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Last Update~善vs善vs善vs善vs善…~  作者: 大館敬
第1章 【ライリア事件】
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第5話 バルシュの夜《休息サイクルが不安定です》

サリームとの面会を終えて校舎に戻ってみると、ザフラーナ一家に何が起きたかを知る者はまだ限られているようで、生徒たちは普段通りに過ごしていた。事件の真偽を確かめる問い合わせが複数の保護者から入ったようだが、事務長のタミールがその慎重な性格を活かして、うまく応対してくれたようだった。


教員たちも、ひとまずの落ち着きを取り戻し教壇に立っていた。それぞれのクラス終礼が終わり、全教員が職員室に戻ってきたタイミングで、カエレンは改めて、勝手な憶測で行動しないように伝え、さらに、混乱を避けるためにも、事態の把握と対応は自分に一任してほしいと教師たちに理解を求めた。


カエレンはいつもより早めに校舎を出て、もう一度サリームのいる第8治安センターに赴いた。朝の面会では、事件の真相を聞くばかりで、中での生活で必要なものや、当面カエレンが力になれることがないかなど、肝心なことを尋ねることができなかった。


しかし、窓口に座る今朝とは別の署員は


「J-CODEに登録されている認証法務者であっても、接見できるのは週に一度だけです。また来週お越しください」


と断固とした口調で、カエレンの要求を突き返した。


そんな規定があっただろうか。


重要事案で逮捕された被疑者への接見を、家族と認証法務者に限定する条文の存在を、カエレンはこの時すでに思い出していた。だが、その頻度まで定められていたかどうか、カエレンは自信がなかった。それでも、治安センターの署員が法律や規定を都合よく解釈するような真似はしないだろう。カエレンがしつこく要求を続けることは、望ましい態度とは言えなかった。


カエレンが帰宅すると、ナリアはソファーで読書に耽っていた。足元にはバルシュがくつろいでいた。


「あら、今日は早く帰れたんですね」


本を閉じて立ち上がり、急いで夕食の支度を始めようとするナリアを、カエレンは呼び止めた。


食卓に向かい合って座り、カエレンは今朝ザフラーナ夫婦が起こした事件について、ぽつぽつとナリアに話し始めた。あまりの出来事に、ナリアの動揺は滲みながら広がった。カエレンの苦悩に満ちた言葉を、遮ることなく聞き終えると、ナリアは最後に両手で顔を覆って涙を隠した。


その夜、カエレンはなかなか寝つくことができなかった。毛布を顎の位置までたくし上げ、天井のサーキュレーターをただぼんやりと眺めていた。隣のベッドでは、ナリアが何度も体の向きを変えていた。くるくる回る四つの羽は、整理しきれず渦巻くだけのカエレンの頭の中を象っているようだった。


遠くの方から、微かにモーター音が聞こえてきた。徳性調査ドローンに昼夜はない。窓の外まで近寄ってきた一機のドローンが、二人の様子をスキャンし始めた。勿論、カーテンは開け放ったままだった。


中央のレンズから薄い緑色の光線が扇状に放たれ、上下左右に照準を移しながら空間を捕捉する。


夜の静寂を切り裂くような光も、今となっては日常の光景だった。カエレンやナリアが反応することはない。その飛行体が仕事を終えるのを、ただじっと待つだけだった。


スキャニングレーザーが消え、徳性調査ドローンは、次の対象物を求めて闇の中へと消えていった。


カエレンは、ある一つの裁判を思い返していた。すると、リビングにいたバルシュが、大きな体を揺らしながら寝室に入ってきて、カエレンのベッドに機敏な動きで飛び乗った。そして、両足を器用に折りたたみ、カエレンの腰の辺りで静かに丸まった。


今、カエレンの脳裏に浮かぶその裁判こそが、長年連れ添ってきたこの老いたジャーマンシェパードを引き取るきっかけだった。自らの下した判断に葛藤するカエレンを見かねて、ナリアが保護犬のバルシュを連れて帰ってきたのである。


その事件は今からちょうど20年前。カエレンが地方法務官としての任を終え、経済の中心地である第2管区、現在のヴァルディーン州の地方法務管区裁判所に移って、三年目の春を迎えた頃のことだった。


第2管区の区都であるカルミスタンは、この国最大のビジネス街だった。国内の全ての富が集まり、経済的利益の追求だけが、この土地に住む人々の行動原理だった。多くの高層ビルが立ち並び、スーツに身を包んだ男たちが時間を惜しむように行き交う。夜の歓楽街は、派手に着飾った若者たちで溢れかえっていた。彼らはレフ・スコアなど気にも留めない。RIXではなく、法定通貨のカラルで儲け、カラルを浪費する。カラルで家を買い、カラルで人を懐柔する。それがこの街の常識だった。


ハティブ=ナウル教義派の信者たちは、そんな煌びやかな街で息を潜めるように暮らしていた。


当時32歳だったカエレンは、ある男を被告人とする殺人事件の裁判を担当することになった。審理するのは5人の判事で、カエレンはその中で最年少だった。起訴されてきたのは、どこにでもいるごく普通の男だった。年齢は55歳。妻はおらず両親との同居生活だった。

彼の一族は、ミザル教の中でも傍流的宗派である、ハティブ=ナウル教義派の信者だった。彼らの教義には、男性は80歳を迎えると肉体が灰化すると定められていて、その肉体に魂が宿ることは決してない。そして、灰と化した肉体を晒すことは、彼らの信じる神の目を汚すことになると信じられていた。そのため、80歳を迎えた男性は、自死によって土に還り、最後の祈りを全うするべきであるという、過激な教えが存在した。


カエレンが先ず驚いたのは、灰化の儀と呼ばれるこの慣習を、行政当局ですら全く把握していなかったことだった。


いつから始まり、何人の男が自ら命を絶ったのか。


宗派の導師たちですら答えられなかった。それは、この教義に背いた者がただの一人もいなかったことを意味していた。カエレンは審理前資料を読みながら、背筋が凍る思いだった。

事件の被害者は、その男の父親だった。80歳を迎えた日の夜に儀式を執り行うのが通例だったが、男の父はそれを拒んだ。病や老衰ではなく、なお明瞭な意識を保ったままで自分で自分を抹殺することは、それこそ生を与え給うた神の意志を冒涜することだと言い放ったという。


その生涯を通じて、教義の教えを厳格に貫いてきた父が、晩年に差しかかってその道を自ら外れようとしている。衰えたその肉体は穢れ、少しずつ腐臭を放ち始めているように息子には感じられた。長年、敬慕してやまなかった父の姿が、いまや失望の対象へと変わりつつある。嘆きの中で息子は、自分の部屋から猟銃を持ち出し、教典を唱えて祈祷を行う父の後頭部に、神の名を借りた銃弾を撃ち込んだ。それは信仰によって課された務めであると同時に、父の尊厳を護るための行動であると、男は心の底から信じていた。


勿論、オルディナ共和国の当時の体制である、サラム=ハディーン連邦政府は信仰の自由を認めていた。しかし、それはあくまで法律を遵守する上での権利であり、いくら教義の中で正当性の余地があろうとも、この男の犯行が連邦刑法典第78条の殺人罪に該当することは明らかだった。


さらに男の供述は、自身の行為は善行であると主張はするものの、犯行自体を否定するものではなかった。法律上の解釈で言えば、それは容疑を認めていることになる。猟銃を握りしめたまま現行犯逮捕されている事実も踏まえると、難しい審理にならないだろうとカエレンは楽観視していた。


しかし、裁判は第一回目の公判から紛糾することになる。ハティブ=ナウル教義派の統主が、この男の行為を信仰に忠実な浄行であると主張、称賛し始めたことで、彼を支持する多くの信者が法廷に詰めかけた。被告人の立場を守る弁護人すら、この宗派に属する人間が請け負い、殺人罪の適用を認めながらも無罪を主張するという、荒唐無稽な弁論を展開するのだった。


信仰の自由と法律による正義が、交錯する裁判だった。


検務側、弁護側の最終弁論を終え、裁判は判決を言い渡すための最後の公判を残すばかりとなった。5人の判事による評議において、カエレンは迷い葛藤しながらも、その息子を殺人罪によって有罪とし、量刑は検務官が訴える満期の15年ではなく、10年程度が妥当ではないかと主張した。父親を憎んでの犯行ではない。そんな息子の、父への歪んだ敬意を考慮した折衷案だった。そして、判決はその通りに下された。


しかし、その数日後。被告の弁護人と宗派統主の手によって上告が申し立てられ、審議の場は中央大法廷へと引き継がれることとなった。結果、上告審でもカエレンたちの判決がそのまま採用され、55歳の男の有罪は確定し、10年の懲役が課せられることになった。


当時、一部のメディアがこの裁判について報道したことで世間の耳目を集めたが、難解な法解釈と教義の特異性に、人々の興味が長く続くことはなかった。カエレン自身も、次々と舞い込んでくる事案への対処に忙殺され、中央大法廷の判断結果こそ注視していたものの、審理の詳細な流れまでは追うことはできなかった。


当時の葛藤は、今でも小さな棘としてカエレンの心に引っかかっていた。


今思えば、折衷案とは言い訳に過ぎず、とどのつまり自分は正しさの定義から逃げただけではないのか。

息子である男が貫いた善は、本当にただの詭弁でしかなかったのだろうか。

そして今朝、苦しむ娘を少しでも楽にさせてあげたいという、サリームの心情にも誰かを慮る愛情の一端はないのだろうか。


二つの事件がどこか通底しているようで、突き刺さった棘が古傷のように疼き出していた。


「眠れませんか?」


ナリアがカエレンの方に体の向きを変え、話しかけてきた。


「そうだね」


カエレンはそっと返事をした。


「また、あの事件を思い出してしまってね」


「悲しい出来事でしたね」


「あの時判断を下す私の心に、一点の曇りもなかったかどうか今でも自信がないよ」


自らの本音を吐露するカエレンの言葉に


「あまり自分を責めすぎないでくださいね。神さまだって完璧じゃないんですから。人は誰でも彷徨いながら生きていくものです」


ナリアは宥めるように応えた。


ナリアはいつもそうだった。何事も受け入れるところから出発する。彼女の慈愛に満ちた心の奥深さに、カエレンはこれまで何度も救われてきた。


バルシュが鼻を鳴らして、甘えるような声を漏らした。どちらかというとナリアの方に懐いていたが、今夜はなぜかカエレンに寄り添っていた。


「少しでも目を閉じて、休んでくださいね」


「ああ、分かったよ。ありがとう。私のことはいいから、ナリアも眠りなさい」


「ありがとうございます。おやすみなさい」


とても短い会話だったが、今のカエレンには十分すぎる鎮痛剤だった。ささくれだった心の傷に塗り込まれたナリアの優しさは、患部にじんわりと浸透していき、痛みをゆっくりと和らげてくれる。


瞳を閉じてみると、なんとか気持ちの居場所が見つかり、カエレンは少しずつ夢の世界へと引き込まれていった。


バルシュがもう一度鼻先で鳴いた。それはまるで、やっと主人への心配から解放され、心置きなく眠りにつける安堵の合図のようだった。

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