4話 ぬるま湯の中で
時間は僅かに巻き戻る。それは特務が出発するよりも二日ほど前のことだ。
「なんだ、団長よ」
冥府の底から響くような声が小さな部屋に響いた。臓腑を掴むような、死神のような声だと少年、ディーニアスはいつも思う。
「ああ。久しぶりだね、挽肉。調子は?」
「変わらない」
陰鬱とした顔は暗い灰色の髪により見え難い。肩に乗る『空の覇者』と足元に寄り添う『陸の蹂躙』も飼主の性格に似たものか声を上げることなく彼らの団長を見つめる。
「不変は素晴らしいことだ。君の場合は、手放しで褒めることなどできはしないが」
「用は?」
声に苛立ちが混じり、狂獣二匹の毛が僅かに逆立つ。道化師団に属する者は多くの場合、失ったものがある。
ならば挽肉と呼ばれる彼もまた同じように何かを失ったものなのだろう。
「そろそろ実行だ。私たちの計画は万事滞りなく進んでいる」
聖騎士が動いた裏で。騎士たちが動く裏で。彼らは、否。彼は幾百の歳月を重ねて計画を積み上げ続けてきた。
表に出る事を極僅かとしながらひたすらに計画を行なうために。
「良い事だ」
「そう、とてもね。私の機嫌は上々だ。けれど帝国騎士の計画は見過ごせない」
道化の面に浮かぶ顔は当然だが変わらない。人を馬鹿にするような、人に蔑まれるのを悲しむような、そんな笑みが彫られている。
しかし仮面の奥に浮かぶ表情はどのようなものか。
「剣華は囮。あの二人はそもそも同盟に過ぎず、子供らには不可能でね。手駒は、すでに少ない。だからこその君だ」
疲れたように聞こえる声色は彼へ同情心を誘うものなのだろう。それを男は理解している。
それでも。
「……特務が、出るか?」
「勘がいいね。そして、その通りだよ。もう計画は大詰めだ。だから、構わない」
「行こう。帝国騎士を相手にすればいいんだな」
道化師の頷きに、挽肉と呼ばれる男はニタリとした笑みを浮かべ背を向けて早足に小部屋から出て行く。
後に残される二人、その内の少年ディーニアスはそこでようやく息を吐くことが出来た。
「あの人は苦手です。なんか、怖い。狂獣も連れているし」
此処に済む七人は皆、彼に対して内心恐れを抱いている。それは狂獣を連れているという事もあるが。
「復讐者を恐れるのは皆同じだ。彼らは命を捨てても仇を討つ。そこには恨みしかない」
扉から出て行った彼を見るように道化師は顔を動かす。
その言葉に、見送る瞳に宿るのはどのような感情か。
「彼は、幸福に生きる事を捨てて恨みに奔った。私が言えることでもないが……」
道化師はそこで一度区切り。
「計画が成功した暁には彼にも幸福を得て欲しいものだ」
―――――――
「雨は本当だりぃ。頭痛してくんだよなぁ」
水術ではなく炎術を用いてニアスが一人呟く。手には先ほど店で買った果物の入った袋があった。
特務の面々にというよりはリュミールに対するものだ。生来の面倒見の良さとでも言うものは、ルカやイニーに対しては普段から発揮されているが今回のように純粋に普通の子供が来てしまえば昔の癖が出てきてしまう。
「ったく。隊長さんもなぁんか煮えきらねぇしなぁ。つーか、表情がどう見ても何も知らねぇガキだろうが」
孤児院という場所で育ち、その兄貴分として生きてきたニアスから見れば少女の裏には何も見えない。語る言葉は全て真実として見えている。
騙し騙され、殺し殺されの世界で生きてきたニアスから見てそうでないのならば、おそらくその線は完全に消しても問題はないだろう。
「まっ、何にせよ面倒くせぇ事に変わりはねぇか」
リュミールが白であれ黒であれ帝国騎士に追われていた事に変わりはない。理由がわからない現状では多少の疑念自体はニアスでも納得はしている。
感情は納得していないが。
「さってっと!?」
殺意と戦意が肌に突き刺さる。後方、先ほど別れたリーゼたちの方からは強烈な戦意。
そして、前方。宿屋のある方向からも。僅かな術式の気配。
どちらに向かうかを、判断するまでもない。
「ちっ」
袋を投げ捨て剣を抜く。幾人かが胡乱な目で走るニアスを見るが、軍服という事であえて気にしないようにしている。
駆ける。風を圧縮し、それを階段として屋根の上へと突き進む。雨に濡れることなど気にせずに、そして全力で向かう最中。
「ッ! テメェ、なんだ」
「……通りすがりだ」
屋根の上に立つ陰気な男が一人。手には騎士らしき男の首があり、囲むようにして四人の騎士が立っている。
それは立っているとしか、形容の出来ない姿。
「……暗殺者か何かか?」
「説明は不要。貴様に危害を加えるつもはない」
剣を鞘に仕舞い、男は飛び上がる。追うべきか、それともニアスに対応するべきかを騎士らは迷い。
迷いは命を奪う。
「噛み殺せ」
家と家の隙間にある路地から灰色の影が飛び跳ね、騎士らの間を駆け巡り。更に空から降りた鳥が一鳴きすれば、紫電が騎士らの身体に纏われその命をあっさりと奪い去る。
「あ、おいテメェ何者だっての!」
「挽肉作り」
言葉だけを簡潔に呟き、男が走る方向は先ほど感知した、おそらくはリーゼらが争っている方向に。
実力は未知数。しかしニアスでも近接戦は渡り合えると直感が言う。
だが、連れている二匹の狂獣を加えられれば一人では厳しいだろう。
「……ルカとイニー、後は解体馬鹿か研究馬鹿か」
一人と一匹に対してみれば過剰だろう。しかし、狂獣は小型だろうと関係なく危険だ。更にそれが飼われているものならなおさらに。
だが、この状況を見れば敵対するわけではないのだろう。
「何はともあれだな」
騎士らの残骸を後に宿屋へと向かう。此処にいた騎士が後詰なのかそれとも本命なのか。すでに術力の反応は無いことから戦闘自体は終わっているだろう。
わかってはいても、誰が無事なのかを考えれば足僅かに急ぐ。
そして宿屋の上に立って内部の物音を探るが。
「無事っつー事は、やっぱ隊長さんらが本命だったって事かね」
内部では双子とリュミールの声が響いている。何事もなかったような空気が声から感じられた。ニアスの苦労も、先ほど屋根の上で起こった争いも気づいては居ない様子だ。
しかし、リベイラとダラングは察知しただろう。その二人が何の行動も起こしていないという事は実際に騎士が動く前に挽肉作りと名乗った男が勝負を決めたという事で間違いはない。
「……獣二匹を連れた暗殺者で、挽肉作りねぇ。無名じゃねぇだろうが、通称がわかりゃもう少しなぁ」
聖十三騎士のような規格外でもない限り、暗殺者は無名だ。同じ手口を使う場合はそこから異名が付けられることもあるがまず姿は確認できない。
かつて特務が殺した暗殺者にも『肉塊』という異名を付けられた可憐な少女や『美華』という異名を付けられた筋肉質な男が居た。概ね異名それ自体が正体を隠す隠れ蓑になっている場合がある。
「まっ敵じゃねぇなら警戒するぐれぇでいいな。あー、ついでだ。ガキ連れてどっか行くかね」
気晴らしにはならず、雨も相変わらず降っている。
それでも、気分を変える事にはなるだろう。ここがどう見ても子供には優しくない都市だとしても。
「おいガキと双子ぉ。どっか行くぞ」
術式を使って窓を開き、中に入ると同時に双子が飲んでいた水を噴出す。リュミールも驚いたようで、目を丸くしていた。
二人は特に顔も変えずにしているのが各々の性格を現しているだろう。
「あら、そんな所からどうしたの? 趣味かしら」
「そういうわけじゃねぇよ。服なんかとってくれ。濡れてて気持ち悪ぃ。ああ、後で隊長さんからの使いが来たら面倒だし誰か一人残れ。お前ら買い物に行くぞ。もうやる事ぁ終わったからな」
「何を、やってたんですか?」
髪は整えられ服も清潔。顔も最初に会った時に比べれば大分血色がいい。
そんなリュミールが大きな瞳に不安を浮かべている。危険な事、特に騎士と殺し合いをしていたとでも思っているのだろう。
「ああ。調査だ調査。そうじゃなきゃこんな都市まで来ねぇよ。んで、どっか行くか? そこの双子もな。金ぐれぇは出してやるよ」
「マジっすか? じゃあ俺美味いもん食いたいっす。ここ場所が場所だからそういうの多いんすよ」
「あ、私は服とか見たいなー。色々あるしー。リュリュちゃんも洋服いいの着せたいしー」
はしゃぎ出す二人と、うろたえるような申し訳なさを前面に出すのもやはり性格が出ている。いや、そもそも会ったばかりの大人に対して遠慮がないならその方が問題といえるが。
「別に構いやしねぇがよぉ。……おい研究馬鹿。お前は待つか?」
「ええ。雨の日に外に出るの嫌いなのよ。猫族は全体的にね。……そこの双子ちゃんたちは、別のようだけど」
視線を逸らす二人はどうにも買ってもらえるという単語に負けたようだ。
ダラングがどちらかと言えば引きこもる気質なのも関係しているのだろうが。
「んじゃ行くぞ」
「あ、待って下さいよ副長ー」
「女の子には準備が必要なんですよぉ?」
「私とこの子にはいらないから貴女だけ準備をしていればいいんじゃないかしら?」
悪戯っぽくリベイラが笑う。冗談を口にするという事は、珍しく上機嫌なのか。それともリュミールを外に連れ出す方便のようなものか。
陰鬱とした空気は精神に悪影響を与える。それを考えているのならば医術士としての顔を見せているのだろう。
「あ、いやすぐ行きまうよぅ」
四人は宿屋の店員に声をかけてから外へ出て行く。ニアスの姿に首を傾げているがそこは些細なものだ。
「んじゃ何処いくかね」
炎術を展開し、降る雨と地面の雨だけを蒸発させていく。そうしながら熱を遮断するために平行して氷術を展開し暑さを感じさせない。
高位の術士であるニアスならば楽なものなのだろうが、無駄な技術の使い方と言っていい。
「お前は何か食べてぇもんとかあるか?」
「あ、その、甘いものとか、食べたいなって思うんですけど……」
ニアスの問いに、少し悩み遠慮がちにリュミールが口を開く。大方、待っている間に双子から話を聞いたのだろう。
そして問いかけには答えないと言う選択がないのかもしれない。
「おい双子ぉ。どうせ何か情報仕入れてんだろ。どこか案内しろや」
「うっす。甘いものって言うと中央通りの店がいいっすね。裏通りはちょいと危ないんでやめた方がいいっすよ」
「最近流行ってるのはぁ、トォウランってお菓子かなぁ。砂糖を使ったお菓子で甘いんですよー。後は砂糖と氷を使ったのも美味しいかなぁ」
食文化として、王国はピラックの肉料理が多種多様だ。ならば嗜好品もという事になるだろうが、意外にも嗜好品は他国に比べて遅れている。
理由は、砂糖だ。東部では確かに砂糖が取れる場所があるが、基本的には六連合や聖皇国からの輸入に頼ることが多い。蜂蜜などは強力な虫を殺す必要があるため難度も高い。
「高そうな菓子だ。四格神具並みの値段ぐれぇすんじゃねぇの?」
「でも副長って結構金持ってるじゃないっすか」
「そりゃ使う機会もねぇしよ」
雨の中、悠々と歩く五人に声をかける者は一人も居ない。好奇の目で見る者は僅かに居るものの、同じ軍人ですら声をかけては来ない。
「あ、副長私アレ欲しいー」
「あら。……見立ては悪くないけれど、貴女には合わないんじゃないかしら? いえ……というより戦闘で来てたら不味いわよ?」
戦闘用ではとうていない、機能性の薄い服だ。見た目は悪くないが、妹であるテニアスには少々赤みが強い。
「いいじゃないですかー。合わない服でも欲しくなるんですよー」
「テメェそういや服よく買ってんな。着道楽か何かか?」
「いや、こいつそこまでじゃないっすねー。俺らあんま金もないっすし。つーか着道楽つったらルカさんとダラングさん着道楽っすよね」
「そういやそうだな。アイツらなんだかんだで結構服買ってんだよなぁ」
「凄いん、ですね。服がそんなに買えるなんて」
ぐだぐだとした会話をしながら五人は都市の観光を楽しむ。その裏で、リーゼが兵の指揮を執りながら雨に濡れていたのは、蛇足だろう。




