第五話 煤けた年表~野火~
明けましておめでとうございます。
書き始めて早々ですが2月中旬頃まで忙しいので完全に投稿頻度が不安定になります。
「ここから先は、事件が続きます。後の世で“激動の昭和”と言われるほどに」
燈子は一息つき、卓上の紙に指を置いたまま続けた。紙の端が、かすかに鳴る。
「先に、言葉の整理をいたします。私は後の世の呼び名で申し上げます。
父……今の皇太子殿下が御即位なさる御代は、後に『大正』と呼ばれます。
そして、その次の御代を、後の世では『昭和』と呼びます。
……そして本来、私の知る史実では、『昭和』の御代の陛下は、すでにお生まれのはずでした。日付まで覚えています。
けれど私は、この宮中で“親王がお生まれになった”とも、“お授かりになった”とも伺っておりません。――つまり、この世界では私が居ることで年回りから違うのでしょう。
ただ……私が生まれた時点で何かが変わったとしても、変化が常に大きいとは限りません。
八甲田山の遭難は起きた。大きな流れは、まだ慣性で動いている。
ですから私が余計な介入をせず静観すれば、史実に“近い”道を辿る公算はあります。けれど、完全に同じとは限らない――私はそう見ています。
ですから私は便宜上『昭和』と呼びますが、皆さまは『後の御代』としてお受け取りください」
言い終えると、部屋に短い沈黙が落ちた。燈子はその沈黙を切るように、紙の上の指を少しだけ滑らせる。
「まず、満州です」
松方が口を引き結ぶ。
「満州……露西亜と清の境目の、あの地でございますな」
「はい。日露戦争のあと、日本は南満州の鉄道と権益を持ちます。
権益は、単なる運賃収入に尽きるものではありません。駅、倉庫、電信、そして『守る名目』で駐留する警備部隊、それらすべてが分かちがたく絡み合い、巨大な支配の仕組みを形作っていました。
鉄道は地図に引かれた一本の線ではありません。血と金が脈打つ『管』です。
そして、その管から漏れた火種が、次の時代を焼きます。
火種さえ燻っていれば、火を放つのに立派な理由は要りません。『守る』という名目で配された刃が、皮肉にも火を煽る。
いったん煽られた火は、誰にも止められなくなります。
しかも国内が経済的に苦しいほど、外で起きた話は好まれます。苦しさの原因は絡まり、民の目には見えない。だからこそ、分かりやすい外の敵と、分かりやすい勝ち戦が好まれる。
そのとき熱狂は……熱病のように広がります」
伊藤が静かに言う。
「なるほど……火種が燻っていれば、風ひとつで火が起きる。起きれば、筋は作られる、すなわち争いの筋が出来る」
大山が抑えた声で言った。
「熱病のような熱狂……空気が変わるのでございましょうな」
燈子は頷いた。
「はい。その空気の中で、一九三一年、奉天の郊外で鉄道が爆ぜます。南満州鉄道の線路です」
松方が目を細めた。
「爆ぜる……鉄路の被害は大きいのでございますかな」
「そこが肝です。被害は小さい。列車は走れます。少し直せば繋げられる程度。
ですが、『撃たれた』と言い張るには十分です。言い張れればそれは“口実”になります」
燈子が言い終える前に、山縣が低く割って入った。
「撃たれた、という口実が立てば――『守る』の名目が立つ。名目が立てば軍は動ける。
……いや、そのような空気の中では、動かずばなるまい。動かぬ方が咎になる」
松方が目を細めた。
「咎、でございますかな」
山縣は短く言い切る。
「動いて守ったと言えば功。動かず見過ごせば怯えだ。怯えは軍の罪になる」
伊藤が静かに息を吐いた。
「要するに、命令が無くとも命令が出来る。厄介ですな」
井上が問いを置いた。
「殿下、動くのは誰でございますか。政府でございますか、現地でございますか」
燈子は井上の言葉を受け、淡々と答えた。
「現地です。満州に置かれる守備・警備の部隊――鉄道や邦人保護を名目に、現場判断で動ける部隊がまず走ります。
後の世では、その中核を『関東軍』と呼びますが、いまは“満州の現地警備部隊”としてお聞きください。
彼らは駅、倉庫、電信の要を押さえ、『守るため』と言いながら前に出る。前に出て増えた“守るもの”をまた『守るため』と言い、さらに前へ出る。――そうして前へ出た分だけ、次の前進の理由が積み上がっていきます」
松方が低く言った。
「その時の政府は、どうするのですかな? まさか、そのまま軍の暴走を認める訳にはいきますまい」
燈子は頷いた。
「認められません。ですから政府は止めます。“不拡大”と言い、拡げてはならない、すぐに下がれ、と。止める電報も打つ。命令も出す。
けれど現場は『守るため』『先に押さえねば危ない』と言う。守るため、は強い言葉です。
とくに熱狂の中において、浮かされた民は“守る”を止めることを許しません。引くことは弱さ、止めることは裏切りに見える。
この熱狂の空気という支持を受けた軍は、『守る』の名で前へ出る。前へ出て作った既成事実を、また『守る』と言い換え、さらに前へ出る」
伊藤が静かに言う。
「止めるほうが責を負う形になりやすい。つまり、止めるほうが矢面に立つ」
「そうです。止まって何も起きなければ“何もしなかった”で終わる。止まって失えば責だけが残る。
一方で、動いて結果が出れば『手柄』になります。手柄は紙に残る。戦果報告になる。――そして、ここからが露骨です」
燈子は言葉を落とした。淡々と、しかし濁さない。
「結果が出れば、賞詞、感状、叙勲。昇進、栄転。大きい部隊への転属、良い配置、軍の中枢に近い席が用意されます。
そして新聞が『快挙』と書き、熱狂に犯された国民の姿を見れば、止めようとした側は黙ります。これはもう止められない、と。そして止めようとしたものが黙った瞬間、現場は学びます。
『止められる前に動け。結果さえ良ければ、国が後から整える』――そういう型が、満州でできます」
井上が言う。
「そんな事になりましたら折衝の落としどころが消えますな。止めて当たれば“何もしない”。止めて外せば“腰抜け”。止める筋が立ちませぬ」
燈子は静かに頷いた。
「はい。政府は結局、止めるだけでは国を保てないと気づきます。そして止めきれぬ火に押されて、“整える”方向へ追い込まれます。――追認です。
追認すれば、予算も後追いで付く。補給費、警備費、鉄道守備の費用。『もう動いてしまった』から、『現地の安全のため』で通る。
……そして、とうとう政府は、この民の空気と、現地が積み上げた既成事実に押されて、満洲国建国を追認します」
松方が息を吐く。
「政治が後始末を背負えば……背負ったこと自体が、“正しく見える形”に整えられてしまいますな。
ひとたび国が『認めた』となれば、それを覆すのは容易ではない。覆せば、国そのものが誤りを認める形になる。
……だから次は、引き返すより“整え続ける”ほうが選ばれやすくなる、というわけですな」
燈子は静かに頷いた。
「はい。外には正当化が要る。内には成功談が要る。成功談が空気をさらに強くします」
伊藤が静かに言う。
「外は、これをどう見るのですか。義和団の折のように、列国が会して会議を開くのですか。
列国会議で“筋”を付ける形になりますか」
燈子は頷いた。
「近い発想です。ですが後の世では、列国がその都度集まるだけでは事態に間に合わなくなります。
ですから、“常設の裁きの場”のような仕組みが作られます。国々が加盟し、争いを調べ、勧告し、非を問う――そういう枠組みです。
これは後の世では、国際連盟と呼ばれます」
松方が眉を寄せる。
「常設……つまり、外の“物差し”が出来る、ということですな」
「はい。満州の件でも、国際連盟は調査を入れます。誰が何をしたか、何が口実で、実際はどうだったか。
そして日本に、非を認めて引くよう迫ります」
伊藤が低く言った。
「外の言葉が届くうちは……まだ止める口実にもなる。だが、届かぬとなれば――」
燈子は間を置き、言葉を落とした。
「日本は、折れて収めるより席を立ちます。一九三三年、その枠組みから脱退します。
外の言葉が届きにくくなるほど、内の言葉が強くなる。強い言葉ほど妥協を汚れに見せます。
汚れに見えると政治は縮む。政治が縮むと、“止める役”が減ります」
山縣が低く言う。
「止める役が減れば……押す役が勝つ」
燈子は頷いた。
「事件が続きます。首相が撃たれ、将校が『正義』を名乗って押し込み、政治の場に銃が近づきます。
手続きが弱く見えるほど、強い手が魅力的に見える」
沈黙が落ちた。襖の向こうに控えがいる気配が、場の時間を刻む。
燈子は、その気配を合図のように受け取り、声を落とした。
「後の世では、二・二六事件と呼ばれます。一九三六年、雪の東京で、兵が動きます。
そしてこの事件は、後の世では……国内政治が軍部を最低限統制できる、という前提が崩れた転換点だ、とされます。
青年将校が決起し、要人が襲われ、官庁街が塞がれます。しかも『陛下の大御心に沿う』と言い、尊皇を掲げるので、言葉が余計に厄介になります」
松方が低く言った。
「尊皇を掲げれば……反対が不敬に見えますな」
井上が続ける。
「筋ではなく忠で殴れる形になる。折衝が死にます」
燈子は頷いた。
「はい。ここで重要なのは、後に『昭和』と呼ばれる御代の陛下が、これを反乱と断じ、鎮圧を命じられることです。
『朕が股肱の老臣を殺戮す……何の恕すべきものありや』と、烈火のごとくお怒りになる。さらに『自ら近衛師団を率いて鎮圧するも辞さず』とまで、強い御意思を示されたと私の生きていた2025年まで伝わっています。
妥協で収めるのではなく、有無を言わさぬ決断で叩き切る――そこが転じ目になります」
部屋が静まった。
大山は一度息をのみ、声をさらに落とした。
「後の御代の大御心が……鎮圧へと、でございますか」
山縣が短く言う。
「命令があれば軍人は従います。お上の御命とあらば、なおさらであります。
従わぬ軍人など――本来、おりませぬ」
燈子は頷いた。
「はい。ところが、事件が鎮圧されても空気は残ります。銃が政治に触れた記憶が残る。
すると政治は萎みやすくなる。『言葉より力』が買われやすくなる。止める役がさらに減ります」
伊藤が静かに言う。
「要するに、止める役が減れば……次の一歩が早くなる」
燈子は短く頷いた。
「次が支那です」
井上が慎重に言う。
「満州で止まらず……になるのでございますな」
「止まりません。一九三七年、盧溝橋。最初は小さな衝突、すなわち点です。点なら『現地で片が付く』と思いやすい。そして政府はまたしても“不拡大”を言います。
ですが現場は『一撃で片を付ける』と言う。そして一撃で片が付けば英雄、付かなければ増援と言います。そして増援すれば引くことはできなくなります。現地部隊の小競り合いの段階を超えるのです」
松方が低く言った。
「点が増えれば……国庫も予算も食われる」
「はい。ここでの戦は“点と線”です。
点は拠点――橋、駅、城壁のある町、補給の集積。
線は道――鉄道、河川、幹線路。
点を取れば、その点へ物資を送る線が要る。線を通せば、線を守る点が要る。守る点が増えれば、線が伸びる。点と線が増え続けます」
大山が抑えた声で言った。
「点と線を握っておるだけでは、いつまで経っても勝てませぬ。
線を通せば守る点が要る。点を増やせば線が伸びる。――それだけでは、戦は“維持”に沈みます。
勝ったと言うには、点と線の外に残る面――敵が潜み、兵も物も湧いてくる余白を、削り尽くさねばなりませぬ。
面を残せば、線はいつでも噛まれ、点はいつでも孤立します」
燈子は頷いた。
「はい。点と線が増えるほど、“取った”ようには見えます。ですが、面……余白が残る。余白が残れば、敵はそこに息をします。
息をする限り、線は噛まれます。噛まれれば、守る点を増やす。増えた点へ線を伸ばす。
その点と線が、面の余白を食い尽くせない限り、終わりの形が作れません。だから長引きます」
伊藤が低く言う。
「つまり、目的が曖昧でも続けられてしまう。終わりの形が作れぬ筋だ」
「はい。点も線も、引けば“負け”に見えやすい。
点を捨てれば負けに見える。線を切れば補給が死ぬ。補給が死ねば現場が騒ぐ。
終わらせる者が悪者になります。悪者になりたくない者ばかりになると、戦争は終わりません。戦争が戦争を食べます」
井上が静かに言う。
「落としどころがないのではない。作る者が損を被る。――だから誰も作らぬ、でございますな」
燈子は続けた。
「ここで国は、総力戦の奥の形へさらに深く入ります。国家総動員という形に。人も物も工場も割り当てで動かす。言葉も統制する。
統制は強く見えますが、出口を狭くします。出口が狭いと折り返す余地がなくなる」
松方が国庫を司る者の声で言った。
「出口の狭い国は、武力でそれをこじ開けようとする。……すると借財が増える。税が重くなる。米価が荒れる。
どこか一つでも綻べば、あとは坂を転げ落ちるように戦に雪崩れ、経済は荒れ、民は困窮する。
西班牙しかり、仏蘭西しかり——そういう国を、幾つも見ましたな」
燈子は首を横に振った。
「坂は自然に下るのではありません。下り道が“選びやすくなる”のです。苦しさが増えるほど短い答えが買われる。威勢のいい言葉が飛び交う。空気が濃くなる」
山縣が低く言う。
「威勢のいい言葉は……軍を外へ向かせる。内を黙らせるのに都合がいい」
燈子は頷いた。
「はい。長引くほど資源が要る。鉄、ゴム、油。内地では足りない。外から持たねばならない。
ここで軍の中でも道が割れます。北へ行くか、南へ行くか」
井上が眉を上げる。
「北と南……でございますな」
「はい。ただ割れ方が厄介です。陸と海が、そもそも別の敵を見て軍備を揃えます。
陸は北――露西亜が後に政変を経て新たな思想を持って成立した国、ソビエト連邦、その極東方面軍を想定して備えます。国境の長さ、寒冷地、大軍、砲兵、そして装甲の車。
海は東――アメリカを想定して備えます。太平洋の向こうから艦隊が来る。アメリカ太平洋艦隊が来るなら迎え撃つ。艦、航空、基地、補給。
……つまり陸と海は、別々の相手を仮想し、別々の戦い方を描いて備える。敵が違えば、要る兵器も訓練も補給も違う。
同じ国の中に、別の戦争の設計図が二枚できる。国の出口が揃わなくなります」
伊藤が静かに言う。
「同じ国で別々の出口を描く。出口が揃わねば止めどころが見えぬ」
山縣が、畳を噛むように息を吐いた。声は低い。だが刃が立つ。
「――国は一つだ」
一拍、言葉を切る。
「敵も戦い方も別々に描けば、備えは割れる。割れれば、指揮も割れる。補給も割れる。
割れた備えで勝てると思うな。勝てる戦も勝てぬ」
膝の上で拳が固くなる。
「北を見て砲を揃え、東を見て艦を揃える。どちらも中途半端になれば――どちらにも負ける。
……ただの消耗だ。
我らが亡き後、我らの後を継ぐ者どもは――そこまで耄碌するのか」
部屋の空気が、わずかに張った。
燈子は言葉を途切れさせず、淡々と続ける。
「はい。準備が別々だと、作戦も別々になります。別々の作戦は出口が揃いません。出口が揃わないと、止めどころが見えなくなる。
両方やるほど、どちらも薄くなります」
大山が抑えた声で言った。
「薄いところへ……痛みが来ます。補給は薄い所から破れます」
「はい。北での見込みは一度折れます。ノモンハンです。一九三九年。『短期で勝てる』という見込みが崩れる。
崩れると、南が濃く見えます。南は油です。ゴムです。港です。
けれど南へ行くには海を通さねばならない。海を通すなら海軍の理屈が強くなる。ここで陸と海の優先順位がぶつかり続けます」
燈子は頷き、最後の語を置いた。
「仏印です」
「一九四〇年、欧州で仏が独に負けます。仏領インドシナは弱ります。弱った場所は、強い者に“借りられやすい”。
言葉は柔らかくします。『駐留』、『通過』、『協力』。柔らかい言葉は、硬い行動を包みます」
伊藤が静かに言う。
「借りる……という言い方で押す、でございますな」
「はい。まず北部へ進駐します。名目は“補給路を断つ”。支那へ物資が入る道を締める。
次に南部へも進駐する。港と飛行場を押さえる。押さえれば、さらに南が近くなる」
松方が低く言った。
「近くなるほど……疑われますな。
仏印で止まるならまだしも、『次はどこだ』と見られる。――次は我が方の縄張りにも手を出すのではないか、と」
燈子は頷いた。
「はい。仏印は“借りる”という言い方で押せる前例になります。前例ができると、相手はこう考えます。
『一度押した者は、次も押す。止める理由より、押す理由を先に作る』――と。
だから疑いが立ちます。『次は蘭印の油ではないか』『次は英領の港ではないか』と」
松方が息を吐く。
「軍事的野心を疑われれば、貿易が止められますな。口を塞がれ、金も物も締め上げられる」
燈子は頷いた。
「はい。“圧”は気分ではありません。手段です。
まず資金の流れを止める。次に品を止める。鉄くず、機械、そして油。
油が入らなければ、艦も車も飛行機も動かせない。動かせなければ艦も車も飛行機も、ただの鉄の塊です。
鉄の塊になれば、守ることすらできません」
大山が抑えた声で言った。
「油が止まれば、刻限が見える。備えがあっても……尽きる日が来ます」
「はい。刻限が見えると、人は理屈より焦りで動きます。
ここで“止まる”は政策ではなく、時間切れに見える。時間切れに見えると、引き返す理由が弱くなる。
『いま引けば損だ』ではなく、『いま引けば詰む』に変わる。そうなると止まれません」
燈子は言葉を置いた。
「……仏印進駐は、その曲がり角です。
相手に『次はうちだ』と思わせ、締め上げを呼び、こちらの刻限を縮める。
ここから先は、海の向こうが本当に燃えます」




