第一話:火の音が返事になる
雨が上がった夜は、炭の匂いがよく立つ。
舗道のアスファルトにはまだ水たまりが残り、赤提灯の灯りが揺れて映っていた。
のれんは湿気を吸って少し重たげに垂れ下がっている。
カラン、と引き戸を開けると、焼き場の奥で火がぱちりと跳ねた。
「ヘイ、らっしゃい」
老いた大将は、目線を寄越さないまま、短く言った。
カウンターには三人。誰も話さず、壁のラジオからくぐもったような音楽が流れていた。
曲名も放送局も不明。地元のローカル局だろう。
俺──隆は、四つ目の席に腰を下ろす。
おしぼりと、よく冷えたジョッキの生ビールが黙って置かれた。
注文は不要だ。この店では、何も言わないのが一番しっくりくる。
炭が弾ける音。皮が焼ける匂い。
それらに包まれながら、ジョッキをゆっくり傾ける。
やがて塩の効いたねぎまが一串だけ出てきた。
俺は黙ってうなずき、串を手に取って一口食べる。
熱と香ばしさ、濃い旨味が舌に広がる。
「……」
この店では、黙って焼かれた串を、黙って食うのがいい。
それが十年通い続けた末に、自然と身についた作法だった。
大将は頑固でも無愛想でもない。ただ、焼くのに真剣なだけでしゃべらない。
黙って炭をいじり、串を返し、串を差し出す。
言葉のいらないやりとりは、むしろ心地いい。
棚には馴染みの瓶が整然と並び、冷蔵庫は低く唸っていた。
椅子のきしむ音、火の音、ラジオの声。
そのすべてが、この店の静けさを形づくっている。
◇ ◇ ◇
数本目の串を食べ終えたころ、端の客が静かに席を立った。
カウンターには食べ終えた串が七、八本と、空のジョッキが一つ。
「……串八、生一」
男は低くそう言っただけだった。
大将は炭を返しながら、短く答える。
「九百五十」
男はポケットから小銭を取り出し、カウンターの端に置いた。
「……じゃ、また」
「毎度」
それだけで会話は終わり、男は静かにのれんの向こうへ消えていった。
◇ ◇ ◇
すぐに、引き戸がまた開いた。
若い男。ネクタイをゆるめ、手にはコンビニの袋。
顔には疲れが見えるが、口調はやたら元気だ。
「こんばんはー! あ、ここ、座っていいですか?」
大将が目だけでうなずくと、男は俺の隣にどかっと腰を下ろした。
「生ジョッキと、ねぎまと皮串ください!」
案の定、話し始める。
「ここ、雰囲気ありますね。メニューないんですか? いやぁ、通の店って感じで……」
さらに、のれんを見てぽつりと言った。
「“八兵衛”って、大将の名前なんですか?」
焼き場の炭が、ぱちりと弾けた。
俺はグラスを口に運びながら、小さく首を横に振る。
「……そういうの、聞かないのが、ここなんで」
「……あ、すみません」
男はばつが悪そうに口をつぐんだ。
空気の密度が、すっと戻る。
ラジオの音はそのままなのに、静けさが再び店を満たしていく。
彼の存在も、少しずつこの空間に馴染み始めたように感じられた。
◇ ◇ ◇
その後の彼は黙ったまま、出された串を丁寧に食べていた。
飲むペースも落ち着き、動きも静かになった。
ときおり、ラジオに耳を傾ける仕草が見えた。
炭の音が、ぱち、ぱち、と店内に響いていた。
火の音が返事のように、夜を受け止めている。
この店には、こうして“静けさの順応”を覚える者と、
二度と来ない者の、二通りしかいない。
◇ ◇ ◇
炭の匂いがまた落ち着いてきた頃、彼は最後の串を食べ終えた。
「──おいしかったです」
そして静かにジョッキを空け、言った。
「塩、ちょうどよかったです。……こういうのが、本当にうまいんですね」
大将は黙ってうなずいた。
「また来ます」
男は少しだけ笑って、会計を済ませてのれんをくぐっていった。
その背中を見送ってから、俺はぽつりと言った。
「……たまにいますね、ああいうの」
大将は炭の灰を払う手を止めず、ゆっくりと応える。
「……まあ、しょうがねぇな。いきなりここのルールは、わかるめぇ」
少し間をおいて、もう一言。
「……悪くはねぇ」
その声に、わずかな笑いがにじんでいた。
驚いて顔を向けると、大将と目が合う。たぶん半年ぶりのことだった。
俺は黙って、小さく笑った。それで十分だった。
◇ ◇ ◇
帰り道、赤提灯を振り返ると、風に静かに揺れていた。
湿った夜の空気のなか、炭の匂いだけがいつまでも鼻に残っている。
なぜ、あの店に通い続けているのか。
言葉にするのは難しいが、ただ一つ──
言葉を交わさなくても通じる場所が、そこにはある。
そして、時折、言葉を超えて、ふと笑い合える夜もある。
俺はポケットのライターを指先で転がしながら、いつもの角を曲がった。