脱線
暗闇に浮かぶ一筋の線路上を、電車が走っている。次々と現れては去っていく風景を、ひっそりと照らす。
車両は一つ。そこに、男が一人佇んでいるだけだった。
窓は寒さのせいか靄がかかったかのように白く曇り、中から外を眺めることは憚られた。月の明かりだけが微かに窺える。
男は空席に座ることなく、古びた吊革に手を掛け、ただ虚空を見つめている。窓に自分の顔が映ったのを見ると、数秒固まり、長い、溜め息をついた。その目に光は灯っておらず、口には落胆の色が浮かんでいた。
突然、男は笑い出した。
「アハハハハハッ」
空の車内に響く、渇いた笑い声。
「ハッハハ……はぁ」
すぐにそれも溜め息に変わった。男は吊革を持つ手を替え、呟く。
「これからどうしたものか……」
何処へ行くのか、目的地はまだ決まっていなかった。そして男自身、何故此処にいるのかさえ忘れているのだった。
「どこまで逃げるの」
小さな囁くような声。
男が振り返ると、座席の片隅に、十くらいの少女が座っていた。幼い顔立ちとは裏腹に、その表情は凛としている。
「どこまで逃げるの」
少女は男を真っ直ぐ見つめ、繰り返し問う。
「逃げる……」
男はその言葉を反復した。そして気付く。自分が此処にいる理由を、思い出した。
「ずっと遠くまで。誰もいない、世界が私を貶めない、静かなところまで」
「なんで、逃げるの?」
男は口を噤む。言いづらいことだったからだ。
「なぜ逃げるの?」
少女は頑なに繰り返す。
やがて、沈黙に負けた男が口を開いた。
「人を殺したから」
答えた後、男は、年端もいかぬ子に聞かせるような言葉ではない、と後悔していた。
「そう」
しかし少女は表情も変えず、小さく頷いただけだった。
ガタン、と車両が大きく揺れた。男は体勢を崩し、慌てて吊革を持つ手に力を込める。
その様子がおかしく見えたのか、少女は初めて、小さく笑った。
それを見て、男は今更、この少女が奇妙に感じてきたのだった。
こんな夜に一人で、何処へ行くのだろうか。人を殺したと聞いて、何も感じないのだろうか。そう思うと、男は自然と口を開いていた。
「お嬢ちゃんは何処へ行くんだ?」
「わたしはどこへも行かない」
少女はすぐに答えたが、それは、少し的を外れた答えだった。
「何処へも行かない?」
「そう」
男が反応しかねていると、少女は続けた。
「わたしは、ずっとここにいる」
その意志のある言葉に対して、男が深く考える事はなかった。代わりに、別のことを尋ねる。
「私が人を殺したと聞いて……怖くないかい?」
ふるふると、少女は首を動かした。
「怖くない」
男は信じられなかった。
「……どうして? 君くらいの子なら、泣いて逃げるのが普通だと思うが」
「あなたは――」
男は耳を澄まして、少女の次の言葉を聞き取ろうとする。それは、耳を疑うものだった。
「あなたはもう――生きていないから」
「……生きてない?」
思わず男は聞き返してしまう。
少女は続けた。
「あなたが殺したのは、あなた。わたしはここで、あなたを見送るだけ」
少女の姿が、徐々に薄くなっていく。後ろの窓が透けて見えた。
「……君は!」
「これからあなたは選ぶ。この電車を降りるか、降りないか」
「……」
「あなた……は、まだ――死んでいない」
そして少女の影は、完全に消えてしまった。
しばらくの静寂の後、男は前を向いた。そしてまた、白く曇った窓を見つめる。そこに映った顔は、先程よりも少し、晴れているようだった。
吊革を持つ手を替えると、男は呟いた。
「これからは、ずっと此処に居ることにしよう」
電車が揺れ、軋む音は、もう聞こえない。
車内を照らす淡い光が、月の光に溶けていった。
この小説は私の処女作を推敲したものです。
拙い文章で書かれた物語ですが、感想よろしくお願いします。