ぼくとジェミイについて――あるいは人類滅亡について
ぼくとジェミイについて――あるいは人類滅亡について
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五月九日、月曜日、曇。
ゴールデンウィークも終わってしまった。
そもそも学生のぼくにはあまり関係のない話ではある。今回のゴールデンウィークも三連休が最大で、あとは飛び飛び、休んでは登校、休んでは登校となっていたから、旅行など行けるはずもなく、しかしクラスのなかには親の休みに付き合って欠席してまで海外旅行をしているやつもいて、不公平だと思いながらぼくはゲーム三昧のゴールデンウィークだった。
今年はじめて気づいたが、ぼくはゴールデンウィークがきらいなのかもしれない。
気候も、暑いのか寒いのか定かではなく、学校は休みなのか休みではないのかもよくわからず、なにをしていいのかわからない休みだった。夏休みなら、遊びに行ったり宿題をしたり、ということが自然に想像できる。夏休みとはかくあるべきだ、というような姿が。冬休みもそうだ。ゴールデンウィークはちがう。三者三様、十人十色の過ごし方があって、ではぼくのゴールデンウィークの過ごし方とはなんなのかというと、アメリカンショートヘアの猫ジェミイにちょっかいを出されながらゲームをすること、ということになった。
学校へ行って、クラスのやつらに聞くと、みんなだいたい同じだった。前述の、学校を休んで海外旅行へ行ったやつ以外は。
学生のゴールデンウィークなど、そんなものだ。
だから今日、月曜日、学校がはじまってむしろよかった。これで退屈からは解放される。
まあ、はじまったらはじまったで、登校は面倒だったのだが。
ニュースは今日も例の話題。
世の中いろいろ大変らしい。
五月十日、火曜日、晴。
ジェミイが人間化した。
詳しく書きたいが、疲れているので、明日にする。
五月十二日、木曜日、晴。
一日、日記を書かなかった。
いろいろと大変だったせいもあるが、基本的にはぼくの怠慢だ。
ジェミイの人間化について、書いておく。
鳥類の人間化については一週間ほど前から世間を騒がせていた。
朝から晩まで、テレビをつければ、やれニワトリが人間化しただの、シャモはやはり格好いいだの、ハシビロコウの人間化を一目見ようと動物園に客が殺到しているだの、とても正気とは思えない話題ばかりだった。しかし実際に鳥類は人間化していて、ぼくの出身校である七曲小学校で飼っていたニワトリ三羽が人間化した、といううわさは聞いていたし、そのうちハシビロコウも渋いおじさんにでもなったりするのだろう。世界中でそのようなことが起こり、いまも鳥は人間になり続けている。
ジェミイについてだ。
ジェミイは猫だ。アメリカンショートヘア。かわいい。三歳になる。いちばん懐いているのは姉だったが、姉が家を出てからはぼくに甘えるようになった。父や母には近づかない。ジェミイが猫だったころ、なんで餌をくれる母にも懐かないんだ、と聞いたことがあるが、ジェミイはなにも答えずにぼくの膝の上で寝ていた。人間になったジェミイには、まだ聞いていない。
猫が人間化した、という話は、ぼくが知るかぎりでははじめてだった。
ジェミイが人間になった日、五月十日の段階ではどのニュースもまだ鳥類の人間化について伝えていた。というのも、とても正気とは思えないその話題も、現実に起こってみればいろいろと問題があるからだ。
まず動物園はどう対応すべきかという問題が起こり、それから、はるか上空から落下したとしか思えない人間の墜落死体が世界中で発見されるという血なまぐさい問題も起きた。当初は集団自殺も疑われていたが、周囲にビルなどひとつもないアフリカの大平原でそうした死体が多く発見されていることを踏まえ、上空で人間化した鳥類が羽根をなくして落下したのだろう、ということになった。そうしたややこしくてばからしい問題が世界中で発生し、この日本でもたくさん起きていたから、ニュースはそればかりを伝えていた。
翌、五月十一日、ニュースは犬猫の人間化についての話題を伝えはじめた。
うちのジェミイは決して特別ではなく、いままで鳥類に限られていた現象がほかの動物にも広がっただけらしい。
これは大変な事態だったが、当のジェミイは動じることなく、猫だったころのようにぼくの後ろをついて歩き、ぼくが座るとその膝の上に乗っかり、撫でてやるとぼくの指を舐めたりして、猫のように暮らしていた。もう猫ではないのだが。
猫ではなくなったジェミイは、しかし人間でもないので、ややこしかった。
姿形は人間だから、猫用の缶詰ではだめだろうと、人間用の食事を作ってみても箸やフォークが使えるわけでもなく、結局ぼくがスプーンですくい、食べさせてやる必要があった。手のかかる赤ん坊のようだが、やはり赤ん坊ではないからやっかいで、風呂へ入れる作業だけは母さんがやることになった。とはいえ、生前、というのもおかしいが、猫だったころのジェミイは風呂が大嫌いで、ぼくや姉さんが入れようとしても全力で拒むくらいだったから、母さんも相当苦労したらしい。一度、裸のままぼくの部屋まで逃げてきて、慌てた。そういう倫理観や羞恥心がないというのも今後問題になるだろうと、ぼくはしみじみ思っている。
ジェミイは、姿形は立派な大人だが、人間としては生まれたての赤ん坊だ。そう思って接しなければならない。
五月十三日、金曜日、雨。
今日もジェミイについての話になる。
散歩が大変だ。
ジェミイは賢い猫だった。窓を開けると、勝手に家を出て外を歩き、夜になる前には家に帰ってきていた。いまはまさか、そんなことはできない。
かといって犬のようにリードをつけようにも、ジェミイは人間だから、なんだか妙な感じになってしまう。だがジェミイは散歩に行きたがって、結局、ぼくが手をつないでいっしょに散歩することにした。
さすがにジェミイも猫のように塀の上を歩いたりすることはなかったが、落ち着きのなさは猫だったころ以上かもしれない。あちらへ寄ったりこちらへ跳ねたり、忙しい。それに付き合う根っから人間のぼくは大変なのだ。
途中、見たこともない女性が歩いてきたと思うとジェミイに抱きつき、その首やら頬やらを舐めだしたときはどうしたものかと思ったが、どうやらそのひともジェミイと同じ、猫だったらしい。ジェミイも猫式のスキンシップで応えていた。
ちなみに、ジェミイは「にゃあ」とは言わない。
朝は「おはよう」と言い、夜は「おやすみ」と言う。きっと「にゃあ」と言ったときは本当に「にゃあ」と言いたかったときで、日常生活でなかなか「にゃあ」と言いたがる機会はないから、いまのところ一度も「にゃあ」とは言っていない。
ニュースを熱心に見た。
ジェミイと同じ現象が至るところで起こっている、ということはわかったが、鳥類の人間化と同じく、原因も対処法もわからない。
政府は人間化した動物の扱いについて頭を悩ませているらしい、と訳知り顔のジャーナリストが言っていた。
いまのところ、法的にペットは所有物として認識されているから、たとえばペットを殺しても、器物破損やら動物愛護法やらの罪に問われることはあっても、殺人にはならない。では人間化したペットはどうなのか、と考えると、問題が山のように積み重なっているのは明白だ。
人間と、その他の動物、という区分が、できなくなっている。
いまは鳥類と犬猫だけだが、そのうちあらゆる動物に伝播する可能性がある。ネズミもウサギも魚も虫も、もはや人間と区別することはできない生き物になっている。
政府は大変だろうが、それが仕事で、それで給料をもらっているのだから、しっかりやってほしいものだ。
五月十五日、日曜日、曇。
いやな夢を見た。
毛むくじゃらの、蜘蛛ともゴリラともつかない生物に押さえ込まれ、身体を圧迫される夢だ。
殺されるぎりぎりで目を覚ました。
原因は、ジェミイがぼくの上で寝ていたことだ。
猫だったころはそんなこともよくあり、重たくはあったが、悪夢を見るほどではなかった。いまのジェミイは人間と同じ体重があるから、重たいことこの上ない。
ベッドの隅に退けようとしても無駄だった。布団にひしと捕まって、力尽くで退けようとしても布団ごと持っていかれてしまう。
もしそのまま布団ごと退けても、十分か十五分ほどで、布団は置いて、ジェミイだけまた戻ってくる。今度ひしと捕まられるのはぼくだから、これはもう、意味がない。
人間のようになっても、猫の習性は消えないらしい。そういえばニュースで、鳥類から人間化しただれかが、飛ぼうとして腕をぶんぶん振り回している、という話をやっていた。身体は人間化しても、彼らは人間ではないのかもしれない。そうだとすると意思とは関係なく人間化した彼らは被害者だ。鳥に戻る術、猫に戻る術が発見されないかぎり、彼らは人間として生きるしかない。
人間は、ほかの生物に比べて不自由なんだろうか。
空も飛べないし、足も速くない。狩りをすることもない。生きようと思うなら、社会のなかで働かなければならない。動物にとっては奇妙なことだろう。安全に生きようとして、簡単には生きられない社会を構築している人間になど、彼らはなりたくなかったにちがいない。まあ、鳥や猫だった時代に、彼らがどれほど人間を認識していたのかはわからないが。
今日はもう眠たい。ジェミイは母さんに任せて、今夜こそぐっすり寝よう。
五月二十六日、木曜日、雨。
日記を書くのは久しぶりだ。このところ忙しくて、それどころではなかったから。
ジェミイは相変わらず人間をやっている。
しかしこのところ、どうやら発情期らしく、とんでもなく大変だった。外へ出すわけにもいかないし、かといって家にはぼくがいるしで、結局ぼくはこのところジェミイと会っていない。学校から帰ってきてもすぐ部屋にこもるようにしている。母さんの話では落ち着いてきたということだが、そういう習性が残っているとすれば、同じネコ科の動物であるライオンやヒョウなどの本能的な狩りはどうしているのだろう。まあ、なにかを襲おうにも、鋭い爪はないし、長い牙もすでにないのだが、それにしたって全力で襲いかかってくるのは恐怖にちがいない。
ニュースは、この異常事態にすこし慣れたらしく、バラエティーやらなんやらが復活してきた。ニュースでは相変わらず動物の人間化について伝えている。そういえば最近殺人事件などのニュースを見ないが、それを報道する余裕がないのか、殺人事件が起こっていないのか、どちらなんだろう。
ジェミイが部屋の外で鳴いている。ぼくにできることはなにもない。早く落ち着けばいいが。
五月二十七日、金曜日、雨。
学校帰り、宮野と駅前で飯を食べた。
サッカー部は相変わらず厳しいとか、木下先生はやはりカツラらしいとか、いろいろ話した。
宮野曰く、動物の人間化現象の陰で、人間の動物化現象も起こっているらしい。
人間も動物の一種だから、動物化、というのはおかしいが、つまり人間が鳥や猫になったりする現象が起こっているらしいのだが、確証はない。というのも、飼い猫しかいない家に見たことのない人間がいると、これはおかしい、となるが、家で留守番しているはずの人間が消えて猫が現れても、人間は自由に出かけられるし、野良猫が家に入り込んでいるとも考えられる。
要は認識の問題だ、と宮野は言っていた。
人間は、ほかの人間を見分けることができる。しかし猫や犬の顔はわからない。種類や体格で見分けるしかないから、「見たこともない猫が現れた」という認識が生まれにくい。見知らぬ人間は異質だが、見覚えのない猫はごくありふれている。だからまだ報道もされていない、それだけの証拠がない、と宮野は言っていたが、ぼくはどうも怪しい話だと思う。たしかに動物の人間化ほど目立ちはしないが、町中で突然ダチョウやライオンが現れたら、それはやはり異質だ。
しかし、本当に人間が鳥や犬猫に変化するとすれば、鳥になる人間と猫になる人間はどうちがうんだろう。
アメリカンショートヘアのジェミイは、しかし見たところ、普通の日本人ふうだ。原産地で変化するなら、ジェミイはアメリカ人、あるいはもっと血筋を遡ってイギリス人ふうになっているはずだが、なぜ黄色人種に変化したんだろう。もしぼくが犬や猫に変化したら、ロシアンブルーになったりする可能性もあるわけだ。同じ猫科でもヤマネコになったりするのかもしれない。その法則性はよくわからない。
ジェミイはまだぼくに甘えてくる。発情期は去ったらしいのだが、やはりぼくを異性と認識しているらしいことは、態度からわかる。ジェミイが猫でさえなければなあ、と宮野に言うと、宮野は笑いながら、ジェミイももう人間だろう、と言った。そのとおりだと思う。しかしジェミイは猫だ。人間化した猫なのだ。それに変わりはない。
五月二十九日、日曜日、晴。
ついに齧歯類で人間化現象。
窮鼠猫を噛む、ということわざは通用しなくなったわけだ。いまはどちらも人間だから。
政府はてんてこ舞いになっている。
ねずみ算、とはよくいったもので、地球上には恐ろしい数の齧歯類が存在しているから、それがもしすべて人間化すれば地球の総人口は何倍にもふくれあがるらしい。
懸念されているのは、当然食料問題だ。
おまえはもともとネズミだったんだから、ネズミの餌を食え、とはさすがに言えない状況になっている。
ネットで、人類滅亡は近い、という書き込みを見た。
このままいけばそうなるだろう。どんな宗教も想定していなかった、人類の終わりだ。
犬猫が人間化したときも話題に上ったが、齧歯類が人間化したことでさらに差し迫った問題になったのは、野良人間だ。
飼い犬、飼い猫が人間化した場合はいいとしても、野良犬、野良猫が人間化したとき、だれがどのように対応するべきか、というのは当初から問題視されていた。しかし最近は野良犬や野良猫の数が減っていて、いたとしても近所の住民に愛されている場合が多いから、なんとかやってこられたらしいが、ネズミとなると手に負えない。
町には野良人間が溢れかえっている。
彼らは労働力にはなり得るが、働く、という概念を未だ知らない。
社会は大混乱している。どうなるんだろう。
六月三日、金曜日、晴。
恐れていたことが起こった。
蹄を持つ動物まで人間化しはじめた。
畜産がほぼ壊滅し、食糧問題がにわかに盛り上がって、近所のコンビニにもスーパーにも、とにかく食べ物がない。学校も休みになった。会社どころでもない。
近ごろ、未曾有の、という言葉をよく聞く。
ぼくは、最初で最後の、だと思う。
人類がこの現象を乗りきれるとは思えないから。
六月五日、日曜日、曇。
魚、貝類、一部の植物で人間化現象が確認。
動物の肉も魚の肉も失われ、最後の砦だった植物まで人間になってしまって、いまやアフリカの大平原がいちばんの人口密集地になっている。
どこを見ても、人間、人間。
人類はゆっくりと終わっていく。餓死していく。
共食いをして生き残る、というひとたちも、いるにはいるらしい。それは少数派だろうとぼくは思う。人間の肉を食うくらいなら、死んだほうがいい。
ぼくはジェミイを愛しているのかもしれない、と思うようになった。
なんだか最近、自分のことがよくわからない。
ジェミイは、ぼくのことを愛している、と言っている。猫として、だろうか。人間の女として、だろうか。人間になった猫として、かもしれない。
どうせ人類は滅亡するのだから、どうなってもいいような気はする。投げやりな気持ちと、現実の行動とはなかなか一致しないものらしい。
六月十五日。
父さんと母さんが猫になった。
三日前から連絡がとれなかった姉の家に行くと、腹を空かせた黒猫が家のなかをうろついていた。しかしその黒猫に与える食事も、もうない。
宮野は正しかった。
いま、町中ではたまに動物を見かけるが、それはすべてかつて人間だったひとたちだ。いま町を歩いている人間は、かつて動物、植物だったひとたち。
人類は滅亡しないかもしれない。
六十億以上の人間たちは、すべて動植物に還っていく。代わりに動植物が人間になる。人間の定義も、社会の構造も変わらないが、中身がすべて入れ替わる。
実際、ニュースキャスターが動物になったといって、いまニュースを読んでいるのはもともと三毛猫だったらしい人間だ。そういう世界なのだ。
いつかはぼくも動物になる。
どんな動物になるんだろう。
両親も姉も猫だったから、ぼくも猫になるんだろうか。ジェミイと同じ猫。もっとも、ジェミイは人間で、猫になるのはぼくだけだ。
ジェミイには、いまのうちから、猫になったらかわいがってくれ、と言っておく。
猫になれれば、まだいいが、食用の豚や牛になるひとはかわいそうだ。しばらくは新しい人類も遠慮して食べないかもしれないが、いつかは生きていくために、食べなければならない。
もしぼくが猫にならず、豚や牛や鳥になれば、ジェミイに食べられることもあり得る。土に還るのではなく、人間の栄養になるのだ。ぼくはそのような生き方もいいなと思う。
それにしても、ぼくはいつ、動物になるんだろう。
あるいはぼくひとりだけ、人間として生まれ人間として育ったものとして、生き残るのだろうか。そんなことはない、と思うが、確信はない。
ぼくはジェミイのそばで、動物になるのを待っている。




