第3話 始まりの奔走《対象者を多数確認》
何をどうすれば良いのか、カエレンは分からなかった。教師たちが、近くにいる者同士囁き合っている。
今は、とにかくこの学校が日常を失わないようにすること。
そして、なるべく早く状況を把握することだ。
カエレンは、取り戻した微かな理性でそう考えた。
「事務長。ザフラ-ナさんの住所を教えてください。それと」
カエレンは言葉を止めると、もう一度振り返って、動揺する教員たちに声をかけた。
「皆さん、どうか落ち着いてください。まだ、この情報の真偽は定かではありません。ただ事務長の耳に入っている以上、それが例え噂話であっても、遅かれ早かれ子供たちの耳にも入ることになるでしょう。今は先生方がうろたえないことが大切です。子供たちを安心させてください。時間割通りに、授業を行いましょう」
カエレンはそう言い残して、事務長とともに職員室を出た。
愛すべき生徒の命が消えた。何度その事実を反芻しても、心は現実を受け入れようとはしなかった。カエレンはザフラーナ家の場所を確認するために、足早に事務室へ向かった。
タミールが一人の事務員に指示を出し、生徒たちの名簿をコンピューターのモニターに映し出させた。
「ここですね」
タミールが毛深い両手で、モニターの角度を変えた。
ライリア・ザフラ-ナと書かれたページには、生年月日や住所に加えて、彼女の持つレフ・スコアの予測値が記載されていた。レフ・スコアは原則本人しか確認できないことになっていたが、レフ・スコアに応じてRIXが配給されるため、資産管理の一つとして、子供の”徳点”を親が把握するのは不自然なことではなかった。法律上、また徳性上においても容認されていた。
また、レフ・コデックスが発効されてから、多くの教育機関が生徒たちの徳性を高める授業プログラムを取り入れるようになり、任意ではあるが、保護者から学校側に生徒のレフ・スコアを提出してもらうケースもあった。カエレンが校長を務める、アスマネ・カブード小学校もその一つだった。あくまで任意による提出資料であるというのが、予測値と表示されている理由である。
自然とライリアのレフ・スコアが目に入る。それは10歳の女の子にしては、比較的高い評価と言えた。
ライリア・ザフラーナは、決して素行の悪い生徒ではない。むしろどんな時も周りのことを気遣える、とても優しい穏やかな女の子だった。レフ・スコアがそれをしっかりと証明している。カエレンはE.V.E.による査定の正確性に、何となくやり切れない気持ちになった。
それでも、すぐに目線を横にずらし、登録されている住所をモバイルに慎重にメモをして、カエレンは顔を上げた。先ほど教員たちに伝えたように、事務員たちにも動揺しないように告げ、急いで事務室を後にした。
時計の針は、8時を少し過ぎた辺りを指している。1時間目の授業までは、まだ時間があった。事務室を出てグラウンド脇の駐車場へ行くまでの間、生徒の姿は誰一人見かけなかった。朝靄が徐々に薄まり始めていた。
視界が少しずつ開けていく中、冬の空気が乾いた感触をまとって流れている。カエレンは愛車のSEYO Q2eのドアに手をかけた。
一瞬、妻のナリアに電話をかけるべきかどうか迷った。彼女も年に何度か催される行事で、ザフラーナ一家とは面識があるはずである。
自分の口からこの悲劇を伝えるべきではないか。
そして、何より今は少しだけナリアの声が聞きたかった。
けれども、カエレンがモバイルを取り出すことはなかった。詳しい情報がない中で、ナリアをいたずらに不安がらせるだけだろう。そして、何より教員たちや事務員たちに、心を強く持つように話したばかりである。カエレンの意識は、それくらいの判断ができるまでに回復していた。
車に乗り込む前に一度校舎を見上げると、さっきまでいた職員室の窓から、ユルマジーン・セフディーンが見つめていた。
「起動しますか?」
運転席に座ると、YARAがいつも通りの質問を投げかけてきた。YARAとは古いオルディナ語で”導くもの”を意味し、カエレンの車SEYO Q2eに搭載されている、共感認識型ボイスアシスタントのシステム名である。
「よろしく」
カエレンがそう答えると、車体が微かに揺れ、ダッシュボードが淡く光った。それに応じてシ-トヒーターの電源が入り、温度の上昇が始まった。
「おはようございます、カエレン・ヴォルダスさま。現在外気の温度はー6℃。凍結注意報が出ております」
YARAの口調は、いつもと全く変わらなかった。それが、心に残るざわつきを揶揄っているように感じられ、カエレンは一度大きく深呼吸をした。吐く息の白さはそこはかとなく深い。
「目的地を教えてください」
設定されている秒数が過ぎたので、YARAは次の質問に移った。そしてその言葉と同時に、フロントガラスの右隅に、現在地を赤い点で示す周辺地図が浮かび上がった。カエレンは、先ほどメモしたザフラーナ家の住所を読み上げた。一語一語読み進めるのに合わせて縮尺が変化し、最後は現在地と目的地の両方が把握できるサイズまで、地図の表示は縮小された。
「自動走行に切り替えますか?」
カエレンは両手でしっかりとハンドルを握り
「いや、自分で運転するよ」
と答えて、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
ザフラーナ家は、トゥルマ湖から見て北西部に位置する山岳地帯にあった。このエリアが、ある少数民族をルーツに持つ人々の居住地域であることを、カエレンは知っていた。標高が上がり気温が少しずつ下がっていくにつれて、周りの景色が如実に寂れていく。人通りもまばらな旧道は、整備が行き届かず凹凸だらけで、SEYO Q2eのサスペンションが激しく上下に振れていた。
荒れた坂道をしばらく進むと、この街を覆っていた不気味な沈黙をかき消すような人だかりが、視界に飛び込んできた。ざわめきと混乱を滲ませる集団の中で、赤色灯がいくつも激しく回転していた。上空では数機のドローンが旋回しながら、騒ぎの様子を窺うように見下ろしている。本来は徳性の動向だけを感知するはずが、まるで混乱に惹かれるように群がっていた。
フロントガラスに表示された地図は、その騒ぎの中心を目的地として青く示していた。やはり、ライリアの家族に何かあったことは間違いないらしい。
カエレンの心拍は僅かにテンポを上げた。少し手前に空き地のような空間を見つけ、カエレンはそこに車を停めると、一目散にザフラーナ家へと走った。民族衣装をまとった30人ほどの野次馬に、複数の巡査官が目を光らせている。庭先の門扉には規制線が張られ、厳重な現場保存がなされているようだった。
「すいません。通してください」
カエレンは右に左に声をかけながら、少しずつ前へと進んでいった。やっとの思いで人だかりの先頭までたどり着くと、目の前に立っている巡査官と目が合った。その瞬間を逃すまいと
「何があったんですか?教えてください!」
とカエレンはその巡査官に声をかけた。
「駄目駄目。何も話すことはできませんよ」
巡査官の男は、野次馬の整理にうんざりした様子で、カエレンから目をそらした。決して広いとは言えない庭先には、黒ずんだ小さな穴が掘られていて、その四隅には細長い銀色の支柱が立てられていた。それぞれの支柱は膝ほどの高さで、頂点には微かに発光するリング状のセンサーが取りつけられている。
元判事であるカエレンは、この装置がサイト・スキャンピラーと呼ばれるものであることを知っていた。四本で一つのユニットとして作動し、センサーによって形成された面の上下に広がる空間を、物理的接触なしに分析、可視化できるものである。四つのほのかな灯りが、カエレンにはまるで祭壇を照らす蝋燭のように見えた。その光景を前に、何か恐ろしいものを見てしまった感覚が湧き上がり、全身に鳥肌が走った。
「どうか、一つだけ教えてください。ライリアちゃんのお父さん。サリーム・ザフラーナさんは今どこですか?」
周囲を見渡していた、先ほどの巡査官にすがるように尋ねると、男はカエレンを一瞥し煩わしそうな態度で答えた。
「全くしつこいな、あんた。第8分署だよ」
カエレンたちの暮らす街バシュカールの第8治安センター、通称第8分署にサリームはいるという。
「ありがとうございます」
カエレンはお辞儀をしながら謝意を伝えると、踵を返して集団の外へと抜け出した。登ってきた旧道を戻り、トゥルマ湖の北側まで車を走らせる。そして、山並みに沿うような形で伸びる蛇行道に入り、いくつかのカーブを抜けながら15分ほど進むと、第8分署が姿を現した。
なぜ、こんなことになってしまったんだ。
行き場のない悲しみが、カエレンの胸をつく。少しずつ現実味を帯びてくる世界に、カエレンは絞めつけられるような息苦しさを感じ始めた。駐車スペースに車を残し、カエレンは一歩ずつ治安センターに入っていった。扉を抜けた正面に総合窓口があり、一人の小柄な中年女性が座っていた。彼女の服装は、ザフラーナ家の前に群がっていた人々のものと、どことなく似ていた。
「私の知人が逮捕されてしまったらしいんです。こちらにいると聞いたのですが」
カエレンの言葉に、その署員は
「面会をされたいと?」
と無愛想に聞き返してきた。カエレンは
「そうです。サリーム・ザフラーナと言います。是非、会わせてください」
と焦る気持ちをそのままに、署員の女に告げた。
「サリーム・ザフラーナさんね」
女は、側に置いてあるコンピューターで名前を検索し、表示された情報に目を通すと、カエレンに向かってこう言った。
「すみません。この方との接見は特別な人以外は認められておりません」
「特別な人というのは、どういう意味ですか?」
カエレンが食い下がると
「ご家族の方か、弁護士の方。もしくは、それに準ずる資格をお持ちになっている方のみになります」
「でしたら、大丈夫です。J-CODEに記録された法務者経歴を確認してみてください。私はカエレン・ヴォルダスと言います。登録番号027-931-2117。20年間、判事を務めていました」
「少々お待ちください」
迫るような口調で話すカエレンの様子を気にも留めず、その署員は淡々と両手を動かすだけだった。はやる気持ちだけが、カエレンを突き動かしていた。
「確認できました」
署員はそう言うと、小さなタブレットを差し出し、必要項目を入力するように求めた。カエレンは、一文字一文字間違えないように慎重に指を動かした。その手はすでにうっすらと汗ばんでいた。最後にもう一度内容を確認して、カエレンはタブレットを署員に返した。
「では、あちらでお待ちください。担当の者がご案内します」
女は入口近くにあるベンチを指差し、カエレンにそう告げた。指定された場所に腰を下ろし、カエレンはその時を待った。
様々な想像が頭の中を目まぐるしく駆け巡る。悪い方向にばかり意識が向こうとするのを、カエレンは必死に止めていた。
まだ何も分かっていないじゃないか。
今は先ずサリーム・ザフラーナと会って、彼の口から事の成り行きを聞こう。
それまでは何を考えても無意味じゃないか。
カエレンは何度も言い聞かせるように、頭の中をリセットし続けた。
10分ほど待っただろうか。体格の良い、いかにも巡査官といった屈強な男が、カエレンの前に現れた。
「カエレン・ヴォルダスさんですね?」
「はい、そうです」
男の問いかけに、カエレンが立ち上がりながらそう答えると、巡査官は後についてくるようにカエレンに促し、前に立って歩き始めた。
署内はどことなく薄暗く、カエレンの心をより沈ませる。引き連れられてエレベーターに乗り込むと、男が地下一階のボタンを押した。そこがおそらく留置フロアなんだと、カエレンは簡単に想像できた。