マフィンを焼いていたはずが、マフィアに焼き入れていた。〜冷酷非道なボスも、焼きたての甘さには勝てません〜
いったい誰が、こんな一日になると予想できただろう。
少なくとも私は、朝から蜂蜜りんごのマフィンを焼きながら、「今日はお昼までに売り切れるかしら」などと考えていた。
小さな菓子店、ノワールの厨房には、バターと蜂蜜、それから焼けたりんごの甘い香りが満ちている。
この都市国家ヴァルネラは、表向きは交易で栄える華やかな街だけれど、裏では複数のマフィア組織が縄張り争いをしている。
いま、騎士団や役人は賄賂で動かず、自分の身は自分で守るしかない。
私が住む下町は昔は比較的平和だったけれど、最近は外から来た悪質な組織「赤狼団」が幅を利かせて、店や住民への脅迫が増えていると、
先日お隣さんのベルおばさんが言っていた。
マフィンの甘い香りを胸いっぱいに吸い込み、
こんな平和な瞬間がずっと続いてほしいなぁ…と考える。
鉄板の上でぷっくり膨らんだマフィンは、今日いちばんの出来だった。表面はさっくりと香ばしく、中には角切りのりんごと、少し多めに入れたシナモン。寒くなり始めたこの季節にぴったりの味である。
「ミレイアお姉ちゃん、もう食べてもいい?」
カウンター越しに、近所に住む七歳のリナが目をキラキラとさせている。
「もう少しだけ待ってね。熱いから、舌をやけどしちゃうわ」
「ふー、ふー、ってするから!」
「リナはせっかちねえ」
笑いながら、私は焼き上がったマフィンを網の上へ移す。
完璧な焼き加減に、うっとりとため息が出る。味見で一つ食べちゃおう、と手を伸ばしたその時だった。
厨房の裏から、どさ、と重いものが落ちる音が聞こえた。
「けほ。――誰か、いるか」
すこしあどけない、けれど低い声が耳に入ってきた。
「ちょっと、待っててね」とリナに声をかけ、近くにあったフライパンを持って、警戒しながらおそるおそる厨房裏を覗く。
そこには、少年が床に転がっていた。年は九、十歳ほどに見える。煤けた外套を羽織り、黒髪は乱れ、頬には擦り傷があった。けれど、こちらを射抜く金色の目だけは、ひどく大人びている。
いや、大人びているというより。
まるで、誰にも助けを求めることを知らない目。
「……追手が来る。少しだけ、ここに隠してくれ」
命令口調だった。私は眉をひそめる。
「お願いの言葉はご存じ?」
少年の金の目がわずかに細められる。
「今、そんなことを言っている場合か」
「言っています。ここは私の店ですから」
「……」
少年はしばらく私を睨んだ。
外の、少し冷たい風が室内に入ってくる。
――あの上の窓から無理やり侵入してきたのね。
「こっちのはずだ!」
店の表から聞こえた荒っぽい足音に気づくと、少年は苦々しげに唇を噛む。
「頼む。匿ってくれ」
「はい。よくできました」
私はにっこり笑って、厨房の奥を指した。
「そこの棚の裏へ。血が床につくと掃除が大変なので、先に布で押さえてください」
「……っ」
少年は何か言いたげに私を見上げたが、はく、と少しあいた口から言葉が紡がれることはなかった。
代わりに、私が差し出した清潔な布を受け取る。その手は小さいのに、指には硬い剣だこがあった。
気になることは山ほどある。
けれど今は、事情を問い詰めるより先に怪我人を隠すべきだ。
この少年は追われている。しかも、こんなに傷だらけで。
私がお菓子作りをしているのは、私の特技であり趣味でもあるけれど、何より人々の笑顔を見ることができるから。
特に、子どもは笑って過ごせる世の中であってほしい。
匿うのに、ためらいはなかった。
「おなか空いていますか?」
「は?」
「顔色が悪いので。怪我のせいだけではないでしょう?」
焼き立てのマフィンを一つ、紙に包んで渡す。
「毒でも入っているのか」
「?入っていませんよ。疑っているのであればいいです。私が自分で食べます」
「……」
少年は訝しみながらも、マフィンを受け取った。
手元から、美味しそうないい香りが鼻腔をくすぐってくる。
ひと口。
ふた口。
その金色の目が、ほんの少しだけ見開かれ、小さく揺れたように見えた。
「……うまい」
「ふふ、ありがとうございます」
少年がもう一口頬張ろうとしたその時、ドカ!と店の表の扉が乱暴に開く音がした。
「おい!黒いボロボロのガキ、この店に入ったんじゃねぇのか!」
怒号のような声が響く。
お店の中にはリナがいるのに!
私は急いで表に走った。
店内には、いかにも柄の悪い男が三人と、壁ぎわで震えているリナ。
男たちは革の上着。腰には短剣。首元には、赤い狼の頭を模した徽章。
最近この辺りで悪さをしているという、「赤狼団」の連中ね。
先頭の男が、こちらをじろりと睨む。
「子ども?常連の彼女以外、ここには来てないですよ」
私が言うと、男は笑った。
「"足跡"でわかってンだよ。とぼけるな。だがまあいい、ちょうどお前んとこにも用があった」
「用?」
「この辺りは今日から赤狼団の縄張りだ。商売を続けたけりゃ、みかじめ料を払え」
「お断りします」
「は?」
「うちは小さな菓子店です。そんなものを払う余裕はありません」
「余裕があるかどうかは、こっちが決めるんだよ」
男がカウンターを乱暴に叩いた。
置いてあったマフィンたちが跳ね、リナがびくりと肩を震わせる。
「お姉ちゃん……」
「大丈夫よ」
私はリナを自分の後ろへ隠した。
「子どもが怖がっています。声を落としてください」
「ああ?」
「それから、店内では走らない。棚を叩かない。お客様を怖がらせない。基本です」
「俺たちを誰だと思って――」
カウンターを乱雑に荒らした男。
私は床に散らばり、男の足元で潰れるものをただ見つめていた。
男の大きな靴が、落ちていたマフィンを踏んでいる。
今日いちばん上手に焼けた、蜂蜜りんごの、リナの笑顔を輝かせる予定だった、マフィン。
まだ温かいそれは靴底に押し潰されて、床に無残な形で広がった。
私は、男の靴と、潰れたマフィンを見た。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
「……粗末に扱いましたね?」
「はあ?」
「マフィンを」
店の空気が静かになる。
男たちは、何がおかしいのかとでも言うように顔を見合わせ、下品な笑い声を上げた。
「たかが菓子で怒ってんのか?」
「違います」
私は厨房の壁に立てかけてあっためん棒を手に取った。
「子どもを怯えさせ、店を脅し、食べ物を踏みつけたから怒っています」
麺棒を、軽く手のひらで打つ。
「三つも悪いことをしたのですから、三つ分、きちんと反省していただきます」
「ハッ、なんだこの女」
「脅せば払うだろ。さっさと――」
一人が私へ手を伸ばした。
私はめん棒で狙いを定めて、その男の喉元の窪みを思い切り押した。
「ぐおぇ!?」
男が喉を押さえて油断した瞬間、
思い切り股間を蹴る。
「が、ぁ゛…!」
男は苦しみながら倒れた。
「一つ目。店内で女性に手を出そうとした分です」
「この……!」
別の男が短剣を抜いた。
私はカウンターの下に置いていた小麦粉の袋を掴み、迷わず相手の顔へ投げつける。
「うわっ、目が! 目が見えねえ!」
「二つ目。刃物を抜いた分です」
白い粉にむせる男の足を払い、転んだところへ麺棒を振り下ろす。
狙うのは頭ではなく、短剣を握っていた手。
ごん、と鈍い音がして、短剣が床へ落ちた。
「痛ってええ!」
「痛いでしょう。人を刺そうとすれば、刺される側も同じように痛いのです」
最後の一人が、後ろにいるリナへ目を向けた。
私は見逃さなかった。
「動かないでください」
「は、はは……。ガキを人質にすりゃ――」
「駄目です」
男がリナへ腕を伸ばすより早く、私は足元の椅子を蹴った。
椅子の脚が男のすねに当たり、彼が苦悶の声を上げて膝をつく。
その背後に回り込み、エプロンの紐をするりと外した。両手首を背中側でまとめ、きつく縛り上げる。
「三つ目。子どもに手を出そうとした分です」
「な、なんだよ、お前……!」
「菓子屋です」
私は答えた。
「弱い者いじめをする人には、少々厳しい菓子屋です」
男たちは床に転がり、呻き声を上げている。
店内には小麦粉が舞い、潰れたマフィンがあり、リナは呆然としていた。
私はふう、と息をついた。
「リナ、大丈夫?」
「う、うん……。ミレイアお姉ちゃん、かっこいい……」
「ありがとう。でも、こういう人たちには近づいてはいけませんよ」
「うん!」
その時。
厨房の棚の裏から、低い笑い声が聞こえた。
「ふ」
私は振り返る。
そこには、先ほどの傷だらけの少年が立っていた。
いつの間に出てきたのか、彼は食べ終えたマフィンの包み紙をきちんと畳み、金色の目を細めている。
「へんな女」
「見ていないで手伝ってください」
「俺が?」
「あなた以外に誰がいるんですか。そこの人たちを縛って、騎士団へ連れていきます」
少年は一瞬だけ目を丸くした。
次いで、心底おかしそうに笑った。
「俺に命令するのか」
「命令ではありません。お願いです。……お願いします」
「ふん」
少年は笑みを消さないまま、床に転がる男たちを見下ろした。
私は縛るための紐を棚から引っ張り出そうとした。
「や、やっぱり、いるじゃねぇ、か」
男たちは少年を見上げるが、しばらく立ち上がれなさそうだ。
少年の眼差しは、子どものものとは思えないほど冷たい。
「恩人の頼みだ。いいだろう」
子どもにしては傲慢な口調だな…と変な感想が頭に浮かぶ。
彼が指を鳴らすと、床の影がするすると伸びた。
影は男たちの手首と足首へ絡みつき、あっという間に動きを封じる。
「え、きみ、魔法使えんですか?!」
「…」
私が言うと、少年はまた小さく笑った。
しかしその直後、店の外から複数の足音が近づいてくる。
そして聞こえたのは、先ほどの男たちとは違う、切迫した声だった。
「――ボス! この辺りにいらっしゃるはずです!」
少年の笑みが、ぴたりと止まった。私は首を傾げる。
「ボス?」
少年は、困ったように片眉を上げた。
「……面倒な連中が来た」
その声音は、まるで自分こそが、その“ボス”だと認めているように聞こえた。
「ボス!ご無事で…!!つ、ついに見つけ……って、ええ!?」
荒々しく店の扉を押し開けて雪崩れ込んできたのは、漆黒の外套に身を包んだ、強面の男たちだった。
その外套の形は、少年が着ているものと大きさは違えど同じ。
その腰には一目で仕込みとわかる拳銃や魔導具が下げられている。
彼らは店内の惨状――小麦粉まみれで転がり、影の縄で縛られて呻く「赤狼団」の下っ端たちと、めん棒を構えた私たち、そして幼い少年の姿――を目にして固まった。
「な、なんだこの状況は!? 赤狼団の刺客か!? おい、ボスに手を出すな……って、え、ボス?」
先頭に立つ巨漢の男が、少年の顔を見て呆然と呟く。
少年――いや、ヴァルネラ裏社会の頂点に君臨するマフィア『黒翼会』の総帥、レオンハルトは、うんざりしたように溜め息をついた。
「声が大きい。バルト。」
「申し訳ございません!……しかしボス、そのお姿は一体……」
「説明は後だ。それより、このゴミ拾いをしろ。俺の……いや、この店に『借り』を返したい」
バルトと呼ばれた男は一瞬混乱したように目を白黒させたが、ハッと背筋を伸ばすと、手下に命じて転がる赤狼団の男たちを外へ引きずり出させた。
店内が一目散に清掃(あるいは回収)されていく中、私はめん棒を静かに調理台へ戻し、少年の前で腕を組んだ。
「……ボス、なんですね」
「……ああ」
レオンハルトは小さく鼻を鳴らし、金の目を細めた。大人としての威厳を取り戻そうと、わざとらしく胸を張る。
「俺は『黒翼会』のレオンハルトだ。街を牛耳る赤狼団など、俺の敵ではない。お前が助けたのは、この街の裏の支配者だ。……恐怖で声も出ないか?」
「ええ、本当に恐怖です。」
私は真顔で頷く。
「『黒翼会』のボスは血も涙もない残虐非道で人を捨て駒の方に扱う大男と聞いていました。でも、こんな可愛らしくて幼い子どもだなんて」
「……今は訳あってこの姿なだけで、本当は大人だ。あのチンピラは弱かったから良かったが、俺ならお前を一瞬でどうとでもできる」
少し物騒な言い回しと、まだあどけない顔を持つ目の前の男の子のギャップが何だか面白くて、笑みがもれた。
「そんな大層な立場の方が、子どもの姿で逃げ回っていたなんて。セキュリティはどうなっているんですか?」
「……は?」
「それに、お腹を空かせて駆け込んできたでしょう?そんな生活習慣で、巨大組織のトップが務まるのですか?」
「お、おい! 貴様、ボスに向かってなんて口を――!」
バルトが青筋を立てて割って入ろうとしたが、レオンハルトが手でそれを制した。
レオンハルトの顔が、驚きと怒り、そしてどこか呆れたような色で複雑に歪んでいる。
「お前……俺が誰だか分かって言っているのか? 命が惜しくないのか?」
「私はただの菓子屋ですから、裏社会の事情は分かりません。でも、私の店でマフィンを食べた以上、あなたは今日のお客様です。お客様が危険な目に遭うのも、お腹を減らしているのも見過ごせません」
私はエプロンのポケットから新しい紙袋を取り出した。
焼き立てのマフィンをさらにふたつ、手際よく包んでレオンハルトに差し出した。
「持っていってください。大人の姿に戻るのも、お仕事をするのも、体力が要りますから」
「……」
レオンハルトは差し出された紙袋を、まるで未知の危険物でも見るような目で見つめた。
しかし、甘く香ばしいシナモンとアップルの香りが鼻腔をくすぐると、彼の手は勝手に動いてそれを受け取っていた。
「……借りは、必ず返す」
レオンハルトはそう吐き捨てるように言うと、黒塗りの馬車へ乗り込み、街の闇の中へと消えていった。
それから三日後。
「赤狼団」は一晩にして街から姿を消した。
黒翼会による電撃的な壊滅作戦が行われたのだという。下町の噂では、赤狼団の本部に殴り込んだ黒翼会のボスが、「踏みにじった分の落とし前をつけろ」と意味不明な怒りを破裂させていたらしい。
下町に平和が戻り、菓子店、ノワールもいつもの穏やかな日常を取り戻していた。
「ミレイアお姉ちゃん! 今日も蜂蜜りんごのマフィンちょうだい!」
「ふふ、リナ。今日も焼きたてがたくさんあるわよ」
笑顔で接客をこなす私の店の扉が、カランコロンと涼やかな音を立てて開いた。
入ってきたのは、仕立ての良い漆黒のスーツを着た、背の高い美しい男性。
風にそよぐ黒髪と、獲物を射抜くような鋭い金色の瞳。大人になったその姿には、あの夜の少年の面影が色濃く残っている。
店内にいた客たちが、男の発する圧倒的な覇気に息を呑み、そっと店外へ退散していく。
「いらっしゃいませ」
見覚えのある面影とオーラ。
ふふ、と笑いながら尋ねる。
「お客様、もしかしてこの前の…?」
「……これがいつもの俺だ。」
少し照れたように私から目線を外して彼は答える。
「この総帥たる俺がわざわざこうして出向いているのは珍しいんだ。それもこれも、お前に、恩を返すためだ」
「そういえばあの時、どうしてあんな簡単に倒せるチンピラに追われていたんですか?」
「あいつらは追ってきていた勢力のひとつなだけで、本丸はあのあとしっかり始末した。あんなもの、子どもの俺でも指先で殺れる」
魔法を使える彼をあそこまでボロボロにした勢力…気になるけれど触れないでおいた。
レオンハルトはカウンターに歩み寄ると、ぺらりと紙を差し出してきた。
「なんだ、これは?」
「みかじめ料の請求書…ではなく、『永久保護協定』の契約書だ。今後、この店に手を出す者は、黒翼会全戦力をもって全力で潰す。ついでに、お前を俺の専属菓子職人として雇う」
突然の破格すぎる申し出に、私はパチパチと瞬きをした
そして契約書をそっとレオンハルトの方へ押し戻す。
「お断りします」
「……は?」
レオンハルトの額に青筋が浮かぶ。
「なぜだ!この条件見ろ!なんなら金だってやる、一生好きな菓子を作って遊んで暮らせるぞ!」
「うちは小さな菓子店です。そんな大金は置く場所もありませんし、私はこの下町で、リナや近所のみなさんにマフィンを焼くのが好きなのです。どこかの屋敷に閉じこもるつもりはありません」
「お前……本当に命が惜しくないようだな……」
レオンハルトが低い声で威圧するが、私はまったく怯まない。
むしろ、彼の顔をじっと見つめて、ふっと表情を緩めた。
「ですが……そうですね」
私は焼き上がったばかりのマフィンを一つ、綺麗な紙皿に乗せて差し出した。
「マフィン1個分の代金を払って、普通のお客様として毎日に来てくださるなら歓迎しますよ。……少し、お疲れのようですから」
レオンハルトは息を飲んだ。
組織のトップになって以来、誰もが自分を恐れ、崇め、あるいは命を狙ってきた。
自分を「ただの疲れた人間」として扱い、温かい食べ物を差し出してくれた者など、一人もいなかった。
レオンハルトは苦々しげに顔を背けながらも、ポケットから一枚の銀貨を取り出し、カウンターに弾いた。
「……マフィンひとつ。それと、紅茶だ」
「はい、ただいま」
私が奥へ下がるのを見送ったレオンハルトは、焼きたてのマフィンを口に運ぶ。
サクッとした歯ごたえの後に広がる、甘く優しい蜂蜜とシナモンの香り。
(……相変わらず、腹が立つほど美味いな)
冷酷非道と恐れられるマフィアのボスは、小さく口元を緩めながら、自分の「縄張り」がまた一つ増えたことを確信していた。
もちろん、この小さな菓子店と、頑固で恐れを知らない店主を守るためなら、どんな敵であろうと容赦なく焼き入れるつもりで。




