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プロローグ 死、そして生

暇なときに書いていくので投稿は不定期です。

電子レンジの前で、足が止まった。


 白衣じゃなくて、ヨレたパーカー。

 でも袖口には、まだ消毒薬とアルコールの匂いが染みついている。


 壁の時計は、午前四時を少し回っていた。

 何時間連続で病院にいたのか、もう真面目に数える気にもならない。


 レンジの中で、真っ赤なパッケージがくるくる回っている。


 激辛北天らぁめん。


 コンビニで、半分寝た頭で手に取った、やたら辛そうな冷凍麺。

 誰かが「徹夜明けに食うと頭が起きる」と言っていた気がする。


 チン、と軽い音が鳴った。


「……いただきます」


 誰にともなく呟いて、ふたを剥がす。

 湯気と一緒に、唐辛子の匂いが鼻を刺した。


 一口すする。

 舌が焼けるように痛くて、思わず変な笑いが漏れた。


「辛っ……」


 二口目で、喉の奥が熱くなる。

 三口目を飲み込んだ瞬間、胸の奥で「ドン」と何かが跳ねた。


 どくん、どくん、と乱暴な鼓動。

 リズムが崩れて、胸の内側から無遠慮に叩かれているようだ。


(……あ、嫌な感じ)


 箸が指から滑り落ちた。

 赤いスープが床にはねる。


 足に力が入らない。

 膝が折れ、そのまま横向きに倒れ込んだ。

 冷たいフローリングが頬にくっつく感触だけ、妙に鮮明だ。


(ここで終わり? ……マジで?)


 頭のどこかはまだ冷静で、「救急車」と命じるのに、腕も指も動かない。

 研修医として何度も見てきた「もう戻らない波形」が、頭の中で勝手に再生される。


(やり残したこと、いくらでもあるのに)


 そう思ったところで、視界の端から色が薄れた。

 音が遠のき、世界が自分から離れていく。


 そこで、綾坂菖蒲の人生は、ふっと途切れた。


 * * *


 次に目を開けたとき、空気が冷たかった。


 白い息が、ふわりと宙に浮かぶ。

 天井は低く、木の梁。障子。漆喰の壁。

 蛍光灯も、電子音もない。


 身体を起こそうとして、自分の腕の短さに驚く。

 布団から出ている手は、丸くて小さい。

 動くたび、衣擦れと一緒に、絹のさらりとした感触が肌をかすめる。


「……え?」


 口から出た声は、高くて幼い。


 畳が視界いっぱいに広がる。

 ふすまの向こうから、かすかな足音。


 やがて、ふすまが静かに開いて、女がひとり膝をついた。


「燈子さま、お目覚めでございますか」


 燈子──とうこ。


 その音を聞いた瞬間、頭の奥で何かが弾けた。


 雪の庭。白い砂利。

 広い回廊を行き交う女官たち。

 父の袴。母の笑い声。

 上座に座る、見慣れたはずの天皇の背中。


 一方で、病院の白い廊下。救急車のサイレン。

 法廷の傍聴席。試験会場のざわめき。

 コンビニのレジ前、さっきまでいたワンルームの部屋。


 二つの人生の記憶が、雑に束ねられて脳みその奥に押し込まれる。

 息が詰まりそうな感覚と一緒に、「理解」がやって来た。


(……はあ)


 思わず、小さく息が漏れる。


(そう来たか)


 神様も女神も、転生ガチャも、何も出てこなかった。

 ただ、死んで、目を覚ましたら──


 大正天皇の長女、直宮燈子内親王として、冬の宮中に座っていた。


 窓の外では、静かに雪が降っている。

 明治三十四年の、冬の終わりの空。


 女官が心配そうにこちらを見ていた。


「ご気分が優れませんか、燈子さま」


「……だいじょうぶ」


 自分でも驚くくらい自然に、幼い口調の返事が出た。

 その奥で、前世の綾坂菖蒲の声が、もう一度静かに呟く。


(やること、山ほどあるなぁ)


 * * *


 転生に気づいてからの数週間、燈子はひたすら「見る」ことに徹した。


 障子の向こう、白い息を吐きながら庭を掃く人々。

 廊下を行き交う侍従や女官の言葉遣い。

 差し出される新聞に並ぶ「明治」「日英」「露国」という活字。


 まだ、日露戦争は始まっていない。

 それでも、紙面の端々には、濃い影のようなものが滲んでいた。


 雪の日には、窓の外で近衛の兵たちが訓練している姿も見えた。

 銃を肩に、整然と並ぶ兵士たち。

 軍服のシルエットは、綾坂菖蒲として読んだ写真と変わらない。


(ここから数年で、ロシアと戦って。

 そのあと、もっと大きな戦争に巻き込まれて。

 最後には、すべてが焼かれる)


 具体的な数字や年号もすべて覚えてる。

 自分の中では「どこで、何がどう転がっていくか」の大まかな地図が広がっていた。


 日露戦争。第一次世界大戦。そしてその先。

 どこで何を変えれば、「マシなほう」に進めるか。


(全部は無理でも、減らすことはできるはず)


 それだけは、前世で散々歴史をかじった頭が告げていた。


 * * *


 明治三十五年、正月。


 御所の一室は静かだった。

 新年の公式行事がひととおり終わり、人払いをしたあとの、短い空白。


 低いテーブルを挟んで、向かい合う二人。


 一人は、数えで五つの少女──直宮燈子。

 もう一人は、この国そのものといっていい御方。


 教科書と写真の中でしか知らなかった「明治天皇」が、

 今はただ、少し厳しそうな眼差しで孫を見つめている。


「燈子。話があると聞いた」


 低く落ち着いた声。

 その視線を受け止めながら、燈子は膝の上で小さな手を握りしめた。


「おじいさま」


 喉が少し乾いている。

 けれど、ここで言わなければ、もう間に合わない。


「変なお話をします。

 きっと信じてはいただけません。

 でも、今お伝えしておかないと、取り返しがつかなくなります」


 明治天皇の眉が、わずかに動く。


「今月、青森の八甲田山で、第八師団の雪中行軍が行われます」


 言葉にした瞬間、胸の奥で、あの冷気がよみがえる。

 戦記のページ。白黒写真。そして映画でも見た雪に埋もれた人影。


「参加する兵は二百十名。

 そのうち百九十九名が凍えて死にます。

 日付は……一月二十三日頃です」


 部屋から音が消えた。


 庭を掃く竹ほうきの音も、遠くの鶏の声も、ここまでは届かない。

 障子越しの冬の光だけが、妙に白く眩しい。


「わたくしは、それを“知って”います」


 自分の声が、どこか別の場所から響いているようだ。


「夢ではなく、占いでもなく……

 別の時代──これから百年先の、表向きは平和な世界、

 そしてそこに至るまで血みどろの歴史を歩んだ戦後日本の記憶を持つ者として、知っているのです」


 綾坂菖蒲としての人生が、胸の奥でざわめいた。

 あの世界で見たもの、学んだこと、知ってしまった未来。


 それらを、この場で全部並べるわけにはいかない。

 けれど、ここで黙っているわけにもいかなかった。


 しばらく沈黙が続いたのち、明治天皇は湯呑みに視線を落としたまま口を開いた。


「……もし、そなたの申すことが真ならば」


 燈子の指先に、自然と力がこもる。


「ここで朕が軍の演習を止めるのは、出来なくもない」


 その一言に、思わず息が詰まる。

 けれど、続いた言葉は静かで、冷静だった。


「しかし、それによって未来は変わるであろう。

 八甲田で人は死なず、

 そなたが“本当のこと”を申していると、

 証明することは出来なくなる」


 燈子は口を閉じた。


「国は、朕の胸先三寸だけでは動かぬ。

 いかに理屈が通った話であろうと、

 確かな証がなければ、元老も軍も官も動かせぬ」


 視線が、ようやく燈子に戻ってくる。

 その目には戸惑いと一緒に、「量ろう」とする色があった。


「燈子。

 そなたは、今ここで二百名を救う代わりに、

 その先で変えられるかもしれぬ未来を、捨てる覚悟があるか」


 残酷な問いだった。


 けれど、その響きには聞き覚えがある。


 ――トリアージ。


 災害訓練で何度も書かされたタグ。

 今すぐ処置すれば助かる「赤」。

 少し待てる「黄」。歩ける「緑」。

 そして、望みのほとんどない「黒」。


 研修医のころ、救急の医局長が真顔で言った。


 『全員を助けるなんて考えるな。

  限られた手と時間で、一番多くを生かすために切り捨てるのがトリアージだ。

  その判断から逃げる医者は、災害現場には立てない』


 あのときは紙の上の色分けだった。

 今目の前にあるのは、実際に山へ向かう二百十人の兵士たちと、

 この先何十年も続く戦争と国のかたちだ。


(全部は救えない)


 それは医者として、いやでも叩き込まれた現実だ。


(でも、減らすことはできる。

 減らすために、選ぶことはできる)


 空から炎が降って街が焼ける未来を、少しでも遠ざける。

 新しい爆弾が、この国の空でだけは炸裂しないようにする。

 大きな戦争で死ぬ人の数を、できるかぎり削る。


 それが、自分に課せられた「仕事」だと、もう決めている。


 喉がひりつく。

 それでも、燈子はゆっくりとうなずいた。


「……はい」


 自分の声が少し震えている。


「わたくしは、楽なほうを選びに来たわけではありません。

 今、山で死ぬ方々の死も、

 その先の戦で死ぬ方々の死も、

 全部背負ってでも、少しでもマシな未来に変えたいのです」


 明治天皇は目を閉じ、一度、深く息を吐いた。


「ならば、今は何もせぬ」


 短く、それだけ。


「八甲田で、そなたの申すとおりのことが起きたなら──

 そのときは改めて、朕と共に国のことを考えよ」


 燈子は畳に手をつき、深く頭を下げた。


「はい」


 障子の向こうでは、まだ雪の気配は薄い。

 けれど、この部屋の中だけは、

 史書には載っていない冬が静かに動き始めていた。


 二百十人の行軍の先に、

 まだ形のない無数の未来の顔が並んでいる。


 誰を救って、誰を救わないか。

 その選択から、二度目の人生は始まった。

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