第6話 鐘の音《適切な判断を求めます》
カエレンの周囲が騒がしくなり始めたのは、バシュカールのローカルメディアがライリア事件に関して報じてからだった。
この国のメディアは、誰かの行動や発言を暴き立てるような報道はしない。それが徳の定義の線引きと紙一重だと考えられていたからだ。レフ・コデックスのアルゴリズムはブラックボックスであり、それを受けてE.V.E.は常に自律学習を続けている。その不透明さが、人々に必要以上の自制を癖づけていた。ライリア事件とカエレンの反応を伝える配信レポーターの話し方も、一見すると確かに取材にもとづいた事実だけを並べているだけのように聞こえた。しかし、意図的な抑揚の僅かな不自然さには、カエレンの行動に対する批判が明らかに含まれていた。
最初の報道は事件から約一ヵ月後。カエレンたちの小学校の、正門前からのライヴ配信だった。
「皆さん、こんばんは。バシュカール・ナウのレイフ・カルヴァーンです。本日はトゥルマ湖からほど近いアスマネ・カブード小学校からお伝えします。
およそ一ヵ月前、この学校に通う一人の女子生徒に悲劇が訪れました。この女子生徒は、自宅の庭に掘られた穴に埋められる形で発見されました。死因は、頸部圧迫による窒息死と発表されております。現在、当局は父親であるサリーム・ザフラーナ氏を殺人容疑で拘束しており、事件の詳細について捜査を進めています。
また、母親であるハニーヤ・ザフラーナ氏は、事件当日の早朝、自ら命を絶ったとされており、この家族に何があったのか注目が集まっています。
さらに、発見された彼女の遺体は激しく焼かれており、その理由に関しても解明が待たれます。
本日は、この学校の校長を務める男性の対応についてもお伝えします。
この男性が、事件後複数回、拘束中のサリーム・ザフラーナ氏の元を訪れていたことが確認されています。教育関係者の中からは
“遺族に寄り添う姿勢として理解できる”
という声がある一方で、
“殺人容疑者を支持するかのような行動ではないか”
と懸念する保護者もおり、地域の混乱は広がり始めています。バシュカール・ナウでは、引き続き事件の推移を見守ってまいります。こちらからは以上です」
この映像は州都バシュカールのみならず、瞬く間にシャフル・アルク州全域に拡散され、住民たちの好奇の目が、カエレンに集まり始めていった。
報道から数日後、混乱はさらにフェーズを上げることになった。
放課後、数人の教師が残る職員室で、カエレンは、タブレットに通知を残している、事務室からの書類に目を通していた。備品購入にまつわるものや、修学旅行に関する予算の試算表など、多くは学校運営に関わるものだった。一つずつ丁寧に読み込み、形式ばって設けられている署名欄にサインをしていった。
カエレンが最後の書類に目を落とした時、ポケットの中でモバイルが振動し始めた。
こんな時間にかけてくるのはナリアくらいだろう。
カエレンはタブレットを机の上に置き、右手でモバイルを取り出した。表示された発信元は、予想に反して事務長のタミールだった。
「校長先生。お忙しいところすみません」
「事務長、どうしましたか?」
タミールの声色が緊張していることで、カエレンは僅かに身構えて尋ねた。
「これから事務室までお越しいただけますか?」
言葉の向こう側で、騒ぎ立てるような誰かの声が聞こえる。
「数人の保護者の方々が、校長に会いたいと仰ってまして」
「分かりました。すぐ向かいます」
そう返事をして、カエレンは通話を切った。
騒ぎの原因が先日の報道だということを、カエレンは直感した。あれからサリームとは週に一度面会している。サリームの両親とも会い、弁護士の手配や、無人となったザフラーナ家の自宅の処理など、今後について話し合っていた。カエレンの正義はサリームの犯行を未だ仕分けられずにいたが、自身のサリームへの姿勢が間違っているとも思えなかった。諦念と懺悔に悶えるサリームに、カエレンができることはただそれだけだった。そんな夫の姿を、ナリアは静かに見守っていた。
事務室のある一階まで降りると、廊下の先に数人の保護者たちが立っていた。
「校長先生!」
駆け足で近づくカエレンを見つけ、複数の保護者が叫ぶように声を放った。不思議とカエレンに戸惑いの感情はなかった。一方で、集まっている大人たちは不安と焦燥に駆り立てられているように見えた。
「皆さん、どうか落ち着いてお話しください。校内にはまだ残っている生徒もいます。声を張り上げると子供たちが驚いてしまいます」
カエレンは先ず、ざわつく大人たちに少しばかりの配慮を求めた。自分たちの無自覚で軽率な狼狽を指摘され、保護者たちは一定の分別を取り戻したようだった。
「校長先生。先日ニュースでこの学校が取り上げられたことはご存知ですよね?」
保護者たちを代表するかのように、一人の女性がカエレンに問いかけた。
「はい、勿論存じてます。映像もアーカイブで拝見しました」
カエレンは静かな口調でそう答えた。
「ここの生徒が父親に殺されたっていうのは本当なんですか?しかも、校長先生はその父親と頻繁に会われているらしいじゃないですか?」
今度は集団の後方にいた男性が質問を投げかけた。
「はい、そうです。全てあの報道の通りです」
大人たちは顔を見合わせ、互いの困惑を確かめあった。だが、彼らの困惑は一様ではなく、驚きや失望、さらには軽蔑といった、様々な感情が作り出すものだった。
また別の男性がカエレンを問い質す。
「そんな勝手な行動が許されるんですか?何よりも先ず早急に説明会を開いて、私たち保護者に報告するのが先決ではありませんか?」
「私はそのような機会は必要ないと考えました」
カエレンの返答に、大人たちの様子は困惑から憤りへと気配を変える。
「それはあなたが自分のレフ・スコアだけを気にしているからでしょ!」
口火を切った最初の女性がカエレンに迫る。大人たちの辛抱は長くは続かなかった。
「徳や不徳は関係ありません。ましてや、レフ・スコアを気にするなんて。私はそんな独善的な態度で、子供たちには向き合ったことはありません」
「では、私たちは蚊帳の外ってわけですね!」
「そうは申しておりません。特定のご家族の事情を詳らかにするのは、私の本意ではなかったのです。ですが」
カエレンは一度唾液を飲み込んで、説明を続けた。
「今、皆さんからそういった要望が届けられた以上、校長としての立場を明確にする必要があると思います」
カエレンが彼らの主張をすんなりと受け入れたことを、大半の保護者は安堵の表情で歓迎した。しかし、数人ではあったが、カエレンの発言をむしろ変節と捉えて嘲笑を浮かべている者もいた。
「詳しい日時は、事務室の方からご連絡いたしますので」
カエレンがその場を収めるように告げると、側にいるタミールも胸を撫で下ろしたようだった。大人たちがカエレンとの会話にそれ以上の興味を示す理由はなかった。結束していたことが嘘のように、保護者たちは散り散りになって校舎を出ていった。
早速、カエレンとタミールはカレンダーを睨みながら相談をし、保護者説明会を今週末の日曜日に開催することに決めた。教員や事務員たちには休日の出勤を強いることになるが、平日は多くの親たちが働いていることを考えると、やはりその日程が適切だという結論に至った。タミールはすぐさま事務室に戻り、案内文の作成に取りかかった。
その日、帰宅するカエレンを出迎えたのは、ナリアだけではなかった。リビングにはかつてカエレンの司法修習生時代の教官であった、エスラム・ラヴァーンの姿があった。小柄な体格とは裏腹に、”智の巨人”とは彼のためにある言葉だった。法務官の仕事に疑問を感じ始めていたカエレンに、今の校長の席を勧め、推挙してくれたのもエスラムだった。
「先生!お久しぶりです!」
恩師の思わぬ来訪に、カエレンの喜びはひとしおだった。
「近くまで来たのでね。久しぶりに顔でも見ようと思って」
確かエスラムの年齢は、80歳を過ぎて数年経っているはずである。それでも、足の裏から頭のてっぺんまで一直線に伸びる背筋と、澄んだ声で奏でる軽快な口ぶりは、カエレンが出会った頃とまるで変わっていなかった。彼はいつもカエレンたちを気にかけ、こうして自宅を訪ねてくることも度々あった。
ナリアがキッチンに立ち、三人の食事の準備を始める。カエレンはエスラムと直角に向かい合うように、ソファーの短辺側に腰を下ろした。
「何やら、妙な空気になってきたようだね」
例の動画を見たのだろう。世の中の風潮、人々の心の移ろいには、エスラムは昔から敏感だった。そして意見や説明ではなく、感想から話し始めるのが彼のいつもの癖だった。
「ご心配をおかけして、申し訳ありません」
カエレンの胸には、エスラムの存在にどこかすがりたい気持ちと、わざわざ会いにまで来てくれた彼の厚意への心苦しさとが、綯い交ぜになって溢れていた。
「いいんだ、いいんだ。それで、君はどう考えているんだい?」
エスラムのいつもの早口が、少し速度を落とした。
「自分でもまだ分かりません。今日の放課後、保護者の方たちが数名で私を訪ねて来まして、説明会の開催を求められました。あんな報道があった以上、私もそういう場は必要だと判断しました」
「そうかい。それで、それはいつ開かれるんだ?」
「今週の日曜日に決めました」
カエレンの返事を聞くと、エスラムはソファーの前の暖炉の炎に視線を移した。燃え上がる薪が、時折ぱちんと弾けるような音を立てた。
「やはり、あの事件を思い出すかい?」
エスラムの言葉は、灰化の儀事件を指している。
「そうですね。経緯は全く異なりますが、肉親への意識の傾け方が、どうも似ているように思えて仕方ありません」
そう言うと、カエレンもエスラムと同じように炎の動きに目線を移した。
「そろそろ君も、立ち止まってもいい頃合いだよ」
そう呟くエスラムの口調は、まだ落ち着いた速度のままだった。
「立ち止まる、ですか?」
「気になるなら、徹底的に向き合うことだ。その当時の自分さえも対象にしてね」
エスラムはカエレンに視線を戻し、最後にこう付け加えた。
「どこかに、掬いきれなかった思いが残っているはずだ。その思いを根こそぎ拾って、テーブルの上に並べてごらんなさい。もしかしたら、真実が別の顔を見せるかも知れないよ」
その言葉をカエレンは噛みしめるように胸に刻んだ。
「分かりました。そうしてみます」
カエレンが静かに返事をすると、エスラムは微笑みながら頷いた。
「さてさて、今夜はナリアくんの料理を楽しみにしてきたんだ」
エスラムは膝を叩いて立ち上がり、嬉々とした調子でそう言った。やはり早口がこの老人には似合っていた。三人は食卓を囲み、久々の再会に時を忘れた。




