第二話:十円のたたかい
うちわで仰いでも風はぬるい。ゲーセンの中は蒸し暑かった。
それでも子どもたちは、汗だくになってボタンを叩いている。
菜々子は扇風機の前に陣取り、壊れかけの筐体の前で黙って座っていた。
ゲームのタイトルは──『戦場のカタツムリ』。
画面には、やる気のないグラフィック。遅すぎる操作感。
主人公のカタツムリ兵士は、上下左右にしか動かず、ジャンプもできない。
攻撃は“よだれ”を垂らすのみ。BGMは訳が分からず、敵は突然現れ、理不尽に撃ってくる。
だが、菜々子は今日もそこにいた。
一プレイ十円。キラク商店街の片隅にある、寂れたゲーセン。
このゲームだけは、いつも空いている。誰もやらない。菜々子以外は。
◇ ◇ ◇
「またやってるじゃん」「マジでクリアとかあるの?」「見てるだけで眠くなるんだけど」
男子たちのひそひそ声が、菜々子の背中をすり抜けていく。
小学五年生の彼女は、返事をしない。指先だけが、しなやかに動いていた。
左、下、左──カタツムリ兵士は、ぬるりと動く。
敵のパターンは不規則で、ステージはどこまでも単調。
だが菜々子は、あせらず、止まらず、じりじりと先へ進めていく。
やがて、誰も見たことのない六面へ。
カタツムリ兵士は地下水路を進む。
目を凝らさなければ敵も道も見えない。
子どもたちが、いつの間にか集まってくる。
格闘ゲームの順番待ちはどこかへ消えて、皆がこの台を囲むように立っていた。
まるで、遅すぎる戦場の行方を見守るように。
「うわ、こんなとこあったんだ……」「地下じゃん」「敵がでかい!」
菜々子の顔に、緊張がにじむ。息を浅く整えながら、“よだれ”を慎重に垂らす。
狙いがずれれば終わる。パターンもない。
敵のボスと思われるナメクジ兵士が、突然、飛んだ。
回避が遅れる。カタツムリ兵士は一発でやられた。
「──あっ」
小さな声が漏れた。菜々子はゆっくりと手を離し、息を吐いた。
その瞬間、誰かが言った。
「……すごい。今の、たぶん見たことあるやついないよ」
菜々子は振り返った。細身の男の子が立っていた。
小学四年生くらいだろうか。知らない顔だった。
「名前、陽介っていいます。俺、あれ見てびっくりした」
「……あ、うん。ありがとう」
菜々子は少しだけ微笑んだ。
◇ ◇ ◇
次の日も、陽介は来た。今度は十円玉を小さな袋に詰めて。
菜々子の横で、じっと画面を見つめていた。
「このゲーム、なんか変だけど……クセになる」
「遅いし、つまんないって言われるけど、やってると段々考え方が変わるよ」
「どこまで行けたの?」
「昨日のナメクジのとこ。もう少しで、何か出てきそうだった」
「見たいな、それ」
「いいよ。一緒に行こう」
菜々子は、席を半分譲るようにずれて言った。
「──でも、たぶんまたやられると思う」
「……いいよ。そっちのが燃えるじゃん」
◇ ◇ ◇
週が変わるころには、彼らの背後に数人の“観客”がつくようになっていた。
他のゲームの順番待ちをしながら、無言で様子を見る。
あの遅くて意味不明な“カタツムリゲー”が、少しずつ注目を集めていた。
陽介は、リセットの手順をすっかり覚えた。
二人で交代しながら、少しずつ先へ進めていく。
六面、地下水路──突破。
その先に現れたのは、“ナメクジタワー”と書かれた塔だった。
背景がチラつき、BGMが歪んでいる。
敵はすべてナメクジにすり替わり、なぜか巨大なツノだけが上部から見える。
「……これ、ラスボスじゃない?」
「かもしれない。でも、まだ動かない」
敵が動いたのは、開始から三十秒後だった。
あまりにも遅く、そして……強かった。
四方八方から飛んでくる“つばのような弾”に、反応が追いつかない。
菜々子のカタツムリは、三回目の被弾で倒れた。
画面には「GAME OVER」とだけ表示された。
店の中が、妙に静かになった。
それを破ったのは、陽介だった。
「──ここまで来れるの、菜々子ちゃんしかいないと思います」
「……いや、陽介くんがいたからだよ。リセットのタイミング、私ひとりじゃ分かんないし」
「……明日もやる?」
「うん。やる」
◇ ◇ ◇
外は夕暮れ。商店街の空は、茜に染まっていた。
入口の脇に座っていた店主のじいさんが、画面の様子をちらりと見ていた。
「あのゲーム、本当は壊れてないか、気になりまして」
陽介が言うと、じいさんはうちわを扇ぎながら首を振った。
「壊れてねぇ。あれは、そういう作りなんだ。古いゲームってのはな、意味がわかんなくて変なんだ」
「でも、なんか、いいですね」
「……うーん、そうかねぇ」
じいさんはそれだけ言って、また扇風機の方を向いた。
菜々子はもう一度、台を見つめた。
カタツムリ兵士は、じっとタイトル画面の中にいた。
小さくうねりながら、まるで再出撃を待っているようだった。