地理の授業を抜け出して
百合好きではないのですが、書いたものが百合っぽくなることはままあります。
報われなさを伝えやすいからかもしれません。
「『それっぽいこと』言うわね」
ああ、またはじまった。
あたしはそう思った。
遠くからのカタンカタンという電車の音にかまけて。
あたしは何も言わなかった。
すると、何も聞こえなかった。
カタンカタンという車輪の中に。
待っているのだ、あたしの返事を。
屋上の風に触れ合う髪が金色に為るまで、黙っていてやろうかとも思った。
「――言わなくていいよ」
けれど、答えてしまった。半分溜息と一緒にそう言ってから漸く、あいつは先の言葉を続けた。
「嫌、言うの」
だったら初めから訊かなくていいよ。
そう丁寧に返していた時期が、今は遠い。代わりに。
「ガキかっ」
頤を空へ向け、罵倒を打ち上げる。ひょうと上昇したそれはあたしが寄り掛かった、時計の機関室の屋根まで飛んで、チェシャ猫みたいに笑うあいつの目の前で壊れて消えたはずだった。無論あいつが、そんなもの意に介する筈が無く、寧ろあたしの了解の合図だとさえ思っていることも、あたしは知っていた。
あたしのまえには、やろうとおもえば容易く乗り越えられる錆びたフェンス。その真下では、日中自動車の往来が途切れることが無く、ドップラー効果を孕んだタイヤ音の連続は、まるで灰色の床がコンクリの先の空中にも延々と続いているかのようだ。
その、広がる摩擦音の隙間から、軽やかに錆び付いた響き。
カタンカタン、カタンカタン。
「『にんげん、サイゴは愛ね』」
カタンカタン、カタ。
一呼吸。
「『にんげん、サイゴはお金ね』」
「ねえ」
あいつの声に間髪を入れず、あたしは呼び掛けを入れる。
「最近ネタ切れ?」
返事が無い。
「昔はもっと面白かった気がすんだけど、アンタの言う『それっぽいこと』」
『それっぽいこと』
曰く。
『裏返しても尤もらしく』
『故に万人が正であると思い込み』
『故にどちらも偽である』
そのようななフレーズ。
『世の中にはそれが蓋を開けたばかりのコーヒーゼリーの様に満ち満ちていて』
『私は真っ白なミルクを掛けて、切迫した表面張力をおもむろに崩壊させてやるの』
まぎれも無い本気の目で言ってのけた、去年の五月。
返事が、無い。
「ああでもよく考えたらアンタが言ったことなんも覚えてないわー。やっぱ気のせいかな、気のせい。アンタが面白くないのはずっとかわんねー」
再三にわたる沈黙が、炎天を免れる日蔭の中で色を濃くする。その空白が妙にあたしを急かす。心の臓が不安定に鼓動の速度をあげる。
カタンカタン、カタンカタン。
言い過ぎたかな、そう思って、前方に戻していた視線をまた持ち上げようとして。
上に動く黒目と擦違うように制服姿が飛び降りて来た
陽を受ける白いブラウスが、紺のスカートが、時の摩擦に引っ掛かったようにゆっくりとしかし止まること無く恵の視界を下りてゆく。
空と海の青い青い境を、音も無く引き裂いてゆく。
そのやけに軽い落下音から、目が覚めるのに一秒掛った。
「どうしたの? 鬼でも見たような顔をして」
振り向きながら立ち上がり空を仰げば、落とし穴を成功させた小学生男子の様な笑みを浮かべたあいつがいた。
白いブラとパンツ、そして白すぎる身体を、『ガキみたいに』晒して。
「――なにしてんの露出狂、学校中のファンが泣くよ? いや、泣いて喜ぶ、かねぇ」
あたしがそう吐き捨てても、あいつのにやにや笑いは止まない。背中にネジの付いたふらんす人形みたいに、話も聞かず、或いは聞こえないかのように、ふふふふふふふふふと笑い続けそうな、実に高貴で不気味な表情。
「氷みたいに固まっちゃうのね。おかしくておかしくて」
振り返って、コンクリの上に横たわった、ブラウスとスカートが風に悶えるのを見る(よくよく見ればそれらはいつもあいつがしている、確か二万三千もする髪留めで繋がれていた)。
カタンカタン、カタンカタン。
それがなんだか、飛び降り失敗後の死に損いにイヤに似ていて、すぐさま視線を戻す。
と、
「あは」
あいつが、飛んでいた。
カタンカタ。
あたしは氷みたいに固まっていたんだろう。
避けることも構えることもせず。
只、青い空と白いあいつのコントラストを、阿呆みたいに開いた口と目で捉え。
カタンカタン、カタンカタン。
確実に進む時の中で、確実にあいつは、ゆっくりと、ゆっくりと。
落ちていて。
「ねえ」
「何かしら」
見上げる群青は、奈落の様に底を知らせてこない。
その深淵と対になった日蔭の床で、強かに打ち付けた左肩のじんじんする痛みと格闘しながら、あたしは半裸のあいつに押し潰されたまま、訊いた。
「あたしが避けてたらどうしたのさ」
「さぞ苦しかったでしょうね」
まるで寝床に居る子供に毒りんごを食べた時の白雪姫の状況を説明するかのような口振りで――要するに遠い世界の『ありえない』悲劇喜劇だと言わんばかりに――あいつは易々と言ってのけた。
「でもあなたなら、きっと私を受け止めてくれると思っていたわ、そして案の定――ありがと」
さっきの爆笑からは想像できない程の御淑やかな声。
貝殻みたく白いブラに包まれた薄い胸を、あたしの制服のスカーフの部分に殊更押し付けて来る。
嫌味の無い香水から漏れる、あいつの汗の匂い。
夏の昼下がりには鬱陶しくてかなわない、他人の温度。
「あなただけだもの、後にも先にも私を受け入れてくれたのは」
後にも先にも、と、まるで死んだ後人生を振り返るかのように言う。どれだけつまんねー人生だったんだよと言いそうになって、止めた。
鼻と鼻の触れ合う距離で目と目が結ばれている。留め具を失った前髪があたしの額を孔雀の羽根の様に撫でる。
カタンカタン、カタンカタン。
と、まるで罠にかかった鶴の様にあいつは目を閉じて。
顔が近付けられる。白雪姫の、王子の様に。
あたしの目は自然、蜜柑の房の様に小さな唇を見てしまい。
そのまま落されると思っていた顔は。
カタンカタン、カタンカタン。
そよ風の様に軌道を変え。
首が、交差する。
あいつの後頭部があたしの目のすぐ横にくる。
あいつからあたしの表情が見えないのをいいことに。
あたしは、自分でも一切見たくないような顔をした。
あたしは、自分でも一切見たくないような心をした。
カタンカタン、カタンカタン。
あいつが宙を舞った時。
あたしは一瞬、そのままあいつが空へ飛んでいってしまうかと思った。
でも、そんなことはなくて。
蝶の様に美しく、蛾の様に忌み嫌われ。
太陽の様に眩く、月の様に青褪めて。
天使の様に笑み、悪魔の様に笑い。
まさにあいつの言う『それっぽいこと』の象徴みたいであったあいつは。
容易く重力に屈し、
容易く受容を欲した。
それがとても嬉しくて。
とてもあたしを落胆させた。
このクソッたれに安定した世界で、せめてアンタだけは一矢報いてくれ。
どこかでそう願っていたのだろう。
なあんだ。
結局、アンタもあたしと同じ。
法則やら常識やら科学やら通念やらいう青い天井を突き破ることは出来ないのかと。
それを舐めることも出来ないのかと。
身勝手に思った。
それとも何か。
あいつがあのまま、空へ落ちて行ってしまえば、あたしは満足だったのだろうか。
あいつがあのまま、あたしの前から消えてしまえば、あたしは満足、だったのだろうか。
陽を受けてなまあったかい髪に指を入れて、掻き回した。
潤った松の針を撫ぜるような黒髪の感触も。
一時限目では覚醒しない摂氏三十五点九度の体温も。
肉から発散されているとはとても思えない甘い体臭も。
中東の夜か熟れた林檎を思わせる様な熱い熱い息遣いも。
すべては、あたしの中に収まってしまっていた。
十の位を四捨五入すれば消えて無くなってしまう重みの様に。
カタンカタン。
「ねえ、あなた」
「気色悪い呼び方すんな」
タン、カタンカタン。
「この世の中って、適度に死にづらくて、圧倒的に生きづらいものね」
あたしはまったく、同意する。
「それは中々の出来だね、久しぶりに。でもさ」
カタン。
「それは多分、正しいよ」
「そうね。私も思ってたところ」
その日を最後に、あいつは『それっぽいこと』を言うのを止めた。
全ての『偽』は、皆か誰かに言い尽されてしまった、そう代弁するかのように。
カタンカタン、カタンカタン。
あと『屋上』という場所も好きです。




