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Last Update~善vs善vs善vs善vs善…~  作者: 大館敬
第1章 【ライリア事件】
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第2話 教師たちの月曜日《ご意見は記録されました》

カエレンが校長を務めるアスマネ・カブード小学校は、自宅から車で20分ほどの距離にあった。トゥルマ湖の東岸沿いに伸びる国道をしばらく走ると、右手に市街地が見えてくる。メイン通りに入って少し進んだところに、その小学校はあった。


カエレンは、いつもと変わらず朝7時きっかりに校舎へ入り、昨晩自宅でまとめた職員会議用のメモにもう一度目を通していた。


カエレン専用の校長室は存在しない。学校やオフィスに限らず、自宅やレストランにおいても、個室の設置は推奨されていなかった。万が一、窓越しにドローンのスキャンが始まってしまうと、部屋に一人でいる状態は他者との関係が希薄だと評価され、レフ・スコアに悪影響を及ぼすと言われていた。自らの子供が通う、学校の校長の”徳点”が低いとなると、気が気じゃない親たちもいるだろう。そんな親心に配慮し、カエレンは他の教員たちと肩を並べて職務をこなしていた。


先週一週間、校内で起きた出来事の中で、カエレンが全教員で把握すべき、もしくは議論をすべきと感じた事柄を、箇条書きにして紙一枚にしたためたもの。これをメニューとしてカエレンが議長となり、毎週月曜日の朝8時から9時までの1時間、全教員が顔を合わせることになっていた。


カエレン個人が、意見や方針を主張したり、総意の形成を促すことはない。参加する全ての人間が自由に発言をし、解決できるものは皆の力で対策を練る。そうでないものは、どこに認識の違いが生まれているのか熟議を尽くして、最後は違和を違和として受け入れる。


”人を作る”立場にある者には情熱と寛容が必要であると、カエレンは考えていた。その信念が、自分の元判事としての経歴から来ていることを、カエレンは自覚していた。


カエレンが地方法務官として判事の任官されたのは、2023年25歳の時。その後、E.V.E.を運用するための根拠となる法典、レフ・コデックスが正式発効された2043年に職を辞すまで、20年に渡ってカエレンは数えきれないほどの人を裁いてきた。カエレンが退官したのは、アサリーム州がまだ第1管区と呼ばれていた頃で、カエレンは首都バルザーンにて、第1管区地方法務管区裁判所の主席法務官にまでのぼりつめていた。


人を裁くという行為は、往々にして人の人生を奪うことのように思われるが、それは法廷という場所を一面的にしか捉えられていない。


ゆるぎない論理として岩盤のように存在する法は、融通の利かない、無機質で冷たいものである。しかし、実際はその絶対性の周辺に、緩やかな緩衝地帯のようなものがある。


人を裁くのが人である以上、まさにその余白の部分にこそ救いがある。同情の余地を認めた情状酌量などはまさしくそれで、誰かが誰かの思いや境遇を慮ったことに他ならない。


そんな思いがゆえに、カエレンは月曜日の定例職員会議を大切にしていた。その1時間の間だけは、特別な事情がない限り生徒の入室は禁じ、カーテンで窓を覆ってドローンによるスキャンを拒否していた。そのような”不徳”行為の代償は、責任者である校長のカエレンが払わなければならない。運悪く、ドローンが窓の外からこの閉ざされた部屋を確認してしまうと、カエレンのレフ・スコアは厳しく減点されるのだった。


それでも、カエレンはこの集まりが好きだった。いかに世界に向き合っていくかを考える時間だと、教員たちにも思って欲しかった。しかし、5月の”205✕520”の後、会議にのぞむ教員たちの姿勢が少しずつだが変化してきているように、カエレンは感じていた。


「おはようございます」


7時15分を過ぎると、教員たちがぱらぱらと集まり始める。カエレンの目的に共感している教師は、机の上の書類や、持ってきた鞄などをてきぱきと整頓して、会議の始まりを待っていた。


この会議を初めて行った1年前は、全ての参加者が積極的に議論に参加していた。マンネリ化してきたことも勿論あるだろうが、RIXの信用が地に落ちた今、意識的に善行を行う理由はないと考える教員もいるのかも知れない。それが、カエレンは悲しかった。


評価されることを目的とする善行は、もはや善行とは呼べない。特に彼らは教師である。彼らの信じる美徳の定義を、次の世代に伝える義務がある。それは、どんな複雑な数式の解き方を教えることより、どんな難しい単語のスペルを練習させることより、何倍も大切なことだとカエレンは信じていた。


「ヴォルダス校長」


自身の机に腰かけ、参加者が全員揃うのを待っていたカエレンに、算数を受け持つユルマジーン・セフディーンが声をかけた。とにかく頭の切れるとても優秀な教師だったが、いつも物静かで、何を考えているか分からないところがあった。


「セフディーン先生、どうしましたか?」


机から小さく飛び降り、声がした方向に向かってカエレンは返事をした。


「ゼルグ先生とナジュード先生は、今日は会議に出られないそうです。校長先生にそう伝えて欲しいと、伝言を預かってきました」


「そうですか。残念ですね」


カエレンは笑顔で取り繕ったが、内心では大きく失望していた。一部の教員が定例職員会議の時間をただやり過ごしているだけであることに、カエレンは薄々気づいていたが、それでも欠席者が出たのは今日が初めてだった。出ないと言われれば、強制することはできない。誰かに何かを強いるような姿勢は、判事時代に辟易していた。


「それと、校長」


ユルマジーンはさらに話を続けた。


「もうこの会議、今日で終わりにしませんか?あまり意味があるとは思えません」


そこまで不満が募っているとは、カエレンは想像だにしていなかった。驚いた表情を隠すことができず、カエレンは


「どうしてですか?」


と、聞き返すことが精一杯だった。


「だってそうでしょ」


そう言うと、ユルマジーンは座っていた椅子から立ち上がり、両手を広げて言葉を続けた。


「何か問題が発生した時に、僕たちだけで解決する必要がありますか?私たちは法律というルールを持っています。だから、卑劣な行いをすることはない。裁かれますからね。その上、僕たちは今レフ・コデックスという、法律よりも上位で我々の行動を審査する、徳性判断構造体を持っています。法律で遵法性を、レフ・コデックスで善行性を、僕たちは維持し続ける必要があるんです」


ユルマジーンは、数字を使って世界を因数分解するように、理路整然とかつ適度な熱量を持って、カエレンに自身の主張を繰り広げた。


「そうなると、この際誰がどう考えているかなんて、考慮する必要はないと思いませんか?法律を犯せば逮捕される。徳を失えばレフ・スコアが落ちる。それで十分じゃないですか」


カエレンは呼吸さえ殺して、一語一句聞き漏らさぬように、ユルマジーンの言葉に耳を傾けていた。演説にも似た、ユルマジーンによる抵抗の意志表明が終わると、室内を一気に張りつめた空気が包んだ。静寂の中で、発言どころか身動きさえ取る者はいない。


その場にいる全員が、カエレンの言葉を待っていた。その言葉は学校長という権威者としてのものなのか、カエレン・ヴォルダスという一人の人間としてのものなのか。カエレンがどういう選択をするのか、もはや傍聴者と化した教師たちの関心はその一点だった。


カエレンは閉じていたカーテンをそっと引き、朝の日光をふんだんに招き入れた。それだけで、部屋中に広がる緊張が微かに緩んだように感じられた。奇しくも、窓の外にはスキャンを開始しようとしている徳性調査ドローンが、一機宙に浮いていた。


カエレンは教師たちの方へ向き直り、静かに話し始めた。


「セフディーン先生が引き合いに出された法律と徳について、私の意見はこうです。法律は石です。決して形を失わない。そして徳というものは水なんです。時代や視座によって、自在に形を変えます。それが徳の持つ脆さとも言えませんか?だからこそ、流れていく先を間違えないように、いつも心で水流を作る必要があると私は思います。そして、無事本流となった水は、長い年月をかけて、流れの中で転がる石の形さえ変えてしまう。それこそが、道徳が法律という形を得た瞬間なのだと思います」


また部屋中に静寂が訪れた。カエレンへの賛同を微笑みで示す者。ただ俯くだけの者。一点を見つめ何かを思案する者。様々な形でカエレンの言葉を受け止めていた。


突然、廊下の奥の方から、急いだ様子で誰かが走ってくる足音が聞こえ始めた。そしてそれが、カエレンたちのいる職員室を目指していることは誰の耳にも明らかだった。


職員室の一番端のドアが、もの凄い勢いで開けられた。姿を見せたのは事務長のタミール・ラファディだった。


「校長!」


すぐにカエレンを見つけ、タミールは叫んだ。


「大変なことが起きました!」


その言葉以上に、タミールの尋常でない様子が事の重大さを物語っていた。


「事務長、落ち着いてください。一体何があったんですか?」


カエレンはタミールに近づき、そう言葉をかけた。


「ライリアちゃんが、ライリア・ザフラ-ナちゃんが亡くなりました」


「え!」


カエレンは思わず息を飲んだ。


「しかも、ライリアちゃんのお父さんが、殺人容疑で逮捕されたらしいんです」


タミールが何を話しているのか、カエレンには理解できなかった。


どういうことだ。


理解しようとすればするほど、思考は知恵の輪のように複雑に絡み合っていく。カエレンが後ろの教師たちに目を向けると、全ての顔に衝撃が浮かび上がっていた。


窓の外では、スキャンを終えた無機質な飛行体が、ゆっくりと上昇を始めていた。

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