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第三話 煤けた年表~種火~

炭の匂いが畳の目に沈んでいた。冬の宮中はどこも冷えるが、この座敷の冷えは外気のものではない。転生前は写真の中でしか見た事のなかった維新の元勲たち。彼らの発する雰囲気がここはそういう場だと燈子は思う。


卓の上には一束の紙が置かれている。恐らくは八甲田に関する報告書。表紙に書かれたタイトルは見えないが何故か燈子はそう感じた。八甲田では二百十名が雪と消え、十一名だけが戻った。未来のために私は彼らに黒タグを付けた。だからこそ今、未来を変えれるかもしれない場に立つことができた。あなた達のことは忘れないし全て背負っていく、その決意と共に彼女は語る。


元老五人――伊藤博文、山縣有朋、井上馨、松方正義、大山巌。

その上座に明治天皇がいる。


燈子は年相応の礼で頭を下げた。背筋を伸ばしすぎれば「利口」を疑われ、幼さを強く見せれば「戯れ」を疑われる。宮中の型にきちんと収まっていることだけが、余計な色を付けずに言葉を筋を通す道だった。


明治天皇が短く言った。

「―この場で話すことは他言無用である」


誰も返事をしない。返事の代わりに沈黙が揃う。伊藤は口髭の端を押さえ、山縣は顎の筋を固め、井上は畳の縁へ視線を落とし、松方は一度だけまぶたを閉じ、大山は報告書から目を離さない。沈黙の形は違っても、それは共通した了承であった。


天皇の視線が燈子へ戻る。


「燈子。八甲田ではそなたが申した通りのことが起きた。ならばそなたの知る未来とやらを申せ。今日の場は、そのために設けた」


「畏まりました」


燈子は紙を広げ、墨を含ませた。見せるための図は書かない。この座敷で必要なのは整った説明ではなく、彼らの頭に“あったことを見せるだけ”。だから一本、年の流れだけを細く引く。自分の言葉が散らばらないための目印――それだけ。明治、大正、昭和、平成、令和。私の知るあの記録を教えるために。


「私がこれから話すのは、ただ勝った負けたというものではありません。国が、軍が、民が数多の形で遺してきた記録です。」


燈子は一拍だけ置き、言葉を落とした。幼い声で言えば軽く聞こえる。だから、余計に短くする。


「まず初めに――この国は一度、滅びます。世界を相手に戦い、全てを焼かれます。」


炭がはぜる音が、やけに大きい。

誰も口を開かない。開けば、今聞いた言葉が現実になってしまう気がした。


息を呑む音はあった。けれど声にはならない。

井上の指が畳の縁で止まり、松方の睫毛が一度だけ揺れ、大山は報告書から視線を外さぬまま、肩の筋だけが硬くなる。


山縣は、すぐには噛みつかなかった。噛みつけば、言葉がこぼれる。こぼれた言葉は戻らないと、誰より知っている顔だった。

やがて、低い声が座敷の底を擦る。


「……滅ぶ、だと」


語尾に怒りを乗せない。怒りを乗せれば、反射で否定してしまう。山縣はそれを避けた。避けた上で、確かめる。


「世界を相手に、とは。露西亜か。英吉利か。米利堅か。――それとも全てでしょうか?」


燈子は答えない。答えれば、今ここで時代が“先”へ跳ぶ。跳んだ先で何が起きるかを、燈子は知っている。しかし跳びすぎる。そして山縣もまた、八甲田の報告書を読んだ後に、自分の口で言った言葉を思い出していた。――ただの事故ではない。癖だ。国の癖だ、と。


山縣はそのまま、燈子に視線を落とす。


「……内親王殿下。『国が滅ぶ』などと申されてしまえば、ここにいる者の腹は固まる。それぞれが何とかせねばと、別々の方向へ動き出しましょう。しかし八甲田で我らが見た“癖”は、そういうところから出る――私はそう思いました。殿下、この国が滅ぶのは、その癖と呼ぶべきもののせいではございませぬか?」


燈子は頷いた。


「そうです。あなたが癖と呼んだこの国の、軍の、民の考え方。それが最後には大きな厄災をもたらします。」


山縣が、ほんの少しだけ歯を鳴らす。苛立ちというより、理解してしまった者の嫌な音だ。


「ならば」山縣は続けた。「先の滅びの話は一度置くべきです。置けと申しても、無かったことにせよという意味ではございませぬ。――順序です。癖を語られるのであれば、癖が最初に顔を出す場所をお教え願いたい。最も近いところから」


伊藤が、その言葉を拾って場を前へ押す。伊藤は山縣ほど声を荒らげない。荒らげれば、会議が割れると知っている。


「山縣公の言う通りだ。殿下、我らは遠い未来の占いを聞きに来たのではない。起きると言うなら、どこから起きるか。止められると言うなら、どこが止められるか。まずは近いところから、示していただきたい」


松方が小さく付け足す。


「近いところなら、確かめようもある」


井上は黙ったまま、視線だけを燈子に寄せた。大山は短く頷く。


燈子は、胸の奥で一度だけ息を整えた。滅ぶと衝撃的な一言をこの5人に放ったのはわざとだ。ここで重しを置かなければ、彼らはこの話を便利な道具にしてしまうかもしれない。便利すぎる道具は、いずれ人を焼く。


だから、順に話していく。


燈子は年表の先頭付近の明治と書かれた線の上に、墨で小さな点を置いた。


「では、近いところから申します。まず――露西亜との戦です」



「二年ほど先、露西亜と戦になります。開戦は冬――二月上旬です。日本は……勝ちます」


松方がわずかに眉を動かした。“露西亜に勝つ”は軽くない。相手は列強で、陸軍国家として恐れられている。


燈子は続ける。声は落ち着いているのに、話の先が冷たい。

「ただし、勝ち方が高くつきます。勝てばよい、ではなく、どれだけ払って勝つかです。払う場面で、日本の癖が顔を出します」


松方は口を結んだまま、燈子を見つめた。


燈子は海図に指を置かれる。


「開戦直後、海軍は旅順の艦隊を“海だけで”無力化しようといたします。夜襲、雷撃、港の入口を塞ぐ策――」


井上が、言う。


「殿下。港は出口が少のうございます。出口で待ち構え、出てくるところを撃滅してしまえば――とも考えられますが」


燈子は静かに首を横に振る。


「それでは決まりません。たしかに港は出口が少ない。けれど港は“箱”でもあります。沈め損ねた艦は奥へ下がり、外へ出なくなる。外へ出ない艦は、戦って沈めきれません。ですが“そこにいる”だけで、日本の補給路を脅かします。だから海軍は次に、敵を殺すより先に、敵の行動を殺す――封鎖へ移ります」


大山が、低く言った。


「封鎖では、なお不十分なのでございましょうか」


「封鎖だけでは足りません。港は海だけの問題ではない。陸が半島を押さえ、要塞を黙らせない限り、艦隊は補給路に対する“脅威”を残します」


山縣が鼻で笑いかけ、しかし口を切る寸前で一拍置いた。荒い言葉がそのまま出るのを、意志で押しとどめたように見えた。


「……殿下。となれば、陸が担うほかありますまい。元より要塞は陸の領分にございます」


燈子は淡々と返す。


「この件を最初から“陸の仕事”にできなかったのが、しがらみです。海軍は海軍で、旅順艦隊を独力で無力化したい。海は海で問題を片づけ、手柄を海に収めたい。陸軍は陸軍で、満洲で主戦を組み立てている最中に、端の要塞へ兵を吸われたくない」


伊藤が、柔らかく受け止めるように言った。


「殿下のお言葉、よく分かります。手柄と責任でございますな」


「はい。このしがらみはほどけず、絡まり、同じ動きを繰り返します。――三度にわたる閉塞作戦です」


井上が眉を寄せ、しかし言葉は丁寧に整えた。


「とは申しましても、閉塞そのものが不合理だとは存じません。理屈は立ちましょう」


「たしかに合理です。けれど合理は、一度失敗したら別の合理へ移る勇気が要ります。ところが失敗が続くほど、次は成功するはずだという意地が勝つ。やるほど、失敗した時の責任が濃くなるからです。やめた者が、敗者の顔になる」


大山が、報告書の束をめくりながら、苦い声音で言った。


「現場は止まれませぬ。止まれば責を負う。続ければ努力になる――そういうことですな」


燈子は小さく頷かれる。


「はい。努力が免罪符になる形があると、やり切ることが目的になります。そうすると、勝つための手段が、やり切るための儀式になる」


「しかし海軍は、旅順だけを見ていられなくなります。ウラジオストクの艦隊が通商破壊に出る。大陸に派遣された陸軍の補給路が脅かされます。封鎖も、護衛も、追撃も必要になる。海は一つの戦域ではありますが戦場ではありません。戦域全てに海軍が広がるほど、個々の戦場での戦力は薄くなる」


松方が低く息を吐く。


「薄くなれば……事故も増えましょうな」


「はい。開戦から少しして、戦艦二隻を触雷で失います。六隻あった主力戦艦のうち二隻です。数字以上に海軍は心が折れる。ここでようやく、独力で押し切る余裕が削げ落ちます」


井上が黙る。反論がない沈黙だった。 燈子は、そこで初めて結論へ行く。


「バルチック艦隊が来るまでの猶予は限られています。海軍はここで、旅順を海だけで片づけるという夢を捨てざるを得なくなる。けれど捨て方にも、しがらみが出ます」


伊藤が、言葉を低く整えて問う。


「しがらみとは、いかなる形にございましょう」


「“協力する”ではなく、“要請する”形になることです。 海は海の計画を抱えたまま、陸に『旅順を落としてくれ』と頼む。自力では為せぬが、頭も下げられぬ。ゆえに、頼みは要求となります。

要求となれば、陸は功名心で受けます。海のやつらが失敗した尻拭いを我ら陸がやってやり、海の上に立とうとします。功名心で受けると、今度は陸が『やり切らねばならぬ』へ寄ります」


山縣が低い声で言う。乱暴に断じる一歩手前で、言葉が締まっている。


「殿下。受けた以上、やるのです。軍はそれで威信を成り立たせます」


しかし燈子は静かに言い切る。


「その“立ち方”が、血を高く払わせます」


「陸軍は乃木希典大将を司令官とする第三軍を編成し、旅順攻囲戦を始めます。ここで旅順の戦いは、海上の問題から、要塞攻囲という陸上戦に移行する」


大山が抑えた声で言う。


「攻囲は、時間を要しますな」


「はい。ここで、旅順の核心が現れます。旅順で起きるのは、無謀と合理の争いではありません。合理と合理の対立です」


松方が慎重に伺う。


「陸の合理と、海の合理――でございましょうか」


「はい。陸の合理は明快です。要塞は力任せに突っ込んで制圧するのではありません。囲み、近づき、補給を断ち、守る側が弱るのを待つ。塹壕を伸ばし、重砲を据え、観測をし、火点を一つずつ潰す。時間を味方にして損害を抑える。これが攻囲をする陸軍の合理です」


大山が低く頷く。


「その通りです。城攻めは、急げば損害が増えます」


「攻囲の遅さは欠点ではありません。損害を抑えるための時間です。――ところが海の合理は逆です。海軍は待てない。旅順の艦隊が残る限り、監視と封鎖に戦力を縛られ、海の決戦が迫ってくる中、補給路を守り続けねばならない。主力艦を失えば、その後の海の決戦が危うくなる。だから海は、早く勝ちたい」


山縣が硬い声で言う。


「ならば、どちらかを優先せねばなりませぬ」


「その優先が難しいのです。両方とも戦略の核心を握っているからです。陸が急げば損害が増える。海が待てば決戦の条件が悪くなる。だから上は、こういう矛盾した言葉に寄ります。――『急げ。だが損害は減らせ』」


伊藤が低く言った。


「矛盾した命令は、現場に解決を押し付けますな」


「はい。現場は止まれません。止まれば責を負う。続ければ努力になる。すると合理は、勝つためから、やり切るためへすり替わります。合理が血に変わる」


燈子は旅順の中身へ言及する。


「攻囲は掘る戦いです。掘って、這って、また掘る。昼に頭を出せば撃たれる。夜は鍬の音が響く。鍬の一打が敵の砲弾を呼びます。土は体にまとわりつき、硝煙が喉に残る。兵は眠るのではなく、目を閉じるだけになる」


松方が低く言った。


「兵を酷使する戦でございますな」


「はい。そして、ここで海の合理が陸の合理をさらに押します。港内の艦隊を無力化したい海にとって、要塞をただ囲んで弱るのを待つでは遅い。遅すぎます。海は、早く効く鍵となる目を欲しがります」


井上が慎重に伺う。


「目とは……」


「港内を見下ろす高地です。そこを押さえれば港内が見えます。見えれば観測ができる。観測ができれば重砲は当たる。理屈は整っています。整いすぎている」


大山がぽつりと言った。


「整いすぎた理屈は、外せませぬな」


「はい。外せない理屈は、外せない命令になります。外せない命令は失敗を許さない。失敗が許されないと撤退が罪になり、持久は卑怯になり、慎重は臆病となります」


燈子の声は静かなまま、言葉だけが冷たくなる。


「高地を巡る戦いは斜面を上がる戦いです。上がるということは姿を晒すということ。夜襲が重なります。夜は味方のはずですが、敵にも夜です。照明弾が上がると夜は昼になります。影が消え、人の輪郭だけが残る。鉄条網の前で止まれば的になる。走れば網に絡み、やはり的になる」


山縣が低い声で言う。


「ならば押すほか――」


「押すこと自体は否定しません。ですが押す前に、火力と工兵で押せる環境を作る必要があります。網を切る。土を削る。火点を潰す。観測を奪う。――それが足りないと、突撃は突撃のための突撃になります」


松方が低く言った。


「勝つための手段が、完遂の証明になる――そのようにも見えます」


「はい。やがて高地は地形ではなく、『ここを取れば終わる』という約束になります。約束は美しい。美しい約束ほど、引き際を奪う」


燈子は短く結末を置いた。


「引き際が失われ、陸はなんとしてでもこの地を取ろうとし、多くの血を流しながら取り切ります。やがて観測が効き始め、重砲が港内を叩きます。港は箱です。箱の中では砲弾の破片が逃げ道を奪う。艦は動けない場所にいる。動けない艦は耐えるしかない。――そして要塞は一気に崩れるのではなく、息が尽きるようにして降ります」


大山が低く言った。


「落ちた後も、血は戻りませぬ」


「そうです、流した血は戻りません。だから次の戦いで取り返そうとします。血を払った分だけ成果が要るという癖が出ます」


燈子は名を置くように言った。


「奉天です」


松方が伺う。


「そこで決戦にございますか」


「決戦になります。けれど戦争の片が付く決戦にはなりません。戦線が長すぎるからです。互いに包もうとする。包むには翼が要る。翼を伸ばせば薄くなる。薄くなれば穴ができる。穴を埋めるために兵が走る。走る兵を砲が叩く。砲は狙撃ではなく、面で人を消します」


大山が小さく頷く。


「塹壕の戦が、野に広がる――」


「はい。奉天は動く塹壕戦です。前へ出れば出るほど補給が伸びる。鉄道が命になります。弾も糧秣も担架も、補給線が伸びるほど遅れる。遅れれば現場は焦る。焦れば近道に手を出す。旅順とは形が違うだけで、癖は同じ顔、突撃と白兵こそ至高という結論を出します」


伊藤が静かに言った。


「それでは勝っても、こちらも相当な被害を受けるでしょう」


「はい。勝ちは大きい。ですが勝ったから終われるような勝ちではありませんでした。そして終わらせるには、もう一つ決めるものが要ります」


燈子は海の名を置くように言った。


「日本海です」


燈子は続けた。


「バルチック艦隊が回って来ます。世界の端から、石炭を食べながら。長い航海で艦も機関も乗員も疲れる。けれど数が数です。通せば戦は終わらず、戦が伸びればもはやこちらの国力が先に尽きます。」


山縣が低く言う。


「迎え撃つより外ありますまい」


「はい。迎え撃つ側は、戦闘の前に勝負を始めています。偵察、通信、訓練、整備、速力の維持、射撃の癖。準備が勝ちになります」


松方が息を吐いた。


「陸とは逆でございますな。準備の遅さが罪になりやすいのは陸……」


「海は逆です。準備が足りない者が先に沈みます」


燈子は言葉だけで状況を組み立てる。


「敵の航路は限られます。こちらは待てる。待てる側は隊形を整え、条件を選べる。条件を選べる側は戦い方を選べます。後の世でこの戦いはこう呼ばれます。日本海海戦。敵の先頭を押さえ、隊列を乱し、火力を集中し、主力を落とします。翌日には敵艦隊は艦隊でなくなります。そしてこの戦そのものが、終わる方向へ傾きます」


伊藤が低く言った。


「勝って終わらせる勝ち、でございますな」


「はい。ですが勝ちは癖も固定します。海軍は艦隊決戦で勝って戦を終わらせたという蜜のような味を忘れにくい。次の時代、海の任務――交通の保護、通商の維持、抑止――よりも、決戦の再現に心が寄りやすい。勝利が役目を狭くします」


山縣が低く言う。


「陸も同じでございましょうな」


「はい。旅順でやり切ったが美徳になると、火力の積み上げより白兵の美談が残りやすい。奉天で押して勝ったが残ると、持久や引き際は語られにくい。――勝利は栄光ですが、栄光は影も連れてきます」


ここで話を変えるため、燈子は言葉をひとつ置いた。


「講和の後、国の内が荒れます」


松方が低く伺う。


「勝ってなお、荒れるのでございましょうか」


「はい。勝利の中身が共有されず、期待だけが膨らむからです。勝てば何でも取れると思う。取れないと知った瞬間、怒りをぶつける相手を探します」


伊藤が言った。


「怒りはどこへ向かいましょう」


「政府です。勝ったという事実が、生活をすぐに軽くするわけではないのに、『勝った』という言葉だけが先に走る。言葉が走るほど、現実は追いつけません」


井上が慎重に問う。


「講和では、いかなるものが争点となりますか」


燈子は頷いた。


「戦を終わらせる条件です。賠償、領土、権益。欲しいものを全部取ろうとすれば、相手は飲まない。飲まなければ戦は続く。続けば国が先に滅びます。奉天で勝っても、海で勝っても、この国には相手の首都まで行き完全に倒す力はありません。それを相手もわかってるからこそ、講和条件はなかなかまとまりません。」


松方が低く言った。


「勝ちを、思うままに現金化はできぬ……ということでございましょうか」


「はい。勝利は紙幣ではありません。講和は現実の線で結ばれます。取れるものと、取れないものが生まれる。ところが民は、とれて当然と思っています。勝ったのだから当然だ、と」


大山が、抑えた声で言った。


「戦の痛みが、民には届きにくいのでございましょうな」


「そうです。戦場は遠い。泥と血と凍えは、数字になって報告されるだけになる。届きやすいのは『勝った』という報と、景気のいい言葉です。痛みが届かない勝利は、取り分だけを要求します」


伊藤が静かに言った。


「期待だけが膨らめば、失望もまた大きくなりますな」


「はい。失望は、相手を探します。相手は目に見えるものになる。政府の門、警察の詰所、新聞の見出し、街の灯。怒りは、形のあるところへ飛びつきます。東京で、日比谷で暴動がおこります」


松方が息を呑む。


「都が荒れる、と」


「はい。条約が結ばれた直後です。講和が『勝利の証明』として受け取られず、『不足の証明』として受け取られる。『賠償がない』『思ったほど取れていない』――そういう思いが先に立つ」


大山が苦い声音で言った。


「そういう思いから生まれた熱は……燃えますな」


燈子は頷いた。


「はい。集会が開かれます。人が集まる。言葉が尖っていく。尖った言葉は、次の尖りを呼ぶ。群衆は、誰かの理屈で動くのではなく、群衆の熱そのものの勢いで動き始めます」


山縣が低く言う。


「警察が抑えれば――」


「抑えれば、抑えこまれたという事実が新しい怒りを生みます。正しさの争いではなく、力の突き合いになる。力の突き合いになると、勝つこと自体が目的になります。勝つための標的が、次々に必要になる」


燈子は淡々と続けた。


「日比谷公園の集会から始まり、街へ流れます。交番が壊されます。新聞社が襲われます。路面電車が止まる。灯が割れる。火が上がります」


松方が低く言った。


「勝っているのに、祝うより先に燃やすと」


「はい。勝利の中身が届かないまま、期待だけが届いた。期待は、現実を追い越す。追い越した期待は、戻れない。戻れない期待は、裏切られたと感じる。裏切られたと感じた瞬間、怒りを作ります」


伊藤が静かに言った。


「相手は政府になり、警察になり、町そのものになる」


「はい。国の内が割れます。戦に勝っても、国が一枚岩になるとは限らない。むしろ勝利は、次の歪みの種になります」


大山が、報告書の束に指を置いたまま言った。


「戦場で払った血の請求が、都へ回るようなものにございますな」


「そうです。しかも請求書は、正しい相手に届きません。届きやすいところに届く。届いたところが、燃える」


山縣が硬い声で言う。


「民は……分かっておらぬ」


燈子は首を横に振った。


「分からせる仕組みがないのです。遠い戦は、都合のよいところだけを持ち帰らせる。勝ちの味だけを覚え、血の匂いを忘れる。そういう持ち帰り方は、次の判断を軽くします」


松方が低く息を吐いた。


「勝利が、癖を固定する」


「はい。『勝てば取れる』という幻想が残る。取れなければ怒る。怒りは、次はもっと取れるはずだという幻想に変わる。幻想は、引き際を奪います」


燈子は、燃えた街の話をそこで切った。火の色を言葉に残せば、火は言葉の中で生き残る。生き残った火は、人の判断に移る。


「ここで終わりません。火種は外へも内へも残ります。戦に勝った国は、勝ち方を忘れにくい。勝ち方を忘れない国は、次の時代の形を、自分に都合よく解釈しやすい」


松方が低く伺う。


「殿下。次の時代の形、と申されますと……」


「戦争の形が変わります」


伊藤が静かに言った。


「次の戦は、また露西亜との戦のようなものではございませんか」


「違います。日露の延長ではありません。もっと大きく、もっと長く、もっと遠くまで、国を巻き込みます。戦場だけではなく、国の暮らしそのものを戦いに結び直す形になります」


大山が抑えた声で言う。


「国の暮らしそのものが……」


「はい。軍が戦うのではなく、国が戦う。国の仕組みが戦のために組み替わる。そういう形が、世界の常識になります」


山縣が低く言った。


「殿下。それは……もしや欧州で起きる戦でございますか」


燈子は頷いた。


「はい。欧州です。ほどなくして、世界が燃えます。小さな火種が連鎖して、大火になる。――後の世で全ての戦争を終わらせる為の戦争と呼ばれたこの時点までの史上最大の戦争、第一次世界大戦です」



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