第8話 山は語らず《応答が確認できません》
「うん、なるべく早く帰るよ。ありがとう。それじゃ」
カエレンはナリアにそう告げると、モバイルをポケットにしまった。
「運転を再開したい」
カエレンはYARAにそう話しかけ、路肩に停めていたSEYO Q2eに再度エンジンをかけた。
自宅のあるトゥルマ湖の南側から国道を車でさらに南下すると、ナイム山脈と呼ばれる山並みが姿を現す。この季節はどの山にも真っ白な冠雪が見られた。上空では、この国の国鳥であるメロディスが群れをなし、悠然と羽ばたいている。風を自在に操るそのしなやかな躍動は、空間を切り裂くだけのドローンの直線的軌道と比べて、はるかに勇ましく誇り高いもののように見えた。そんなオルディナの四季折々の景色を写真に収めるのが、カエレンの唯一の趣味であり、休日の過ごし方だった。決してE.V.E.の記録と連動することのない、自分だけの記憶が、写真の中には残っているような気がした。
国道の脇で分岐する、舗装の薄れた支道に入る。道はやがて、緩やかに傾いた山裾を縫うように曲線を描き始めた。
しばらくすると、道路の左側に、苔に埋もれた古い表示板のようなものがあった。カエレンがSEYO Q2eの速度を落とし近づいてみると、そこには山中へと続く砂利道の行路図が、かすれた線で薄っすらと残っていた。
「ここでいいよ」
声に応じて、YARAが車を自動停止させる。カエレンがドアを開けると、風の香りが呼吸の中に満ちてきた。助手席に置いてあった鞄を手に取り、カエレンは砂利道へと歩みを進めた。休日用のトレッキングシューズが、軽やかな音を立てて砂利を踏みしめる。道を遮る枝を優しく手で払いながら、カエレンは奥へ奥へと進んでいった。次第に、自分自身の肉体が遥か昔からそこにそびえていた山の一部になっていくような感覚に包まれ、カエレンは心地よさと安心感を覚えていた。
カエレンは斜めにかけた鞄から、カメラを取り出した。それは今ではほとんど使われることのなくなった光学カメラだった。すでに製造が終了されている10年前のモデルで、ファインダーを覗くという文化がまだ残っていた、最後の世代のものである。元々は軍事用に開発されたものであるらしく、そのボディには飾りっけ一つない。そのざらついた感触が、カエレンは好きだった。
カエレンの狙った被写体は、少し離れたところの枯れ木にいた。両手で包むようにカメラを持ち上げ、ファインダーに右目をそっとそえた。荒れた木肌にとまる、小さな啄木鳥の姿がそこにはあった。周囲を警戒するような様子で、頭を小刻みに動かしている。カエレンは息を殺しながら、ピントリングをゆっくりと回した。世界の輪郭を何度も変えながら、カエレンの焦点はその小さな体を求める。一つの命が鮮明な形を持って浮かび上がった瞬間、カエレンの指先が動いた。カメラが僅かに震える。その直後、こんこんと幹を叩く音が小気味よく聞こえた。
カエレンはカメラを下ろし、背面の小さなモニターを点けた。啄木鳥がちょうどこちらに視線を向けるような画角で映っていた。大きく見開かれた目は、確かにそこに息づく存在の証明として、多彩な光を放っていた。はっきりと、それでいて静かに、一羽の何気ない日常が収められていることに、カエレンは満ち足りた心地で再び歩き出した。
蛇行しながら伸びる砂利道を10分ほど行くと、道は小高い岩場のような地形に出た。そこは見晴らしの良い開けた場所で、山々の白い頂が遠くまで連なって見えた。一際猛々しい模様を浮かべた岩を見つけ、カエレンはそこに腰を下ろした。冷気を運んで吹き抜ける風が、刺すような鋭さで皮膚を刺激する。
タンブラー型の水筒を取り出し、カエレンはコーヒーを注いだ。料理だけじゃなく、ナリアの淹れるコーヒーは格別な薫りをまとっている。カエレンは手袋を外し、コップの温度で指先を温めた。
カエレンは、またあの事件のことを思い出していた。判事席から見た被告の男の瞳には、彼の信じる正義への道だけが映っているように見えた。そんな彼を裁くという行為によって、別の道へと連れ去ろうとした当時の自分が、どこか傲慢で、浅はかだったようにカエレンは思い始めていた。それはおそらく、留置セルで見たサリームの瞳が対照的だったからだろう。カエレンはそう考えていた。
耄碌し始めた父親への最後の敬意と、娘を苦しみから解放しようとする愛情は、家族の眼差しとしてどう違うのだろう。
信念に準じた男と、現実に追い詰められたサリーム。
自らの選択によって導き出された結末を、二人はどう受け止めるのだろうか。
二人の顔が交互に頭に浮かび上がり、カエレンの思考は風に飛ばされた風船のように方向感覚を失った。
“掬いきれなかった思い”
もう一度あの男に会いたい。
恩師の言葉を噛みしめ、カエレンの心は一つの決断をした。
コーヒーを飲み干し、コップで水筒に蓋をすると、カエレンはカメラを構えて、今度は山頂に積もる雪に目線を向けた。ファインダー越しに見える景色は、爽快なほど清らかで、カエレンの心の淀みを綺麗に洗い流していく。遥か遠くまで続く白い峰の連続を、飛び石を跳ねて渡る子供のような気持ちでたどりながら、カエレンは力を込めてシャッターを切った。
モニターに映し出された一枚は、はっきりとした輪郭でナイム山脈の姿を捉えていた。時代が変わり、制度が変わり、人々の価値観がいかに変わっても、微動だにしない沈黙の意志そのものだった。そして不規則に並ぶ白い点たちが、これから進むべき道のマイルストーンのように、カエレンには見えた。
群れを率いていた一羽のメロディスが、何かを悟ったかのように長く鳴いた。その声明はこだましながら伝播し、辺り一面に届けられた。カエレンが時計を確認すると、時刻はちょうど12時だった。
モバイルが、嫌な振動パターンで震えた。正午ちょうどに送られる、Refrayの定期通知である。このアプリは、一日に三回レフ・スコアを知らせるように開発されていた。全ての国民がインストールを義務付けられており、設定を変更することはできない。勿論、定期通知だけでなく、いつでも自身の”徳点”を表示することができ、それゆえ、自らのレフ・スコアを過度に確認してしまう若者たちが、社会問題にもなっていた。通知に反応を示さないことも、レフ・スコアを下げることになるという、まことしやかな噂があるほど、人々の神経はその評価に敏感になっていた。
VIRDOMというRIX専用のウォレットでログインをして、カエレンは通知を開いた。半透明の淡い青線が、上下しながら波打っている。過去一ヶ月の履歴に表示を変えると、それは明らかな下降線を描いていた。カエレンはすぐに画面を閉じた。今の自分には確固たる道標がある。実態のない判断基準など、今のカエレンには無用の長物だった。
それから1時間、カエレンはシャフル・アルクの風景を焼き付けるようにシャッターを切り続けた。男に会うために、過去の街への旅を決意したカエレンは、この豊かな自然がすでに名残り惜しくなっていた。
今いる場所をしっかりと把握してこそ、過去へと遡ることができる。そして、これまでの歩みを振り返ってからでも、先へ進むのは遅くない。背負っていた荷物を肩から下ろしたように、カエレンの心は軽かった。そして、今その荷物の中身を一つ一つ丁寧に確認しようとしている。ユルマジーンのように、何かが変わり始めているのかも知れない。カエレンはそんな気配を感じていた。