プロローグ
いつも通りの変わらない朝。九曜和佐はゆっくりと伸びをしながら体を起こす。時計は5時を指していた。もう春が目の前だからか、起きるのが苦ではなくなってきている。
隣では親父、九曜雅人はグースカいびきをかきながら眠っている。人がこれから飯を作らなければならないと言うのに、こいつは本当に親なのだろうか。一発ぶん殴ってやりたいぜ。
「はぁ、めんどくせぇ〜」
そうひとりごち、伸びをする。まだ眠いが、台所へ向かい朝食の用意を始める。
うちには母親が居ない。小学生の時から、ずっと親父と2人だった。それより前のことはあまりよく覚えていないし、記憶を隅から隅まで探っても母親の姿は1ミリも思い出せなかった。
鍋を火にかけ、みそ汁を作っていく。豆腐を入れ、冷凍庫からみそを取り出す。冷凍保存すれば美味しく長持ちさせられるということを、お隣の佐伯さんから聞いたので実践してみたのだ。やはり使い終わりに近づけば近づくほど風味の違いが歴然と感じられる。まぁ、バカ舌の親父は何でもただうまいうまいとだけ言って食べるのだが。
みそをスプーンからお玉に出して溶き入れる。ふわっと香ばしいみその香りが台所に広がる。やはり料理を作っていて一番楽しいのはこの瞬間だ。料理が完成に近づき、台所いっぱいに美味しい香りが広がる瞬間。料理が自分の手で、自分が満足できる領域に達したと実感できる瞬間。
鍋の火を止め、移動させる。次はだし巻きを作る時間だ。
「おーっす、今日もやってんねぇ」
まるで行きつけの居酒屋に入る時のサラリーマンみたいな事を言いながら親父が台所に顔を出す。
「もう少しで出来るから着替えてテーブル綺麗にしといて」
「うぃ〜っす」
これではどちらが親だか分からない。いや、会話だけ見れば明らかに俺の方が親っぽい事を言っている。
卵をとろとろ具合を維持できるようこまめに卵液を追加しながら、手際よく巻いていく。よし、今日もいい調子だ。
だし巻き、みそ汁、そして炊き立てのご飯をよそい、リビングのテーブルに移す。親父はいつのか分からない缶コーヒーを眠そうにすすっていた。
「おら、飯できたぞ。運ぶの手伝え」
「お〜、今日もうまそうだなぁ」
そう言いながら親父は俺が持っていたみそ汁とご飯をとったかと思えば、自分の前に置いて早速食べようとした。
「バカヤロ、自分の分だけで満足してんじゃねぇよ、俺の分運ぶのも手伝えや」
そう言うと親父はウインクして舌を出した。
「てへぺろっ」
「てへぺろじゃねぇよ!さっさと動け!」
「はぁ〜い」
親父はぷく〜っとほっぺたを膨らましながら台所に向かう。やはり子供だ。
ようやく朝食の支度を終え、2人で席につき手を合わせる。
「「いただきます」」
テーブルの上には熱々のみそ汁と白く輝いた炊き立てご飯、あっさりとしただしがほのかに香るだし巻き、そして納豆がおり、これぞ日本の朝ごはんというにふさわしい品々が並んでいた。
まずはみそ汁をすする。さわやかに市販のカツオだしの香りとみその香りが鼻を通り抜けていく。胃袋がじんわりと温まり、それと同時に胃が空腹を激しく主張してくる。とても美味しい。
そしていつも通り親父の方に目線を映す。親父も同じように一口すする。
「うん、今日もうまいなぁ〜」
いつも通りの言葉をもらい、少しホッとする。ここから今日の天気がどうとか帰りは何時になるとかの会話を交わしながら食べる。それがいつもの日常だった。もちろん今日も同じように会話をして、朝食はそのまま終わりを迎えるかと思われた。しかし終わらなかった。
「あ、そうだ。お前に言っとかないといけないことがあるんだった」
口調自体はいつも通りで、今日は用事があるから遅くなる、みたいな事を言いそうな軽さだった。
しかし、次に飛んできたのはそんな想像をはるかに超えるぶっ飛んだ内容だった。
「俺、再婚するから」
……。理解が全く追いつかない。
「なんて?」
だから空耳であったことを期待した。しかしその期待は一瞬で裏切られる。
「だから俺、結婚するから」
「はぁ!?」
驚きのあまり、開いた口が塞がらない。親父が、再婚。お世辞にもかっこいいとは言えないアラフォーのおじさんだぞ!?自分で言うのもなんだが割と運動神経は良いし頭も良い(たぶん)花の高校生である俺が生まれてこの方彼女など出来たことないのだから、親父にもそういうのは無いと思ってたし、事実これまで何も気配が無かった。
「ま、まさか親父結婚詐欺にでも引っかかったか?」
正直、こうとしか思えなかった。一応医者ではあるから、多分だが金だけはあるはずである。多分と言っているのは飯等で家計を握っているはずの俺にギリギリかつかつの金しか来ないからであるが。
しかし親父はそんなことはないと言わんばかり、ニヤリと笑って言った。
「そんなわけないだろう、何せ相手はお前もよく知っている人物だからな」
「ほう?誰なんだ?」
俺がよく知っている人物と言われたら気になってしまう。正直誰も親父のことなんか相手にしてくれなさそうな気がするのだが……
親父はふふんっとまるで自慢するかのように言った。
「お隣の佐伯さんだよ」
「……は?」
余計に理解出来ない。確かに佐伯さんに今夫はいない。3年前に単身赴任先で事故に巻き込まれて亡くなってしまっている。
だがしかし、それでも親父と再婚するだなんてありえない。だって考えてもみろ?いくらバツイチとはいえ、佐伯さんは絵に描いたような美人だ。それなのにこんなヤブ医者子持ち金なしクソバカ野郎と結婚だなんてぜっっったいにあり得ない。
「何だよお前、こんなクソがどうやってあの美人を〜みたいな顔してるな」
「そりゃそうだろ、誰が貰ってくれるんだよこんな子持ち金無しアラフォーヤブ医者クソバカ野郎」
「なんか酷くない⁉︎」
「事実だバカヤロー」
「そんなっ」
水商売の女もびっくりなレベルの白々しい嘘泣きをかましている親父の頭を軽く叩きツッコミを入れる。
「はぁ……。まぁおめでとう、ところで式とかはやっぱ挙げない感じか?あと、家とかってどうするんだ……?」
「あぁ、そこら辺は心配いらないよ。式は来月挙げるし家は今週末にでも佐伯さんの家に引っ越すぞ」
「おお、珍しく用意周到だな……。って来月に式で今週末に引っ越しっておまっ、舐めてんのか!そんな急に準備出来るかぁ!」
「大丈夫だぞ、向こうはいつでもOKだとさ」
「向こうは良くてもこっちが良くないんだよ!そんな2日3日で引っ越す準備が出来るかぁ!」
あまりの唐突さに頭を抱えていると、親父がふと言った。
「そういやお前、学校大丈夫か?」
すぐに時計を見ると、時刻は8時を回っていた。朝のホームルームは8時半から始まるのだから、もうほぼ遅刻確定だ。
「だぁぁ、帰ったら覚えとけよクソ親父!」
「ははっ、いってらっさ〜い」
俺は焦って家を飛び出し、急ぎ自転車を漕ぐのであった……




