第七話 煤けた年表~燈火~
座は静まっていた。
1945年までを語り終えたあと、誰もすぐには口を開かない。
燈子は視線を上げ、はっきりとした声で言った。
「ここからは、戦争が終わったあとの日本について話します」
伊藤が穏やかに答える。
「承知しました、殿下。続けてください」
燈子は一度うなずいた。
「1945年に日本は降伏します。その結果、日本は連合国に占領されます」
山縣が即座に問いを返す。
「占領というのは、直接統治のことか。外国が日本政府を解体し、自ら統治するのか」
「いいえ、そこまでは行きません」
燈子は明確に否定する。
「日本政府は存続します。各省庁も機能します。警察も裁判所も残ります。国体が変わるわけでも、昭和の御世の大御心も退位させられるわけではありません」
伊藤が整理する。
「つまり、国家の外形は維持されると」
「はい。ただし、日本政府が単独で最終決定を下せる状態ではありません」
松方が確認する。
「最終決定権は誰が持つのか」
「連合国軍総司令部です。国内で決めた法律や政策は、占領当局の承認がなければ実行できません」
山縣が低く言う。
「それでは、主権は日本にない」
「はい、その通りです」
燈子ははっきりと断言する。
「日本は形としては独立国の形を保っています。しかし、実質的な主権は制限されています」
伊藤が静かにうなずく。
「形はあるが、決める力は外にある。そういう状態だね」
「はい」
燈子は次に進む。
「次に、軍の扱いです。日本の陸軍と海軍は解体されます。軍という制度そのものが消滅します。武器は接収され、兵器は廃棄されます」
山縣の目が鋭くなる。
「将兵はどうなる」
「多くの兵士は復員します。軍籍を離れ、民間人として帰郷します」
大山がさらに問う。
「全員が速やかに帰国できるのか」
「いいえ。すぐには帰れない人もいます」
燈子は言葉を補う。
「海外に展開していた部隊の兵士の中には、抑留される者が出ます。何年も帰国できない人もいます」
大山が重く言う。
「戦争が終わっても、兵の生活は終わらない」
「はい。戦闘が終わっただけで、戦後処理は続きます」
伊藤が問う。
「国内の状況はどうだ」
「都市は焼失しています。住宅が不足し、食糧も不足しています。復員兵が戻っても、すぐに仕事があるわけではありません」
松方が静かに言う。
「それでは国家再建よりも先に、生活再建が必要だ」
「その通りです。国の理念よりも、まず国民の生活が問題になります」
燈子は一度区切る。
「その上で、新しい憲法が制定されます」
井上が問いかける。
「新憲法の中心は何だ」
「国民主権、基本的人権の尊重、そして平和主義ー戦争を行わないという原則です」
燈子ははっきり言う。
「国民主権、基本的人権の尊重これは世界の様々な国でも見られます。しかし戦争を行わないという宣言を憲法に明記した国は数少なく、世界的に見て珍しい憲法です。この憲法で日本は戦争を放棄すると明記します。軍を保持しないと書きます。交戦権を認めないと定めます」
山縣が短く問う。
「それは理想論ではないのか」
「理想でもあります。しかし同時に制度です」
燈子は説明を続ける。
「誰かの判断一つで軍を再建できないようにする。戦争という選択肢を国家の法制度の外に置く。そのための条文です」
伊藤が静かに言う。
「軍は動き出せば止まりにくい。ならば、最初から動けぬ形を作る」
「そうです」
燈子はうなずく。
「止める仕組みを後から作るのではなく、動き出せない枠を先に置きます」
そして、燈子は最後の話題に触れる。
「さらに、戦争の責任を問う裁判が開かれます。東京裁判とよばれます」
座が再び重くなる。
伊藤が慎重に問う。
「それは、正義と悪を裁く場か」
「私はそうは見ていません」
燈子は落ち着いて答える。
「この裁判は、戦争の責任を記録する作業です。誰がどの決定を下したのか、どの時点で止められなかったのか。それを公的な記録として残します」
井上が確認する。
「責任の所在を明確にする、ということか」
「はい。責任が曖昧なままだと、同じ理屈が繰り返され同じ悲劇が繰り返されます」
山縣が言う。
「境界を引くということだな」
「その通りです。ここから先は同じ悲劇の道へ戻らない、という線を引く作業です」
大山が静かに言う。
「線を引いても、生活はすぐには戻らない」
「ええ。それでも線は必要です」
燈子は最後にまとめる。
「戦争は終わりました。しかし、終わったのは戦闘だけです。主権を失い、軍を失い、生活を立て直し、制度を作り直す。その処理が、ここから始まります」
伊藤が最後に問う。
「世界も、これで静まるのか」
燈子ははっきり答えた。
「いいえ。世界は静まりません」
「戦争は終わりました。しかし、世界全体が平和になったわけではありません」
伊藤が静かに問う。
「殿下、この戦争の前後で世界は具体的にどう変わるのですか」
「超大国が二つ誕生します。アメリカとソ連です。この二国が互いに対立します」
山縣が短く言う。
「再び世界大戦になるのか」
「いいえ。二国は直接には戦いません」
燈子は続ける。
「しかし、両国はそれぞれの陣営を作ります。そして、自分の陣営に属する国を支援します。武器や資金を提供し、代理の戦争が各地で起きます」
井上が確認する。
「つまり、当事者同士は直接ぶつからないが、周辺国で戦争が起きる」
「はい。その構造を冷戦と呼びます」
松方が言う。
「戦わないが、軍備は拡大する。費用は増える」
「その通りです。核兵器も開発されます。互いに攻撃すれば自国も壊滅する力を持つことで、直接衝突を避けます」
山縣が低く言う。
「脅しで均衡を保つと」
「はい。恐怖で均衡を保ちます」
燈子は次に、日本の位置を示す。
「日本は、西側陣営に組み込まれます。アメリカと安全保障条約を結びます。アメリカ軍の基地が日本国内に置かれます」
伊藤が問う。
「主権は回復しているのか」
「形式上の主権は回復します。しかし、条約によって安全保障の枠組みが固定されます」
井上が言う。
「独立はするが、枠の中に入る」
「そうです。一方で援助も入ります。資金や技術、物資が日本に流れます」
松方がうなずく。
「経済復興の基盤になる」
「はい。しかし、援助は条件とともに入ります。安全保障の枠組みとして独立後も米軍の基地が国内に残ります。助けとして入ったものが、同時に枷として残ります」
山縣が言う。
「我が国をアメリカの陣営につないでおく鎖にもなるということだな」
「はい」
燈子は続ける。
「1950年に朝鮮戦争が起きます」
大山が即座に反応する。
「日本は戦場になるのか」
「なりません。しかし、日本の港、工場、鉄道、倉庫はフルに動きます。アメリカ軍の後方拠点になります」
大山が低く言う。
「戦場ではないが、戦の勘定には数えられる」
「その通りです。日本経済はこの戦争特需で回復します、そして力の面でも日本はこの戦争と無関係ではありません」
山縣が問う。
「しかしこの時の日本は軍を持たないのであろう?軍を持たぬ国が、戦争という軍が主役の局面でどう対応する」
「治安維持を名目に、実力組織が作られます」
燈子は明確に述べる。
「最初は警察予備隊とよばれます。その後、保安隊になります。そして最終的に自衛隊になります」
伊藤が確認する。
「それは軍なのか」
「建前としては軍ではありません」
燈子ははっきり言う。
「しかし、武装しています。訓練も行います。指揮系統もあります。外から見れば、軍に近い存在です。海外のニュース、情報を広く知らしめる仕組みではArmy、Navy、Air Forceと呼ばれることもあります。日本語に直訳すると陸軍、海軍、空軍です」
山縣が短く言う。
「軍ではないと言いながら、軍に近い。そして外からは軍とみられていると」
「はい。この矛盾は解消されません。だからこそ、日本政府は矛盾を制度で縛ります」
井上が問う。
「どう縛る」
燈子は指を折って説明する。
「第一に、許可が先にあります。自衛隊は他国の軍とは違い、法律で許された範囲でしか動けません」
「第二に、止める線が先に置かれます。活動の範囲、武器の使用条件、派遣の要件が法律で細かく定められます」
伊藤が言う。
「軍は動き出せば、世論では止まらぬ。止めるのは軍令だ」
燈子はうなずく。
「だから、日本は逆の形を取ります。最初から政治という世論の枠の中に閉じ込めます」
山縣が問う。
「統帥は独立するのか」
「しません」
燈子は即答する。
「指揮権は政府の下に置かれます。軍が独立した判断を取ることは許されません」
井上が続ける。
「裁きはどうする。軍法会議を置くのか」
「原則として通常の司法制度の中で裁きます。軍の内部で完結させません」
山縣が短く言う。
「軍が自らを指揮し、裁く仕組みを持たぬ」
「はい」
燈子はまとめる。
「日本は、軍ではないという枠の中で、軍に近い力を持つ組織を運用します。その矛盾を、法律と手続きで縛ります」
伊藤が静かに言う。
「それは安定するのか」
燈子は即答しない。
「完全には安定しません。しかし、この形がその後の日本の安全保障の土台になります」
座に沈黙が落ちる。
戦争は終わった。しかし、世界の火種は完全に消えなかった。だからこそ、矛盾を抱えつつも力が必要となる世界がそこにはあった。
燈子は間を置いてから言った。
「日本は、国を戦前の軍事偏重ではなく民間経済の発展で立て直します」
松方がすぐに反応する。
「経済とは、具体的に何が伸びるのだ」
「産業です。工場が増えます。鉄鋼、自動車、電機、造船などが拡大します。製品を海外へ輸出し、外貨を得ます」
伊藤が言う。
「つまり、戦場で得られなかったものを、市場で得る」
「はい。戦争ではなく貿易で国力を積み上げます」
燈子は続ける。
「生活も変わります。電化が進みます。冷蔵庫や洗濯機がすべての家庭で使われます。道路や鉄道が整備されます。大学進学率も上がります」
大山が言う。
「腹が満ち、家が建ち、道が通る」
「そうです。人々は働き、賃金を得て、消費をします。経済が回り始めます」
松方が確認する。
「税収は増えるのか」
「はい、年に1割の規模で実質経済成長率すなわち経済自体の大きさが拡大していきます。」
「年に一割、か。十年続けば倍以上になる計算だな」
「はい。実際に、日本の経済規模は短期間で大きくなります。都市は拡張し、家電が普及し、生活水準が目に見えて上がります」
伊藤が続ける。
「それほど変われば、人々の実感も変わるだろう」
「そうです」
燈子ははっきり言う。
「そして人々は言います。“もはや戦後ではない”と」
井上が眉を上げる。
「戦後ではない、とはどういう意味だ」
「敗戦直後の混乱期は終わった、という宣言です。復興が一区切りついたという自己認識です」
山縣が短く言う。
「戦争の影が消えたということか」
「いいえ。確かに戦争の影は消えました。しかしそれでも影は消えていません。ただ、人々の生活感覚が前を向いた、という意味です」
井上が問う。
「消えていない影とは何だ」
「公害です。工場の煙や排水が健康被害を出します。水俣病や四日市ぜんそくと呼ばれる公害が起きます」
松方が眉を寄せる。
「なぜ止めぬ。……確かに、今、足尾の鉱山でも鉱毒で病が出つつあるとは聞いておる。
だが、今のこの国は国力を積むのが先だ。国庫も、雇用も、税もあの鉱山が要る。あの鉱山を止めるわけにはいかぬ。
しかし、もはや“戦後ではない”と言えるほど暮らしが豊かになったのなら、話は別だ。止めるという勘定も立つ。
それでも止めぬのか。なぜだ」
「公害を発生させている工場を止めれば、雇用が失われます。賃金が減ります。自治体の税収も減ります」
燈子ははっきり説明する。
「企業は生産を続けたい。自治体は経済を維持したい。国は豊かになったとしても更なる成長を保ちたい。その結果、止める判断が遅れます」
大山が言う。
「現場は被害を受ける」
「はい。患者が出てから対策が始まります」
井上が言う。
「止めるより、回し方を変える」
「その通りです。補償制度が整備され、規制法が作られます。工場は排水処理設備を入れます。完全停止ではなく、条件付きで継続します」
伊藤が静かにまとめる。
「慎重さが、手続きへ移る」
「はい」
燈子は続ける。
「日本は次第に、手続きを重ねて判断する国になります。すぐに止めるよりも、調査し、委員会を作り、合意を取り、段階的に変更します」
山縣が短く言う。
「決めぬ方が安全に見える」
「止めぬ方が安全に見える場合もあります」
燈子は補足する。
「急な決断は反発を生みます。だから時間をかける選択が増えます」
松方が言う。
「豊かさは得るが、判断の癖も得る」
「そうです」
燈子ははっきり言う。
「経済成長は成功します。しかし、その成功の過程で、“即断しない文化”も定着します」
伊藤が問う。
「それは弱さになるのか」
燈子は少し考えてから答える。
「状況によります。平時には安定を生みます。しかし、危機では遅れになります」
座に静かな重さが戻る。
戦争には勝たなかった。
だが、日本は経済では成功した。
しかしその成功は、次の時代の判断の仕方を同時に形づくった。
急がず、手続きを重ね、合意を積み上げる。
止めるよりも、調整する。
断つよりも、回す。
燈子はゆっくりと言った。
「日本は、戦争には勝てませんでした。でも経済では成功しました。一時は世界で二番目の経済力を持つ国にまでなります。」
座は静かだ。
「そしてその成功は、“戦争をどう語るか”という態度まで変えます」
伊藤が問う。
「どう変わるのだ」
「生活が安定すると、人は過去より現在を優先します。戦争の記憶は消えませんが、前面には出なくなります」
井上が言う。
「語られなくなるのか」
「語られます。ただし、場所が限られます。教科書、記念日、式典。日常の中心ではなくなります」
山縣が短く言う。
「豊かさが、距離を作る」
「はい。戦争は、生活の中からは遠ざかります」
燈子は視線を落とさず続けた。
「これは別の意味での“勝ち方”です。ただし、勝ったから消えるわけではない。置き場所が変わるだけです」
座に、わずかな緊張が戻る。
「戦争は忘れられるのではありません。扱い方が変わるのです」
伊藤が静かに問う。
「置き場所とは、具体的には何を指すのですか」
「公的な場所です。教科書、記念日、慰霊碑、式典。戦争は記録の中に整理されます」
井上が言う。
「生活の中心ではなくなる、ということか」
「はい。高度成長期以降、人々の関心は仕事や生活水準の向上へ向かいます。戦争の話題は日常の会話からは減ります」
山縣が短く言う。
「だが、あったこと、起こったことは消えぬ」
「はい、消えません」
燈子は明確に答える。
「同じ出来事でも、どこから書くかで意味が変わります。開戦の理由から書くのか、被害から書くのか、責任から書くのか。それによって印象が変わります」
伊藤がゆっくり言う。
「並べ方で責任の見え方が変わる」
「その通りです」
燈子は続ける。
「だから統一されません。国内でも、解釈は分かれます」
松方が問う。
「家庭ではどうなる」
「家庭ごとに語り方が違います」
燈子は説明する。
「父が語らない家もあります。母が話題を避ける家もあります。子どもは学校で別の説明を学びます」
井上が言う。
「語りが一致しない」
「はい。そのずれが沈黙を生みます」
山縣が低く言う。
「語られぬ部分が残る」
「そうです。語られない部分は、消えたのではなく、扱われないまま残ります」
伊藤が問う。
「では、人々は何を頼りに知る」
「断片です」
燈子ははっきり言う。
「写真、映画、記事、証言。断片的な情報が広がります」
井上が続ける。
「断片となった情報は情報操作に使われやすい」
「はい。全体の文脈を知らずに断片だけが流通すると、意味が捻じ曲げられ、そして単純化されます」
松方が静かに言う。
「都合のよい形に整えられる」
「その危険があります」
燈子は視線を上げる。
「戦争は忘れられたのではありません。置き場所が分からなくなった形で残ります」
山縣が言う。
「置き場所を誤れば、再び口実になる」
「その可能性はあります」
座は重い。
伊藤が静かにまとめる。
「豊かさは、記憶を薄める。しかし消すわけではない」
「はい」
燈子は続ける。
「そして、記憶が整理されないまま時代が進むと、次の世代は過去を参照しにくくなります」
井上が問う。
「それは危ういのか」
「危うい場面もあります」
燈子ははっきり言う。
「過去の戦争をどう理解するかが曖昧なままでは、現在の安全保障や外交の判断も揺れます」
山縣が短く言う。
「過去の位置が定まらぬまま、次を決める」
「はい」
燈子は最後に言った。
「戦争は、語られたままでは足りません。語られなかった部分も含めて扱わなければ、判断の土台は安定しません」
沈黙が落ちる。
豊かさの裏で、記憶は形を変えて残った。
そしてその記憶をどう扱うかが、次の時代の判断を左右する。
燈子はゆっくりと顔を上げた。
「結局あの戦争に対するすべての人が納得できる判断は、私の生きた時代でもされていません」
座の空気は、これまでとは少し違っていた。
過去の説明ではなく、いま続いている話になるからだ。
燈子ははっきりと言う。
「私の生きた現代、2025年の日本は、結果の中で暮らす時代です」
伊藤が問う。
「結果とは、何の結果ですか」
「戦争を終わらせた判断。戦後に制度を作り直した判断。そして、問題を先送りしてきた判断。そのすべての積み重ねです」
山縣が短く言う。
「その時、外はどうなっている」
「外の環境は変わっています」
燈子は具体的に説明する。
「周辺国の軍備は増強されています。海と空での活動は活発化しています。遠距離から相手をたたく技術も発達しています」
大山が言う。
「直接の衝突はあるのか」
「全面戦争は起きていません。しかし、緊張は続いています。偶発的な衝突の可能性は常にあります」
井上が問う。
「日本はどう対応している」
「装備を更新します。情報収集能力を強化します。訓練を増やします。基地の再編も行います」
松方が即座に言う。
「費用は増えるな」
「はい。防衛費は増加します」
燈子は明確に言う。
「備えは安心を生みます。しかし、同時に財政負担になります」
伊藤が静かに言う。
「安心と負担は同時に存在する」
「その通りです」
燈子は続ける。
「国内でも意見は割れます。防衛を強化すべきだという意見もあれば、緊張を高めるべきではないという意見もあります」
井上が言う。
「外の問題が、内政の争いに変わる」
「はい。安全保障は生活の問題と結びつきます。税、社会保障、物価。どこに資源を配分するかが争点になります」
松方が静かに言う。
「国庫は無限ではない」
「その通りです。そして高齢化が進み、社会を支える側の人口は減少します」
山縣が短く言う。
「決めにくくなる」
「はい」
燈子は続ける。
「さらに、自然災害も発生します。地震、津波、台風。電力が止まり、交通が遮断されることがあります」
大山が言う。
「止まったときに判断が要る」
「そのとおりです。しかし、平時に積み上げた制度や調整の癖が、緊急時には重さになります」
伊藤が問う。
「迅速に動けぬのか」
「動けない場合もあります。責任の所在が複雑になり、決断に時間がかかります」
座は重くなる。
燈子は続ける。
「それでも、日本はあの戦争から戦争をしていません」
山縣が言う。
「平和は続いている」
「はい。ただし、緊張はあります。争いもあります。災いもあります」
燈子は一人ずつ見る。
「その中で、日本は“戦争にならない形”を選び続けています」
伊藤が静かに問う。
「それは終着点か」
「いいえ」
燈子ははっきり答える。
「判断は、まだ続いています。過去のものではありません。いまも毎日、選択が重ねられています」
沈黙。
戦争は終わった。
だが、判断は終わっていない。
燈子は最後に言う。
「問題は、これから何を選ぶかです。その選択の先に何があるかは、私も知りません」
座は静まり返っていた。
長い説明が終わっても、誰もすぐには動かない。
燈子は姿勢を正したまま、言葉を待つ。
最初に口を開いたのは山縣だった。
「結局、日本はどうなった」
問いは短い。逃げ場もない。
燈子は視線を逸らさずに答える。
「日本は私の生きた2025年までは存続しています。戦争に敗れ、多くの犠牲の上に立ち直りました。人々は働き、子を育て、日々の生活を送っています」
山縣がさらに問う。
「強くなったのか」
燈子は答える。
「軍事的な意味での強国ではありません。でも、経済は大きくなります。工業も伸び、技術も積み上がります。世界の中で無視できない規模になります」
伊藤が静かに言葉をつなぐ。
「要するに、力の形が変わったのだね。銃や艦ではなく、工場と金と技術で国が立つ」
燈子はうなずく。
「はい。ただ、その強さは、きれいな土台の上にはありません。戦争の損耗と、敗戦の処理の上に積まれています」
伊藤が、そこで受ける。
「無垢ではない、ということだね」
「はい」
燈子はうなずく。
「過去の戦争の上に立っています。清い歴史ではありません。ですが、崩れずに続いています」
松方が口を開く。
「財政はどうなっている」
「借金の額は大きいです。国の債務は年々増えています。しかし、信用は維持されています」
松方が低く言う。
「支える力があるからだな」
「はい。ただし、永遠ではありません」
大山が問う。
「兵は」
「自衛隊は存在しています。実戦を経験した世代は減りました。自衛隊は実戦を経験した軍隊ではありませんが災害派遣が大きな役割になっており、国民からの一定の信頼と理解を得ています」
大山がうなずく。
「災害の時現場で命を救う兵か」
「はい」
井上が言う。
「外交の位置はどこにいく」
「アメリカとの同盟を基軸にしています。対米従属外交とも呼ばれますが、少なくともこの明治の時代のように単独で動く国ではありません」
伊藤が静かにまとめる。
「つまり、日本は絶対的な勝者でも敗者でもない。だが、そして滅びてもいない」
「その通りです」
燈子は少し息を吸う。
「ただし、これは完成形ではありません。積み上げの結果です。そして、次の判断で形は変わります」
山縣が言う。
「誤れば、崩れる」
「はい」
燈子は初めて、はっきりと願いを口にした。
「私は、この道をそのまま辿らせたくありません」
座がわずかに緊張する。
「私は、戦争が起きたという事実を否定したいわけではありません。あの時代の日本が、あの判断に至ったことを、すべて誤りだと切り捨てるつもりもありません」
座は静まり返っている。
「戦争は起きました。そして日本は敗れました。その結果として、あの戦後の形が生まれました」
燈子は視線を上げる。
「私が変えたいのは、その“戦後の形”です」
沈黙。
燈子は静かに続けた。
「主権を制限され、外の枠の中で動き、矛盾を抱えたまま制度で縛る。あの戦後の形は、戦後80年間の安定をもたらしました。しかし同時に、責任の所在を曖昧にしました」
「誰が決めるのか。誰が止めるのか。その線が複雑になり、判断は常に調整の末に先送りされる」
燈子は視線を上げる。
「その積み重ねの上にある現代の、2025年の日本は、いま揺れています」
「高齢化は進み、出生数は減り続けています。地方は人口を失い、都市に集中が起きています」
「実質賃金は伸び悩み、若い世代は将来に不安を抱えています。非正規雇用が増え、安定した生活基盤を築きにくい」
「社会保障費は増え、財政赤字は膨らみ、政策は調整に時間を要します」
「政治への信頼は揺らぎ、投票率は低下し、自分の国のことなのに政治への無関心が広がっています」
「技術力はあるのに、挑戦よりも失敗回避が優先され、新しい産業の創出が遅れます」
「エネルギーや食糧の自給率は低く、外部への依存は続いています」
「安全保障の議論は進みますが、結論は曖昧なまま先延ばしになることが多い」
「災害が起きるたびに対応は改善されますが、抜本的な制度改革は容易ではありません」
座は完全に静まり返っていた。
燈子は最後に言う。
「これらは一つ一つが独立した問題ではありません。戦後の枠の中で安定を優先し、急激な転換を避け続けた結果です」
「私は、戦争を否定したいのではありません」
「しかし、敗戦の後にその枠を固定し、その枠の中でしか動けない国家の姿を、最初から選ばずに済む道があるなら――」
燈子の声は揺れない。
「私はその道を取りたい」
松方が問う。
「つまり、敗戦後の処理を前提にせぬ国を目指すのか」
「はい。敗れてから立て直すのではなく、敗れない形を作る。そのための判断を、今ここで変えたい」
大山が低く言う。
「現場が破れぬ形か」
「そうです。戦後の処理に何十年も費やす国にさせない」
井上が整理する。
「戦争を否定するのではなく、戦後国家にさせないということだな」
「その通りです」
伊藤が静かに言う。
「要するに、未来で様々なものに縛られた日本を、この時代で縛られぬようにする。そのために、我らに先の判断をさせる、ということですな」
燈子は深くうなずいた。
そのとき、控えていた侍従が一歩進み出る。
「陛下よりお言葉でございます」
座の全員が姿勢を正す。
「本日はここまでとする。明日、それぞれの意見を聞く」
短い宣言だった。
だが、それは討論の終わりではない。
未来の“後回し国家”を回避するための、最初の分岐点だった。
元老たちは静かに立ち上がる。
燈子は一人、座に残る。
未来を知る者としてではなく、この時代で判断を変えようとする当事者として。
明日から、歴史の分岐が始まる。
次回は3月中に出せたらいいなぁ・・・




