗し、俗世を捨てる。隠者とは言わないだろう」


 彼の元に道化が来たのは偶然などではないだろう。

 獣たちは一瞬で警戒を取った。ヲルトルは逆に、何もしない。獣たちの警戒を容易く潜り抜け目の前に現れた男を相手に警戒をするだけ無駄だと断じたために。


「隠者と名乗った覚えはなく道化と関わる縁もない」

「手厳しい。けれど縁とは作るものだと思うんだがね。名前は名乗れないが、私は道化だ。私は君の目的を叶えること出来るだろう」

「……復讐を、か?」


 ヲルトルの言葉に、道化から予想外とでも言うような雰囲気が発せられた。

 何か、期待が外れるようなことを言ったのか。それとも。


「質問を、いいだろうか?」

「ああ」


 長年喋っていないために僅かに掠れた声が返される。それに頷き、道化は問いかける。

 彼が目を背けていた、いや直視を避けていた事を。


「君は、恋人の愛を示すために復讐をしたいのではないのかな?」

「――――」


 薄々と言わず気づいていた事だ。彼女のために復讐をすると言いながら、ヲルトルの中にはダラングと自分しか居なかった。

 直視してはきっと、愛した彼女が居ないという現実を受け止める事になるために。


 動悸が激しくなりその場へと崩れ落ち、獣たちが心配するように啼く。そして再び、心の内に燃え出すのは憎悪。

 今でも思い返せる笑顔と声を永遠に奪ったダラング・ハーベーへの明確な殺意。


「礼を、言おう。お前のおかげで、いや。いずれは自力でも辿りついたかもしれないが思い出すことが出来た」


 最初の怒りを。最初の憎しみを。


「いいや。さて、これからが本題となるのだけれどね――」


 ヲルトルは彼の口から紡がれた言葉を信じない。だがしかし、彼に乗ることにしたのはいつか復讐を達成させるという言葉を信じたためだ。

 


 機会は必然として訪れる。



 すでに防壁の隣では『陸の蹂躙』は死に『空の王者』も息絶えた。

 長年付き従った獣たち。彼らの犠牲はヲルトルから見て、無駄ではない。涙は出る。心が抉られるように痛い。

 同時に。

 彼の前で首を失ったダラングが居るというのは、長年の全てが報われたように思える。


「ああ」


 頬伝う雫は雨か。それとも涙か。


「俺は」


 ソレが流れる理由は悲哀からか。歓喜からか。


「お前を殺した女を」


 彼女は戻らない。殺したところで戻ってくるはずはない。


「俺のために、殺した……!」


 だからこれは結局の所、自己満足に過ぎない。復讐で得られるものなどなく。彼女は戻らず失った時間はそのままに無意味を重ねたに過ぎない。

 それでも。涙は流れ。


「ならこれも自業自得だねぇ」


 誰かの声と共に首筋を断ち切られる感触を得る。即座の回復は、やろうと思えば出来ただろう。

 行わなかったのは深い満足に包まれていたためか。喪失の空虚に身を委ねてしまったためか。

 最高の間隙に突き刺された剣に対抗する気力などすでになく。

 ヲルトルの意識はあっさりとこの世から消えた。

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