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第二話 八甲田の赤き雪

紙をめくる音だけが、しばらく部屋を支配していた。


冬の光が障子を透かし、卓の上の白い紙束を淡く照らす。

分厚く綴じられた表紙には、端正な楷書で題が記されている。


「青森第八師団雪中行軍遭難ノ件陸軍省ヨリ奏上」


元老五人の前に、それぞれ同じ報告書が一部ずつ置かれていた。


 伊藤博文。

 山縣有朋。

 井上馨。

 松方正義。

 大山巌。


維新以来、この国の針路を決めてきた顔ぶれが、今はそろって紙の上に視線を落としている。


最初の数ページは、淡々とした「概要」だった。


「本件ハ青森駐屯第八師団ニ於ケル冬季行軍訓練ノ一環トシテ施行サレタルモノニシテ、明治三十五年一月二十三日午前六時、青森聯隊区司令部前ヲ出発セリ」


「參加將兵ハ步兵第五聯隊及ビ同補充隊ヨリ抽出セラレタル下士卒等二百十名、將校下士官若干名ヲ以テ編成ス。行軍路ハ靑森ヨリ田代峠ヲ經テ三本木ニ至ル旣定ノ路線ナリ」


行数は端正だが、文面の奥には重さがあった。


「本行軍ノ目的ハ、寒冷地ニ於ケル行軍能力ノ涵養及ビ部隊ノ士氣高揚ニ在リト記錄サル。然ルニ實際ニ於テハ、出立前ニ於ケル氣象豫報ノ蒐集及ビ檢討不充分ニシテ、積雪深度、氣溫低下ノ度合、風力等ノ豫測ヲ輕視セシ形跡アリ」


伊藤は眉間に皺を寄せ、山縣は行軍路の記載に印をつけ、

井上は欄外の小さな注記を拾い、松方は「目的」の一文で指先を止め、

大山はページの端を親指で押さえたまま、読み進める速度を徐々に落としていく。


次第に、文体は「机の上の計画」から「現場」の描写へと変わっていった。


「一月二十三日正午頃ヨリ風雪漸次强マリ、午後三時頃ニ至リテ吹雪ト化ス。視界ハ十間ニ滿タザルコト屢々ニシテ、隊伍前後ノ確認困難トナル」


「隊長某少佐ハ、訓練ノ目的ヲ重ンジ豫定路線ノ遂行ヲ主張シ、同行ノ中隊長等ノ進言ニモ拘ラズ行軍ヲ繼續セシム。一部將校ハ中止又ハ引返シヲ建議スルモ、決裁ヲ得ズ」


紙の上では冷静な文だが、その裏にある声は容易に想像できた。


――ここで引き返すべきだ。

――いや、軍令は前進だ。


そうしたやり取りが、雪の中で何度も繰り返されたのだろう。


 ページを繰ると、「生存者証言ノ要旨」と見出しが現れた。


 山縣が、その一部を小さく声に出す。


「『吹雪ノタメ、前後ノ兵ノ姿ヲ見失フコト度々ニシテ、隊長殿ノ号令モ風ニ消エ聞コエザルコト多シ。足下ノ雪深ク、胸ノ辺リニ達スル箇所モ有リ、進ムモ退クモ難キ状況ナリキ』」


 大山は、別の行をなぞった。


「『歩行不能トナリシ者ハ順次後方ニ残置サレ、“後送部隊ニヨリ救護スベシ”トノ指示ヲ受ク。然レドモ吹雪激シク、実際ニハ後送部隊ノ接近不可能ナリシモノト認メラル』」


 井上は、口の中でそっと繰り返した。


「動けなくなったものはその場に置いていけ、と……」


 さらに眼を下ろす。


「『或ル地点ニ於テハ、兵等ハ互イニ身体ヲ寄セ合ヒ、銃ヲ中央ニ突キタテ其ノ周囲ニ輪トナリテ座シ、救助ヲ待チシト証言サル。後日捜索班ニヨリ発見サレシ際モ、其ノ多クハ斯クノ如キ態様ニテ凍結シ居タリ』」


そこにはただの「死体」ではなく、「救われると信じて座り込んだ輪」の姿があった。


松方が、思わず呟く。


「輪になって、互いの体温で凌ごうとしたのだろうな……」


次の見出しは、「捜索及ビ収容ノ状況」。


「一月二十七日以降、靑森縣下ノ警察隊及ビ地元民ヲ動員シ、搜索隊編成シテ行軍路一帶ヲ搜索ス。積雪深サ六尺乃至八尺ニ及ブ箇所多ク、掘削ニ多大ノ勞力ヲ要ス」


「收容サレシ遺體ノ多クハ、顏面及ビ四肢ニ高度ノ凍傷ヲ呈シ、衣類ハ汗ニテ濡レテ凍結シ、靴及ビ脚絆ノ內側ニモ霜柱ヲ生ゼル狀態ナリ」


「一部遺體ニ於テハ、立位ノ儘凍結セシ如キ狀況モ認メラル。雪中ニ片膝ヲ突キ、或ハ銃ヲ支柱トシテ身體ヲ預ケシ姿ノ儘、凍結セル者多シ」


大山は、その行に視線を落としたまま、しばし動かなかった。


「立ったまま、か……」


伊藤が、長い髭を指でなぞる。


誰か一人ではなく、部隊ごと「雪に飲まれた」光景が、紙の裏側に透けて見えるようだった。


さらに行を追う。


「現時點ニ於テ判明セル生存者十一名、內、兩足切斷ヲ要スル重症凍傷者數名、兩手指ノ壞疽ヲ呈スル者多數。精神的動搖顯著ニシテ、一部ハ記憶混濁ス」


井上は、静かにページを閉じた。


「……これは、“行軍訓練の失敗”という言葉では足りませぬな」


「軍の恥だ」


大山が低く言う。


「それ以外の言葉はござらん」


松方が、末尾近くの段落に目を留めた。


「ここですな。“総括”とあります」


そこには、陸軍省調査官のまとめが記されていた。


「本件遭難ニ於テハ、

 一、嚴寒地ニ於ケル行軍裝備ノ不備

 一、氣象情報蒐集及ビ危險判斷ノ不充分

 一、隊長以下指揮官ノ判斷硬直

 一、訓練目的ノ强調ニ伴フ無理ナル精神論

 等、複數ノ要因ガ重ナリテ大慘事ヲ招キタルモノト斷定セラル」


「軍制上ノ責任ノ所在ニ關シテハ、今後更ニ精查ヲ要スルモ、單ニ現場指揮官ノ過誤ノミニ歸スベキニ非ズ。制度及ビ慣行ノ缺陷トシテ、陸軍全體ガ自ラノ責ニ歸スベキモノト認ム」


松方は、鼻を鳴らした。


「よくぞここまで書きましたな。陸軍軍人とはいえ役人だ、その文にしては、ずいぶん腹を括っている」


「これを書いた者は、覚悟を決めておるな」


伊藤が、わずかに口元を緩める。


「こういう文は、書いた瞬間から自分の行き先も決まることが大抵だ」


山縣は腕を組み、目を閉じたまま呟いた。


「訓練で兵を鍛えるべきところを、訓練で兵を殺してどうする。これでは戦場に出る前に、自ら兵力を削っておるようなものじゃ」


誰も、その言葉に反論しなかった。


井上が、現実的な問いを投げる。


「この一件、世間にはどこまで知られておりますかな」


部屋の隅に控えていた陸軍省の将官が、前に出て頭を下げた。


「はは。現時点におきましては、青森近在において風聞流布致して居りますも、陸軍としては詳報は公表致しておりませぬ。新聞各社にも、“雪中行軍訓練中一部部隊の遭難あり”程度の告知しかしておりませぬ」


「封じ込めておるわけだな」


松方が言う。


「軍の威信、徴兵、地方の士気……考えれば分からんでもないが」


「対外的には隠すにしても、内側では目を逸らせぬ」


伊藤が、卓上の紙束を軽く叩いた。


「これはこの国の“癖”がそのまま出た事故ですぞ。無理を押し通すことを美徳とし、退くことを恥とし、『精神力』『大和魂』なる言葉で備えの不足をごまかす。このまま放置すれば、後々同じことが戦場でも起こる」


「……認めざるを得ぬな」


山縣の声には、押し殺した苛立ちが混ざっていた。


そのとき、廊下から足音が近づき、襖の外で低い声がした。


「恐れながら申し上げます。――陛下、おなりにございます」


五人は一斉に立ち上がる。

将官も慌てて背筋を伸ばし、頭を垂れた。


襖が静かに開く。


簡素な御召し物ながら、その場の空気を一変させる人物が入ってくる。

明治天皇である。


「楽に」


一言で全員を座らせ、自らも卓の上座に腰を下ろした。


天皇は、五人の前に置かれた報告書に目をやる。


「八甲田の件──報告には一応目を通したか」


 伊藤が代表して、深く頭を下げた。


「は。概略は拝見致しました。将兵二百十名のうち、百九十九名が凍死、十一名が生存。うち重症者多数とのことでございます」


「うむ。その数字に相違はないか」


天皇は近くの一部を手元に引き寄せ、

冒頭からざっと目を走らせていき、数字の記載の部分でぴたりと指を止めた。


「二百十、百九十九、十一……」


短く数字を繰り返すその声に、

元老たちは言い知れぬ違和感を覚えた。


数字そのものは紙に書かれている。

だが、その口ぶりは、単なる「今初めて知った確認」には聞こえない。


沈黙を破ったのは、大山だった。


「陛下、このたびは、まことに軍の不明の致すところ。陸軍を預かる者として、忸怩たる思いにございます」


「大山」


天皇は、報告書から目を離し、ゆっくりと顔を上げた。


「軍の不手際は、これからいかようにも正せよう。この場に召したのは、そのためだけではない」


伊藤が、わずかに首を傾げる。


「と申されますと……?」


天皇は、しばし言葉を選ぶように沈黙した。

やがて、指先を紙から離し、目の前に並ぶ五人をひとりずつ見渡す。


「この八甲田の一件は──」


その声音は、普段の政務のときよりも、わずかに低かった。


「ある者から“あらかじめ”知らされておった」


空気が、わずかにざわめいた。


「……あらかじめ、にございますか」


井上が、思わず問い返す。


「左様」


天皇は静かにうなずく。


「青森第八師団、八甲田山での雪中行軍。時期は一月下旬。将兵二百十名が出立し、そのうち百九十九名が凍えて死ぬ――と」


数字を並べる声には感情がほとんど乗っていない。

だからこそ、その一致の異常さが際立った。


伊藤が慎重に問う。


「陛下、そのようなことを申したる者とは、いかなる御仁にございましょう。軍人か、学者か、巫女か……」


「直宮、燈子じゃ」


その名が出た瞬間、部屋の空気が一段重くなった。


「直宮燈子内親王殿下……にございますか」


松方が、信じがたいものを見るような目をした。


天皇は、孫娘の名をもう一度、はっきりと口にする。


「あの子が、朕に対し、たったひとりでこの話を持ち出した。青森の八甲田で、第八師団の行軍が行われること。その行軍が厳冬の中で行われ、多くの兵が凍えて死ぬこと。人数も、日付も、今この報告書にあるところと違わぬ」


伊藤が、静かに息を吸い込んだ。


「陛下がそのお話をお聞きになったのは、いつのことでございましょう」


「明治三十五年正月二日。御所の一室。燈子と朕のみでな」


天皇は、部屋の隅に控える侍従に視線を向けた。


「念のため、日付と内容だけは記させておいた。侍従、間違いはないな」


「はは。記録の通りにございます」


侍従が深く頭を下げる。


元老たちは、互いの顔を見合わせた。


偶然と片付けるには一致が過ぎる。

だが「未来を見た」との話を、素直に呑み込むには彼らは現実的すぎた。


山縣が口を開く。


「……陛下。儂らも長くこの国の政に身を置いて参りましたが、予言に基づいて国の針路を決するような真似は、とても許されるものではありませぬ」


「それは朕も同じ考えだ」


天皇は即座に答えた。


「迷信や妖言に振り回されて国を誤ることなど、あってはならぬ」


一拍置き、静かに続ける。


「されど、八甲田のことは、こうして現に起こった。しかも、あの子の申した通りに」


井上が、細い目をさらに細めた。


「陛下は、その内親王殿下のお言葉を、いかなるものとお考えで?」


「分からぬ」


天皇は率直に言った。


「夢見とも、天啓とも、朕は軽々しくは申さぬ。ただ、“これから百年先の日本を知っておる”と、燈子はそう口にした。表向きは平和な世界、そしてそこに至るまで血みどろの歴史を歩んだ日本の姿を、知っているとな」


松方が、思わず喉を鳴らす。


「百年先……」


「朕は、その場では何もせなんだ」


天皇は、障子の向こうの冬の光に一瞥を送りながら言った。


「燈子の申すことを、証もなく以て軍に命じれば、それこそ国を惑わすことになりかねぬと思ったからな。だが今、一つの証がこうして目の前にある」


報告書の束に、指先が軽く触れる。


「ならば、朕としても、あの子の申すことを“聞かぬふり”をし続けるわけにはいかぬ」


伊藤が、静かにうなずいた。


「陛下としては、いかようにお考えで?」


「日を改め、この場に燈子を呼ぶ」


天皇の声は、先ほどよりもはっきりとしていた。


「そなたら元老と共に、あの子の口から改めて“未来とやら”の話を聞きたい。それがもし、この国の行く末をより良き方へ導く手立てとなるならば、利用せぬ手はない」


「しかし陛下」


山縣がなおも食い下がる。


「それは、あまりにも危うい橋にございます。一歩誤れば、宮中に予言に頼る君主との評判が立ちましょう。軍人も文官も、動揺致します」


「だからこそ、そなたらを呼んだのだ」


天皇は真正面から山縣を見据えた。


「朕ひとりが聞いて信じるのではない。この国を共に支えてきた者たちの耳で聞き、目で確かめ、頭で考えてほしい」


井上が、静かにまとめる。


「内親王殿下のお話を、まずは一つの情報として受け取り、それをどう扱うかは、我らで決する……ということでございますな」


「うむ」


天皇はうなずいた。


「このことは、当面ここにいる者以外には漏らすな。燈子を呼ぶ場も、当面は非公式の席とする。あくまで内々の意見聴取じゃ」


松方が、ようやく口元にかすかな苦笑を浮かべる。


「この歳になって、未来の話を元老会議で聞くことになるとは、思いもよりませなんだ」


「維新のころも、“誰も見たことのない未来の日本”を思い描いて動いたという点では、似たようなものだろう」


伊藤が、長い髭を撫でながら応じた。


「今度は、その絵図を持ってきた者が直宮殿下である、というだけですな」


山縣はなおも表情を崩さない。


「儂は、最後まで疑り深くあろうと思うがな」


それでも、その声には先ほどよりわずかに柔らかさが混ざっていた。


大山が、俯きがちだった顔を上げる。


「一つだけ、確かなことがございます」


「何だ」


「この雪で死んだ兵らの命は、もう戻りませぬ。だが、その死が、この国に何かを改めさせねば、あまりに浮かばれませぬ」


誰も、それに異を唱えなかった。


天皇は立ち上がり、短く告げる。


「近々、日を改めて燈子を呼ぶ。その折には、そなたらにも再び集まってもらいたい」


一同が深く頭を下げる。


明治天皇が部屋を去り、襖が静かに閉まると、

残された五人は、しばし誰も口を開けなかった。


最初に息を吐いたのは、伊藤だった。


「……この死は、もう戻らぬ」


彼は、自身に言い聞かせるように続ける。


「ならばせめて、この先の何万人分かの命に換えねば、報われぬでしょうな」


窓の外では、まだ静かに雪が降っていた。


――八甲田の赤き雪は、もう止められない。だが、この先降るはずの“色のない雪”なら、まだ変えられるかもしれない。


青森の山中で凍えた兵たちの最期は、遠く離れた宮中の一室で、静かに次の一手を求め始めていた。

それがやがて、直宮燈子を呼び出し、100年先の記憶を持つ皇女が語る「未来」の席を設けることになるとも知らぬままに。

一部旧字体におかしなとこがあるかもしれませんがご愛嬌ということで・・・

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