第4話 流れ込む微風《情緒の乱れを感知しました》
その古びたエレベーターは、地下一階で扉を開けるまで物音一つ立てなかった。
最初にカエレンの目に飛び込んできたのは、フロアの真ん中に佇むガラス張りの筒状の部屋だった。それが、おそらく監視ステーションなのだとカエレンは思った。
いわゆる監務官というのが、彼らのことだろう。三人の男たちが、360°ガラス越しに目を光らせていた。その監視ステーションを取り囲む形で、四方の壁には無数のセルが等間隔に並んでいる。エレベーターから伸びる通路も、ちょうど二つのセルの隙間を縫うように設けられていた。
案内役の巡査官がここでも先を歩き、監視ステーションのところまでカエレンを連れてくると、なぜか監視ステーションの中に入り、男たちと言葉を交わし始めた。彼らが時折笑顔になる様子は談笑と呼べるほどのもので、カエレンの緊迫した表情だけが、場違いな異物のように浮いて見えていた。
「あとは、こちらの係の者と話してください」
部屋を出てきた巡査官の男はそう言い残して、その場から去っていった。
カエレンが改めてその監視ステーションに目をやると、中央にタッチパネルのようなものが設置されているのが分かった。一人の男がそのタッチパネルを指差し、カエレンに前まで行くように指示してきた。
パネルには
”右手の手のひらを置いてください”
という、無機質な文字が浮かんでいる。カエレンがその通り右手をそえると、タッチパネルは赤く光りスキャンを始めた。数秒でその色が青に変わると、骨伝導で中の男の声が聞こえ始める。
「カエレン・ヴォルダスさん。サリーム・ザフラーナとの面会を希望ですね?」
静かな問いかけに
「はい。そうです」
とだけカエレンが答えると
「お手数ですが、もう一度J-CODEの登録番号をお願いします」
と男は言葉を続けた。司法試験に合格した者だけに割り振られるその識別番号を、再度頭に思い出してカエレンが伝えると
「ありがとうございます。確認できました」
そう言って目の前にあるモニターを眺めながら、監務官の男は頷いた。
「お話しできるのは、15分だけです。それ以上は認められません。時間がくればお知らせに行きます」
男は接見規定に関しての説明を始め、最後にこう付け加えた。
「サリーム・ザフラーナはL7064のセルにいます。右側を進んでいけば、すぐに見つかります」
やり取りが終わり、カエレンは案内された通路に足を進めた。
これまで、カエレンは容疑者と呼ばれる人たちと数多く顔を合わせてきた。しかし、それは聖域である法廷でのことで、そこでは彼らの命の温度は感じられても、拘束された状態で沈殿する生活の息吹きまでは感じることはできない。カエレンが留置所や拘置所に身を置く誰かに会うことはこれまで一度もなく、独特な空気の淀みが全身にまとわりついた。
L7061のセルの前を通り過ぎる。告げられた番号はもう目の前だった。口の中の唾液が徐々に消えていき、カエレンは渇きを覚え始めていた。
何を話すためにここへ来たのだろう。
一体、何を知ろうというのか。
カエレンは歩みの中で、自問自答を繰り返していた。
サリーム・ザフラーナは確かにそこにいた。学校行事などで数度顔を合わせたことがあるだけだったが、その顔は間違いなくサリーム・ザフラーナのものだった。
「ザフラーナさん⋯」
声にならない声が、思わずこぼれた。
膝を抱えて、壁にもたれながら床に座るサリームの顔面には、いかなる感情も宿っていなかった。サリームのそんな姿を捉えたカエレンの瞳は、まるで呪いをかけられたかのように硬直し、外視野には何も映っていなかった。ただそこに、枯れ木のように存在する一人の男だけが、カエレンの視界の全てだった。
突然、サリームが顔を上げた。
予期せぬ来訪者にも、サリームの心は一切の動きをみせない。茫然自失となり動きを止められたカエレンの感情と、存在すらしないサリームの感情は、似て非なる対峙だった。
二人の間の空間を、冷酷なまでに断絶するガラス張りの壁。カエレンは両足を引きずって、引き寄せられるようにその壁に近づいた。ガラスの中央に、さっきと同じ黒光りするタッチパネルが据えつけられている。
ここに右手を置けば、窓のルーバーが風を拾うように、二人の間に僅かばかりの空気が流れるのは分かっている。それと同時に、サリームとの間に流れる微風が、先ほどの監務官との会話とは全く異なるものになることも、カエレンは想像できた。それがゆえに、カエレンの右手が即座に動くことはなかった。
制限時間は刻一刻と消えていく。頭の片隅では、それもちゃんと分かっている。けれども、サリームと繋がることがただ恐かった。
壁に張りつき、見つめるだけのカエレンに、サリームの空虚な目線が注がれている。
だが、先に動き出したのはサリームの方だった。含みのない、けれどもどこか儚い微笑みが顔全体に広がり、サリームはゆっくりと立ち上がった。
サリームの心の欠片を垣間見たことで、カエレンの心の呪縛も少しばかり緩んだように思われた。サリームが壁際にたどり着く前に、何か話しかけなければならない。カエレンはなぜかそんな気がして、やっと右手をパネルにあてた。
「ザフラーナさん!」
今度ははっきりと、そして力強く、カエレンはサリームに呼びかけた。
「校長先生。来てくださったんですね」
小さな声ではあったが、その言葉は確実に感情をまとっていた。サリームは微笑みを崩さなかった。
「どうしてこんなことに⋯」
カエレンはうまく話せなかった。何をどう語りかければいいのか。まだ頭の整理がうまくできなかった。しばらく続いた沈黙を破ったのも、やはりサリームの方だった。
「校長先生は確か、元判事さんでしたよね?」
予期せぬサリームの問いかけに、カエレンは頷くことでしか返事をすることができなかった。
「いえ、ここに入る時、今後一切誰とも会わせないと、かなりしつこく言われたもので。元判事の校長先生なら会わせてくれるのですね」
サリームはそう言うと、僅かばかり目を伏せた。
「判事さんだと、これまでたくさんの罪人と向き合ってこられたんでしょうね」
罪人という言葉をサリームは使った。
カエレンが覚えている限り、サリーム・ザフラーナはその民族的系譜を継承して、瞑想を信仰の中心に据え内省的沈黙を重んじる、ミザル教のハズィル教義派の信者のはずだった。とりわけ、サリームはその中でも敬虔に教義を信奉していると、いつだったか誰かの話で耳にしたことがある。
彼の発する罪人という言葉は、犯罪者という言葉と決定的に何かが違う。サリームは無意識にそれらを使い分けているのかも知れないと、カエレンは思った。
「私は神の御心を裏切りました。それも最愛の娘であるライリアの命を奪うことで⋯」
淡々としたサリームの告白が、何かの間違いであってくれと願っていたカエレンの淡い期待を打ち砕いた。
「そう仰るなら、なおさら⋯」
カエレンはやはり、言葉を最後まで連ねることができなかった。サリームは視線を下に落としたまま、ありのままの真相を話し始めた。
「もう、どうにもならなくなっていたのです。お恥ずかしいことですが、私たちの境遇では、恵まれた職業に就くのはかなり厳しいです。今の仕事を通じて受け取る私の賃金だけでは、家族三人、暮らしていくのがやっとでした。そうなると、足りないお金はRIXで補うしかありません。妻のハニーヤとともに、時間を見つけては慈善活動に参加し、他人には親切に振る舞うように努め、レフ・スコアを上げることだけに心血を注いでいました。実際、E.V.E.が求める行動規範は、私どもの教義とも大きく外れることはなかったのです。それをいいことに、私たちは偽善者として表面的な徳だけを積んできたのです」
ザフラーナ一家の過酷な生活が、これほどまでとは夢にも思わなかった。サリームの口調は、単純に事実だけを列挙しようとしている。その口ぶりは、彼自身の懺悔すらを辛辣に批判しているように聞こえた。
「”205✕520”は、そんな私たち夫婦に下された神からの罰なんです。ライリアは先天的な免疫疾患を持っていました。薬を飲んでいないと体温調節がうまくできず、体中の細胞が次々と死んでいってしまう、そんな病気です。RIXが大幅に価値を下げ、RIXでまかなっていた彼女の薬代が、手の届かない額になってしまいました。家族や友人にお金を借りながら、なんとかここまでやってきましたが、もう限界でした。高熱でうなされる彼女を前に、私と妻はなす術がなくなったのです」
サリームは、そこまで話すとゆっくりと顔を上げ、カエレンをしっかりと見つめた。苦渋に満ちたサリームの両眼は、溢れる涙をせき止められていなかった。
「そして昨日の深夜。いや、もう今日の朝早くだったかも知れません。夢の中でも呻き声をあげるライリアを見て、私と妻は同じ穴から地獄へと落ちました。妻は静かにライリアの鼻と口を押さえ、私はライリアの首を両手で絞めつけました。10歳の女の子の首周りは、私のような男の両手だと十分どころか余ってしまうのですね。呼吸を奪うのに苦労は要りませんでした」
「そんな⋯」
思わず口をついたカエレンの呟きは、衝撃的な悲劇の全容の前に全くの無力だった。サリームの涙はすでに頬まで達していたが、それでもサリームが言葉を詰まらせることはなかった。
「私たちは教義に則って、庭に小さな穴を掘り、そこでライリアの遺体を火葬しました。これも死体損壊という罪に問われるのでしょうね。その時はそんなことは微塵も考えていませんでした。元の砂をライリアの体にかけながら、私と妻は穴を埋めました。そして、夫婦一緒に近くの治安出張所に出頭しようと、自宅を後にしたのです」
カエレンはその時初めて、サリームの妻に意識が向いた。
確かに彼女はどうしているのか。
今頃サリームと同じように、このフロアのどこか別のセルに、留置されているのだろうか。
「そうだ。奥さん!奥さんのハニーヤさんは今どこにいるんですか?」
自らの配慮のなさを償うように、カエレンは大きな声で尋ねた。
「彼女も死にました。出張所に向かう道中、私の目の前で車道に飛び込んだのです。思い返すと、このところ彼女はノイローゼ気味だったのかも知れません。RIX神話が破綻した”205✕520”以降、寝れない日々が続いていたようです。娘が死んで、緊張の糸が切れたのでしょう。躊躇うことなく命を放り投げました。即死でした」
なんということだろう。
自ら手をかけたとは言え、彼は一瞬にして妻と娘を失ったのである。カエレンは、もう何かを話す気力さえ失っていた。
「事故現場に駆けつけた巡査官に、余すことなく経緯を説明し、私はここにいるのです。これが私の犯した罪の全てです」
そう言うと、サリームの心の中で何かが弾けた。しがみついていた最後の理性が底をつき、サリームの体は嗚咽の中に沈んでいった。
カエレンは、立っているだけで精一杯だった。それでもタッチパネルにかざす右手だけは、何があっても離してはならない。右手にこめる力だけが、今サリームのために自分ができる唯一のことだと、カエレンは虚しい気持ちで考えていた。
なんとかその慟哭を抑えて、サリームはこう付け足した。
「どんな事情があったとしても、それは原因であって理由ではありません。いや、理由であってはならないのです。私の穢れた魂は、今裁かれることだけを求めています」
その言葉が終わると同時に、カエレンに与えられた時間が終わったことを監務官が伝えに来た。
別れの言葉など、何も思い浮かばなかった。
カエレンは促されるまま、右手から力を抜いた。何度も振り返りながら離れていくカエレンの姿を見送るサリームの顔には、先ほどと同じ微笑みが戻っていた。